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匿名ユーザー
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結局、ピアノは完璧には治らなかった。
アクションが想像以上に痛んでしまったらしく、きっちり直すにはリビルドが必要になるというのだ。当然、修理の為の時間も機材も換えの部品もない。仕方なく、音域を5オクターブに絞ってそこだけでもまともな音が出るように整調してもらった。
アクションが想像以上に痛んでしまったらしく、きっちり直すにはリビルドが必要になるというのだ。当然、修理の為の時間も機材も換えの部品もない。仕方なく、音域を5オクターブに絞ってそこだけでもまともな音が出るように整調してもらった。
これではモーツアルトの時代だ。
夕方調律士が帰った後、音が出るキーを確かめる。
店長にも頭を下げるはめになったし、自分でもしまったと思ったが、どこかでホッとしたのも事実だ。たった2時間弾いただけでアクションを破壊できるほど、自分がまだ弾けるとは。
店長にも頭を下げるはめになったし、自分でもしまったと思ったが、どこかでホッとしたのも事実だ。たった2時間弾いただけでアクションを破壊できるほど、自分がまだ弾けるとは。
どこにそんな気力があったのだろう。
夕暮れのラウンジに「ラ」の音が鳴る。
夕暮れのラウンジに「ラ」の音が鳴る。
「あー、明日からアレンジ考えないと」
早速、仕事の事を考えている自分に苦笑する。
街の総合カレッジの3年に編入のするためには編入試験にパスしなければならない。ハイスクールと音楽院の卒業資格で辛うじて編入試験を受けることはできるが。
街の総合カレッジの3年に編入のするためには編入試験にパスしなければならない。ハイスクールと音楽院の卒業資格で辛うじて編入試験を受けることはできるが。
いつまで、こいつと付き合うつもりなんだろうな、俺は。
ピアノの黒い屋根を下ろし、鍵盤を拭いて蓋を閉める。ラウンジの窓を全て閉じるとそこは完全な無音空間で、小さい頃に練習と称して、父から逃げ込んだ練習部屋のようだった。母はそんなつもりで俺にピアノを教えたのではないだろうに。
いつまで・・・俺は。
冬は空気が澄んでいて、音が良く響くような気がする。たとえ初春の季節でも、場所が室内だとしても、なんとなくそんな気がするのだから不思議だ。しかし、せっかくの感傷をぶち壊す声。
「貴様! 今日もふざけたまねをしたら許さんぞ」
と言って、どっかとピアノのまん前のテーブルに陣取るのは銀髪の男。
イザーク・ジュール。
イザーク・ジュール。
楽譜の準備をする俺にシンが心配そうに寄って来る。ピアノの不調を知っているからか、不安と少しの怒りを滲ませていた。
「何なんですか、アイツ」
「よせよ、シン。聞こえるぞ」
「何なんですか、アイツ」
「よせよ、シン。聞こえるぞ」
こっそり目をやれば、「さあ、来い!」と何やら勘違いしている様子。肩を竦めるシンが口を尖らせる。
「偉そうだなあ」
「実際、どっかの会社のお偉いさんなんだろ。さっ、お前もう行けよ。フロア、ヴィーノ一人に任せる気か?」
「偉そうだなあ」
「実際、どっかの会社のお偉いさんなんだろ。さっ、お前もう行けよ。フロア、ヴィーノ一人に任せる気か?」
意外と兄貴肌のシンが急いで厨房に戻って、トレイにカクテルとウィスキーを乗せてテーブルを縫う。今日もテーブルは全部埋まっている。俺のピアノを聴きに来たのは目の前の彼だけだけれど。
音域が限られていても古典ならばさほど問題にならない。俺はオルガン音楽や古典期の曲にポップスを織り交ぜて弾いていく。最低音や最高音域は出ないけれど、BGMにはちょうどいい。
