中2-関さん

和算について最終更新 これを載せてください。(anco)


和算とは日本古来の数学であり江戸時代に最も発達しました。和算の元になったのは中国の数学です。16世紀に中国から「天元術」とそろばんが日本に伝えられました。その後1627年に刊行された吉田光由の塵劫記によって多くの人が数学に興味を示すようになりました。1641年には新篇塵劫記が出版されその中に答えを載せない問題を提出して問題に挑戦するよう促しました。解答を載せない問題を和算では遺題と呼びます。遺題は塵劫記の作者、吉田光由が世界の数学者に挑戦した12問が始まりといわれています。その中から2問をあげてみたいと思います。
遺題1:∡A=90°の直角三角形ABCがある。BC=a、CA=b、AB=cとするとき次の条件を満たすa,b,cを求めよ。
       a+b=81、b+c=72

遺題2:松、檜、杉、栗の各一本の代銀をそれぞれa,b,c,dとする。このとき、次の条件を満たすa,b,cを求めよ。
       80a+90c+150d=1932
             120d+7b=419
           50b=2790
           120a+40c=2322 
           
現代の数学では簡単に解ける問題でも、昔は苦労して解いていたんだなとしみじみ思いました。

和算の特徴として、遺題を解いて新たに遺題を提出する遺題継承の風習があります。この習慣は日本独自のものです。遺題継承によって、数学に興味を持つ人たちの数学のレベルは着実に上がってきました。そろばんによる計算だけでなく、宋・元時代に中国で発達した方程式論、天元術を理解する数学者が出てきました。

天元術とは16世紀に中国から伝わった代数方程式を解く方法です。算盤(さんばん)と呼ばれる表と算木を用いました。算盤とは碁盤の目状になった表であり、各列が一、十、百、千、万といった桁を表し、各行は商(答え)、実(定数項)、方(x)、廉(x2)、隅(x3)、三乗(x4)...と代数方程式の解および各係数を表しました。各升目に置かれた算木を並べ替えることで、代数方程式を解いていきました。関孝和は算木を用いずに筆算により代数方程式を解く計算法を編み出しました。

そして延宝2年(1674)に、沢口一之の「古今算法記」の遺題15問を解いた関孝和の「発微算法」が発表され、中国数学を越えた和算が誕生しました。関孝和は傍書法という和算における文字式を発案しただけでなく、その後の和算発展の基礎となる多くの仕事をしました。世界初の行列式の導入もその一つです。寛永4年(1627)に「塵劫記」が刊行されてからわずか50年足らずで、江戸時代の数学は大きな高みへのぼりました。関孝和以降の和算の進展は関孝和の仕事を精密にし、拡張していったと言っても過言ではありません。

和算のほかの特徴として「算額」が在りました。算額(さんがく)とは額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものです。算額は数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと言われました。やがて、人の集まる神社仏閣を数学の発表の場として、難問や問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、その問題を見て解答を算額にしてまた奉納するといったことも行われました。現在日本には1000個もの算額が残されています。次に和算を紹介していきます。
和算には4つの種類があります。

①非常に桁数の多い計算、繰り返しの多い計算を必要としているもの。(鼠算、烏算など)
②一見遊戯性のみに見えるが数学的思考力を養う要素を持っているもの。(馬乗合など)
③クイズ的要素を主とするもの。(継子立など)
④占い遊びの類。(亀の占の事など)

油分け算 桶に10升の油が入っています。これを7升マスと3升マスの2つのマス使って,5升ずつに分けるには,どうすればよいでしょうか。

A.①10升マスから7升マスに6升移す。
②10升マスから3升マスによって7升マスの油をいっぱいにさせル。
③10升マスに7升ますの油を混ぜる。
④ほかの3升マスで10升マス(8)から3升とる。10升マスは5升になる。
⑤7升枡の油(3)と3升マスの油(2)を混ぜて5升にする。
以上。

方陣
9個の場所のある正方形のそれぞれの場所に,1から9までの数字を入れて,たて・よこ・斜めの列の和が,すべて等しくなるように並べてください。

鼠算 正月に,ねずみの父母が子どもを12匹生んで,親子とも14匹になるとします。この14匹のねずみが,2月には7組の父母として12匹づつ生むと,全部で98匹となります。このように月に一度づつ,親も子も孫もひ孫も12匹づつ生むとしたら,12月には何匹になるでしょうか?

A.27682574402(2×7の12乗)

烏算
999匹のカラスが999の浜辺で999回ずつ鳴いたら合計何回ないたでしょう。

盗人算 橋の下で盗人たちが盗んだ絹を分け合っています。
一人7反ずつとると8反あまり、8反ずつとると7反足りません。盗人は何人で何個の絹がありますか?

