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Last update 2008年04月19日

笑う策士と不機嫌なエンジェル  著者:久遠コミネ



自分を神経質だとか潔癖症だとか、特に思ったことはないのだけれど。
小湊(こみなと)ヒカリは、大きなつなぎ作業服をドラム式洗濯機に押し込みながら、改めてそう思った。
(ホント汚い…靴下、なんでこんなに汚れるの…)
靴を履いているはずなのに、ここまで汚れる理由がヒカリにはわからない。ドロなのか鉄錆なのか、茶色く汚れた靴下に脇の黄ばんだ白いTシャツ、それらを親指と人差し指で摘んで、ポイっと洗濯機に放り込む。洗剤を入れて洗濯機を回すと、すぐさま水が茶色くなって、ヒカリは思わず「うわぁ…」と声を出した。
 さすがに、ここまで汚れたものを生理的に汚いと感じてしまっても、これは人として仕方がないことだと思う。例えその『汚している本人』が、ヒカリの恋人だったとしても。
 2週間前から一緒に住み始めた恋人、志波(しば)朋寿(ともひさ)は、ヒカリより4つ年上の23歳で、男、である。ヒカリはいわゆるそういう種類の、しかも受身でありたい人間だった。
自覚は中学生の頃からすでにあり、だから男と付き合うことはヒカリにとって普通のことだ。でも、志波はたぶん違う、とヒカリは最近思うようになった。
 なった、というのは、ずっと志波を仲間、つまりゲイだと思っていたからだ。理由は、出会い方がいかにもゲイ同士というような、そういう店で志波にナンパされたことがきっかけだったからである。

 2ヶ月前のこと。
 まだ18歳のヒカリだが、ゲイバーに1人で行くことがたまにあった。以前付き合っていた大学の先輩に連れて行ってもらってから、マスターがヒカリを気に入ってくれていたこともあり、彼と別れてからもたまに顔を出すようにしていたのだ。未成年なので、お酒は飲ませてもらえないけれど。
 その店に1人でいた時に、志波に声をかけられた。
 ――ねぇ君、すごいきれいだね。1人なの?
 安っぽいナンパの常套句に、その時のヒカリは正直『ウザい…』と思った。
 実際ヒカリは、かなりきれいな容姿の人間だった。体に半分流れるイギリス人の母親の血は、目と髪と肌の色に濃く表れていて、グリーンの瞳に金髪とまではいかないライトブラウンの髪、そして透けるような白い肌は、男女問わず人の目を惹きつけた。
 しかし体の小ささや線の細さは、残念ながら日本人の父親の血が濃く出てしまったようで、思ったほどは成長しなかった。それでもヒカリは、今のサイズで満足している。なぜなら、この容姿のおかげで、男の人に優しくしてもらえることが多いからだ。
 睫毛の長い、ぱっちりとした目で、少しだけ天然パーマが入った髪をふわふわ揺らして甘えれば、例えノーマルの男の人でもヒカリを無視できない。それが、男が好きな連中ならなおさら、目の色を変えてヒカリに言い寄ってくる。
 だからヒカリは、たとえこんな特殊な性癖でも、恋愛で悩んだことなど一度もない。今までヒカリと付き合った人はみんなヒカリに優しくて、いつもヒカリを満足させてくれた。大人でお金も持っていて、セックスも優しい。そういう“恋愛”が、ヒカリは好きだった。
だから志波にナンパされた時、もう少しおしゃれな誘い方ができないのか、とプライドの高いヒカリは腹が立った。だから志波の最初のセリフには、顔も見ないで無視を決め込んだのだ。
 ――ツンツンしちゃって、ますます可愛いな。1人なら俺と遊ばねーか?
 可愛い、と言われて少々ムッとして、ヒカリは声をかけてきた男の方をちらりと見た。そしたら。
(……!うそ、超タイプ……!)
