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Last update 2007年10月08日

くすり指 著者:おりえ


十年よりもさらにながい一日を彼は旅してきた。
彼は時間に縛られない。
一日に定められた時間という枠の中に、彼は当てはまらない。

「仕方のないことだよ。僕がいなくちゃ、君たちは眠ることができない。
 眠りの知らない僕は、ずっと君たちを見守ってあげられるんだ。
 僕は自分に満足している。だから、もう起きるのはやめるんだ」

彼はとても哀しいことを話しているのにも関わらず、いつも微笑を浮かべるのだ。
私はこみあげてくるものを、唇を噛み締めてこらえることしかできない。
「あなたは眠りを知らないんじゃない、忘れているだけなのよ」
私は、彼に真実を告げなくてはならない。
「君はおかしなことを言う人だね」
彼は笑う。人を馬鹿にしたように笑うのではなく、自分を哀れむように笑うのだ。それを見ている私の気も知らないで。
「おかしくなんかない。何もおかしいことなんてないわ。私の言葉がわからない?」

彼の二の腕をつかんで、強く揺さぶった。冷たい彼の肌。青白い皮膚の色。何も映していない瞳。
「異国の話をしよう…」
泣くことのできない私をなだめるためか、彼はじっと私の目を覗き込む。やめて。見ないで。何も見てないくせに。私を見るフリをするのはやめて!
「長い、ながい一日のある時…」
彼の言葉が耳の中に入ってくる。そこから脳に伝わって、私は彼が忘れてしまった眠りへと誘われていく。いけない。彼の前で眠ってはいけないのに、身体が言うことを聞いてくれない。私は言わなくちゃいけない。だけど、真実を言ってしまったら、彼はどうなるのだろう?
泣けない私の頬を、彼がそっと撫でた。冷たい手。代償にしては、彼は失うものが多すぎた。
「…おやすみ、どうか良い夢を」
違う。私は彼に、こんなことを言われたいんじゃないのに。

夢の中、私は泣いている。
もういい大人な私が、幼子のように泣いているのだ。
溢れる涙は、拭っても拭っても、留まることを知らない。それが私にはどこか嬉しい。私は泣いて泣いて、やがて来る彼を待つ。
こんな方法でしか彼と向き合えることができないのかと思うと、哀しくて仕方ない。

夏の青い空が鮮やかに澄み渡る下、皆が歓声を上げながら駆けていく。泣いているのは私だけ。
「そんなに泣いて…海の水を、これ以上塩辛くしたいのかい」
飽きもせず泣き続ける私に、彼はようやく現れて、声をかけた。
「…知らないの? 海は元々、女の人が流した涙で作られているのよ」
「それは知らなかった」
「嘘よ。すぐに騙されるんだから」
私は自分に笑ってしまう。彼が来ただけで、涙は止まってしまった。
わたしたちはにっこりと微笑んで、遠くにいる人たちを見る。
「海だね。…君はいつも、海の夢を見てる」
ざぶんと波が音を立てる。人々は笑いあいながら、波打ち際ではしゃいで、走って、それぞれの時間を過ごしている。
「一番楽しかった時だから…」
降り注ぐ太陽に負けないくらい輝いていたあの頃。
「あなたがあなたで在った時のことだから」
私は彼を見上げた。驚いたように私を見下ろす彼は、何か言いたげに口を開け、微笑んでうなずいてみせる。
「聞かせてもらうよ。僕のためじゃない、君のためにも」
波の音を聞いてるだけで、私はまた泣けてしまう。思い出が蘇るのはいつも唐突で、口の中に記憶の味が広がって、覚えておきたいのにすぐに消えてしまうのだ。私は記憶の味を何度も舌の上で転がした。もう大丈夫。大丈夫だ。私は言わなくてはいけない。世界がどうなろうと、もう眠り続けることはできない。
「世界は変わったわ」
「そうだね」
ふたりで砂の上に座り込み、海を眺める。人々は相変わらずにぎやかで、下手をしたら私の声は彼に届いていないかもしれない。
けれどここは夢の中。
私がこの夢を見ることを望み、彼はそれを叶える。だからできないことはない。私は彼を見ることが出来ず、しゃべり続ける。
「人は、やりたいことを多く求めすぎてしまった。
 一日ではとてもやりきれない。目的を達成しても、また新たな興味が沸けば、延々と追求し続ける。私もあなたもそうだった」
「…僕が?」
意外そうな声がする。私はやっぱりその顔が見られない。夢の中でしか泣けない私は、彼の顔を見ることができない。
「一番厄介なのが、睡眠だった。人は眠らなくては死んでしまう。
 この睡眠という欲さえなければ、人はもっとやりたいことができるようになるはず
だった。そうね、その通りだって、あの時は皆で納得したのだっけ…」
「……」
「何故、あなただったのか、もうそんなこと、どうでもいいわ」
私は、青く透き通る海を思う。毎年来ていた海。あなたが長い一日だと笑ったその中で、私たちは何度夢の中で海を見たのだろう。
「私たちは、もう起きるべきなのよ。あなたのために」
「僕は君に眠っていて欲しいんだ。皆と同じように」
私はようやく、彼を見る。
「あなた以外、皆眠っている世界に戻れと?」
「その通りだ」
彼は微笑む。あなたは、そんな顔で笑う人ではなかったのに。
「夢の中でなら、いくらでも時間がある。何でもできる。死ぬこともない。あなたはそう言って、世界中の人たちを眠らせた。…でもあなたは? あなたはその代償に、何を失った?」
「取るに足らないものばかりさ」
彼は肩をすくめて、海へと目を戻す。
「僕は代償として、人々の夢の中に入り込む力を得た。世界中の人たちの夢の中を旅してきたよ。だからこうして、君の夢の中に入ることが出来る。何も不自由することはない。僕は起きて長い一日を過ごす。君たちは眠りながら長い一日を過ごす。どちらも変わりがないじゃないか」
「間違っていたのよ」
私は首を振った。
「人はね、変化のない一日を過ごすために生きているんじゃないのよ。
 朝が来て、昼が来て、夜が来る。この一日を生きるために、悲しんだり、笑ったり、怒ったり、するの。
 私は、あなたにもう終わりにしようと言いたくて、無理やりに目覚めた。…驚いたわ。私は夢の中にいすぎて、泣き方をすっかり忘れていたの。あなたが大きなものをたくさん失ったように、私も失っていたのよ」
あなたは、失ったものを取るに足らないと言って笑うけど、私にはそうは思えない。