現代でいう過不足算です。
A.15人 113個。

馬乗合
4人が6里の道を馬3頭を均等に乗って行くにはどうしたらいいでしょう。ひとつの馬には1人までです。

百五減算
在る数から7を引けるだけ引いたあまりと5を引けるだけ引いたあまりと3を引けるだけ引いたあまりをいい、在る数を求めると言うものです。

裁ち合わせ
問1 正方形の折り紙を折って一回はさみを入れることで図1のようにしてください。

問2 図2のそれぞれの図をはさみで切って正方形に並び替えてください。

毎度、0です。なんだかんだでancoが全ての仕事量を負っているような気がするので、他のメンバーも気を緩めずやってください。きっと欠損している部分があると思うのでそれはメンバー同士で補足訂正などして下さい。次の数研は4/9水です。

佐藤健一著 和算を楽しむ 680円 に結構広範囲にわたって書いてあります。塵劫記についても触れたほうがいいかもしれません。




塵劫記について、天元術、継子立て。


1.関孝和(1635?~1708)の生涯(ancoの資料をもとに)


2008年は日本の和算家である関孝和の没後300周年です。彼は鎖国状態の日本で中国からの書物のみで独学で研究を進め和算から高度な数学理論を確立させた人物です。関孝和の弟子でもっとも有名な建部賢弘は八代将軍の徳川吉宗にこういいました。
「関孝和は吾が師たり。曾て立元の法に拠て真仮を設けて解伏題の法術を立為せり。是れ亦神なりと謂うべし」

                         関孝和の写真

関孝和は小さい頃に両親を失い関家の養子となりました。吉田光由が書いた「塵劫記」によって多くの人が数学に興味を持つようになりました。例に漏れず、関孝和も「塵劫記」を研究し独自の和算の世界を創始します。その後孝和は後に6代将軍となる徳川家宣に仕え入場も果たします。何故なら彼は数学者であるだけではなく藤岡藩士、幕府の勘定奉行、天文学者、暦法学者でもあったからです。しかし暦法学の研究においては新しい暦法を考案したにもかかわらず他人のものが採用されてしまい幕府に認められなかったこともありました。
 関孝和の数学の業績はとても多いです。まず中国の伝統数学である天元術を改善して点鼠術という算木を用いない代数方程式の筆算による解法を開発しました。点鼠術によって連立多元一次方程式の解を求める公式を生み出し行列式の考えに辿りついたのだがそれはヨーロッパで発明される200年前のことでした。
 またn次方程式の近似的な解を求める方法をイギリスのホーナーが発表する100年前に考案しています。さらに30代で円理を発明し、円に内接する131072角形を利用することで円周率を11桁計算しました。この計算には特殊な漸化式「エイトケン加速」(エイトケン加速については3.を参照してください)が使われています。エイトケン加速とはひとつずつの解を求めるのではなく何個かおきに求めるので効率的です。1674年に出版された「発微算法」は生涯唯一の出版物です。筆算による代数の計算法などについて述べた本です。
 そのほかベルヌーイ数をヤコブ・ベルヌーイよりも早く求めたこと、不定方程式の研究、招差法の一般化、円錐曲線理論の端緒、方陣、円陣、魔方陣、継子立ての理論の研究、和算としてひろいもの、盗人隠し、裁ち合わせ、鼠算、旅人算、かくれんぼう、油分け算を広めました。(和算については2.を参照してください)
 しかしそんな彼の人生は決して幸福なものではありませんでした。40歳で結婚して2人の子供が生まれるがともに早死してしまったし、養子に取った甥は放蕩のため学問を続けられず、関孝和の死後関家は断絶してしまいました。また彼の業績が認められ「算聖」と言われたのは彼の死後になってからでした。1708年関孝和は家宣が将軍になるのを見ずに病死しました。
 明治維新後和算は政府に切り捨てられ衰退していきました。
 時は流れ1980年、オランダの数学者、ガロア理論の研究家ファン・デル・ヴェルディンが日本に来日しました。ヨーロッパよりも進んでいた、関孝和の研究を知り本当に彼らは西洋数学を知らなかったのかと絶句したそうです。




2.和算について(ancoの資料をもとに)


解答を載せない問題を和算では遺題と呼びます。遺題は塵劫記の作者、吉田光由が世界の数学者に挑戦した12問が始まりといわれています。その中から2問をあげてみたいと思います(下記参照)。和算の特徴として、遺題を解いて新たに遺題を提出する遺題継承の風習があります。遺題継承によって、数学に興味を持つ人たちの数学のレベルは着実に上がってきました。そろばんによる計算だけでなく、宋・元時代に中国で発達した方程式論、天元術を理解する数学者が出てきました。そして延宝2年(1674)に、沢口一之の「古今算法記」の遺題15問を解いた関孝和の「発微算法」が発表され、中国数学を越えた和算が誕生しました