 めったにお目にかかれないほど、ヒカリのタイプの男がそこにいた。
 野性味の強い、きりりとした顔つきに、きれいにセットされた黒い髪。高級ブランドのスーツに身をつつみ、ふわりと香るコロンも自然で、いやらしさがない。彼の体臭と相まって、とても好ましい匂いがした。ヒカリはあんまり美形の男というのは苦手で、どちらかといえばこういう、背が高くて逞しい、精悍な男が好きだった。
 一目で気に入ったヒカリは、志波に誘わるまま奥のボックス席に移動し、2人で飲んだ。といってもヒカリは正直に年齢を言って、マスターに怒られるからと酒を断りオレンジジュースを飲んだのであるが。
 話が進むうち、ヒカリはますます志波に惹かれていった。さっき会ったとこだと言うのに、彼の声や話し方、どことなくノーブルな笑い方や、グラスを口に運ぶ仕草1つにまで、色っぽさを感じずにはいられなかった。
 ヒカリの好きな、大人の男。
 話によると、志波はどうやら建設関係の仕事らしくて、将来は一級建築士かな、とヒカリは勝手に想像し、それもかっこ良く思い、もうたまらなくなってしまった。
 いいなぁ、好きだなぁ、と思いながら、ヒカリを楽しませるために話を続ける志波をじっと見つめていたら、不意をつかれてチュッと唇にキスされた。
びっくりしてパチパチと目をしばたたくと、ぐいっと引き寄せられて、ものすごい力で抱き締められた。そしてまたキスをされ、ヒカリはそれで完全に落とされてしまった。
 夢中になってキスして、誘われるままホテルについて行って。会ったその日にHしたのなんて、初めてだった。志波の抱き方はとても丁寧で優しくて、セックスまでもがタイプとくれば、ヒカリはもう当然のように志波に夢中になった。
 その日から付き合い始めて、志波はすぐに一緒に住もうと言い出した。ヒカリもそうしたいのはやまやまだったのだが、4月から住んでいる大学近くのアパートが1年契約だったため、春まで待ってほしいとお願いした。ところが志波は、今すぐがいいと言って聞かず、自分の後輩だというヒカリと同じ大学の学生をどこからか連れて来て、こいつをお前のアパートに住まわすから、お前は俺のマンションに来いと、半ば強引に又貸し状態にしてしまったのだ。
困ったヒカリだが、一緒に住みたいという気持ちの方が強かったため、親に誤魔化しながら事情を話し、ヒカリに甘い両親はしぶしぶ了承してくれた。家賃や光熱費、水道代はその後輩がヒカリの口座に振り込むという、なんだかそういうことで話はついてしまった。
そして2週間前から、やっと一緒の生活が始まったのだが、ヒカリはそこで志波の正体を初めて知った。
 まず家に入った時、床に散乱した服や雑誌、空き缶や食べかけのお菓子などを見て唖然とした。そして風呂場に置いてある洗濯物入れの籠を見た時、まずはそのにおいに驚き、そして放置されたままの汚れた作業服の山に言葉を無くした。
 キッチンのシンクには洗わずに置かれたままの食器類があり、排水溝からは何か出てきそうなくらい、すさまじい臭いがした。思わず鼻を押さえ、よろけた先にあった冷蔵庫を開けて見てみると、吐きそうなほどの悪臭に、思い出すのも寒いような、なんだかよくわからないかたまりが見えた。パタンとドアを閉め、ヒカリはしばし呆然と立ち尽くした。
 寝室くらいは、と1つある部屋を見に行くと、そこには服はもちろん、パンツに靴下、雑誌、ビールの缶、紙くずが床に散乱し、ベッドの頭の部分にはタバコの吸殻が山のように刺さった灰皿、CDやMD、それになぜかベッドの上には、うさぎのぬいぐるみが数個転がっていた。
 よろよろと部屋を出て、ヒカリは安全で清潔な場所を探した。しかし、1LDKの部屋全体に、何かが散らかっているか空気がくさいか、もしくはその両方のいずれかだった。
 ヒカリはもうイヤ!と叫び、出て行こうと玄関に向かった。しかし玄関には、190cm近い志波が腕を組んで仁王立ちしており、どうやっても外に出してくれなかった。
 こんなの無理です!と叫んで暴れるヒカリに、ヒカリをあやしながら俺は片付けられねんだ、と詫びる志波。唯一モノが散らかってない玄関で、2人はしばらく言い合いをした。
 せっかく大学から自転車で5分だったアパートを人に貸し、通学時間がバスで20分になるのを我慢して志波との暮らしを選んだのに、その現状がこれである。もうあのアパートには住めないし、ヒカリはどこにも行けないのに。
ここに住むしかないのかと思ったら、ゾクリと背筋が寒くなった。あの、キッチンの排水溝。風呂場の排水溝は…?トイレの中は…?そう考えると、おぞましさで背中が凍った。
 泣きそうになりながらぐったりと玄関の壁にもたれて、志波をきりりと睨みつける。志波は悪い、と謝りながら、とにかくお願い、出ていかないでくれ、とヒカリに頭を下げた。
 あんなに、かっこよかったのに。夢みたいな理想の男に会えたと思ったのに、現実はこうなのか。この世の中に、何もかも完璧な男なんていない――あきらめたヒカリは、腹を括って翌日から大掃除を始めた。
 100円ショップで掃除用品を色々買い込み、ドラッグストアで強力なトイレ用洗剤、お風呂用洗剤、キッチン洗剤、漂白剤、ゴム手袋を3つほど、そして大きめのマスク。
