題目:トイレ 製作時間:構想より五時間 容量:10kb程度 by 松本さん◆3GguJeKwzU 我が高校のトイレ、特に男子トイレの設備は尋常じゃないくらい古い。 特に男子、と言ったものの女子トイレの設備がどんな物かは知らない。 だが男子トイレだけを見ればとても建立後10年とは思えないくらい古びた印象を受ける。 五年前の震災でひび割れた壁は修復の手が入らず放置されていおり、 滅多に使うことのない三階のトイレに至っては埃が溜まり倉庫のようになっている。 教師陣もその事実を知りながら手を加えようとはしない。 放置を決め込んでいるのだ。 そもそも男子トイレという所は体育館裏の次に放課後の集合場所となる絶好の場所だ。 それに輪を掛ける様に隔離された土地となってしまえばそこはもう無法地帯と化す。 校内の不良たちは事有るごとにそこを利用して、カツアゲやいじめを繰り返していた。 被害にあった生徒の血で壁は黒ずみ、所々にある意味不明な落書きは被害者の悲痛の叫びを印象付けているようにも思われる。 三階のトイレと言えば最早誰からも忌避される心霊スポットのトンネルのようになっていた。 不良たちだけがそれみよがしにそこへ立ち寄りタバコを吸い、喧嘩を繰り返した。 しかし今年の八月からというものそこに行く人はひたと無くなってしまった。 三階の一番端にあるそのトイレは、まるで校舎から隔離されたかのように空間を異とし、 三階のトイレは益々過疎してしまい、そろそろ存在を忘れてしまうか・・・・・・といったような状況だった。 秋の終わりから冬に掛けて位の頃、妙な噂が立ち始めた。 「三階の男子トイレの壁は血だらけでその中に入った奴は死ぬ」 あまりにもベタな噂で誰が聞いても作り話だとわかるので、当初その噂はすぐに消滅した。 だが冬も中頃になった時、また噂が立ち始めたのだ。 今度の噂も以前と同じもの、今回違う点は実際に死人が出たと言う事。 これは尋常じゃない事態で、即座に教師に対応が求められた。 しかし教師たちの返答は意外なものだった。 「三階にトイレは無い」 学校側はあくまで黙認という立場を貫こうという魂胆らしい。 しかしそもそもあの場所は教師が放置していた場所で、今更対応を取れと言われても仕方がない場所ではあった。 ここから奇妙は加速していった。 まず奇妙に思ったのは、今回の事件では死人が出ているのに警察の介入が一切無かったと言う事。 事故であれ警察は何らかの処置をするのが自然だろう。しかし今回はそれが無かった。 第二の点は、他の生徒たちがこの事件について語ろうとしないこと。それどころか 生徒たちはこの事件を認知していないのだ。 誰も人が死んだ事を知らない。 それどころか 三階のトイレの 存在を 忘れている。 誰もが三階にトイレは無いと認識しているのだ。 ならば教師陣もトイレの存在を忘れているという事かもしれない。 この事態は、何も無いようで実に恐ろしい。 皆が忘れるなんて事はあり得ない。 というか自分たちはその存在を覚えている。 その三人組は何故かトイレを覚えている。それがこの状況下において 一番奇妙だった。 三人はならばトイレを見に行こうと決めた。死ぬリスクがあるといって逃げ出す奴はその中にはいなかった。 その三人が俺とA、Mの三人である。 そしてトイレの有る三階に到着した。何故か行動時間を夜にしたので、明かりをつけないと1メートル先も見えない。 「本当にトイレがあったとして、中に入ったら死ぬなんてことがあるのか?」 再三繰り返した科白を、Mが再び口にする。それを確かめるために今回来たのに、それを言われてしまえば元も子もない。 しかし自分たちは確実に三階にトイレがあるということを知っている。歩みに迷いは無く、一直線にトイレのある校舎西端に向かう。 冬の中頃の寒さは、準備できていても寒い。 俺達の吐く息は白く、次第に口数は減り、衣擦れの音と足音だけが冷たい空気を伝播して広がっていった。 やはりトイレはそこにあった。 何も変わらず、そこにあるべくしてあった存在感。 半分予想通りだが、予想通りだからこそ威圧され僅かばかり発汗する。 「中に入ってみないと分からない」 Aがそう言うと、俺もMも異論は無く三人でそのトイレを覗き込んだ。 明かりがあっても先の見えない薄暗さ。