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岡田彰布入団騒動」(2011/06/10 (金) 18:08:34) の最新版変更点

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208 : 代打名無し@実況は野球ch板で : 2010/11/09(火) 16:48:47 ID:0KeMvOVb0 デイリーちゃんに(どん様の入団の経緯が)コラムであるんや 書き起こし?俺はしない、しんどいもん 215 : 岡田彰布入団騒動(上) : 2010/11/09(火) 18:20:03 ID:0KeMvOVb0 朝一番に球団社長の小津正次郎と打ち合わせをし、その足で小林治彦は大阪・玉造の岡田勇郎宅へ向かった。小林治彦は編成部のトップである。 阪神はその前夜のドラフト会議で早大の三塁手の岡田彰布の1位指名クジを引いた。勇郎宅は岡田彰布の実家で勇郎は実父である。 小林は小津と打ち合わせた内容を伝え間違えないようにと、細心を払ってインターホンを押した。 あれは1979(昭和54)年晩秋のことである。 東京6大学のスター選手だった岡田は6球団が競合し、阪神が勝った。小柄な役員が左手を箱に突っ込み、引いた。 さて、そんな選手の指名権を得た。小津以下が小躍りしたのは、今でも目に浮かぶ。 「逃すなよ」。小津は小林にそう言い、小林も驚く密約を小津から知らされる。小津が腹の底に持っていた岡田獲得作戦は・・・。 岡田勇郎は訪ねてきた小林を応接間で熱く迎え、小林の話を聞いた 勿論、最初は指名した挨拶、さらに少しは世間話をした後、小林は小津から聞いた密約を姿勢を正して口にする。 「掛布雅之をファーストへ転向させます。息子さんはサードで起用させていただきます。はい、勿論、開幕から・・・」。 216 : 岡田彰布入団騒動(上) : 2010/11/09(火) 18:20:47 ID:0KeMvOVb0 勇郎の顔は緩んだ。あの掛布をコンバートしてまで7、そこまでうちの息子を買うてくれてまんのか・・・。 そんな反応はしたが、実は勇郎はポジションは慣れた三塁に越したことはないが、どこを守らせるにせよ、阪神入団を決め、 家族(と言っても岡田は一人息子。あとは母親だけであるが)の意見も勇郎の右へ倣えではあった。 勇郎は・・・なんせかつて阪神の4番の看板を背負った藤本勝巳(1960年、本塁打王と打点で2冠王) と売れっ子の歌手島倉千代子の仲を取り、夫婦にさせたほど阪神の選手に通じていたタニマチである。 「こっちから頭を下げてでも阪神に行かせてもらう」と決めていたところへ掛布を転向させてまで、うちの息子を・・・である。 勇郎は、しかし、そんな興奮はかくして、その日は挨拶を受けるだけにし、小林を見送った。 「御苦労さんでしたな。ご返事はまたお伝え申しあげます」。そのあたりは大阪の商売人である。いや、当然の交渉の手法である。 さて、掛布雅之だが、前年にはホームラン王のタイトルを獲っている。 その俺をファーストへコンバート・・・などとは夢にも想っていなかっただろう。 勿論、小林が岡田勇郎に転向の話を持って行っていることを知る由もなかったが、年が明けて、勇郎と息子が絶句する事態を迎える。 コトが暗転するのである。 222 : 岡田彰布入団騒動(下) : 2010/11/09(火) 18:59:19 ID:0KeMvOVb0 岡田彰布が新人だった1980(昭和55)年の阪神監督は外国人のドン・ブレイザーだった。彼が球団社長の小津正次郎と岡田にはやっかいな存在になる。 米大リーグ卒の肩書と、南海ホークスの内野手として鳴らした実績を背負い阪神の監督に招かれた彼は小津の、 岡田の父親との密約など知らされておらず、自身のチーム構成案を進めた。 三塁は掛布であり、手薄と見ていた二塁にはデイブ・ヒルトンを就かせようとしている。 ヒルトンは2年前にヤクルトを日本一に導いた原動力の内野手。ブレイザーのメガネにかない、金銭で阪神が獲った男である。 