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&bold(){アメリカ横断ウルトラクイズ}(―おうだん―)は、日本テレビで放送された視聴者参加型の特別[[クイズ番組]]。1977年から16年間毎年放送され、クイズ番組の代名詞的存在となった。1992年の第16回をもって一旦終了したが、1998年に「今世紀最後」と題して一度だけ復活した。
正式なタイトルは『史上最大!第○回 アメリカ横断ウルトラクイズ』。また英題として「TRANS AMERICA ULTRA QUIZ」という名前も用いられた。
*概要
全国から集った18~45歳(後に50歳)の参加者が、クイズを勝ち抜きながらアメリカ大陸を横断し、決勝地であるニューヨークを目指すという内容。
途中の各地で「チェックポイント」と呼ばれるクイズが行われ、敗退した者は「罰ゲーム」を受けた後に日本に帰国となる。決勝にたどり着けるのは2人のみ。決勝で勝った者は「日本一の[[クイズ王]]」と呼ばれた。
壮大なスケールと常識を超えた発想、描き出される人間ドラマなどにより人気を博し、テレビ史に残る名番組として今なお語られ続けている。
2014年以降「ファミリー劇場」にて不定期に再放送が行われている。
**[[クイズ界]]における「ウルトラクイズ」
1970~80年代においてウルトラクイズはクイズ愛好者の大目標であり、多くの[[クイズサークル]]結成のきっかけとなった。現在のクイズ界の礎であると言っても過言ではないだろう。
80年代後半からは大学のクイズ研究会在籍者・出身者が大いに活躍し、「[[史上最強>史上最強のクイズ王決定戦]]」や「[[FNS>FNS1億2000万人のクイズ王決定戦!]]」とともにクイズブームを演出した。
しかしクイズ愛好者は番組において必ずしも歓迎されたとは言えない。番組に対するスタンスや人間味といった点で一般参加者と一線を画すクイズ愛好者たちは、番組の魅力の一つである「人間ドラマ」を形成するにあたり適当とはいえないと考えられていたようである(福留の著書などでその一端がうかがえる)。
1998年の「今世紀最後」においては、公式サイトにおいて「クイズ研究会は書類審査で落ちるとトイレの裏で聞いた」などと題した掲示板が設置され物議を醸した。この他400問ペーパークイズの廃止など、クイズ研究会を排除するような動きがあったことに対し、反発した者も少なくなかった。特にオープン大会などを通じテレビを離れた独自のクイズを展開してきた学生達にはアンチも多く現れ、クイズ界では賛否の議論が巻き起こった。
*行程の概略
個々のクイズルールについては「[[ウルトラクイズのクイズルール]]」をご参照ください。
(まだ書いていないので、それまでは[[Wikipediaの同項目>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E5%BD%A2%E5%BC%8F]]をご参照ください。)
**国内第一次予選
後楽園球場(後に東京ドーム)に全参加者を集めての[[○×クイズ]]。1問誤答失格の勝ち残り形式で、100人前後の勝者枠を競った。
**国内第二次予選
成田空港近くの「成田エアポートレストハウス」で、参加者同士1対1のジャンケン対決。その後の敗者復活などを含め、およそ半数の50人強が予選突破となった。
**第1チェックポイント
成田空港からグアムに向かう飛行機内で、400問の3択[[ペーパークイズ]]。成績上位の30~45人が勝ち抜けとなった。
**第2チェックポイント
グアムで一人必答形式の「○×どろんこクイズ」(第4回で初登場し((第5回は敗者復活のみ、第6回は開催されず))、第7回以降恒例に)。その後の敗者復活などを含め、20~30人が勝ち抜けとなった。
**その後のチェックポイント
-名所・旧跡や観光地などでクイズを行い、各地で1~2人が脱落。脱落すると「罰ゲーム」を受けた上、日本に「強制送還」される。
-人数を徐々に減らしながら、一行はアメリカ大陸を西から東に横断。
--一部アメリカ合衆国以外の国を訪れる回もあった。
-準決勝は一部の回を除き、4名で争われる「[[通せんぼクイズ>通過クイズ]]」が恒例となっていた。
-決勝地であるニューヨーク(第9回はパリ、今世紀最後は西インド諸島)へたどり着ける参加者は2人のみ。
**決勝
プラス1マイナス1、10ポイント先取の早押しクイズ(いわゆる[[NYスタイル]])。
*データ
司会(出題・海外リポーター)
-福留功男(第1回~第15回1問目、今世紀最後)
-福澤 朗(第15回2問目~第16回)
|大会|放送日|1週|2週|3週|4週|5週|参加者数|優勝者|準優勝者|機内1位|
|第1回|1977年|10月20日|27日|―|―|―|404人|松尾清三|藤原滋子|松尾清三|
|第2回|1978年|11月9日|16日|23日|―|―|700人|北川宣浩|間下友美子|北川宣浩|
