Mystery Circle 作品置き場

仁野

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nightstalker

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Last update 2007年10月07日

タイトルなし 著者:仁野


「数が違ってたじゃないか」

 少し掠れた、何とも艶っぽいボーイソプラノで隼人は言った。それが俺の聞いた隼人の最後の言葉だった。そして隼人の僅かな人生にとっても、最後の言葉であったらしい。
 お兄ちゃんは冷たいのね。これは妹の桃子の言葉だった。隼ちゃんは死んだの、隼人は死んだの。それでもって隼人の最後の言葉を聞いたのはお兄ちゃんなのに、なのにお兄ちゃんはそうやっていつもみたいに仕事ばっかりなのね。そんなことなら、と桃子は泣き崩れた。そんなことなら、あたしがあの時家にいればよかった。部活の遠征になんか行かなきゃよかった。そしたらあたし、あたしが、あたしが。
 そんな風に泣く妹の姿を目にするのは初めてだった。育ち盛りの少年にしては些か小柄だった隼人に比べて、数センチだかそれくらい、背の高い子だった。細身だけれども鍛えて引き締まった体は部活のテニスのおかげ、潔く短くしたショートカットの下から覗くうなじはなめらかに日に焼けている。桃子と名付けた夢見がちな両親の意図に反して、女の子らしさといった範疇に収まるあれこれを嫌う子だった。その反動のように、まるでお人形のような容姿の隼人に構うのが好きな子だった。
 桃子と同い年だから、隼人は俺よりも随分年下だ。いや、年下だった、と言うべきなのかも知れない。既に時を止めた者に対して、どのように言葉を選ぶべきなのかはよくわからない。
 ともかく、隼人は俺よりも随分年下だった。どちらかというと体育会系の俺にとって、如何にもひ弱そうな隼人は年齢差も相まって近しい存在ではなかった。刑事という選んだ職業の都合上、就職してからはますます接点が減った。妹の幼馴染。それだけの存在だった。
 隼人と桃子は、同じ病院の同じ病室、隣り合わせのベッドで生まれた。家はごくごく近所。二人は当然のようにして、幼い頃から沢山の時間を共有してきた。
 しかし気も力も、桃子のほうが圧倒的に強かった。いつも連れまわすのは桃子だったし、二人とも色気づく頃には、未だ女の子のような顔をした隼人に化粧を施したりして遊んだりもしていたようだ。俺と桃子の母親も少々不安を覚えたらしい。あるとき隼人の母親に言ってみたという。
 ――うちの桃子は乱暴者だから。隼ちゃんも嫌な思いをしてないといいんだけど。

