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 目の前にずらっと並んだ料理に彼はどれから箸を付けたらいいのか困っていた。誕生日だって、こんなに皿が並んだことがないのだ。小さな花びらの浮かんだ、食前酒なんて洒落たものまである。
「食べないのか?」
「あの、えっと、俺作法とかさっぱりで」
「そんなの気にしなくてもいい。早く食べないと、後で焼き物や揚げ物、刺身が出てきた時に困るぞ? メインだってまだだし、茶碗蒸もあるから」
 そう言って、宿の主人が去っていく。
 暖かい食堂の中、テーブルには彼一人。並べられた夕食を前に、意を決して小鉢を手に取った。


 すっかり暮れた外はずっと雨が降っていて、どうしてこんなことになったのかと回想する。暖かい部屋、食事が、雨でずぶ濡れになっていた彼をほろりとさせ、箸を加えたまま目じりに涙を浮かばせる。
 彼はシンと言う。身分は大学1年生。
 猛勉強して入った大学でこれからと言う時、家族を交通事故で亡くす。両親と妹の葬儀を済ませ、親類も殆どいなかったシンは途方にくれていた。学費は奨学金で何とかなりそうだったが、突然誰もいなくなった家に帰ることができなくなってしまった。
 そんな時、サークルの教授が少し休養をしてきたらどうかと知り合いの旅館を紹介してくれたのだ。
『山奥で雨の絶えない所だが、いい温泉がある。少しゆっくりしてきたらどうかね』
 後期前の休みに入ろうとしていたこともあって、生返事で住所を電話を受け取った。なんと無しに家にいることができなくて、休みだと浮かれている友人達に気を使わせるのもできなくて、貰った住所を手がかりに聞いたこともない温泉郷に足を向けたところまではよかった。
 その旅館が廃業していたと知るまでは。
 傘を忘れたと気付き、家族のいなくなった寂しさを噛み締めるまでは。
 下り坂だった天気は居座る秋雨前線の影響もあってついに降りだし、初秋の山間に冷たい雨を降らし始める。温泉郷の外れの足湯でしばらく時間を潰し、いよいよあたりが暗くなってきて途方にくれたのだが。


「おっ、良かった。食べてる食べてる、ちょっと熱いから気をつけてな」
 主人が姿を現して、茶碗蒸を並べていく。
 まだ若いこの民宿の主が、ずぶ濡れのシンを見つけなければ今もあの集落の外れて雨に濡れていたかも知れない。相手もシンに驚いたようだが、シンも彼を見つけて驚いた。雨の中、傘を差さないのはお互い同じ、足湯に突っ込んだままのシンとは正反対に、彼は森の中で枝についた木の実を手に取っていたのだ。
 お互いが気付いたのは多分同時だったと思う。
 彼の緑の瞳が少し見開かれるのが見えたから。
 シンはびっくりして立ち上がっていた。
『行くところがないなら家にくるか?』
と問われてこくりと首を振っていた。連れられたのは小さな民宿で、彼がその民宿の主だと言われてまた驚いたのを覚えている。
 民宿・座羅。
 潰れた旅館を探して穴が開くほど地図を眺めたというのに、記憶にないその名前。2階建ての民宿の部屋数はきっと10にも満たない。
 あっさりしたフロントとあるかなしかのロビー。
 今夜の宿の心配をしなくて良くなったシンは現金にも民宿をしっかりとチェックしてしまう。 露天風呂はないんだ・・・。
 ちょっとだけがっかりして、夕食もそれなりだろうと踏んでいたら出された料理に絶句する羽目になった。
「もしかして味、変か?」
「えっ、すごくおいしいです」
「そうか。久しぶりだったから、少し心配だったんだ」
 ホッと息をつく仕草が本当に庶民じみていて、とても民宿経営者には見えない。その上、料理までどうやら自分で作っているようで、シンはこの先どんなものが出されても平らげようと思った。


