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匿名ユーザー

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 この街は、さすが政治や経済、世界の金融機関が集まっているだけあって、いくつも大学がある。その中で俺が編入試験をうけようとしているのが、ユニバーシティ・カレッジ(通称UCL)という所だ。いろんな国から留学生を受け付けていて、幅広い人脈を築けるのではないかと、まあ、本当の理由は編入の条件が低かったからなのだが。

 UCLの編入試験が終わって、88階のミネルバからは街がすっかり春霞に覆われていた。3年後にはミネルバのビルよりも15メートル高いビルが建つというのも、すっかり広まっていて、その最上階がどうなるのか、皆、興味津々だった。

 春は皆がそわそわするから不思議だ。
 それもそのはずだろう。

「すっげぇ、胸・・・」

 そう、今夜のミネルバにはそれはそれは目のやり場に困るような抜群のプロポーションの女性が来ていたのだ。この店のオーナーもいいスタイルをしているが、今日の客はなんと言うか。

「強調してますよね」
「寄せて上げる必要なんてないですよね、あれ」

 と、スタッフのみならずお客もちらちらと横目で追っている。件の彼女は一人だったから、皆、そのお相手が気になるようだ。

 ざわついたフロアも時間を追うごとに落ち着き始め、ラスト近くになるといつもの空間に戻っていた。談笑とグラスを傾ける音。照明が落とされればラストオーダーが過ぎた合図。そして、本日のピアノの時間もそれで終わりとなる。

 結局、あの女性のお相手は現れなかった。
 1時。
 閉店のミネルバのテーブルに最後までいた女性が立ち上がる。スタッフ一同、挙動を見守っていたのだが、にっこり笑ってこっちに来るではないか。

「あ、アスランさん。こっち来ますよ!?」
「お前の知り合いか?」

 ブンブンと頭を振るシン。
 女性が手にしたバックからおもむろに取り出したのは封筒。

「あなたが、アスラン君ね?」

 俺か。
 店内の視線が痛い。

「そうですが」

 気持ち硬く尖った声で返すが、相手は大人の女性らしく一度微笑んで口にした言葉に、俺は彼女が何者か知った。

「今週から練習始めるからってキラ君から」

 達の悪い冗談だと思って、気にも留めていなかったコンチェルト。
 確か彼は、ピアノを弾けと言っていた。
 それを今頃になって。

「受け取れません」
「困ったわね。私はこれを渡してくれと頼まれただけなの」

 それはアンタの事情で俺には関係ない。と言えたら、どんなに良かっただろうか。
 こんな時、自分の性分が悲しくなる。

「しかし」
「決めるのはあなたよ」

 封筒を受け取るだけに何を迷うのだろうと、きっと皆思っているに違いない。それこそ、さっさと受け取ってしまえと。

「どうかしら、受け取るだけでも・・・」

 皆、後片付けをしながら、じっと見守っている。

「仕方ないわね・・・ここに置いていくわ。私はキラ君になんて伝えればいいかしら」

 しかし、それでは、この女性に恥をかかせることになってしまう。
 受け取るだけだと、その後は何にも続かないのだと言い聞かせて、ピアノの譜面台に置かれる寸前だった封筒を掴んだ。
 彼女はまるでたくらみが成功したような笑顔でミネルバを去って行き、俺の手に封筒が残された。スタッフの視線が集中する中、俺は封筒をあけもせず片付け作業に没頭した。

 キラが主任指揮者を勤める、エターナルフィルハーモニー管弦楽団は海を隔てた街に本拠地を置いている。その街のホールを練習所に世界中を飛び回っているのだろうに。
 天才の考えることは分からない。
 と、封筒を開けずに一週間、その茶封筒はずっと家のキッチンのテーブルの上に置きっぱなしなっていた。

 封筒の中には公演の日程やリハ、それこそ、プログラムが記されているのだろう。 

 ピアニストを名乗るなと言っておいて、何なんだ。



 その封筒を見るのが嫌で、部屋のチェストの引き出しにしまいこんでしまったから、俺の頭の中からその封筒は意外と簡単に姿を消した。それでなくても、この一ヶ月の間に演奏プログラムや、何かしら起こる事件に一喜一憂するミネルバスタッフ達、UCLのテスト結果を気にする日々の中で自然と忘れていったのだ。

