Last update 2007年10月07日
タイトルなし 著者:幸坂かゆり
「何だよ、その、ビタミン剤と間違って下剤を呑んでしまったことに唐突に気付いたかのようなよじれきった顔は」
「・・・元、恋人に会った時の顔はそんなものだろう」
「ひさしぶりだね」
彼と彼の元、恋人は空港のロビーで偶然出くわしたのだ。
恋人、と言っていいのかわからないほど、彼女は風のように素早く出て行ったのだが。
「相変わらず派手だな」
「ご挨拶ね。ひさしぶりに会ったんだから、言い方があるでしょう?」
「なにやってるんだ、こんな所で」
「旅行から帰ってきたとこ。あなたは?」
思わず言葉に詰まる。空港にいる、なんて言うのは大体、答が限定されている。
しかし、その心の内は誰しもが、あらゆる事情を抱えているものだ。
彼は今、仕事も恋愛もうまく行っていなかった。
「出張から戻ったところだ」
少しだけ口ごもってしまった彼を、さりげなく見抜いた彼女は、
「余計な事言った?」と肩をすくめてみせた。
彼は自分の気持ちを隠し、気を取り直して問いかけた。
「どこにご旅行だったんだい?」
「傷心旅行」
「え?」
「結婚をだめにして帰って来たの」
「そんな大事な事、おれに言っていいのか?」
「あなたが聞いてきたから、言ったまでよ」
だからって、そんなに詳しく言う人間がいるだろうか。
「ね。一緒に食事でもしない?」
彼女は相変わらず、ふわりとまとわりつくような甘い声をしていて、断る気力を失わせた。
この声だったからこそ、悪態をついてもほどよい甘さに変換され、黙っていなくなった事すら、
憎む気にもならなかったのだ。
再会して数分後だというのに、彼女のペースに巻き込まれている自分に苦笑するしかない。
外はもう夏が終わりかけているのに、暑かった。
二人はレストランで食事を終えた後、軽く酒を飲んでいた。
彼女といると、景色がまるで違って見えるのだ。
派手、というより、艶やかな外見。猫のようにしなやかな物腰。
ずっと以前に恋人同士だった頃と何も変わらなかった。
少しだけ頬が、ほっそりとした事を除いては。
「君のことを聞いてもいいか」
「いいわよ、どうぞ」
「結婚がだめになってこれからどうするんだ?」
「だめにした、と思ってるだけよ。約束はしてるの」
「婚約中か。それがなぜ傷心旅行なんだ?」
「愛してないから」
彼女の言葉にその場の時が止まったように思えた。
「あなたは、もう恋人はできたの?」
「・・・いや、ひとりだ」
息苦しい雰囲気。それは、彼女のせいだ。
彼は彼女が突然いなくなったあの時から、決して忘れたことがなかったから。
「お願いがあるの」
突然彼女が神妙な面持ちで言った。
「おれにできる事なら・・・」
「あたしをさらって逃げて。もうどこへも、戻れないような場所に」
思わずグラスを落としそうになるような懇願。
「しかし、君は・・・」
「勝手に結婚を決められてるの。怖いの・・・」
そう言って顔を覆った彼女の指に婚約指輪が光っていた。
彼が沈黙していると、彼女は急に明るく笑顔を作った。
「ごめん!嘘よ。全部嘘!」
そう言いながらも涙が溢れてきて、慌てて指で拭おうとした。
その時、彼の中の何かが吹き飛んで、彼女の手を掴んだ。
彼女が驚いておれの顔を見た。
「君をさらって逃げてやる」
「え?」
彼女の問いかけを無視して、その指から指環をするりと抜いた。
「・・・ずっと悔やんでた。君を失いたくなかった。だから、できるところまでやってみるさ」
そう言って、彼女の指先にキスをした。
「ありがとう・・・」
彼女は押さえ切れなくなったのか、涙がとめどなく頬を伝った。
そして、二人は逃避行よろしく、今いる場所を出る事にした。ついさっき。
どこでもいい。彼女の婚約者が気付かないようなところなら。
彼女は化粧を直したい、と恥ずかしそうに言って席を立った。
化粧室に入ると、すぐに女友達に電話した。
「これから旅行に出るの」
「また?一人の男を捨てたばかりじゃなかったっけ?」
「だって、退屈な人だったんだもん」
「今の男はそうじゃないの?」
「優しいの。ばかみたいに。嘘ついたのに簡単に落ちちゃったし」
女友達はため息をついた。
「その男も気の毒ね。あんたみたいに、いきあたりばったりな女と巡り合っちゃって」
彼女は、くすっと笑って、更に続けた。
「イッちゃった者勝ち、とゆーことで」