 それらを買ってあの恐ろしい汚部屋に戻り、まずは落ち着ける場所を1つでもと、リビングの片付けから始めた。ここはまぁ、散らかっているだけだったので、荷物を部屋の隅っこに寄せて掃除機をかけ、なんとか終わらせた。寝室も同様にして掃除機をかけると、元々がわりと良い部屋だけに、そう時間はかけなくてもきれいになった。
しかしゴミを入れた袋をとりあえずベランダに、と思いベランダに出たヒカリは、そこでまた倒れそうになる。何ヶ月放置しているんだ、という数のゴミ袋が、ベランダいっぱいに転がっていた。
 ムッカーときて、それで一旦やる気を失くし、気分転換をしようと近くのコンビにまで買い物に行った。トイレを借りて、ついでに弁当を買って近くの噴水がある公園で食べた。噴水で癒されても、あの部屋に帰るのかと思うと気が重く、もうこのまま実家に帰りたくなった。しかし今朝志波は仕事に出かける時、出ていかないでくれよ、とヒカリに念を押して行ったので、それを裏切れるほどヒカリも冷たい人間ではない。弁当がらを捨てると、しぶしぶ部屋に戻った。
今までヒカリは、付き合った男の部屋の掃除なんかしたことがない。みんな広くてきれいな部屋に住んでいて、彼氏の部屋にいる時、ヒカリは何もしなくてよかった。甘やかされて、ヒカリはいつも大事にされてきたのに、どうして今こんなことを……心の中で志波に文句を言いながらも、ヒカリは掃除を続けた。
リビングと寝室を終え、覚悟を決めキッチンに挑む。マスクをしていてもそれを超えて悪臭が鼻をつき、ヒカリは何度も吐きそうになった。しかしベランダに出て外の空気を吸いたくても、あのベランダでは部屋以上に気分が悪くなりそうだったので、寝室の小窓から顔を出して新鮮な空気を吸った。
よくあのベランダで近所から苦情がこないものだと思いながら、涙目になってゴム手袋をした手でシンクの排水溝を持ち上げたヒカリは、あまりの光景に気を失いそうになった。一瞬眩暈がして、それでもがんばるヒカリは、もう意地になっていたのかもしれない。
しかし1日で全部は終わらず、夕方帰って来た志波に、リビングと寝室にあった荷物をどこにしまうのか聞き、押入れにそれらを入れて初日は終了。夕食は家で食べる気がしません、とヒカリが文句を言ったため、前日と同様外食をした。
翌日、翌々日と、ヒカリは大学を休んで掃除に励んだ。キッチン、トイレ、風呂と全てがきれいになった時には、もうヒカリはくたくただった。夕方になって、我ながらよくやったとリビングで横になっていたら、いつの間にか眠ってしまっていて、帰って来た志波に起こされた。
 きれいになったな、ヒカリすげぇな、ありがとうな、とキスしてくる志波に、『今日からお風呂入れますから先に入ってください!頼むから汚れた作業服で触らないで!』と向こうに行ってもらった。
 そう、これも問題なのだ。建設関係などというから、ヒカリはてっきりゼネコン勤務だと思っていたのに、志波の勤務先はなんと造船所だった。造っているのはビルでもマンションでもホテルでもなく、船だった。しかもきれいな客船などではなく、主にタンカーなどの運搬船らしい。
 ヒカリにはもう、わからない世界だった。
まぎらわしい、どこが建設関係なんですか、と言うと、誰が陸上の建物っつったよ、と屁理屈を言われた。なにが一級建築士だ!と勝手に想像した自分をアホだと思った。
造船所の塗装業者。つまり志波はペンキ屋さんなので、作業服は毎日シンナーくさい。全部の作業服にペンキがついていて、帰って来ると作業服も顔も汚れている。ひどい時には髪の毛にまでペンキがついていて、シャンプーでは取れないそれを、ヒカリは爪でカリカリして取ってあげている。
 しかし、ヒカリが騙されたと思ったのはこれだけではない。性格、職業に加え、理想の破壊は夜のベッドの上でも起こった。あんなに優しかった志波のセックスが、同棲してからというもの、徐々に乱暴になってきている。といっても、なにも暴力を振るわれるとかそういうものではなくて、もっと腰あげろ、だの、脚開けよ、だの、ヒカリが今まで言われたことがないようなことを言ったり、妙に意地悪なことをしてきたりする。
 ヒカリは、自分の思うように気持ちよく甘やかしてくれるセックスが好きなのだ。それなのに、お願いしないとイかせてくれなかったり、ヒカリに上に乗れと言ったり。それもとてもイヤだった。
 それにいつも無精髭を生やしていて、髪の毛はボサボサでセットもしていなくて、ヒカリをナンパした時の面影は、いまやどこにもない。見た目はもちろん、ヒカリが抱いていたエリートのイメージも。
スーツをビシッと着て、どこのヤングエグゼクティブかと見紛うほどのカッコイイ男は、自分の部屋も片付けられないとんでもない無精の、造船所のペンキ屋さんだった。
別にヒカリは、職業に関しては何でもかまわないと思っている。何も志波が一生懸命やっている仕事に文句を言うつもりはない。ただ、志波本人に関しては、未だ釈然としないものをずっと抱えている。