あの男が睨んでいるのが分かる。
そうとも、君しか聞いていないと思って手を抜いている。
ついでに、ピアノの調子も良くないんだ。
そうとも、君しか聞いていないと思って手を抜いている。
ついでに、ピアノの調子も良くないんだ。
拍手もなく3回目の演奏が終わってピアノから離れる時、彼の呟きが聞こえた。
「貴様・・・」
一時間後、本日最後の演奏。
フロアの隅から隠れるようにピアノ向かおうとした時、肩を掴まれた。振り返れば睨み付けているのは、銀髪を揺らした彼。彼の青い瞳が燃えているように見えたのは錯覚だろうか。
フロアの隅から隠れるようにピアノ向かおうとした時、肩を掴まれた。振り返れば睨み付けているのは、銀髪を揺らした彼。彼の青い瞳が燃えているように見えたのは錯覚だろうか。
「なぜ、まじめに弾かない」
馬鹿な奴だな。
ここは夜の四十万に浮かぶ、一時の幻想空間を味わう場所だ。
色とりどりのアルコールと他愛もないおしゃべりや愚痴。
しかし、そんな感想を口に出すことはできないので、失礼のないように彼を見つめ一礼することしかできない。
ここは夜の四十万に浮かぶ、一時の幻想空間を味わう場所だ。
色とりどりのアルコールと他愛もないおしゃべりや愚痴。
しかし、そんな感想を口に出すことはできないので、失礼のないように彼を見つめ一礼することしかできない。
「ミネルバはバーラウンジです、お客様。耳障りでしたら、窓際のテーブルをご用意させますので、夜景をお楽しみください」
相手が言葉に詰まっている内に彼の前をすり抜ける。
後ろで、何かを考えるように目を細めていることなど知る由もない。
いかにも軽そうな彼の連れの男が、口を鳴らす。
後ろで、何かを考えるように目を細めていることなど知る由もない。
いかにも軽そうな彼の連れの男が、口を鳴らす。
「ヒュ~。彼、イザーク黙らして行っちゃったぜ。おい、イザーク?」
「誰かに」
「えっ、何?」
「何でもない、ディアッカっ」
「誰かに」
「えっ、何?」
「何でもない、ディアッカっ」
ピアノの後ろからチラリと伺えば、むすっとした表情でテーブルに戻ってきている。眉をしかめる彼を無視して、電子楽譜のスタンバイを終えた時、ガタンと椅子を引く音がする。
不意に横に気配を感じた。俺は銀髪の男にばかり気を取られて、そいつがそばに来ていたのに気が付かなかったらしい。見上げて息を呑んだ。
後ろから照らすライトの中でなおも薄暗く光る紫の瞳は、先日突如やって来て、意味不明なことを言い捨てて去っていった男、キラ・ヤマト。
黒いピアノ横に男が二人立っていた。
一人はイザーク。もう一人はキラ。
一人はイザーク。もう一人はキラ。
「貴様、ミネルバは酒を楽しむ所だと言ったが、耳障りのような音楽を聞かせるつもりか」
彼の青い瞳がギンとピアノ越しに俺を見据えている。
さっきは言葉のあやでああ言ってしまったが、空間を構成する一つの要素たる音を提供しているだけであって、耳に残るようなものを弾いているつもりはない。
さっきは言葉のあやでああ言ってしまったが、空間を構成する一つの要素たる音を提供しているだけであって、耳に残るようなものを弾いているつもりはない。
「止めなよ。今、このピアノ、端っこの音が出ないんだ」
「なにぃ?」
「だから、ちゃんとした曲弾けないんだよね」
「なにぃ?」
「だから、ちゃんとした曲弾けないんだよね」
「そうでしょ?」
そう来たか。
ラウンジに居て、ずっと今日のセットメニューを聴いて、すぐに気が付いたのだろう。
だが、この男の意図が読めない。
同意を求められて「はい、そうです」と答えるわけにも行かず、当たり障りのない返答を探すが・・・。
ラウンジに居て、ずっと今日のセットメニューを聴いて、すぐに気が付いたのだろう。