遺題1:∡A=90°の直角三角形ABCがある。BC=a、CA=b、AB=cとするとき次の条件を満たすa,b,cを求めよ。
       a+b=81、b+c=72

遺題2:松、檜、杉、栗の各一本の代銀をそれぞれa,b,c,dとする。このとき、次の条件を満たすa,b,cを求めよ。
       80a+50b=2790、120a+40c=2322
           90c+150d=1932、120d+7b=419

現代の数学では簡単に解ける問題でも、昔は苦労して解いていたんだなとしみじみ思いました。

また、和算には4つの種類があります。
①非常に桁数の多い計算、繰り返しの多い計算を必要としているもの。(ancoのでいったら、鼠算、烏算など)
②一見遊戯性のみに見えるが数学的思考力を養う要素を持っているもの。(馬乗合など)
③クイズ的要素を主とするもの。(継子立など)
④占い遊びの類。(亀の占の事など)

和算の元になったのは中国の数学です。16世紀に中国から「天元術」とそろばんが日本に伝えられ、和算はここから発達しました。しかし、この遺題継承という数学の発展方法は日本独自のものです。なので、和算は日本の文化と言えるのではないでしょうか。

では、次に和算を紹介していきます。

鼠算
正月に,ねずみの父母が子どもを12匹生んで,親子とも14匹になるとします。この14匹のねずみが,2月には7組の父母として12匹づつ生むと,全部で98匹となります。このように月に一度づつ,親も子も孫もひ孫も12匹づつ生むとしたら,12月には何匹になるでしょうか?

A.27682574402(2×7の12乗)

百五減算

在る数から7を引けるだけ引いたあまりと5を引けるだけ引いたあまりと3を引けるだけ引いたあまりをいい、在る数を求めると言うものです。

裁ち合わせ

問1 正方形の折り紙を折って一回はさみを入れることで図1のようにしてください。

問2 図2のそれぞれの図をはさみで切って正方形に並び替えてください。

3.エイトケン加速について(yの資料をもとに)


関の円周率の求め方は直径1の円に内接する内接n角形の1辺の長さをs(n)、内接n角形の隣り合った2辺abとbcにおけるbからacにに下ろした垂線とacとが交わる点をdとしたとき、bd=w(n)、周の長さをl(n)とします。【図を参照】n=1のとき、s(n)=1/√2、w(n)=1/2です。
すると、w(2n)=(1-√1-w(n))÷2、s(2n)=√w(2n)、l(2n)=2ns(2n)となります。
関はこのように内接多角形の周の長さを求める計算の後、定周を求めようと65536角の周+(65536角の周-32768角の周)(131072角の周-60536角の周)/(65536角の周-32768角の周)-(131072角の周ー65536角の周)という加速計算をしました。
そして3.14159265359を定周としました。
これを言い換えると65536角の周+{131072角の周-65536角の周}/{1-(131072角の周-65536角の周)/(65536角の周-32768角の周)}となります。
l(n)のnを32768とすると、
l(2n)+{l(4n)-l(2n)9}/{1-(l(4n)-l(2n))/(l(2n)-l(n))}となります。
l(4n)-l(2n)/l(2n)-l(n)=rとすると、
l(2n)+{l(4n)-l(2n)}×1/1-r=l(2n)+{l(4n)-l(2n)}(1+r+r^2+・・・)
=l(2n)+{l(4n)-l(2n)}+{l(8n)-l(4n)}+・・・となります。
この和をrを公比とする無限等比級数の和として計算しようとしたものと考えられます。
関はn=32768の場合しか述べていませんが、もう少し小さいnの値も調べてみます。l(4n)-l(2n)/l(2n)-l(n)は0,25より少し大きいので、等比級数の和をr=0,25とr=0,251のときとで作ると、r=0,25のときは3,141592653589793・・・。r=0,251のときは3,141592653591394・・・となるので、関は加速計算の結果を3,14159265359としたと考えられます。
ちなみに、エイトケン加速の「エイトケン」とはロバート・グラント・エイトケン(Robert Grant Aitken、1864年12月31日 - 1951年10月29日)というアメリカ合衆国の天文学者のことで、彼は二重星の体系的調査を行い,多くの重星を発見し、重星の標準的星表を作成しました。関が円周率の計算に用いた加速法はヨーロッパでは1926年にエイトケンが再発見するまでは知られていませんでした。なぜなら、江戸時代は日本は鎖国中だったため、関の発見は残念ながら世界に広まらなかったのです。もし日本が鎖国をしていなかったら「関加速」という名前で世界中に知られていたかもしれません。)

4.参考文献


[1]『π ーπの計算 アルキメデスから現代までー』 竹之内 脩・伊藤 隆{著} 共立出版
[2]『再発見江戸の数学』 桐山光弘・歳森宏 著 B&Tブックス               (文責:t,F)

1.関孝和の生涯(4/18一部訂正,anco)