その原因の1つが、掃除の際にやたらと出てきた、女の子アイテムだった。ヘアピンだのイヤリング、ピアスはもちろん、キャミソールやストッキングに生理用品、信じられないことにショーツやブラジャーまで出てきて、ヒカリは猛烈に怒って志波を責めた。捨てていいから、という志波に、当たり前です!と叫んで目の前でゴミ袋に入れてやった。
 こんなトコで寝たくないと、ベッドのシーツも布団も捨てて、ベッドマットには布用の消臭スプレーをふりまくった。新しい布団セットを志波のお金で買ってやって、それで少しだけ溜飲が下がった。
 それで、何が釈然としないかというと、志波はゲイバーでヒカリに声をかけてきたから、ゲイか、せめてバイだと思っていたのだが、ゴミの山から出てきたものは、全て女の人のものだった。何1つとして、志波以外の男のものは出てこなかったのだ。出てきてほしかったわけではないが、あれだけ女の人を連れ込んでいるのに、どうして男は連れ込んでないのか、それが不思議なのだ。
 もしかして女の人と一緒に住んでいたのかと思って聞いたら、本当は誰かと一緒に生活するのは苦手で、ヒカリが初めてで特別なんだと言われた。それにほだされたわけではないが、あまり文句ばかり言うのもかわいそうなので、その辺でやめといた。
別にヒカリは、志波がノンケだろうとそれはかまわないと思う。ノンケだといつか女の人に取られるのではないか、という恐怖も多少あるけど、それはそれで諦めるしかないと思う。ただ、ならばなぜあの店にいたのか、それがよくわからないのだ。
「ふぅ……さて、洗濯してる間にご飯作ろうっと」
 ここに来て2週間、毎日汚れた作業服と格闘し、脱いだ服はそのまま、食べたらそのまま、本も読んだらそのままの志波をその都度注意して、なんとか部屋の状態は掃除後のまま保っている。ベランダにあった大量のゴミは、分別もろくにできていないうえに市の指定袋にすら入れていなかったため、専門業者に頼んで引き取ってもらった。余計なお金がかかるんだから、ちゃんと分別して指定袋に入れてください、と言ったから、今はしぶしぶやっているようだ。
大学の帰りに買い物をして、帰ってから洗濯機を回す。その間にご飯を作って、洗濯物を干して、軽く部屋の掃除をする。そして、夕方のニュースを見ている時に、ヒカリの恋人は今日も作業服を汚して、シンナーのにおいをさせて帰ってくるのだ。
「おぅ、ヒカリ、帰ったぞ~」
 玄関から聞こえる声に、こたつでウトウトしかかっていたヒカリは目を覚ました。パチッと目を開け、ダッシュで玄関まで走っていくと、思い切り恋人に抱きつく……とか、そんなわけはない。
「ダメです!そこで全部脱いで、お風呂に入ってください!」
 ストップ!と両手を広げ、入るなの意思表示をする。しかし志波は言う事を聞かず、でっかい安全靴をポイポイっと脱ぎ捨てると、逃げるヒカリをぎゅうっと抱き締めた。
「イヤー!くさい!離して、やだやだっ!」
 ドロや錆みたいなのがたくさんついたつなぎ、ペンキのついた手、埃っぽいにおい、シンナーのにおい。ヒカリは、志波が帰ってから無理矢理ヒカリを抱き締めてくるこの瞬間が、たまらなく嫌いだった。イヤだと言うのに、志波はやめてくれなくて。
「いいじゃねーか。一緒に風呂入ろうぜ?」
「イヤです!早く入って来てください!もう、離して!」
 イヤだ、と首を後ろにのけぞらせても、志波は嫌がらせのように無精髭をヒカリの頬にすりつけてくる。
「可愛いヒカリちゃん、お帰りのチューは?」
 そう言って唇を寄せてくる志波に、ヒカリは本気でムカついて、そして。
「いい加減にしてください!」
 めったに出さないような大きな声で怒鳴ってしまった。志波もちょっとびっくりして、ヒカリを見つめる。
「どうしていつも言う通りにしてくれないんですか!?すぐお風呂入ってくれれば、俺はなんにも文句言わないのに!」
 この2週間我慢していたものが、一気に放出された。毎日毎日小言ばかりなんて、ヒカリだって言いたくないのだ。ただ、ちゃんとしてほしいだけなのに。
 それなのに、志波はヒカリが怒って喚くのがおもしろいのか、ニヤニヤしながら騒ぐヒカリを見下ろしている。それがまた頭にきて、ヒカリはさらに声を荒げた。
「仕事から帰った格好のまま抱きつくのはやめてって言ったのに!そのまま部屋入ると床汚れるから、玄関で脱いでほしいっていうのも毎日言ってるのに!聞いてるんですか!?笑わないで!」
 20cmは高い位置にある志波の顔を見上げて、ヒカリは腕を振り上げ捲し立てた。言っているうちに涙目になってきて、ごしごしと右手の甲で拭った。
「志波さんもしかして、家政婦代わりがほしかっただけなんじゃないですか!?だからすぐに一緒に住みたいとか言ったんでしょ!」
 そしてずっと思っていたことを口にしたら、さっきまでヒカリの小言をニヤニヤ笑って聞いていた志波の表情が、さっと変化した。頭に巻いているタオルを取りながら、ヒカリをじっと見下ろす。
「………ヒカリ、それ本気で言ってんのか?」
 急に真面目な顔で言われても、ヒカリのムカつきだって急には止まらない。
「本気です!」
 勢いのままそう言い切ると、志波は急に曇った表情になり、その場にヒカリを残して風呂場に行ってしまった。残されたヒカリは、わけがわからなくてその場に立ち尽くす。
(なんなの……?)