|第3回|1979年|11月8日|15日|22日|―|―|1,362人|宗田利八郎|田上 滋|岩崎悠一|
|第4回|1980年|10月30日|11月6日|13日|―|―|2,707人|上田由美|松澤典子|北川宣浩|
|第5回|1981年|10月8日|15日|22日|11月5日|―|6,473人|真木法男|杉山 眞|道蔦岳史|
|第6回|1982年|10月7日|14日|21日|28日|―|7,332人|高橋直樹|高木 剛|石倉由美子|
|第7回|1983年|10月20日|27日|11月3日|10日|―|10,203人|横田 尚|渡辺晶夫|横田 尚|
|第8回|1984年|10月11日|18日|25日|11月1日|―|11,048人|石橋史行|宍戸浩明|道蔦岳史|
|第9回|1985年|10月24日|31日|11月7日|14日|―|11,754人|金子孝雄|長谷川威夫|永田研自|
|第10回|1986年|10月30日|11月6日|13日|20日|―|17,162人|森田敬和|西沢泰生|山本道夫|
|第11回|1987年|11月5日|12日|19日|26日|―|18,017人|稲川良夫|山賀恵美子|稲川良夫|
|第12回|1988年|11月3日|10日|17日|24日|12月1日|20,774人|瀬間康仁|大江成人|岩隈政信|
|第13回|1989年|10月26日|11月2日|9日|16日|23日|24,115人|長戸勇人|永田喜彰|長戸勇人|
|第14回|1990年|10月25日|11月1日|8日|15日|22日|26,735人|佐藤光邦|高松康典|土屋仁志|
|第15回|1991年|11月7日|14日|21日|28日|―|28,523人|能勢一幸|松原史和|大石 禎|
|第16回|1992年|10月22日|29日|11月5日|12日|―|26,121人|田中健一|大西 肇|田中健一|
|今世紀最後|1998年|11月22日|23日|―|―|―|50,453人|小川圭太|清水耕司|村田栄子|
|大会|放送日|参加者数|優勝者|準優勝者|
|史上最大の敗者復活戦|1982年12月31日|24,642人|佐藤麻利子|門田雅志|
*関連項目
-[[アメリカ横断ウルトラクイズLIVE]]
*外部リンク
-[[アメリカ横断ウルトラクイズ - Wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA]]
&bold(){アメリカ横断ウルトラクイズ}(―おうだん―)は、日本テレビで放送された視聴者参加型の特別[[クイズ番組]]。1977年から16年間毎年放送され、クイズ番組の代名詞的存在となった。1992年の第16回をもって一旦終了したが、1998年に「今世紀最後」と題して一度だけ復活した。
正式なタイトルは『史上最大!第○回 アメリカ横断ウルトラクイズ』。また英題として「TRANS AMERICA ULTRA QUIZ」という名前も用いられた。
*概要
全国から集った18~45歳(後に50歳)の参加者が、クイズを勝ち抜きながらアメリカ大陸を横断し、決勝地であるニューヨークを目指すという内容。
途中の各地で「チェックポイント」と呼ばれるクイズが行われ、敗退した者は「罰ゲーム」を受けた後に日本に帰国となる。決勝にたどり着けるのは2人のみ。決勝で勝った者は「日本一の[[クイズ王]]」と呼ばれた。
壮大なスケールと常識を超えた発想、描き出される人間ドラマなどにより人気を博し、テレビ史に残る名番組として今なお語られ続けている。
2014年以降「ファミリー劇場」にて不定期に再放送が行われている。
**[[クイズ界]]における「ウルトラクイズ」
1970~80年代においてウルトラクイズはクイズ愛好者の大目標であり、多くの[[クイズサークル]]結成のきっかけとなった。現在のクイズ界の礎であると言っても過言ではないだろう。
80年代後半からは大学のクイズ研究会在籍者・出身者が大いに活躍し、「[[史上最強>史上最強のクイズ王決定戦]]」や「[[FNS>FNS1億2000万人のクイズ王決定戦!]]」とともにクイズブームを演出した。
しかしクイズ愛好者は番組において必ずしも歓迎されたとは言えない。番組に対するスタンスや人間味といった点で一般参加者と一線を画すクイズ愛好者たちは、番組の魅力の一つである「人間ドラマ」を形成するにあたり適当とはいえないと考えられていたようである(福留の著書などでその一端がうかがえる)。
1998年の「今世紀最後」においては、公式サイトにおいて「クイズ研究会は書類審査で落ちるとトイレの裏で聞いた」などと題した掲示板が設置され物議を醸した。この他400問ペーパークイズの廃止など、クイズ研究会を排除するような動きがあったことに対し、反発した者も少なくなかった。特にオープン大会などを通じテレビを離れた独自のクイズを展開してきた学生達にはアンチも多く現れ、クイズ界では賛否の議論が巻き起こった。
*行程の概略