 神妙に聞いていた隼人の母親は、隼人によく似た線の細い色白美人だったが、その薄い唇を優雅な笑みの形に曲げて、毅然と返したという。いいえ。
 いいえ。確かにうちの子は、気の優しい子ですけれども、弱い子ですけれども。自分の隣に立つ人間は、選べる子です、選ぶ子です。隼人は桃ちゃんが好きなんですわ。そうでなきゃ、とっくにそばを離れています。静かに、こっそりとね。そういう子ですもの。
 そういう子ですもの――。夫人の繊細な横顔と泣き崩れた妹の首筋を重ね合わせながら、俺はふと思った。隼人が桃子をどう思っていたかはともかく。桃子にとっての隼人がどれほどの存在であったかは、今更のように思い知った。思い知らされた。泣き叫ぶように俺に言葉を投げつけた桃子は、先程通夜に出たまだ真新しい制服姿のまま、二階の彼女の部屋に閉じ篭ってしまった。俺の座り込んだ居間のソファーの上辺り、天井越しに微かに啜り泣きが聞こえるような気がする。涙など、滅多に見せぬ子であるのに。日頃強い人間ほど、強く見える人間ほど、ひとたび心の堤防を崩されるとひどく脆いものだと、ぼんやり思う。
 そういえば通夜の席で胸が苦しいぐらいに痛々しかったのは、儚げな夫人よりもむしろ、屈強な外見の隼人の父親の方であった。彼は確か鹿児島の出身で、如何にもといった薩摩隼人だった。それになぞらえて子供に隼人と名付けたのに、生まれたのがあの子ですわ――。よく日焼けした顔全体でそう、笑って見せたものだ。それでも愛妻にそっくりの息子は、目に入れても痛くないほどに可愛かったことだろう。
 その彼は通夜の席、がっしりとした肩を縮こまらせてひたすら俯いていた。かける言葉もなかった。その向かい、隼人をはねたトラックのドライバーもまた俯いていた。居眠り運転であるらしかった。ただ、過労で――欠員が出たせいで、丸二日仮眠も取らずに駆け回っていたそうだ。だからといって。だからといって、許せるものではない。けれど俺は、男手の一人として通夜の片づけを手伝っていた途中、その男の座っていた畳の上、きつく握り締め過ぎて滲んだのだろうその男の掌の血が、微かに残っていたのだけを覚えている。
 俺は溜息をひとつ落とし、ソファーから立ち上がった。せめて桃子の様子でも見てこよう。
『数が違ってたじゃないか』
 不意に隼人の最後の言葉が蘇った気がした。あれは隼人が事故にあう直前のこと、テニス部の遠征に行っていた桃子が帰ってくる日のことだった。仕事が久しぶりに休みで、珍しく台所にいた俺のところに、勝手知ったる他人の家とばかりに隼人がひょいと顔を出したのだ。桃ちゃん帰ってる? 少し遠慮がちな声だった。いいや、と俺が答えると華奢な肩を落とした。少し淋しそうだった。
 事実、彼は淋しかったのだろう。いつもいつも桃子に振り回される形とはいえ、彼と桃子は常に一緒だった。クラス数の少ない小学校はもちろん、何の因果か中学校まで三年間同じクラスだったものだから、宿泊学習も修学旅行も一緒、長く離れることは殆どなかった。今年の春に揃って同じ高校に入学して、隼人は文芸部、桃子はテニス部に入った。夏休みの二週間に渡る桃子のテニス部遠征は、彼らにとって初めての長期の別離と言ってもよかった。
 だから隼人は、俺に声をかけてきたりしたのだ。
 淋しかった隼人は、色々と言葉を探しながら俺に話しかけた。隼人と桃子が小さいころには俺もほどほどに会話を交わしていたとは思うが、近頃はとんとご無沙汰だった。隼人は淋しかった。今にしてみればそう思うが、そのときはこれっぽっちも気付いていなかった。彼が何を話していたのか、それすらも良く覚えていない。薄情者。後で桃子が言った。なるほどその通りだと思う。
 ただ、俺に話しかけた隼人の顔ばかりを覚えている。まるで天使みたい。そう形容したのは桃子だったか。確かに隼人は彼の母親にそっくりだったけれど、それ以上のものが彼にはあった。ぱっちりした目、すっと通った鼻筋、薄い唇、お人形みたいな天使みたいなそれらが、俺や桃子よりもずっと色白の顔に奇跡のようなバランスで配置されている。その日も俺は、隼人の話にいい加減な相槌を打ちながら、相変わらずの顔をした子だとぼんやり思っていた。
『数が違ってたじゃないか』
 そのとき隼人が言ったのだ。どういう流れで彼がその言葉を口にしたのかはわからない。覚えていない。そう言った、それだけは間違いないと思う。
『数が違ってたじゃないか』
 少し掠れた、何とも艶っぽいボーイソプラノで隼人は言ったのだ。俺は相槌を打ったろうか、それもわからない。ただほとんど同時に、俺の携帯が鳴った。仕事用の携帯だった。また事件かと、俺は舌打ちをした。そんなことも覚えているのに、隼人の言葉の意味だけがわからない。わからない。
 舌打ちをした俺に、ぱっと隼人が手を振った。もう行くから、構わないでいいよ。そういった意味だったと思う。俺は適当に悪いね、といった風に手を振り返してみせて、電話に出た。隼人を正面から見もしなかった。ただ視界の端、彼がやっぱり天使のような微笑みを零したのが見えた。後は、ぱたぱたと家を出て行く軽い足音、それだけだった。
 電話は大した用件ではなかった。少し隼人に悪いことをしたかな、それぐらいのことは考えたと思う。その後どうしていたかはよく覚えていない。テレビでも見て、暇を潰していたのかもしれない。しばらくすると桃子が帰ってきた。ただいまあ。大荷物を抱えた彼女は更に真っ黒に日焼けしていた。おうおかえり、まーた焼けてんな。返すと桃子は目を丸くした。あれ、お兄ちゃんいたんだ。
 いたんだよ。そういえば隼人に会ったか? ちょっと前うちに来てたんだが。
 あんまりな言葉に苦笑しつつ問うと、妹は首をかしげた。会ってないと言う。
 それよりさ、お兄ちゃん。すぐ近くの十字路で事故があったの、知ってる? 見てこようと思ったんだけどさ、この荷物で諦めたの。今から見に行こうかなあ。
 事故? 知らないな。まったくお前も根が野次馬なんだからな――
 野次馬なんだからな――

『数が違ってたじゃないか』
 隼人は何を言おうとしていたのだろう。数? 何の?
 二階への階段を上がりながら、ひたすら考える。
『数が違ってたじゃないか』
 大した意味があるわけじゃない。そんなことはわかっている。だけれども。
 隼人の最後の言葉だけが頭から離れない。
『数が違ってたじゃないか』
 彼は、何を言おうとしていた?
 桃子の部屋の前に辿りつき、ドアをノックしようと俺は手を伸ばす。



『数が違ってたじゃないか』



 突然携帯の着信音が鳴り響いた。ドアの向こう、桃子がびくりとするような気配がした。同僚からだ。俺はまたひとつ、舌打ちをして電話に出る。事件だ。同僚は簡潔に告げた。誘拐事件。すぐに出てきてくれ。急いで。
 誘拐事件か。急いで階段を駆け下りつつ、俺は考えをめぐらせる。誘拐されたのは誰だ? 近頃の誘拐事件で、子供以外の人質が助かった例は殆どない、果たして今回は――。そこまで考えて苦笑した。つい先程まで頭の中は隼人のことばかりだったというのに、電話ひとつでこの有様だ。お兄ちゃんは冷たいのね。不意に桃子の声。ああそうとも、お前は正しい。
 思わず壁を蹴りつけた。乾いた音。今度は自嘲気味の笑みを浮かべ、呟く。――こんなときでさえも。

「俺が考えてるのは、誘拐事件なんだな……」





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