 おかしい。いつもはヒカリが何を言っても、ニヤついた顔で見てるか、ハイハイと生返事をしながら聞いてるかどちらかなのに。ヒカリの方が怒っていたはずなのに、なぜか志波が怒った形で終了してしまい、不本意だと思いつつも不安になった。
(だって、志波さんが悪いんだもん……!)
 がんばってそう思うことにして、ヒカリは夕食の支度をすることにした。
この2週間で覚えた志波の晩ご飯スタイルは、先にビールを飲みながらつまみとしておかずだけ食べ、そしてビールが終わった後に、ご飯とお味噌汁を食べる。もちろんヒカリは酒を飲まないので、志波のビールの時間に全部一緒に食べているのだが。
志波は基本的に和食を好み、今日は志波の好きなぶり大根に挑戦してみた。ヒカリは決して料理が得意なわけではない。一人暮らしの時はたまに作っていたけど、ほとんど外食かお弁当だった。それに何より、親元で暮らしていたこの半年前までは、当然イギリス人の母親の手料理を食べていた。つまりヒカリには、ほとんどと言っていいくらい和食の基本知識がないのである。
一応母も日本食を作る時もあったけれど、ムズカシイ…とよく悩んでいた。今のヒカリも同様で、難しいから本を見ながらその通りに作るようにしている。そうすれば、ひどい失敗というのはあまりしない。
それで今日は、最近少しだけ和食の基礎もわかってきたので、かねてから志波が食べたいと言っていた、ぶり大根に挑戦してみたのだ。我ながらちょっとうまくできたかな、なんて思っていたら、こんなケンカしたみたいな状態でご飯とは。
温めていたら、志波が風呂から出てきた。ヒカリはぶりと大根を器に盛って、千切ったレタスや水菜の上に生ハムを乗せた簡単なサラダと一緒に、こたつへ持って行った。
ぶり大根に何か言ってくれるかな、と思ったけれど、ビールとグラスを渡しても、志波は何も言わなかった。怒った顔のまま、美味いとも不味いとも言わず、黙々と食べて、飲んだ。
ヒカリはショックで、一生懸命作ったのに、と落ち込んだ。でも、残さず全部食べてはくれた。一緒にテレビを見ていても、志波はやっぱり何もしゃべらなくて、結局寝る時も背中合わせで眠った。
(なんでそんなに怒ってるの……?俺だって、ムカついてんだから……!)
 ヒカリが怒っていたはずなのだ。ヒカリは悪くない。悪くない、はずなのだけど。
(どうしてこんなに不安なの……)
部屋を掃除してきれいになって、布団も全部変えてから、セックスしなかった夜はこれが初めてだった。


翌日。
ヒカリはいつものように帰り道に買い物をして、家に帰った。昨日は一生懸命作ったぶり大根に何も言ってくれなかったから、今日は手抜きしてやるつもりだ。今日の朝だって、黙ったまま朝食を食べて、行ってきますも言わずに仕事に行ったから、すごく、ムカついた。
(口聞いてやんないから。だって俺、家政婦なんでしょ……)
 そこまで思って、ハタと昨日志波の表情が変わった瞬間を思い出した。
 ――志波さんもしかして、家政婦代わりがほしかっただけなんじゃないですか!?だからすぐに一緒に住みたいとか言ったんでしょ!