2008年は日本の和算家である関孝和の没後300周年です。彼は鎖国状態の日本で中国からの書物のみで独学で研究を進め和算から高度な数学理論を確立させた人物です。関孝和の弟子でもっとも有名な建部賢弘は八代将軍の徳川吉宗にこういいました。
「関孝和は吾が師たり。曾て立元の法に拠て真仮を設けて解伏題の法術を立為せり。是れ亦神なりと謂うべし」
 関孝和が生まれたのはちょうどヨーロッパでニュートンが生まれた頃です。彼の誕生年は1635年から1643年まで諸説あり、生まれた場所も群馬県藤岡と江戸小石川の二説あります。小さい頃に両親を失い関家の養子となりました。そして独学で吉田光由の「麈刧記」と言う数学所を研究し独自の和算の世界を創始します。幼少時の関孝和は「神童」の名を欲しいままにし大人の間違いも指摘したそうです。その後孝和は後に6代将軍となる徳川家宣に仕え入場も果たします。何故なら彼は数学者であるだけではなく藤岡藩士、幕府の勘定奉行、天文学者、暦法学者でもあったからです。しかし暦法学の研究においては新しい暦法を考案したにもかかわらず他人のものが採用されてしまい幕府に認められなかったこともありました。
 関孝和の数学の業績はとても多いです。まず中国の伝統数学である天元術を改善して点鼠術という算木を用いない代数方程式の筆算による解法を開発しました。点鼠術によって連立多元一次方程式の解を求める公式を生み出し行列式の考えに辿りついたのだがそれはヨーロッパで発明される200年前のことでした。
 またn次方程式の近似的な解を求める方法をイギリスのホーナーが発表する100年前に考案しています。さらに30代で円理を発明し、円に内接する131072角形を利用することで円周率を11桁計算しました。この計算には特殊な漸化式エイトケン加速が使われています。エイトケン加速とはひとつずつの解を求めるのではなく何個かおきに求めるので効率的です。1674年に出版された「発微算法」は生涯唯一の出版物です。筆算による代数の計算法などについて述べた本です。
 そのほかベルヌーイ数をヤコブ・ベルヌーイよりも早く求めたこと、不定方程式の研究、招差法の一般化、円錐曲線理論の端緒、方陣、円陣、魔方陣、継子立ての理論の研究、和算としてひろいもの、盗人隠し、裁ち合わせ、鼠算、旅人算、かくれんぼう、油分け算を研究しました。
 しかしそんな彼の人生は決して幸福なものではありませんでした。40歳で結婚して2人の子供が生まれるがともに早死してしまったし、養子に取った甥は放蕩のため学問を続けられず、関孝和の死後関家は断絶してしまいました。また彼の業績が認められ「算聖」と言われたのは彼の死後になってからでした。1708年関孝和は家宣が将軍になるのを見ずに病死しました。
 明治維新後和算は政府に切り捨てられ衰退していきました。
 時は流れ1980年、オランダの数学者、ガロア理論の研究家ファン・デル・ヴェルディンが日本に来日しました。ヨーロッパよりも進んでいた、関孝和の研究を知り本当に彼らは西洋数学を知らなかったのかと絶句したそうです。次に彼の研究した和算、円周率を計算するのに用いたエイトケン加速についてです。

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3.エイトケン加速について(4/18)


ancoより(4/14)
まず, 関孝和は内接正方形から内接正131072角形(131072 = 217) までの周
囲を計算したあと, 数列の収束加速の計算法で
3.14159 26535 89793 2386
を得ている. これは小数第18位まで正しいが, 関もまた自分の得た近似値が
何桁まで正しいか知ることができなかった. なお, このとき関がもちいた加速
法は, ヨーロッパでは1926年にエイトケン35が再発見するまで知られていな
かった。

一応、エイトケンという人の紹介(?)です。
ロバート・グラント・エイトケン(Robert Grant Aitken、1864年12月31日 - 1951年10月29日)は、アメリカ合衆国の天文学者で、二重星の体系的調査を行い,多くの重星を発見し、重星の標準的星表を作成しました。

エイトケン加速とは反復法の1種で、f(x)=0の形の非線形方程式を x=F(x) の形に変形して、F(x)の項差、項差の差を用いて、数列を作り、連続する2項の差が予定の微小値以下になったら、それを根とするものです。