個々のクイズルールについては「[[ウルトラクイズのクイズルール]]」をご参照ください。
(まだ書いていないので、それまでは[[Wikipediaの同項目>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E5%BD%A2%E5%BC%8F]]をご参照ください。)
**国内第一次予選
後楽園球場(後に東京ドーム)に全参加者を集めての[[○×クイズ]]。1問誤答失格の勝ち残り形式で、100人前後の勝者枠を競った。
**国内第二次予選
成田空港近くの「成田エアポートレストハウス」で、参加者同士1対1のジャンケン対決。その後の敗者復活などを含め、およそ半数の50人強が予選突破となった。
**第1チェックポイント
成田空港からグアムに向かう飛行機内で、400問の3択[[ペーパークイズ]]。成績上位の30~45人が勝ち抜けとなった。
**第2チェックポイント
グアムで一人必答形式の「○×どろんこクイズ」(第4回で初登場し((第5回は敗者復活のみ、第6回は開催されず))、第7回以降恒例に)。その後の敗者復活などを含め、20~30人が勝ち抜けとなった。
**その後のチェックポイント
-名所・旧跡や観光地などでクイズを行い、各地で1~2人が脱落。脱落すると「罰ゲーム」を受けた上、日本に「強制送還」される。
-人数を徐々に減らしながら、一行はアメリカ大陸を西から東に横断。
--一部アメリカ合衆国以外の国を訪れる回もあった。
-準決勝は一部の回を除き、4名で争われる「[[通せんぼクイズ>通過クイズ]]」が恒例となっていた。
-決勝地であるニューヨーク(第9回はパリ、今世紀最後は西インド諸島)へたどり着ける参加者は2人のみ。(ただし第11回のみ決勝に3名が進出した)
**決勝
プラス1マイナス1、10ポイント先取の早押しクイズ(いわゆる[[NYスタイル]])。
*データ
司会(出題・海外リポーター)
-福留功男(第1回~第15回1問目、今世紀最後)
-福澤 朗(第15回2問目~第16回)
|大会|放送日|1週|2週|3週|4週|5週|参加者数|優勝者|準優勝者|機内1位|
|第1回|1977年|10月20日|27日|―|―|―|404人|松尾清三|藤原滋子|松尾清三|
|第2回|1978年|11月9日|16日|23日|―|―|700人|北川宣浩|間下友美子|北川宣浩|
|第3回|1979年|11月8日|15日|22日|―|―|1,362人|宗田利八郎|田上 滋|岩崎悠一|
|第4回|1980年|10月30日|11月6日|13日|―|―|2,707人|上田由美|松澤典子|北川宣浩|
|第5回|1981年|10月8日|15日|22日|11月5日|―|6,473人|真木法男|杉山 眞|道蔦岳史|
|第6回|1982年|10月7日|14日|21日|28日|―|7,332人|高橋直樹|高木 剛|石倉由美子|
|第7回|1983年|10月20日|27日|11月3日|10日|―|10,203人|横田 尚|渡辺晶夫|横田 尚|
|第8回|1984年|10月11日|18日|25日|11月1日|―|11,048人|石橋史行|宍戸浩明|道蔦岳史|
|第9回|1985年|10月24日|31日|11月7日|14日|―|11,754人|金子孝雄|長谷川威夫|永田研自|
|第10回|1986年|10月30日|11月6日|13日|20日|―|17,162人|森田敬和|西沢泰生|山本道夫|
|第11回|1987年|11月5日|12日|19日|26日|―|18,017人|稲川良夫|山賀恵美子|稲川良夫|
|第12回|1988年|11月3日|10日|17日|24日|12月1日|20,774人|瀬間康仁|大江成人|岩隈政信|
|第13回|1989年|10月26日|11月2日|9日|16日|23日|24,115人|長戸勇人|永田喜彰|長戸勇人|
|第14回|1990年|10月25日|11月1日|8日|15日|22日|26,735人|佐藤光邦|高松康典|土屋仁志|
|第15回|1991年|11月7日|14日|21日|28日|―|28,523人|能勢一幸|松原史和|大石 禎|
|第16回|1992年|10月22日|29日|11月5日|12日|―|26,121人|田中健一|大西 肇|田中健一|
|今世紀最後|1998年|11月22日|23日|―|―|―|50,453人|小川圭太|清水耕司|村田栄子|
|大会|放送日|参加者数|優勝者|準優勝者|
|史上最大の敗者復活戦|1982年12月31日|24,642人|佐藤麻利子|門田雅志|
*関連項目
-[[アメリカ横断ウルトラクイズLIVE]]
*外部リンク
-[[アメリカ横断ウルトラクイズ - Wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%A8%AA%E6%96%AD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA]]