ヒカリがこう言ったあと、志波は急に表情を変えた。何が志波を怒らせたのか、ヒカリは考えてみる。
(家政婦“代わり”じゃなくて、ホントに家政婦だと思ってたりして……そんな人じゃない、よね。いくらなんでも……恋人なのに、家政婦なんて言っちゃったから?思い上がりすぎかな……でも、そもそも志波さん、俺のこと好きなのかな……)
 もやもや、もやもや。どう考えても気持ちが晴れない。
 ヒカリは洗濯機を回しながら、ぐずぐず悪い方にばかり考えてしまう自分が情けなくなった。今までこんな扱いされたことがないから、大事にされてばかりだったヒカリには免疫がなさ過ぎて、どうやって仲直りすればいいのかわからない。
 どよんとした気分で手抜きご飯の準備をして、洗濯物を干したヒカリは、いつものように夕方のニュースをつけた。これを見ていたら、志波はまたいつもみたいに帰ってくる。今日は、汚くても我慢して、抱きつかれても大人しくしてるから。
(だから、いつもみたいにしてくれたら、仲直りできるから)
 志波の帰りをこんなに緊張して待つのは初めてだ。泣きそうな気分でニュースを見ていたヒカリは、次のニュースです、と言ったキャスターが読み始めた内容に、心臓が凍りつきそうになった。
『次のニュースです。本日午後4時30分頃、Y市K造船、ドック内で、クレーンで運搬中の船体の一部が落下し、周辺にいた作業員数名が病院に運ばれました。詳しい情報はまだわかっていません。現在、警察が関係者に事情を聞いています』
 そのまま次のニュースに移ったテレビに、ヒカリはどうして!?と叫んだ。
 K造船。志波が勤めている造船所だった。
体ががたがたと震えだし、どうしよう、どうしよう、と頭は完全にパニックになった。
(どうしよう、志波さんだったらどうしよう……!!)
 考えだしたら止まらなくて、涙をボロボロ流しながらヒカリは震える手で携帯電話を握った。着信履歴から志波の携帯ナンバーを探し、コールする。
「お願い……出て……!」
 しかし願いもむなしく、そのまま留守番電話サービスにつながって、ヒカリは電話を切った。もう一度かけてみたが、やはり同じだった。
「やだぁ……どうしよう……」
 涙が止まらず、べそべそ鼻をすすりながらヒカリは電話帳を引っ張り出すと、K造船の番号を探した。かけてみたが、誰も出ない。何回も鳴らすけれど、誰も取ってくれなかった。
 ヒカリは居ても立っても居られず、コートも着ずにそのまま外に飛び出した。
 11月下旬の夜は寒くて、ヒカリは凍えそうになった。でも、戻る気にはならない。とにかく家にじっとなどしていられないから、K造船まで行こうと思った。
場所は、なんとなくだがわかる。電車に乗っている時、海の向こうにいくつものオレンジ色の大きなクレーンが見えて、あれが俺の仕事場、と志波が教えてくれたことがある。
行こう、とヒカリが歩きだした時だった。
「ヒカリ!」
 どこからか、ヒカリを呼ぶ声がして、ヒカリはキョロキョロと辺りを見回す。すると後ろから、でっかい人間が走ってきて、ヒカリはその姿を見て、安心のあまり力が抜けてその場にしゃがみこんでしまった。
「ヒカリ、何やってんだよ!車からお前が見えたから、びっくりしたじゃねーか!」
 志波だった。まぎれもなく本物の志波で、ヒカリは安心のあまりポロポロ涙を流し、よかった、よかったとつぶやいた。
志波は地面にぺたっと座り込むヒカリを抱き起こし、冷えた体をギュッと抱き締めてから、あ、わりぃ、とヒカリを離した。
「汚れてっからよ……」
「………っ…!」
 なんでこんな時に限って……!とヒカリはムカついて、いつも通りシンナーくさい志波に飛び上がるようにして抱きついた。
「うおっ、どうした……?」
 ほこりくさい、シンナーくさい、でも、間違いなく志波のにおいで、ヒカリはとても嬉しくて、とても安心した。
「死んじゃったかと思いました……!電話も出ないし……!」
 ぎゅっと強く抱きつくと、志波も冷たいヒカリの体を強く抱き締めてくれる。
「電話……?あぁそりゃ気付かなかっただけだ、すまん。ブロック落ちたニュース見たんだな……。大丈夫、俺じゃねーよ。病院運ばれたやつも、重体だけど命に別状はねーってよ。心配してくれたのか?体、こんなに冷たくして」
 はむ、と冷たい耳殻を噛まれて、ヒカリはぴくっと体を震わせた。
「造船所、行こうと思ったんです」
「は!?ここから歩いてか!?ヒカリの足じゃ、朝になっちまうよ?」
 くすくすと笑う志波に、ヒカリはなぜだか胸がうずくのを感じた。
(なんだろこれ……こんな気持ち、知らない……)
 いつも大事にされるばかりで、自分からは何もしたことなかったヒカリ。
 どうして、大人しくあの汚い部屋を掃除したのか。得意でもない料理を勉強しながら作ってあげて、好きじゃない抱かれ方をされても、断ることなくセックスに応じて。それは、どうしてだろう?
