*NOVEL 髪 を 結 う 記 憶 ------------------------------------------------------------------------------- #ref(200411027574803.jpg ) 響くのは唯流れるせせらぎの音と、さわさわと風に揺れかさなる木々の、葉のふれあう音。 「こうしてあなたに髪を梳いてもらうのも、ほんとうに久しぶりね、シルメリア」 ここは天空と地上の間。 神の世界と人の世と。どちらにも属せない特別な存在である、戦乙女たちの住まう場所。 木々のあいだから漏れた光が、ちらちらと瞬く。つまさきを濡らす川の水はつめたく澄みきって、女神達の姿を水面にうつしてゆれた。 ふたりの女神は、暫くぶりの再会を果たしたところだった。 暫く、といっても、永く続いてゆく生命を持つ、神々の時間の物差しで測ったならばそれは、ほんとうに短い時でしかなかったが、つい先まで人間として生きていたレナスにとって、妹の姿を見るのはほんとうに久しぶりのことだったのだ。 「何故、髪を結うようになったの?」 レナスの長い髪を、もてあそぶように細い指で梳きながら、シルメリアが聞いた。 「こうしているのが綺麗だって、そう言われたの」 レナスは、人間としてのひとつのの生を終えて戻ってきたところだった。 幾度も繰り返されてきた輪廻の中で、何度も出会い続けてきた恋人と、そうとは知らずに広い世界の中で出会い、結ばれ、世界の片隅でひっそりと、それでも幸福に包まれながら生き、ふたたび会うことを約束しながら、天寿を終えた。 「しあわせだったのね」 シルメリアが、やさしく言う。ことばをかえすかわりに、レナスはやわらかく笑んだ。 美しい長い髪を束ねていたリボンを、シルメリアがほどいた。 「きれいな色のリボン。よく似合うわ」 「そうかしら」 リボンの色は、橙がかった赤い色。 あのひとがすきだった色。 おだやかで、やさしくあたたかなひとだった。 まるでこの色のように。 「また会うことを誓ったの。遠い未来の、どこかで。そしてひと目見てわかるよう、私はこうして髪を結い続けると、約束を」 どれほど愛し合っても、同時に生を終えることはやはりできなくて。人間とは老いてゆく生き物で、過ぎる時には逆らえず、あのひとをおいて先に来てしまったけれど。 それでも自分との約束と、共に過ごした日々の思い出を胸に、時にそれを懐かしみ涙しながらも、人々に囲まれ、幸福に包まれ、日々を生きているはずだった。 「それじゃあ、わたしが結ってあげるわ」 シルメリアが微笑んで、レナスの髪を手にすくいあげた。 レナスは瞳を閉じた。そうして思い出す。 いつかまた、あの草原で。 ふたりで暮らした、あの草原で出会う。 短い夏には、緑が見渡す限り広がっていた。 秋がやってくれば、野原は金色にかがやいた。 気候は厳しく、生活も貧しくて決して何もかもが楽ではなかったけれど。 それでもしあわせだった。 「次にまた人間として転生するときも、今みたいに静かで、平和だったらいいわ」 「そうね。……そうしたら次も、戦乙女としてではなく、そのひととも、人間として出会ってゆけるものね」 シルメリアの指が、器用にレナスの銀の髪を編んでゆく。 「ええ」 足下に流れゆく川、その水面に、愛しいひとの面影を描く。 ただの人間でしかない、あのひとは忘れてしまうだろうけど。 それでも何度も、繰り返す転生の中で何度も邂逅を果たしてきた。 きっと、そういう運命を手に入れているのだ。幸運なことに。 「シルメリアには、そういう誰かはいないの?」 「わたし?」 かすかに頬を赤らめて、シルメリアが笑う。 「まだ言えないの、けれど、いつかきっと、うちあけるわ。その時は聞いてくれる?」 「勿論よ」 シルメリアの笑顔があまりにしあわせそうなので、レナスはそのことを、もっと知りたくなった。 「どんなひとなのかしら。シルメリアを夢中にさせるなんて」 「ふふ……そうね、そのうちに、きっと」 シルメリアが、編み終えた髪にリボンを巻いた。 「できたわ、レナス」 「ありがとう」 レナスは立ち上がり、流れゆく川のおもてに、自分の姿を映した。 ゆるく編んだ髪。かつてあのひとがそうしてくれたような。その自分の姿が懐かしかった。 「そういえば、アーリィはどうしているの?」 「少し前に、フレイに召致されたわ。私ももうすぐ、行かなければならないの」 「今度は何が?」 「不死者の王と、オーディン様とのあいだに、争いの兆しがあるのですって」 シルメリアの笑顔が、かすかに翳りを帯びた。それをレナスは、諍事を厭う彼女の、その性質ゆえのことだと思った。 「……しあわせなときに、それをそうと感じるのはとても難しい事ね。いつでも素晴らしい事柄というのは、失ってから初めて存在していたことに気付くのだわ」 そう言ったシルメリアの視線は、何処か遥か遠いところへと向けられていた。 「そうね……。そうなのかもしれない」 レナスは頷いた。が、それは相槌のようなもので、このときレナスもそのことを、真に知ってはいなかった。 運命はいつでも、突然に急降下をはじめる。 兆しもなく。 後に、レナスは驚愕の事実を聞くことになる。 けれどそのとき、女神達の楽園は、ほんとうに静かで、光に満ちていたのだ。 「静かで幸福な時間だけが、いつまでも永遠に、続いてゆけばいいのに」 空を見上げた、シルメリアの金の髪が陽に透ける。 まるで光にとけて、消えてしまいそうだった。 まぼろしのように美しいその光景を、その後レナスは何度も思い出すことになる。 けれどこの時は、まだ何もはじまってはいなかった。