阪神は岡田入団1年目となるその年の春、阪神は米アリゾナ州テンピという田舎町をキャンプ地に選んだ。 さあ、掛布に代わって、岡田をサードへ、と決めてた小津と岡田の密約は・・・岡田サイドにとんでもない結果を招く。 「君は外野手として練習したまえ」。ブレイザーはこれだけ言い、岡田から目を外すのである。 異国の地・アリゾナでルーキー岡田は天を仰いだ。どないなっているんや、これは。 父親から「お前はサードや。阪神の人からそういう話を聞いている」という情報は当然、息子に耳にも届いてる。 それが外野手・・・てか、である。岡田はむくれた。 早稲田でサードを守り、実力と人気を得て、そしてドラフト1位に選ばれた、それがあてもない外野手かいな。岡田は砂漠の町で毎晩ため息をついた。 小津とブレイザーは密かに会い、社長案を強いたが、なら、俺の首を切れとまでブレイザーは言い切った。 「(岡田が)優れたルーキーということは聞いている。勿論、将来性のある選手だな、とは見れば分かった。 でも今シーズンいきなりレギュラーで使えとは。サードは掛布です。セカンドはプロであれほどの実績があるデイブでないと勝てる野球はできない」。 小津が押し切られる。岡田勇朗に掛布天候説を喋った小林治彦は(岡田の父親に)「会わす顔がない」と以来、酒に頼る夜を過ごした。 223 : 岡田彰布入団騒動(下) : 2010/11/09(火) 19:00:00 ID:0KeMvOVb0 開幕は監督案で始まった。「肩が弱くなり始めていたから、ファースト転向へ」と内々でささやかれていた掛布はサードで、 岡田を外野へ追いやったヒルトンはセカンドで、開幕のベルが鳴った。 ベルは鳴ったが・・・ヒルトンのバットから快音が鳴らない。5試合、10試合・・・を消化して打率が彼の身長ほどしか上がらない。 ついにスタンドから「岡田を使え。使わんかい」とファンの罵声が飛ぶ。 ゴールデンルーキーとして鳴り物入りで入った岡田コールはファンからだけではなかった。 スポーツ新聞もやがてブレイザーを批判する記事を多く報道するようになった。 神戸は北野坂のブレイザーの住むマンションにあらぬ封筒が届く。夫人が封を開ける。「キャー」と叫ぶ夫人。中からカミソリが出てくる。 差出人の名前はない。ブレイザーは球団に救いを求める。だが、救いようはない。ヒルトンは変わらず打てない・・・。 ブレイザー宅へは変わらぬ罵声と恐怖の封筒が続く。ついに・・・。 「俺は家族の安全を選ぶ」とブレイザーは日本に背を向けた。頃はまだ五月の声を聞いたばかり。 ヒルトンも逃げるようにブレイザー一家と前後して帰国した。出場試合はわずかに17試合だった。 岡田に出番が巡ってきた。ブレイザーが帰ったから、さあ、小津案でサード・岡田か・・・とはいかなかった。 岡田はセカンドを守り、多く残ったシーズンを全うした。打率.290、18本塁打。終わってみれば「新人王」のタイトルを得ていた。 224 : 代打名無し@実況は野球ch板で : 2010/11/09(火) 19:00:50 ID:0KeMvOVb0 (天候はデイリーチャンの)みすよ。 あーしんどかった(笑)
そらそうよ(第一八十二代目) http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/base/1288997157/ 208 : 代打名無し@実況は野球ch板で : 2010/11/09(火) 16:48:47 ID:0KeMvOVb0 デイリーちゃんに(どん様の入団の経緯が)コラムであるんや 書き起こし?俺はしない、しんどいもん 215 : 岡田彰布入団騒動(上) : 2010/11/09(火) 18:20:03 ID:0KeMvOVb0 朝一番に球団社長の小津正次郎と打ち合わせをし、その足で小林治彦は大阪・玉造の岡田勇郎宅へ向かった。小林治彦は編成部のトップである。 阪神はその前夜のドラフト会議で早大の三塁手の岡田彰布の1位指名クジを引いた。勇郎宅は岡田彰布の実家で勇郎は実父である。 