だが、この男の意図が読めない。
同意を求められて「はい、そうです」と答えるわけにも行かず、当たり障りのない返答を探すが・・・。
まずいな。
男がピアノの周りに集まって、険とした雰囲気を携えているのだ、普段、ピアノなど気にも留めない客も、さずかに何かあったと気が付き始めている。シンやヴィーノ、店長までこちらをじっと見ていては、トラブル発生を知らせているようなものだ。
「満足に音も出ないピアノだと?」
いくら店内BGMでも、整備不行き届きなものを提供しているとばれるのはまずい。
作りかけの料理、切れた照明、はがれた壁で客をもてなす事がないように、たかがピアノとて、音が出ないと知って納得する客などいない。
作りかけの料理、切れた照明、はがれた壁で客をもてなす事がないように、たかがピアノとて、音が出ないと知って納得する客などいない。
立ち上がって、頭を下げる。
チラリと奥の店長を見たが、おろおろするばかりで少しもフォローしてはもらえなさそうだった。
チラリと奥の店長を見たが、おろおろするばかりで少しもフォローしてはもらえなさそうだった。
「・・・そのようなことは。お客様のご不興を買いましたこと申し訳ありません。もしご所望の曲などがあれば・・・」
「そうだな」
銀髪の考えるようなそぶりに、俺は身構えた。どんな曲でも答えなければならないだろう。音域の広い曲なら、この場で編曲しなければならない。
「そうだな」
銀髪の考えるようなそぶりに、俺は身構えた。どんな曲でも答えなければならないだろう。音域の広い曲なら、この場で編曲しなければならない。
「僕、ベートーベンがいいな」
先にリクエストをしたのはキラの方だった。
いつになく、ミネルバのラウンジは静まりかえっていて、グラスの氷がカランと音を立てるのさえ響き、内心、戦々恐々としていた。ベートーベンは古典派最後の作曲家だから、初期の曲を選べば5オクターブで十分に演奏できる。
しかし、超有名どころ故、皆が聞き知っている。あまり知られていないレアな曲を弾くわけにも行かない。
しかし、超有名どころ故、皆が聞き知っている。あまり知られていないレアな曲を弾くわけにも行かない。
「店長。こんなことになってしまって、本当に申し訳ありません」
ちょっとしたミニリサイタル状態のミネルバで、彼らも音を立てないように給仕に最新の注意を払うことになる。俺は、心配そうに傍に来たミネルバのスタッフ達にすまないと声を掛け、20分くらいだからと謝った。
ピアノの事情を知って、キラが助け舟を足してくれたのだろうか。
また来るからと言って、去っていった彼が都合よく居たことは幸いだったけれど、この状況がありがたくないことに変わりはない。
また来るからと言って、去っていった彼が都合よく居たことは幸いだったけれど、この状況がありがたくないことに変わりはない。
できればもう二度と会いたくない。
まじめにやれとうるさい彼も。
まじめにやれとうるさい彼も。
何も考えずにピアノを弾いていられたらいいのに。
淡々と過ぎていく日々に、どこまでも逃げっぱなしな、俺。
淡々と過ぎていく日々に、どこまでも逃げっぱなしな、俺。
気持ちが悲愴な程、沈んでいく。
こんな時間はきっと、もう長く続かない。
選んだ曲は、まさしく―――
こんな時間はきっと、もう長く続かない。
選んだ曲は、まさしく―――
ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
軽く頭を振って、鍵盤に手を載せた。
安易に選んでしまったが、俺は早速後悔した。簡単そうに聞こえる曲ほど、テクニックでごまかせないから人前で弾くのは難しいのだ。たまにアレンジして弾いている第2楽章だけ、抜粋して弾けたらどんなに楽だろうと思いつつ、静かなミネルバのラウンジを切り裂くように始めた。