 もし死んじゃってて、もう会えなかったら、さっきまで自分も死のうと思っていた。
(全然、中身はタイプじゃないのに……俺はもっと、大事にされて、甘えるのが好きなのに……)
 なのにヒカリは、今まで知らなかった気持ちをいっぱい志波に持っているみたいだ。これを全部まとめたら、なにになるんだろう。
「帰ろう、ヒカリ。お前マジで体冷たすぎ。帰って風呂入ろうな」
 ヒカリを抱っこしたまま、志波は家への道を歩いて行く。途中すれ違う人に奇異な目で見られたが、志波はヒカリを下ろさなかった。
 家について、ヒカリは玄関で下ろしてもらった。先に風呂場に行って浴槽を洗い、湯を張る。志波はいつもヒカリがうるさく言うことに従って、玄関でつなぎを脱いで風呂場まで来た。
「今日は言うこと聞いてくれるんですか?」
「……ばーか。いつもはな、お前が怒るのが可愛いからよ、つい意地悪すんだけど……。もうやめるよ。家政婦代わりなんて言われたらきついわ、さすがに」
 志波は自嘲するように笑い、ごめんな、とヒカリの頭を撫でた。
「ヒカリ、お前本気で家政婦代わりって思ってるか?」
「……わかんないです。でも、嫌なわけじゃないんです。ただ、それだったら、誰でもいいのかな、って不安はあります。だって志波さん、ノンケでしょ?」
 ただ家のことをしてもらいたいだけなら、なにもヒカリでなくてもいいのではないか。もし、ヒカリが思っているように志波がノーマルな性嗜好の持ち主ならなおさら、男のヒカリよりも女性の方が家事は向いていると思う。
「……俺は確かに、ゲイじゃねーよ」
 やっぱり、と思う。別にノンケでもいい、と思っていたのに、少しショックを受けている自分がいた。でもそれがどうしてなのか、ヒカリにはまだわからない。
「でもな……、まぁ、とりあえず、風呂入るか。ヒカリ、寒いだろ?」
 志波に言われて、ヒカリも服を脱いだ。えっちなことをされるかと思ったけど、志波はあくまでヒカリにそういう意味で触れることはせず、ちゃんと頭と体を洗ってから、2人で浴槽につかった。志波の体が大きいので、せまい浴槽に並んで座ることはできない。横向きだと、志波は脚がおさまりきらないのだ。だから一緒に入る時にはいつも、志波の脚の間にヒカリが座って、後ろから志波に抱かれている格好で温まる。
「ゲイじゃないのに、どうしてあの店にいたんですか?」
 振り返ってヒカリが聞くと、志波は照れたように笑ってから、ヒカリのうなじにちゅっとキスをした。
「ナンパしに行ったんだ。ヒカリをな」
「え……?」
 言っている意味が、よくわからない。その言い方だと、ヒカリのことが目的であの店に来て、さらに以前からヒカリのことを知っていたように聞こえるのだが。
「意味、わかんないです」
「あー…あのな、俺はさ、ずっと前からヒカリのこと知ってたんだ。それこそもう、何年も前から知ってて、ずっと、好きだったんだ」
「…………」
 振り返ったまま、信じられないことを言う志波の目を、じっと見つめた。あんまり見るな、と照れたみたいに笑う志波が、誰だコレ、と思うくらいいつもとは違いすぎて、変だった。
「ヒカリ、俺が何言っても嫌いにならないって約束できるか?」
「……できます。嫌いにならないです」
「じゃあ、前向いて、こっち見ないで聞いてくれ。けっこう、恥ずかしい話だかんな。俺がお前を最初に見たのはな、7年前のクリスマスの日だ」
「え!?」
 あまりに驚いて、ヒカリは振り返った。しかし、見るなっつったろ、と無理矢理前を向かされて、背中に感じる志波の鼓動に、ヒカリの胸もドキドキと鳴り始める。7年前といえば、ヒカリはまだ小学校6年生ではないか。
「高1ん時のなぁ、クリスマスイブの日だ。その当時付き合ってた女に、クリスマスの当日にふられてな……かなりへこんでたんだ。それでふらふら街うろついてたら、いきなりどっかの店の中から子供が飛び出してきてよ。真っ白いモコモコしたコート着て、ふわふわした茶色い髪揺らして。クリスマスで浮かれてたのか、通りすがりの俺に、にっこーと笑いかけてきてなぁ……。俺はマジで、心の底から天使だ、と思ったよ。クリスマスにふられた哀れな俺を、神様が天使に会わせてくれたんだってな」
「……………とても、プラス思考ですね」
 なんと言っていいかわからず、ヒカリはとりあえずそのファンタジーなプラス思考を褒めてみた。
