或る午後の日溜まりの中で。

失われた彼女と地球とレコード

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匿名ユーザー

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「地球は今、死にかけているの。」
と彼女は言う。
僕はとりあえず彼女にコーヒーをすすめる。
彼女はありがとう、といって僕からカップを受け取る。

「それで、」
と僕は話し始める。
「君の言う地球の死というのは、環境破壊という意味の比喩なのかい?」
と僕は問う。
「違うの。地球は比喩的にでも何でもなく、実際に死に近づいているの。」
と彼女は言う。
「じゃあそれは、地球が老朽化したために爆発してしまうかもしれないとか、隕石が降ってくるとかいう類の話なのかい?」
僕はさらに問う。
彼女は違うといいたげに、首を横に振る。
彼女の耳についているイヤリングが揺れる。
「それは目に見えるものではないの。」
と彼女は言う。

僕は混乱する。なぜ突然、彼女はこんな話を持ち出したんだろうか。
僕は自分を落ち着かせるために、カラヤンのレコードをかける。
スピーカーから澄んだ音のパッヘルヴェルの≪カノン≫が流れ始める。
でも僕の気持ちはいっこうに落ち着かない。

「ちょっと話を頭の中で整理してもいいかな?」
混乱した頭で僕は彼女に聞く。
「ええ。時間はあるから、大丈夫よ。」
と彼女は言う。
僕は自分の頭の中を整理しようと努める。
でも、僕の頭は混乱していて、うまく整理することができない。

カノンが終わり、マスネの≪タイスの瞑想曲≫が始まる。

「ところであなたは、ワグナーの前奏曲のレコードを、持ってないかしら?」
と彼女は突然僕に問う。
残念ながら持っていないな、と答えようとして、一枚だけワグナーの曲が入ったレコードがあったのを思い出す。
僕はそのレコードを探す。
レコードはなかなか見つからないが、僕はそれを辛抱強く探す。
「確かワグナーなら一枚あった筈なんだ。前奏曲集ではなかったかもしれないけど。」
僕は言い訳の様に言う。
「その中にマイスタージンガーの前奏曲は入っているかしら?」
彼女は問う。
「おそらくは。」
僕は曖昧に答える。

そして僕はワグナーのレコードを見つける。
「残念ながらこの盤は前奏曲集では無かったけど、君の聴きたい曲はちゃんと入ってるみたいだ。」
と僕は説明する。
「ねえ、あなたがもし嫌じゃなければ、そのレコードをかけてもらえない?」
と彼女は言う。
僕はうなずく。
僕はカラヤンのレコードから針をおろし、ワグナーのレコードに針をのせる。
スピーカーから、壮大な≪ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲≫が流れ始める。

「ところで、地球についての話なんだけど」
と僕は話を戻す。
「ええ、あなたなりに整理はついたのかしら?」
と彼女は言う。
「いや、実際のところまだなんだ。」
と僕は言う。
「ねえ、コーヒーをどうもありがとう。でも今日はもうおいとましなきゃいけないの。」
僕の言ったことが聞こえなかったかのように彼女は唐突にそう告げる。
「また会えるかな?」
とだけ僕は聞く。
彼女は曖昧な笑みを浮かべて、さよなら、と言ってドアーから出て行く。
彼女が帰ってから、僕は音楽が止まっていることに気づく。
そして僕は、レコードプレイヤーにのせたはずのワグナーの盤が失われたことに気づく。

僕はそれから一度も彼女と会っていない。

そして今日もまた僕は、失われたレコードと彼女と地球について考える。


カテゴリ: [フィクション・短編] - &trackback() - 2005年09月03日 16:35:35
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