 旧友にばったり出会ったりしたこともあったかも知れない。

「アスラン? アスランですよね!」

 ミネルバへと上る直通エレベータへと急ぐ俺に投げられる声に、聞き覚えがあって振り返る。年は一つしか違わないのに、シンよりも年下に見える少年がいた。そんなことは本人には口が裂けても言えないが。

「ニコル・・・?」

 俺にとっては先輩にあたるピアニスト。
 音楽院で別れて以来だから2年ぶりだろう。ニコルは俺の数少ない友人、と言うと少し悲しいものがあるが、ピアノ仲間で先輩にあたる。俺が学院に入った頃は既にピアニストとしてプロの道を歩んでいた彼は、作曲を学ぶために学院にいた。

 あの頃とあまり変わっていないな、懐かしい。

「あっ、今、あまり変わっていないと思ったでしょう?」
「えっ、いや、まあ」
「これでも、少しは大人っぽくなったんですけど・・・・・・」

 立ち話もなんだから、近くのカフェに足を向ける。

「ニコルはどうしてここに?」
「コンサートに。もう終わりましたけどね。アスランは?」
「俺はこの上のラウンジで弾いてるよ。ま、テストに受かっていればまた大学生に逆戻りだけど」

 少し悲しそうな顔をしたのは気のせいと言う事にしておいた。それがどういうことか分からない彼じゃない。小さい頃からの知り合いで、むしろ、俺が音楽院にいた事に驚いていた。

「ちっとも名前を聞かないと思ったら、そういうことだったんですね。ラウンジではどんな曲を弾いているのですか?」
「どんなってイージーリスニングだよ。今週はショパンウィークなんだ。ワルツの夕べとかノクターンの夕べとか銘打ってね、って、俺一人が勝手に名付けているだけで、誰も聞いちゃいないけど」

 いざ、自分で口にしてしまうと、これほど空しいものはないと思う。
 それに、なぜか、申し訳ない気になる。何に対してなのかは分からないけれど。

「幻滅しただろ」 
「少し。でも、アスランが決めた事なら僕に言う事はないです。それでこそアスランだなって気もしますしね」

 そう言ってささやかに笑う彼が、紅茶のカップに口をつける。コーヒーに押され気味の紅茶業界が出展したアンテナカフェ。紅茶店にカフェと名づけるのもどうかと思うけれど。

「残念ですね。これでアスランのピアノをホールで聴くという僕の野望は潰えるわけですね~」
「大げさだよニコル。あっ、そうだ、オペラはどうなってる?」
「なかなか時間が取れなくて。学ぶ事が多すぎて本当に総合芸術とは言ったものですね。心配しなくても完成したら一番にお知らせしますよ」

 ニコルの夢は自分のオペラを書く事だと言っていた。

 その時はアスランがピアノを弾いてくださいね。
 そう言って貰えたのはいつ頃だっただろう。今は誰かに頼まなくてもこぞって手を上げるピアニストが大勢いるだろう。

「相変わらず引っ張りだこだな」

 彼のピアノは近年まれに見る癒し音楽だと評判だから、きっとあちこちから誘いが来るに違いない。かくいう俺も、ニコルのピアノを聞いていると気分が軽くなる、こうして話しているだけでもそう感じるのだから、ニコルの人柄のなせる業なのだろうか。

「最近はそうでもないですよ? 先日コンチェルトのお誘いがあったくらいで。スケジュール的に無理だったのでお断りしましたけど」
「コンチェルト?」
「エタフィルですよ。僕で5人目だって言ってましたね」