「言う必要がないだろう? だって君は、また眠った」
「起きるわよ、今までのように、何度でも」
「だがまた眠るよ。僕がそう望む限りね。…僕らは変化のない一日を望んでいたのかもしれないよ。穏やかで、ずっと平和なんだ。…誰も泣くこともない、傷つくこともない…」
彼はそう言うと、痛ましげに私を見つめる。
「君だけだ。人々の夢を管理するのは僕独りで充分なのに、何度も目覚めては、僕の手を煩わせる」
「だったらあなたは、私を今度こそ完全に眠らせるように、努力するべきだわ」
私はやけになって笑う。彼みたいな弱々しい笑顔なんて見せない。
「私はあなたになら、それができると思っているから」
「では、聞こうか」
彼は動じない。どこか面白そうに見えるのは、彼が変化を楽しんでいる証拠だ。長い間、眠る人たちの夢の中を渡り歩いてきた彼に、私は変化をもたらそうとしている。

「この夢の中でも、私の涙を止めてちょうだい」
「…え…?」
彼が拍子抜けしたように、目を丸くする。溢れる涙の理由もわからない彼には、私の言葉の意味が理解できないに違いない。
「誰も泣くこともなく、傷つくこともないというなら、泣いている私の涙を止めて見せて。私がどうしてこんなに泣いているのか、あなたにはわかるはず」
「…残念ながら」
彼は首を振った。すぐに諦めてしまうのね。あなたは本当に、以前のあなたではないのね。
「なら、あなたが失った代償のひとつを教えてあげる」
私は手の甲で涙を拭う。頬がひりひりと痛むけど、夢の中だから強くこすっても構わない。
彼は静かに私を見ている。取るに足らないと言ったくらいだ。聞いた所で何も感じないのかもしれない。
「まずは、記憶よ」
「…そうだね、確かに僕は、記憶を失ってる。でも」
「もうひとつは」
彼の言葉をさえぎった。彼は少し気を悪くしたのか、眉をあげる。私は笑ってしまった。
「懐かしいわ」
「何が?」
「そうやって怒る癖。久しぶりに見た」
彼は私を不思議そうに見つめている。私は言った。
「それと、体温。…あなたの身体は、歳を取りにくいように、死人のように冷たいの。でも生きてる。間違いなく、あなたは生きている」
「それは良かった」
おどけて笑う。…あなたにはわからないの? 生きているのに死んでいる。このことがどういうことなのか、あなたにはわからないの!?
氷のように冷たい彼の心に、私の言葉は届くだろうか。
私は、一縷の望みをかけて、口を開いた。
「そして」