(全然覚えてない……)
子供の頃はクリスマスがそれはそれは楽しみで、浮かれて誰にでも笑いかけていた記憶は確かにある。でもその中に高校生の志波がいただなんて、驚く他ない。それにしても、この野蛮人な志波に、天使だとか神様だとか、そんな乙女的思考があったとは、まさに意外としか言いようがない。それともふられたショックで、感傷的になっていただけなのだろうか。
「それでその子供、これまたべっぴんな金髪のおふくろさんと、手つないで歩いて行ったんだ。俺はボケーっと、知らない間にその親子の後をつけてた……」
「……………」
「引くなっつっただろ……」
「それやっぱり、俺……ですよね?」
「お前以外に誰がいるよ。なんかなぁ、もう男でも女でも、そんなことどうでもいいくらいきれいだ、と思ったんだ。まだガキだったお前に、一目惚れしたんだ、俺は。冗談抜きで『俺の天使』ぐれぇの勢いで惚れた」
「……………」
「引くな引くな。まだこれからだぞ」
 引いているわけではないのだが、ただ、コメントにとても困る。そんなに前から志波がヒカリのことを好きだったなんて夢にも思わないし、でも、照れているのとはまた少し違うような気がするのだ。志波が言っているのは確かに自分のことなんだろうけど、実感がないヒカリは、ただ単に『志波の思い出』を聞いているだけのような気分なのだった。
「それで家までつけてってさ。お前知らねぇだろ。俺らの実家って、案外近いんだぜ?」
「え、そうなんですか?」
 それは知らなかった。まだあまり、お互いの実家や家族について話したことがなかったから、これはヒカリにとって初耳だった。志波は高校を卒業してからすぐに、今の造船所に勤め始めたそうなのだが、家からだとかなり遠かったため、この辺に引っ越したのだという。
「まぁ、それでな。家を知ってから、俺は完全にお前のストーカーだったな」
「………普通に言わないでください……」
 ここまでくると、さすがに実感がないとも言っておられず、志波にちょっとだけ引いてしまった。しかし、ヒカリはあの店でナンパされるまで、志波のことなど知らなかったのだが、ストーカーといってもどこまでのレベルなのか、そこが気になるところだ。ヒカリは子供の頃、知らない人に声をかけられたり、どこかに連れていかれそうになったり、そんなことがしょっちゅうあったから。
「ストーカーっつってもたまに家まで行って、お前の姿見てたくらいだけどな。お前に彼女でもできれば、まぁそれなりに割り切って、諦めようと思ってたわけなんだが……高校生になっても、いっこうにお前、女できる様子もねーし、もてねぇはずねぇのによ、なんでかな、とは思ってたんだ。そしたら……」
 そこで一旦間を置いた志波に、何を言うのかとヒカリはドキドキした。
「頼人(よりと)って……もちろん知ってるよな?」
「………!」
 思わず、ヒカリは振り向いた。知ってるもなにも、頼人はヒカリの前の彼氏だ。大学に入ってからすぐ付き合い始め、志波と会ったあのゲイバーに連れて行ってくれた、3つ年上の先輩。
「頼ちゃん、知ってるんですか……?」
 頼ちゃん、とヒカリが呼んだからなのか、志波の顔が不愉快そうに歪む。しかしぼっそりと、ヒカリの質問には答えてくれる。
「まぁな……後輩の1人だな……」
 後輩の1人。ヒカリのアパートに住んでいるのも志波の後輩だ。志波は仲のいい後輩が多いのだろうか。ヒカリなんて、そんなに仲良しの後輩なんて1人もいないのに。
「6月の終わりくらいだったか。ゲーセンで頼人に会ってよ。おお久しぶりじゃねーか、なんて言ってたら、お前が『頼ちゃーん』て寄ってきてなぁ……俺はぶったまげたね。なんでこいつといるんだよ!と思って、頼人シメ上げて吐かせたんだ。そしたら恋人だってよ……嫉妬で殺しちまいそうになったけど、お前がゲイなんだって知って、これは絶対手に入れてやるって決めたんだ。
 それで頼人にお前の好みだの過去の恋愛なんかも吐かせてな。お前の好みの男になろうと決めた。でも夏頃って、俺はまだ安いボロアパートに住んでて、とてもお前の好みの『金のある大人の男』からは程遠かったからな……だからとりあえず引っ越した」

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