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やさしさはいらない


「どうした。入らないのか?」
 ドアの向こうに消えた男は事も無げに言うが、シンは正直戸惑っていた。露店が立ち並ぶ道をいくつも過ぎて、少し明かりが減った寂れた一角。戦前の建物が辛うじて残ってはいたが、窓ガラスはひび割れ明かりも弱い。
 明らかに不法滞在。
 戦後4年。まだまだこのような光景はどこにでもある。しかし、自分がそこに飛び込むとなると話は別だ。テロや犯罪の温床、レジスタンスの溜まり場などと揶揄されて、いつも事件が起これば真っ先に槍玉に挙げられるのはこういった地区である。自分の事は棚に上げて、シンは中を伺って肝心の人物の気配を探る。


 やばい奴じゃ、ないよな。そんな人物には見えないけど、只者じゃない。深く係わり合いにならないほうがいいに決まっている。
 彼はコーディネータのシンの動きを止めたのだ。肩にかけていた鞄を奥の部屋に置いてきた彼は身軽になって、シンのことを思い出したように振り返った。
「たいしたものは出せないけどね、ないよりマシだろ?」
 適当にくつろいでくれと言われても、通された部屋でシンは立ち尽くす。台所のついた部屋と奥にあるらしい部屋以外に、使っていそうな気配はない。水の音がするから、水はどこかから持ってきているのだろう。電気がつくという事はそれも、どこかから・・・。シンは眉をひそめて、改めて部屋の中を見渡した。気の利いたソファなどあるはずも無く、簡素なテーブルとイスが一つ。食卓だとしたら、シンがそのイスに座るわけにはいかない。
 いつまでも立ちっ放しのシンにようやく気づいた彼が『すまない』と謝って、奥の部屋から4本足の丸イスを持ってきた。
「俺はこれに座るから、君はそれに座ってくれ。すぐ夕食にしよう」


 無造作に開かれた扉が冷蔵庫だと分かってシンは目を瞠る。慣れた手つきで野菜を切り、何を食べさせられるのか不安になって見守っていると、今度は電気コンロに目を剥いた。
「スゲエ・・・」
戦前では当り前だった冷蔵庫も電気コンロも、戦後世界では今だぜいたく品だ。都市部を抜きすれば、一般家庭で備えているのは一部の金持ちくらいだろう。とてもそうそうは見えない。驚いているうちに、目の前に湯気を昇らせる皿が置かれた。記憶の中に残る、食欲を誘うソースの臭い。
「ヤキソバだけど。食べたことある?」
 首を立てに振る前に唾液が溢れてくる。
「よかった。味の保証はないけどね、どうぞ」
 暖かい食事なんて何日ぶりだろうか。野菜なんていつ食べたっきりだろうか。『いただきます』の挨拶もそこそこに、シンは無言で皿を平らげた。


 目の前の相手がじっと見ていることに気づいたのは、水を飲んで一息ついた時。シンは半分しか減っていない相手の皿と、顔を交互に見比べる。自分の食べっぷりを見られていたのも、それに気づかなかった自分にもばつが悪い。その上、微笑ましいものでも見るような眼差しが尺に触る。
「食べないんですか?」
「君は食べ足りないようだ」
フォークを持ったまま、顎の下で手を組んでいる。すっときれいになった皿を指し示されて、顔を背ける。後は2皿はいける、シンの腹のうちはこうだか、それを口に出せるほどあつかましくもなれない。
「そんなことないです」
ものすごく残念だが、相手が食べ終わるのを待ってシンは礼を言った。しかしにべも無くこれくらい当然だと水を飲んで、皿を片付けはじめる。
「君の食糧を台無しにしてしまったし」
「あなたのせいじゃないです」
 元はといえばシンが力で解決しようとしたから。そこに割って入って仲裁したのが目の前の男。
「俺が余計なことをしたから、ってもあると思うが」
 彼が仲裁に入らなければ、ナチュラルの少年は怪我し、シンは足元の紙袋を拾って家路についていたかもしれない。
「勝手な推測です」
 しかし、その場で官警に突き出されて、豚箱入りになっていた可能性もある。結局は、どうなっていたかなんて分からないのだ。逃げ切れたかも知れない。
「君は素直じゃないなあ」
「そうですか」
 段々自分でもやけになっているのが分かって、シンは口をつぐんだ。
「そう言えばまだ名前を聞いてなかったけど。俺はアレックス。君は?」
会ったばかりの人間に随分と警戒がないものだとシンは戸惑う。これっきりの可能性もあるのに、すんなり相手に答えてもらえると思っているのだろうか。只者ではないはずなのに、能天気な一面に拍子抜けする。
「君の言葉を借りると、俺は理由もないのに君にご馳走してやったわけだが」
「シン」


 前言撤回。能天気だが、意地が悪くて揚げ足取りだ。
 ファーストネームはいいだろ。相手も名乗らなかったのだからと、勝手に結論付けて呟くとそっぽを向いた。戦後世界の混乱の中で、頼れるものは自分だけだと身にしみて知っているのに。吐き捨てただけなのに、相手に名を明かすことに臆病になっていたことに今更ながら気が付いた。
 自分の事を知っている人はもう誰もいない。彼が、アレックスと名乗った緑の目の彼が、戦後初めて、シンという人物を知った最初の人だった。
 泊まっていってもいいんだぞと言うアレックスに丁寧に断って、シンは廃ビルの部屋を後にした。それはもう足早に、気がついたら全力疾走していた。ねぐらの前に来て初めて、顔をしかめる。
 こんなの俺らしくない。
 何から逃げているのかすら分からないのに、あそこに居てはいけない気がして逃げ帰ってきた。廃タイヤの上に布を重ねただけのベッドに身を投げ出して、人並みの生活をしている彼の部屋を思い出す。
 あの残りの半分、包んでもらってくればよかった。これから一週間どうやって凌ごうかと頭をめぐらせて、いつしか眠りに落ちていた。


続く