思わずたじろいだのは俺だけで、他の二人は一歩踏み出し中に入っていく。 こういう時にAの度胸はすごいなと感心させられる。 やがて、Aが蛍光灯のスイッチを見つけ入れる。 黒色の世界に一気に色が戻ってきて、世界が明滅する。 「うわ――」 瞳孔が光に慣れた時、俺たちが見たのは壁一面の赤だった。 「まさか本当に壁中が赤いとは――」 Mが三人の気持ちを代弁する。 よく見ると血ではなく塗料なのだが、それにしても誰がいつ壁を塗ったのか。 トイレの一番奥には洋式のトイレが一つだけある。 ドアにある鍵は壊されて外されており、不安定なドアが風も無いのにブラブラと開閉している。 この一角が、一番いじめに使われていた場所だ。 ドアには鍵が付いていないが――尤も当時は付いていたのかも知れないが、 ここに被害者を閉じ込めて出られないようにすることからいじめは始まった。 加害者の不良たちここに被害者を閉じ込め、何らかの方法でドアの開閉を不可能としたのだ。 そしてその後、ドアの上に開いた隙間から様々な物を中に放り込む。これが我が高校のいじめだったのだ。 ドアに近寄ってみる。強烈な腐臭が鼻をつくが、事前に用意しておいたハンカチで鼻を覆うと幾分マシになった。 トイレの中を覗き込むが、特に変わった様子は無い。 だが、壁の色は最早赤から黒といったような色へ変化している。 糞便と落書きと血に塗れた便器は、清潔感漂わす白を失っており、中に奈落があるかのような漆黒に染まっている。 「うへぇ、汚ねぇ」 Aがその科白を言ったと同時にMが吐き気を催して飛び出していった。 水道のある場所からMの嗚咽が聞こえてくる。俺は何とか平静を保って、その異質な空間を見渡した。 やはり便器の色以外変わったところは無い。俺たち三人は霊感が無いので霊がいたとしても感知できない。 Mが青白い顔で戻ってくる。 「今日はこのくらいで終わるしかないか・・・・・・」 俺のその一言でこの日は解散となった。 後日、また集合する事を約束して。 その日から俺たちは、しばしばそこを調査し始めた。 調査といってもそんな大それた事はやっておらず、ただ噂が発生するようになった原因になるものを探していただけだ。 それでも色々と発見はあった。 ここには確実に血が付いているという事。血糊などではなく本物の血液。 それは過去にいじめがあったことの証拠であった。 それを見つけたのが最後だった。それ以来全く発見らしい発見は無く、目的も次第に自然消滅し始めていた。 だが俺たちは、そこへ行く事を止めようとはしなかった。 正に不思議な魔力といったものに引き寄せられるように、気がつけばそこに歩を向けていた。 「何だか居心地が良いんだ――」 ある日Mがそう呟いた。最初来た時は吐いたくせになんて都合の良い奴だ、と内心思ったがMの言う事には同意できた。 何だかここにいるとほっとするのだ。 勿論内装は相変わらず赤基調の壁だが、温度や湿度、蛍光灯による部屋の明るさなどが自分達にぴったりと合っており まるで自分達の部屋のように好き勝手やるようになった。 さすがに夜忍び込んだときは騒ぐ事は出来ないが、誰もここの存在を忘れてしまっているので、咎めに来るものはいなかった。 そうやってそこを屯の場としてから数週間経った時、俺たちはすでにその場所を熟知しており、 集合時間などを示し合わせることなく皆一様な時間に集まるようになった。 Mは今では「ここが俺の居場所だ」なんて言っている。Aも「ここは落ち着かない」などと言いながらも満更でもないようだ。 俺自身もここは最高の空間だと思うようになってきた。噂なんかただの噂だったし、現に俺たちは死なずにここにこうして存在している。 もちろん内部調査は稀にだがしっかりと続けている。こんな狭い空間でありながら未だに発見はある。 それを探すのが一種の趣味のようになっており、それ故にこうして毎日足繁く通っているのでもあった。 しかし、現実問題として発見の量は反比例のグラフのように減少している。 以前は大きな発見をするのが目的だったのも、現在では発見であればなんでもいいという時点まで来ていた。 ここでもし大きな発見をすれば、事態は急速な展開を見せるだろう。 そしてその発見がされたのは翌年の二月だった。 「見てくれ、ここに文字が見える」 Mが指差す先には、トイレの一番奥の便器――その内部にある拳大ほどの汚れだった。 