yから、
エイトケン加速について
直径1の円に内接する内接n角形の1辺の長さをs(n)、内接n角形の隣り合った2辺abとbcにおけるbからacにに下ろした垂線とacとが交わる点をdとしたとき、bd=w(n)、周の長さをl(n)とする。n=1のとき、s(n)=1/√2、w(n)=1/2.
すると、w(2n)=(1-√1-w(n))÷2、s(2n)=√w(2n)、l(2n)=2ns(2n)となる。
関は前項の計算の後、65536角の周+(65536角の周-32768角の周)(131072角の周-60536角の周)/(65536角の周-32768角の周)-(131072角の周ー65536角の周)を計算した。
そして3.14159265359を定周とした。
これを言い換えると65536角の周+{131072角の周-65536角の周}/{1-(131072角の周-65536角の周)/(65536角の周-32768角の周)}。
l(n)のnを32768とすると、
l(2n)+{l(4n)-l(2n)9}/{1-(l(4n)-l(2n))/(l(2n)-l(n))}
l(4n)-l(2n)/l(2n)-l(n)=rとすると、
l(2n)+{l(4n)-l(2n)}×1/1-r=l(2n)+{l(4n)-l(2n)}(1+r+r^2+・・・)
=l(2n)+{l(4n)-l(2n)}+{l(8n)-l(4n)}+・・・となる。                        




0より(4/7)

関さんが実際に計算したエイトケン加速法は、

pi=65536角形の周長+{(131092角形の周長-65536角形の周長)(65536角形の周長-32768角形の周長)}/{(131092角形の周長-65536角形の周長)-(65536角形の周長-32768角形の周長)}


補足

単に131092角形を計算するとpi=3.1415926532889...
上の加速法だとpi=3.14159265359...
少しだけだが精度が上がっている。

いろいろと詳しいことがかいてある本が見つかったのでもってきます。
数式は絶対入れたほうがいいです。
グレゴリー級数と撃て検索すれば何かしら出て来るでしょう。
関・Bernoulliの公式も入れたほうがいいかもしれません。今年の自分の論文には詳しく書いていないから。
それから部誌に別枠として和算の問題を反転で解くものを入れようと思うので力を貸してくれる人がいたらやりましょう。

あと、そもそもエイトケンって何なのでしょうか。あえて自分では調べていません。皆さんにお任せ。





(t)
  • 生年は1635~1643年の間で、はっきりしない。
  • 吉田光由の「塵劫記」を独学で学び、のちに、算盤や算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。
  • 中国の伝統数学、特に金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。
  • 1674年、「発微算法」を著し、筆算による代数の計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎をつくった。この「発微算法」は関孝和の最初の刊行物であるとともに、生存中の出版物はこれだけである。天元術では一次の多元連立方程式が高次の一変数の方程式しか扱うことができない。これに対して関は未知数に文字を用いることで、多変数の方程式に相当するものを扱うことを可能にした。また、行列式に相当する概念を開発した。
  • 関は131072(2の17乗)角形を使い、円周率を小数第11位まで算出した。本計算ではエイトケン加速を用いており、世界的にみても数値的加速法のもっとも早い適用例の一つである。
  • 1708年12月5日、病に倒れて死去。
  • 幼少のころに養子になり、父母と別れ、さずかった2人の子供はすぐ亡くなり、養子にとった甥は不肖で学業を続けることができず、関孝和の死後に、博打のかどで、家禄を没収されて、関家は断絶してしまった。
  • 1827年、学制発布によって、和算は切り捨てられた。
  • ヤコブ、ベルヌーイよりも早くベルヌーイ数を発見した。
  • 関孝和は楕円の面積の求め方を発見した。
  • 和算としてひろいもの、盗人隠し、裁ち合わせ、ねずみ算、旅人算、円陣、かくれんぼう、油分け算などが有名である。


(anco)
誕生は1637年と1642年の説がある。後者はニュートンの誕生した年と同じであり、西洋人に紹介するのに訴求力があるとして作られた?生誕の地は上州の藤岡と東京の小石川の説がある。
徳川家宣の親綱重、家宣に仕えた。家宣とともに江戸に入るが二年後に引退。家宣が将軍になる前年に死亡。
 若い頃、磯村吉徳の先生だった高原吉種に入門。その後二十代では数々の難題をと基本にまとめた。発微算法は唯一出版された本である。ほかの本は教材として使われた。
中国から伝わった天元術に取り組む。そしてそれを改善して点鼠術を開発。
点鼠術は孝和の最大の功績といわれている。多元連立方程式を紙だけで解くという革命的なもの。そろばんも必要なく、2乗や3乗、平方根、立方根も表すことができる。
三十代の頃に「円理」を発明し円周率を11桁計算。円に内接する多角形の数を増やしていくという方法で131072角形を利用。其の計算のために用いた行列式はヨーロッパで発明されるよりも10年以上前だった。また 魔方陣の研究なども行った。またベルヌーイよりも早くベルヌーイ数を発見した。
関の弟子でもっとも有名なのは建部賢弘である。兄と協力して当時の数学最先端をまとめた算法大成全12巻を編集した。