安易に選んでしまったが、俺は早速後悔した。簡単そうに聞こえる曲ほど、テクニックでごまかせないから人前で弾くのは難しいのだ。たまにアレンジして弾いている第2楽章だけ、抜粋して弾けたらどんなに楽だろうと思いつつ、静かなミネルバのラウンジを切り裂くように始めた。
拍手はほとんど耳に入らなくて、逃げるようにピアノを後にしてしまっていた。
銀髪の彼も、カガリの兄だという彼の様子を伺う暇もなく、バックヤードに逃げる。
銀髪の彼も、カガリの兄だという彼の様子を伺う暇もなく、バックヤードに逃げる。
「アスランっ!」
店長やシンが呼び止めるのにもかまわず、更衣室のロッカーを閉める。中から鍵を掛けると、ロッカーに背を預けて座り込んでしまった。膝の間に顔を埋め、長いため息を付いた。
何、真面目にやってるんだ。
何、逃げて来ているんだよ。
「アスランさん? います? 入りますよー」
恐る恐るシンが顔を出し、床に座り込む俺を見て驚いたのか、いつもの口調が若干パワーダウン。
「えっと、アスランさんに会いたいって人が・・・」
「適当に断っておいてくれ」
「でも、それだと、きっと店長が」
「適当に断っておいてくれ」
「でも、それだと、きっと店長が」
店長がなんだ。今回のことだって、もっとうまく場をまとめてくれればこんなことにはならなかったのに。
くそっ、駄目だ、俺。
こんなことに、動揺して。店長のせいにまでして。
こんなことに、動揺して。店長のせいにまでして。
どうせ、会いたいと言っているのはイザークとやらとキラだろう。今日のことを謝って、さっさと帰ろう。フロアに戻ると、待っていたのは銀髪の方だけだった。
「あの男ならさっさと帰ったぞ」
「・・・それで、ご用件というのは」
「すまなかったな。そのピアノの事情という奴を、店長から伺った」
「すまなかったな。そのピアノの事情という奴を、店長から伺った」
それで律儀に待っていたのか、この男は。意外とまめな奴だな。
「それから・・・さっきの演奏だが、俺はクラシックなぞ詳しくないし、小さい頃に少しかじった程度だからな」
何だ。何がいいたいんだ。
俺は言いよどむ彼を斜に見る。
俺は言いよどむ彼を斜に見る。
「あー。すごく良かったと言いたいらしい」
「ディアッカっ!」
「ディアッカっ!」
例えば、音楽評論家が言葉を尽くして、演奏の素晴らしさを褒め讃えたりするけれど、誰もがそのように聞こえるわけではない。表現する言葉が見つからないことだってある。
「まあ、そういう事だ。こんなラウンジで聴けるものとは思えない程よかったぞ」
「ありがとう。そう言って貰えると嬉しい」
「ありがとう。そう言って貰えると嬉しい」
前回の罪滅ぼしのつもりもあったのかも知れないと、「リクエストがあればlと聞いていた自分を思い出す。お客なのをすっかり忘れて、思ったことを口にしていた。
「やはり、貴様、似ているな」
「?」
「?」
誰に?
反応できない俺に、彼は一人満足してコートを手に取る。
反応できない俺に、彼は一人満足してコートを手に取る。
「気にするな。今日の素晴らしい夕べに礼を言う」
「イザーク、フライトに間に合わなくなっちまうぜ」
「イザーク、フライトに間に合わなくなっちまうぜ」
港の沖合いに24時間の海上空港があった。
企業の重役なら忙しいことこの上ないのだろう、彼らは夜のフライトで旅立つようだ。
企業の重役なら忙しいことこの上ないのだろう、彼らは夜のフライトで旅立つようだ。
俺より、2・3年上に見えるだけなのに。
「できれば貴様とは、現実世界で会いたいものだがな」
ここは地上の星と夜空の間を漂う一時の骨休め場所。
彼もそれを分かっていたのだった。
彼もそれを分かっていたのだった。