 エタフィル・・・どこかで。

 俺は冷めた紅茶で唇を濡らして、店内の時計を見る。
 ニコルの言葉がどこか頭に引っかかりながらも、ミネルバの開店時間が迫っている事に気が付いた。

 フライトまでの僅かな時間を使ってしまって申し訳ないと誤ると、ニコルはふわりと笑って、僕のほうこそお仕事の邪魔をしてしまってすみませんと逆に謝られてしまった。

 開店前の短時間、俺は「ワルツの夕べ」なるものの準備を始めた。




「お昼過ぎに、ここにアスランって奴いるか?って電話ありましたよ」
「誰から?」
「や、それが分からないんです。結構軽い口調だったです」

 ランチの給仕が一段落付いて、遅いまかないの昼食を取っている時だ、ヴィーノが教えてくれた不審な問い合わせ。

「そう言えば、先週も一回ありましたよ。俺そんな内容の電話取りましたもん」
「そうか」

 テーブルが全部埋まる程でもミネルバのランチ時にホールに出ている給仕は二人だけだ。二人でテーブルの間を縫うようにして駆け回るから忙しいことこの上ない。そんな時にかかってくる電話は迷惑がられることはあっても、決して喜ばれることはない。

 しかしその日の夜は迷惑な電話より性質の悪いものが揃っていた。

 この組み合わせが揃うとろくなことがない。
 俺は、実に久しぶりに開けてもいない封筒を思い出した。

「今夜も何か起こりそうですね」
「縁起でもないことを言うなよ、シン・・・」
「俺はアスランさんの困ったところが見られて嬉しいですけど」

 こいつ!
 叩こうとした手は空を切って、シンはニンマリ笑って厨房へと逃げる。
 7時を過ぎるとテーブルもほとんど埋まって、ドアの外にはテーブルが空くのを待っている当日客が列を作り始める。
 相変わらずピアノの前のテーブルに陣取る銀髪の男と、一番後ろのテーブルに腰掛ける男、指揮者のキラ。

 お前ら暇なんだな。
 イザークは有名な金融会社の役員、キラは有名な交響楽団の指揮者だというのに。
 望めば、もっといい演奏を聴きにいけるだろうが。

 はぁとため息をついて、ワルツの夕べが幕を開けた。
 最初の2回はワルツ、後半2回はノクターンを中心にした今回のプログラム。華美にならないように、ミネルバというスカイラウンジに溶け込むように幾分音を落として奏でるワルツ。
 例えるなら春の日の穏やかな午後といった具合だ。

 しかし、前半部分を弾き終えて、早速、雲行きが怪しくなり始めた。

「貴様はどこかでコンサートなんぞを開いたりしているのか?」

 暗雲は銀髪の一言で始まる。
 一番遠いテーブルを目で追うと、新進気鋭の指揮者が意味深な笑みを浮かべている。

「いいえ。俺はそんなご大層なものじゃありませんから」

 それが彼に聞こえたかどうかはわからない。
 僅かに寄せられる眉に、ふん、と小さく笑う。

「ならば、さっさと本職に戻るのだな」
「本職?」
「貴様、プラントの後継者争いを知らんのか?」

 何が言いたい・・・。
 なぜプラントのことがその口から出る。

「さあ、俺には関係のない―――」
「どう思おうが貴様の勝手だが、煮え切らん態度が気に入らん」
「奇遇だね。僕もそう思うよ」

 いつの間にかキラまで近くに来て、イザークに混じって声を掛けてきた。俺はさっさと引っ込みたいの我慢して立ち尽くす。ああ、店長がおろおろしているのが見える。

「コンチェルト、今度僕と一緒にやる、よね? アスラン」
「何ぃ?」

 勝手に決めるなよ。

「お客様。お話でしたら奥で」

 ここでこのまま話し続けることもできないから、もう少し人目に付かない場所に移りたかったのだが、二人は動こうとしない。

 いらいらする。

「なぜ・・・」

 こんなに突っかかってくるのだろう。
 たかが、スカイラウンジのピアノ弾きに何をこだわることがある。

「君を地上に引き摺り下ろすためだよ」

 ぎょっとして口にした男を見たのは俺だけでなく、銀髪の男も同じで、一瞬驚いて、すぐに我が意を得たりと笑みを浮かべるではないか。

「ふん。同感だな。貴様は地に足をつけて、現実を見ろ」
「君の音は、もっと大勢の人に聞いてもらうべきだと思わない?」

 分かっているさ。





 その日、最後の曲は奇しくも「別れのワルツ・変イ長調」
 このぬるま湯の日々に別れを告げることを無意識のうちに覚悟しているのかも知れなかった。
 父がいつまでも後継者の椅子を空けて待っているとは限らない。事実、3年も連絡していない俺のことなど既に期待もしていないかも知れない。