参考文献 再発見江戸の数学

ちょうどヨーロッパでニュートン(1642~1727)、ライプニッツ(1646~1716)が微積分の理論を構築しようとしていた頃、鎖国の江戸時代の日本にあって一部伝わってきた中国の数学書を元にほとんど独学で研究を進め、「算聖」と賞するまでの高度な数学理論を確立するに至った偉人がいました。彼はまず連立二元一次方程式の解を求める公式を生みだし、これを多元に広げて行く過程で今日の行列式の考えにたどり着きましたが、これはヨーロッパに先立つこと200年前のことでした。さらに今ではホーナー法と呼ばれるn次方程式の近似的な解を求める方法を、イギリスのホーナーが発表する100年前に考案したり、円に内接する正217角形の辺の長さを求めることから円周率の近似値を11桁まで正しく計算し、ベルヌーイ数をその名を冠したベルヌーイ自身より先に発見したことを含め、当時の世界の最先端のものが少なくありませんでした。その偉人の名を関孝和といいます。
「関孝和は吾が師たり。・・・神なりと謂うべし」(関孝和の弟子建部賢弘の言葉、建部が徳川吉宗に捧げた書『綴術算経』より)

●生没年
1640年頃~1708年10月24日
●出身地
群馬県藤岡または江戸小石川で江戸幕府御天守番内山永明(藤岡藩芦田家家臣)の第2子として生まれ、後に流行り病による両親との死別に伴い芦田家家臣関五郎左衛門の養子となる。
●職業
藤岡藩士、幕府勘定方吟味役、数学者、天文学者、暦法学者
●業績
代数式の表し方の工夫、数字係数方程式のホーナーの方法による解法、方程式の判別式、正負の根の存在条件、根の変換問題、ニュートンの近似解法、ニュートンの補間法、極大・極小条件、行列式、円周率等の近似分数、不定方程式の解法、招差法の一般化、級数の和、ベルヌイ数、正多角形に関する計算、円に関する計算(円理)、パップス・ギュルダンの方法、円錐曲線理論の端緒、方陣・円陣・継子立ての理論、目付字の理論、天文・暦の研究、ほか多数
●名言集
「算学とは何のためぞや。難題易題ことごとく明らめずということなきの術を学ぶなり。理を説くこと高尚なりといえども、術を解くこと迂闊なるものはすなわち算学の異端なり」
●エピソード
(1)孝和は幼少の頃から神童の名をほしいままにし、大人の計算の間違いも指摘したそうです。また孝和の生まれた頃は遺題本(未解決問題や難問を載せたいわば数学パズル本)として名高い『堅亥録』や『塵劫記』が出版されて間もない頃で、孝和が数学を目指した背景にはその影響が多分にあったと言われています。
(2)江戸初期の豪商角倉了以の孫でもある『塵劫記』の著者吉田光由(1598~1672)や旧豊臣家家臣で和算の先駆けとなった毛利重能(生没年不詳)は、イエズス会宣教師スピノラから京都のアカデミアで数学を学んだと言われ、その関係からこの二人やさらにその影響を受けた孝和も切支丹または隠れ切支丹であったという説があります。スピノラが本国に書き送った手紙には「数学は親しい雰囲気の中で大名たちと打ちとけるのに役立ちます。彼らはその種の科学を大変喜びます。」と書いていましたが、後の鎖国政策による弾圧のため長崎で火刑にて殉教しています。そのスピノラ自身は「16世紀のユークリッド」と言われたクラウディウス神父(1537~1612)から数学、天文学の手ほどきを受けたと言われています。
(3)青年期には、奈良にいつのものか誰のものかも分からない中国の書物(後に『楊輝算法』と判明)が仏書に混じってあったと聞き「そんな本なら大方算書だろう」と休暇をとって奈良に赴いたので、この頃すでに数学研究に対する情熱が芽生えていたことがわかります。孝和は一語もわからないその書物を日夜書き写し、江戸へ戻ってから三年かかって解読し、その奥義を極めたと言われています。また、時計師が直せなかった唐から渡来した人形時計を見事に直したというエピソードも残っています。
(4)『楊輝算法』の読破で漢文読解力を身につけた孝和は元書『授時暦(じゅじれき)』、清書『天文大成官窺輯要(てんもんたいせいかんきしゅうよう)』80巻にも挑み、ついに算木を用いない代数計算の方法「天元術」を発明します。その後孝二十代後半には和の評判を伝え聞いた甲府侯徳川綱重(後の第六代将軍)に召し抱えられ勘定奉行にも抜擢されますが、そこで最も力を入れたのは新しい暦法の研究開発でした。しかし、彼の考案した暦法の方が優れているにも関わらず政治的な人脈を持つ渋川春海(1639~1715)の案が採用され、以後孝和は主君の期待に応えられなかったという失意の元に不遇の日々を送りました。しかし、その不遇こそが彼に数学の研究に没頭する時間を与えてくれたと言われています。孝和は生前『発微算法』ただ1冊しか出さず、後に彼の名を世に高めてくれる建部3兄弟等の弟子に囲まれ、静かにその生涯を終えました。「算聖」と言われ、業績が認められるようになったのは死後のことだったのです。
(5)関孝和は、40歳の時に鈴木半左衛門の娘幸恵と結婚していますが、なぜそれほど婚期が遅れたかはよくわかっていません。鳴海風作の『算聖伝』(新人物往来社発行)では、関孝和はアプリルというオランダ生まれの女性を愛したことになっていますが、真偽のほどは定かではありません。結婚後、関孝和は2女に恵まれましたが、2人とも病で早世してしまいます。このため後年、家督相続のために養子新九郎を迎えましたが、放蕩な人物であったため関孝和の死後家禄を召し上げられ、関家は断絶しました。しかし、その研究は「関流」として後世に伝えられていったのです。
(6)時は流れて1980年、オランダの数学者、数学史家でガロア理論の研究家ファン・デル・ヴェルデン(Van der Waerden,1903~1996)が日本に来たとき、ヨーロッパよりも進んでいた関孝和とその弟子建部賢弘の研究のことを知り、「本当に彼らは西洋数学を知らなかったのか」と言って絶句したそうです。継承発展性の高い数学において、他の文化と遮断された場所で独立して、これほど高度な概念や発見が生まれたことは常識的にはありえないことだったからです。