 最後のお茶をすすって、シンはこっそりお腹をさする。
「食べ過ぎた・・・うっ、腹いっぱいなんですけど、俺」
 あの後、次から次に料理が出てきて、焼き魚、てんぷら、岩魚の刺身、土瓶蒸し、と続いて、ようやくテーブルの上に鎮座していた肉に火が入った時にはかなりの量がシンの胃に消えていた。肉料理に舌鼓を打った後に蕎麦。
 何より、一通り料理を出し終えた主の彼がシンの斜め前に陣取って、シンが食べるのをじっと見つめているのだ。恥ずかしいながらも他愛もない話を二人でして、御ひつをテーブルに置いてご飯を装ってくれた。
「これくらいは食べられるか?」
 話の弾む食卓、暖かい食事、そして差し出されたご飯茶碗。
 母の手はもっとしわくちゃだったけれど、それは毎日家事をしていたから。
 急いで口にかけこむと、隣の父が『ちゃんと噛め』と言う。父が仕事で遅くなった時は、妹のマユが口調だけそっくりによく真似をして・・・。
 今はもうなくなってしまった食卓。
 いつも、ふいに思い出す懐かしい面影。
 目を細めて、シンは俯いた。
 思い出したくないのに、そのくせ、忘れてしまいそうな気がして、こうして思い出すたびにホッとしている。
「どうかしたのか?」
 シンの箸が止まる。


「俺、家族をなくしたんです」
 どんなに暖かくても、目の前の彼は違う。
 彼も、宿の主人と客人の分を超えたと思ったのだろう。
「なかなかここまで来る人が少ないから、俺、嬉しくって、すまない」
「いえ、いいんです。俺もしっかりしなくちゃいけないって分かっているのに」
 ふと一人になると、どうして自分だけ生きているのだろうと考え込んでしまう。
 家族4人が同じ車に乗っていて、一人だけ助かってしまった。
「君にとって本当に大切なご家族だったんだろう」
 あの日までそんな風に考えたこともなかったのだ。いつもそこにいるのが当り前で、口うるさい両親や生意気な妹を疎ましく思うこともあったというのに。
「喧嘩した時なんか、俺ひどいこと平気で言っていたし、親孝行とか全然してなくて、まじめなマユのこといつも馬鹿にしてたのに、俺の方が、本当に馬鹿だ。無くしてから気付くなんて」
 もう俺は家族に何もしてやることができないのだと思うと、シンは後悔でいっぱいになるのだ。ついに、箸を置いてしまう。
 食堂に雨の音だけが響き、しんと温度が少し下がった。
「いつまでも君がそんな風に沈んでいたらきっとご両親や妹さんはがっかりするんじゃないかな」
 何を言い出すんだと、この時、シンは心なし睨みつけていたに違いない。それなのに、彼はそれを平然と受け止める。
「君はもっと強いよ。後悔しても、馬鹿だったと嘆いても、君は歩いていける人だろう? この温泉郷は原生林が近くて樹海のようになっているんだ、行ったきり帰ってこない人もいる」
 シンのようにどうしたらいいのか迷い、絶望のまま死を選ぶ人もいる。
 この温泉郷がそんな自殺の名所の近くにあるのは、もしかしたら偶然ではなかったのかも知れない。
「でも、君は違うだろ?」


 最後の晩餐にしては君は元気が良すぎるよ。彼は笑いながら、シンにお茶を差し出した。
「今夜のお客は君だけだから、露天風呂は貸切だな」
 湯飲みにお茶を注いで、彼が席を立つ。
 シンは少し引っかかりを覚えつつ、きれいに平らげてしまった食卓を後にする。
 誰もいなくなった食堂の外では相変わらず雨が降りしきり、窓ガラスを曇らせていた。霧と消える食卓の景色の中から、シンが手をつけなかった食前酒を拾い上げる手があった。
「勿体無い。アスランのお酒なんて、僕だってめったにありつけないのに」
 シンでも民宿の主でもない第3の男が何も乗らない食卓でグラスに口を付けていた。



当初、民宿座羅という直球なタイトルでした。