 大学に入りなおして、どうしようというのだ。
 お前の居場所など、どこにもありはしない。
 そんな囁きが聞こえる。

 それならいっそ、まだピアノのほうが・・・とも思う。
 自分が人付き合いが苦手なのは十分自覚している。物言わぬピアノとの対話で済むならずっと楽じゃないかと。けれど、それはとっくにカガリの兄の、あのキラという奴に見破られてしまっているのだ。

 4分少々の曲が終わってしまえば今日の演奏は終わり。

 夜の1時半。
 ミネルバの外で、厄介な指揮者は、封筒を届けに来た女性ともう一人、見知らぬ男と一緒に俺を待っていた。

「シン、ヴィーノ、悪いな」
「アスランさんもお疲れ様です」
「お疲れ様でーす」

 一人エレベーターホールの前に残されて、彼らを見る。

「一緒に来てくれるかな」

 軽い口調だけれど、隙のない身のこなし。こんな時間にいるのだから、もとより時間を口実に逃げることはできないだろう。二人に隠れていたキラが一歩前に出る。

「君の音がいるんだ」
「珍しい、キラ君が本気で口説いているわ」

 茶化す女性に男がひゅ~と口を鳴らす。

 いい加減なことを。

「おいおい、エタフィル始まって以来じゃないか?」
「止めてください、ムウさん。コンチェルト、どうしても君とやりたいんだ」

 ふざけた態度のムウと呼ばれた男を一瞥して、俺を見る双眸は、昼間見たときよりも深い紫色だった。直感的に彼は真剣なのだと悟るけれど。

 昼に聞いたニコルの言葉が蘇る。
 5人目だと言っていたじゃないか。

「どうせ俺は代役だろう! 気に入らない、力不足だと言うなら、お前が弾けばいいじゃないか」

「うん。でも、僕は指揮者だから」

 うん。だと?
 俺はノートパソコン入りの持っていた鞄で殴りつけたくなった。
 それはつまり、自分でできるなら俺に頼まない、という事じゃないか。

「ふざけるなっ!」

 俺は自分でも、この激昂の意味する所を分からずに彼らの前を通り過ぎる。
 掴まれた腕を振りほどこうと手を振り、外れないと分かるや、睨みつける。

「何人も音を聞いたよ。自分と同じソリスト、オケに飲まれない音、オケを壊さない音。やっぱり妥協したくない。君が本命なんだ」


 俺は、自分の怒りの本当の理由を思い知った。


 認めて欲しかったのだ。

 いつも遠目に見つめているだけで、物言わず去っていく父とキラの姿がだぶる。

 今度こそ、キラから直接封筒が手渡される。
 その中には、コンチェルトのpfの楽譜が入っていた。

 曲は「皇帝」
 ピアノ協奏曲第5番
 ベートーベン

「アークセンターの第2練習室を使っていいから。君の部屋、ピアノないでしょ?」

 そろそろ割り切らなきゃいけない時なのだろう。
 逃げ続けた父とも、逃げ込んだピアノとも。
 このコンチェルトが答えになるのなら、ピアノを引き受けるのも、いいかも知れない。





「別れの曲」じゃありませんよ?「別れのワルツ」です。何かエチュードでもと思いましたが、夜のラウンジで弾くにはうるさすぎますし(最初はなんとか木枯らしをこじつけてできないかと逡巡してましたが・・・)、この際、あの暗い、嬰ハ短調でもと思ったけれど、一度嬰ハ短調は使っているから、別れのワルツになりました。なんか、開き直ったような、どこか壊れた空回りしている曲です。

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