IMA数学人物ファイルより



(y)
  • 生まれた年は1635年から1643年の間で諸説ありはっきりしない。
  • 上野国藤岡で生まれたとの説と、江戸で生まれたとの説がある。
  • 若くして関家の養子となる。
  • 幼少時から、吉田光由の「塵劫記」を独学で学ぶ。
  • その後そろばんや算木から抜け出した独自の和算の世界を創設する。
  • 中国の伝統数学とくに金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。
  • 特に1674年、「発微算法」を著し、筆算による代数の計算法を発明して、和算が高等数学に発展するための基礎を作った。
  • 天元術では一次の多元連立方程式か、高次の一変数の方程式しか扱えなかったが、これに対して関は、未知数に文字を用いることによって、多変数の文字に相当するものを扱うことを可能にした。
  • 関はせい131072角形を使い、円周率を小数第11位まで算出した。本計算では、エイトケン加速を用いており、世界的にみても数値的加速法の最も早い適用例のひとつである。
  • ヤコブ・ベルヌーイに先駆けてベルヌーイ数を発見していたことも知られている。



(F)
  • 西洋の数学とは異なる日本伝統の和算を確立したことで知られる。
  • 生年は1635~1642までの諸説ある。没年1708年。
  • 上野国で生まれたという説と江戸で生まれたという説の2説ある。
  • 若くして関家に養子に入る。
  • その後独学で吉田光由の「塵劫記」を学ぶ。
  • 中国の伝統数学で、特に金元時代に最も発展した天元術を根本的に改訂し、高次 連立方程式の解を求める一般的な方法を発見した。
  • 円と円に内接する正131072角形を用いて円周率を11桁(3.14159265357) まで 求めた。
  • これは特殊な漸化式エイトケン加速を用いて求めた。
  • エイトケン加速は1つずつの項を求めるのではなく何個かおきの周期毎に値を求 めるため、効率的に、求めたい値がその式によって簡単に求められるのである。
  • 又、ベルヌーイ数をベルヌーイに先駆けて発見したことでも知られる。
  • 和算は自然科学とは独立して発展していったために時代と共に滅びていった。


(全員のまとめ)(文責:anco)

関孝和は西洋の数学とは異なる、日本伝統の和算を確立したことで知られている。生年は1635~1643年の諸説があるがこのうち、1642年の説は、生年がニュートンと同じであり、西洋人に紹介するのに訴求力があるとして偽装された、といわれている。また生まれた場所は上野国の藤岡と江戸の小石川の2説ある。若くして関家の養子となり、独学で吉田光由の「塵劫記」を学ぶ。そして、算盤や、算木から抜け出し、独自の和算の世界を創始する。

中国の伝統数学である天元術を研究して、それを改善して点鼠術を開発した。点鼠術は未知数に文字を用いることによって高次の連立方程式の解を求める一般的方法を発見した。また2乗・3乗、平方根、立方根も表すことの出来る画期的な発明である。

1674年、「発微算法」を著し、筆算による代数の計算法を発明した。この本は関のほんで唯一出版されたものである。

30代で、円理を開発し、円周率を11桁計算した。円に内接する多角形を利用する方法で正131072角形を使った。本計算では特殊な漸化式、エイトケン加速を用いている。エイトケン加速は1つづつの項を求めるのではなく何個かおきの周期ごとに値を求めるので効率的に求められるのである。