僕は彼女を、それこそ穴が開くほど見つめてしまった。
「本当に?」
確かめるように、慎重に聞く。答えはわかっている。彼女は僕に嘘は言わない。
気づけば、海で遊んでいた人たちが、帰り支度を始めていた。…おかしい。何故なんだ、ずっと遊んでいればいいのに。何故、家路へ急ごうとする?
「誰もあなたを責めたりしない。だってこれは、皆で望んだことなんだもの。
 ――さあ」
立ち上がり、潮風に髪をなびせながら、僕を見下ろす彼女の顔。
僕はそれをどこかで見たような気がした。…いや、気のせいなんかじゃないんだろう。
僕が立ち上がると、見計らったように、青い空が徐々に焼かれていく。
「ああ、夕焼けだね」
目を細めて僕が言うと、彼女はあら、と声をあげた。
「あなたの仕業?」
「まさか。これは君の夢だ」
彼女は笑う。まぶしそうに僕を見上げ、瞳の中に夕陽を閉じ込めると、つっとそれを落としてしまう。後から後から夕陽がこぼれて、僕はもったいないと思いながら、指でそれを拭ってやった。
「あなたはいつも、私の願いを聞いてくれるのね」
「え?」
「涙、止めてくれた」
確かに、彼女の涙は止まっていた。僕の人差し指の上に光る夕陽の粒で最後だった。

「僕の失くしたものを、君はもっと知っている気がする」
「ええ」
彼女は満足げにうなずくと、両手を上に伸ばし、指を絡ませて大きく伸びをした。
「だから目覚めましょう。思い通りになることが少なくて、泣きたいことばかりで、嫌いな人がたくさんいて、それでも」

それでも、あなたと一緒に生きられる現実の世界へ。


眠る人々は目を覚まし、しばらくは混乱する日々が続いた。
皆が望んだ夢の世界を創り出した僕に、もう一度眠らせて欲しいとつめかける人もいたが、残念なことに、僕は何も思い出せなかった。
世界中の人々を夢の中へ連れ出せる術も、何もかも。
皆は失望しながら、昔の日常を取り戻していく。
やりたいことがいくらもできなくて、望むことがほとんど叶わない僕の世界へ。
僕の世界は皆の世界となり、僕は人々の夢の中に入ることが出来なくなる。
だから、彼女がどこにいるかもわからない。
目覚めた人々がそれぞれ何かを失くしていた様に、僕も記憶を失って、彼女のことも忘れていた。
僕は恐れた。
「彼女のことを忘れている」自分が怖かった。
誰かも思い出せないのに、何を忘れたのかはっきりとわかる。不思議だった。
僕は今日も、あてもなくさまよっている。
「彼女」にいつか、巡り会えるような気がして、どこへでも行く。
最後にたどり着いたのは、海だった。
目にまぶしい青。懐かしい潮の香り。笑いあう人々。でもここに「彼女」はいない。

波打つ海を恨めしく眺めながら、僕はぼんやりと、海の向こうを眺めている。
「…夢は、もう見られるの?」
僕はその声に振り向くことが出来ない。
「ああ、見られるよ。夜に眠り、朝に目覚める」
「自分の夢を見る気分はどう?」
「変な気分だ。…僕は夢を見ているという自覚がないんだ。だから、目覚めてから気づく。ああ、あれは夢だったんだと」
「そうね。夢って本来、そういうものなんじゃない?」
僕は、彼女が失くしてしまったものを持っている。それが申し訳なくて、顔があげられない。
「…ありがとう。もしかして、私の代わりに、泣いてくれるの」
かがんで僕の顔を覗きこんだ彼女は、辛そうに笑う。海の味にも似た透明な雫が、太陽を含んで落ちていく。
「…知らないのかい? 海は元々、男の人が流した涙で作られているんだよ」
「嘘ばっかり」
彼女は声をあげて笑うと、目を細める。
「思い出した?」
「…わからない。でも、君の事はすぐにわかった」
僕は立ち上がり、彼女を見下ろした。
「あなた、きっと私に土下座するわ」
彼女は腕組みして、意地悪く微笑んだ。
「何で?」
「それは思い出してからのお楽しみ。…ふふ、あなたはね、この場所で…
 ううん、言わないでおく」
そう言って、砂の上を歩き出した。僕は慌てて後を追う。
「僕が君に土下座? 尋常じゃないぞ。何のことか教えてくれよ」
「こういうことは、自分で思い出さないと意味がないの!」
「…どうしたら思い出せるか、君は知ってるの?」
恐る恐る尋ねると、彼女は黙って海を指差した。
参ったな…
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに、何かとんでもない落とし物を、僕はしてきてしまったらしい。





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