よく見れば汚れ――ではなく薄っすらと文字のようなものが見て取れる。 一度は掃除したので大概の汚れは落ちていたので、これほどまでの汚れは無いはずだ。 「こんなん前まであったか?」 Aが言った言葉を丁度俺も吐こうとしていた時だった。Mは軽く笑ってみせると説明した。 「水を流したんだ。そしたら軽く汚れが取れて文字が現れたんだ。そりゃびっくりしたさ」 そもそもAが蛍光灯をつけた時からの疑問だったが――いや、その時はごく自然だと思っていたかも知れないが 電気が来ていたりしっかりと水が流れるのは、実は不思議な事だ。 誰もが存在を忘れているなら、ここに通じる配線や、下水道があるはずが無い。 それらがあったとしたら立ち所にこの場所が割れてしまう。 そんな疑問もしかしこの発見の前では些事であった。 Mはその文字が見えるようにと水を立て続けに流した。 配管を通る水がごぼごぼと音を立てて流れ去っていく。 しかし一向に文字は明らかにならない。 Mはだんだんムキになってきて、強引に水を流す。 すると――突然――ドアが音を立てて 閉じた。 俺とAは閉じるドアに半ば押し出されるような形で、その区画から出た。 Mは中に閉じ込められた。 「ちょ・・・・・・何だよ、これ。くっ、開かねぇ! ドアが開かねぇぞ!」 Mを閉じ込めたドアは若干立て付けが悪かったものの、鍵は相変わらず壊れたままで開かない事はあり得ない。 「外からなら開くんじゃねぇか?」 Aがそういってドアを開けようとする。しかし相変わらずドアは開かずMは半狂乱になって叫び続けている。 「どうするA?」 俺は提案してみたものの解決策はあるように無かった。 呼んで来る人もいなければ、二人で協力してドアを打ち破るスペースも無い。 「出してくれ! やばい、中は真っ暗だ。水が――水が止まらない!」 真っ暗? 俺はその一言に反応した。 その区画、およそ電話ボックス一個分の大きさくらいの空間には、しっかりと光が入っているはずだ。 そしてぷつりとMの声は消えた。 ドアは自然と開く。中からは湿気た空気が溢れ出てきた。 そこには、Mの存在は無かった。 「いない!」 人体消失のマジックはテレビなどで散々見てきたが、実際にいなくなると血が凍るくらい恐ろしい。 Aはここでも自慢の豪胆を見せつけ、現場を検証している。 「これを見てくれ」 Aはトイレの金属部を指差した。そこには血で書かれた掌紋、大きさはMの手と同じくらい。 「どこに――消えた?」 俺は血の気が引くということを始めて体験した。 「さぁな。分からない事を考えるより、分かりそうな事を考えた方がいいぜ」 Aはそういうと立ち上がり、俺を見据えて言った。 「大事なのは俺たちがこれから何をするかだ。Mはどうなったのか? それを考えるよりもまずそれを確かめるために何をするかを考えるべきだ」 俺はAの鬼気迫る態度に押され、人形のように首肯した。 「俺はこのトイレの水を――流す!」 そういってAはトイレの水を流した。 俺は何をする間も無く、ドアに押し出された。 「あ――――」 閉じたドアの下の隙間から水が流れてきた。トイレが詰まったのか、そんなことを考える余裕があった。 その水はやがて赤く染まった。 全部 思い出した。 俺は――三人は、ここでいじめられていた。 いじめ集団のボスみたいな奴、名前がKとか言った気がするがとにかくそいつがウザかった。 だから俺たちはいつも苛められているここに奴を呼び出して 殺した。 ただ殺すのは楽しくないから、薬を打って毎日身体のパーツを一つずつ外して、トイレに流した。 最後は顔だけになったKを無理矢理トイレに詰め込んで流したんだ。 皆がここの存在を忘れていたのは何故か判らないが、俺たちが忘れていたのはそれ以前だったって事だ。 もうここには誰もいない。 きっとどこにもMもAもいないだろう。 急に寂しさが訪れた。水を流さなければここに恐怖するものはない。 俺はそっと便器に近寄り、書いてあった文字を見ようとした。 だが、どこからかやってきた安心感が膝を折る。もう少し力を入れれば文字が見える。 だが結局俺はそこに座り込み独り、泣いた。 ひたすら泣いた。 やがて扉が閉じて、俺はどこにもいなくなった。 便器には「全て水に流そう」と書いてあった。 それは俺たちが、最初に言った言葉だった――――