その他にも、ヤコブ・ベルヌーイよりも早くベルヌーイ数(B_n)を求めたり、魔法陣の研究や様々な和算の問題(ひろいもの、盗人隠し、裁ちあわせ、ねずみ算、旅人算、円陣、かくれんぼう、油分け算)を研究した。また楕円の求め方(何の?)を発見した。

6代将軍の徳川家宣に仕えた。共に江戸に入るが、2年後に引退してしまった。また家宣が将軍になるのに先駆けて1708年12月5日、病死する。授かった2人の子供はすぐ亡くなり、養子に取った甥は不肖で学業を続ける事が出来ず、関孝和の死後に博打のかどで、家禄を没収され、関家は断絶した。関の弟子である建部賢弘は兄と共に、当時の数学最先端をまとめた算法大全全12巻を編集した。

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まだまだ加筆修正の余地があります。僕もエイトケン加速については良く知りませんが、数式1本ぐらいは書いてもいいのではないかと思います。円周率を表す級数や公式はいくつもあります。例:ゼータ関数偶数値、グレゴリー級数、マチンの公式 とりあえず去年stが書いたオイラーの記事を載せておきます。


去年のEulerの生涯について(文責:st)

今年、2007年はレオンハルト・オイラー生誕300周年である。彼は18世紀最大の天才数学者である。彼は師匠、ヨハン・ベルヌーイから、
1728年 「高度の学識と才能を備えた若者」
1729年 「高名で学識のある人」
1737年 「高名で格別明敏な数学者」
1745年 「並ぶ者なきレオンハルト・オイラー。数学者の王者」
と称された。ちなみに、上の1737年の言葉のきっかけは、ベルヌーイが全力で挑戦したにも関わらず解けなかった問題をオイラーが解いたことにあった。


しかし彼の業績は数学に限らず、物理学や天文学はもちろんのこと、音楽理論や哲学までも業績を残した。だから彼は18世紀でもっとも多産な数学者であったといえる。このようなすばらしさから、スイスの最小額紙幣には彼が用いられている。

彼は占星術師によると太陽の子であり、それゆえに快活であり、素朴でユーモアに富んだ社交的な人だったらしい。また、寛容で、新しい発見や知識をただで他人に進呈した。しかし、キリスト教信仰は真剣で、神学論文の中で他の神学者に対する激しい対撃を行うこともあった。

だがなぜ彼はあのような天才になったのであろうか。理由は主に3つある。
1つ目は抜群な記憶力である。アカデミーの講義録を何十年か後にも覚えていたらしい。
2つ目は集中力である。考えているときは周囲の騒音や雑踏を気にしなかったらしい。
3つ目はたゆみない、心静かな研究である。

また彼は計算力がずば抜けて秀でていた。1735年、アカデミーで急を要する計算が提示されたとき、そこの会員は何ヶ月もかかったのに、オイラーは3日で成し遂げたという。しかしその代償は高く、それにより重い病気にかかり、左眼を失明してしまったともいわれている。そう、彼は盲目だったのだ。(1771年に同じようにして右眼を失明している。)全盲だったのは12年間である。なぜそんなに耐えられたのであろうか。それは、彼の研究意欲の強さである。全盲になっても意欲はまったく衰えを見せず、彼が全盲になった後の論文の数が一番多い。

しかし、たとえそのオイラーであっても完璧と言う訳ではなかったのだ。形而上学においては学童にも劣っていたらしい。

かといってそれがオイラーの業績に傷つけるようなことは何もない。彼が18世紀でもっとも多産な数学者であることに変わりはない。


最後に年表で彼の生涯を追っていくことにしよう。
年代 出来事
1707 スイスのバーゼルに生まれる。彼の父は自分の後を継がせて牧師にさせたかった。
1721 大学で、有名な教授ヨハン・ベルヌーイの講義に魅せられ、数学に専念しようと思った。
1724 ベルヌーイ家のオイラーの父への説得により、数学者になる道を選んだ。
1725 18歳という若さで記念すべき最初の論文を書く。この論文は、ベルヌーイと他の数学者との論争について、ベルヌーイへの価値ある援護となった。
1726 パリ科学アカデミーのアカデミー賞を受賞した。
1727 物理学の教授に任命された。
1733 数学の教授に就任した。
1738 右眼を失明した。
1744 ベルリン科学アカデミーの数学部長に就任した。
1748 「無限小解析入門」と言う数学の教科書を出版した。この本は何世代にもわたり、数学教科書の基礎・模範となっている。
1755 「微分学教程」という数学書を出版した。
1771 左眼も失明し、全盲となったが、研究意欲もまったく衰えず、「積分論概要」などと言う書物を書いた。
1783 孫に関数を教えた後、椅子に座り、大量出血のため倒れ、そのまま亡くなる。

■参考文献・出展
[1]オイラー E.A.フェルマン著
[2]フリー百科辞典「Wikipedia」
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