小林は小津と打ち合わせた内容を伝え間違えないようにと、細心を払ってインターホンを押した。 あれは1979(昭和54)年晩秋のことである。 東京6大学のスター選手だった岡田は6球団が競合し、阪神が勝った。小柄な役員が左手を箱に突っ込み、引いた。 さて、そんな選手の指名権を得た。小津以下が小躍りしたのは、今でも目に浮かぶ。 「逃すなよ」。小津は小林にそう言い、小林も驚く密約を小津から知らされる。小津が腹の底に持っていた岡田獲得作戦は・・・。 岡田勇郎は訪ねてきた小林を応接間で熱く迎え、小林の話を聞いた 勿論、最初は指名した挨拶、さらに少しは世間話をした後、小林は小津から聞いた密約を姿勢を正して口にする。 「掛布雅之をファーストへ転向させます。息子さんはサードで起用させていただきます。はい、勿論、開幕から・・・」。 216 : 岡田彰布入団騒動(上) : 2010/11/09(火) 18:20:47 ID:0KeMvOVb0 勇郎の顔は緩んだ。あの掛布をコンバートしてまで7、そこまでうちの息子を買うてくれてまんのか・・・。 そんな反応はしたが、実は勇郎はポジションは慣れた三塁に越したことはないが、どこを守らせるにせよ、阪神入団を決め、 家族(と言っても岡田は一人息子。あとは母親だけであるが)の意見も勇郎の右へ倣えではあった。 勇郎は・・・なんせかつて阪神の4番の看板を背負った藤本勝巳(1960年、本塁打王と打点で2冠王) と売れっ子の歌手島倉千代子の仲を取り、夫婦にさせたほど阪神の選手に通じていたタニマチである。 「こっちから頭を下げてでも阪神に行かせてもらう」と決めていたところへ掛布を転向させてまで、うちの息子を・・・である。 勇郎は、しかし、そんな興奮はかくして、その日は挨拶を受けるだけにし、小林を見送った。 「御苦労さんでしたな。ご返事はまたお伝え申しあげます」。そのあたりは大阪の商売人である。いや、当然の交渉の手法である。 さて、掛布雅之だが、前年にはホームラン王のタイトルを獲っている。 その俺をファーストへコンバート・・・などとは夢にも想っていなかっただろう。 勿論、小林が岡田勇郎に転向の話を持って行っていることを知る由もなかったが、年が明けて、勇郎と息子が絶句する事態を迎える。 コトが暗転するのである。 222 : 岡田彰布入団騒動(下) : 2010/11/09(火) 18:59:19 ID:0KeMvOVb0 岡田彰布が新人だった1980(昭和55)年の阪神監督は外国人のドン・ブレイザーだった。彼が球団社長の小津正次郎と岡田にはやっかいな存在になる。 米大リーグ卒の肩書と、南海ホークスの内野手として鳴らした実績を背負い阪神の監督に招かれた彼は小津の、 岡田の父親との密約など知らされておらず、自身のチーム構成案を進めた。 三塁は掛布であり、手薄と見ていた二塁にはデイブ・ヒルトンを就かせようとしている。 ヒルトンは2年前にヤクルトを日本一に導いた原動力の内野手。ブレイザーのメガネにかない、金銭で阪神が獲った男である。 阪神は岡田入団1年目となるその年の春、阪神は米アリゾナ州テンピという田舎町をキャンプ地に選んだ。 さあ、掛布に代わって、岡田をサードへ、と決めてた小津と岡田の密約は・・・岡田サイドにとんでもない結果を招く。 「君は外野手として練習したまえ」。ブレイザーはこれだけ言い、岡田から目を外すのである。 異国の地・アリゾナでルーキー岡田は天を仰いだ。どないなっているんや、これは。 父親から「お前はサードや。阪神の人からそういう話を聞いている」という情報は当然、息子に耳にも届いてる。 それが外野手・・・てか、である。岡田はむくれた。 早稲田でサードを守り、実力と人気を得て、そしてドラフト1位に選ばれた、それがあてもない外野手かいな。岡田は砂漠の町で毎晩ため息をついた。 小津とブレイザーは密かに会い、社長案を強いたが、なら、俺の首を切れとまでブレイザーは言い切った。 「(岡田が)優れたルーキーということは聞いている。勿論、将来性のある選手だな、とは見れば分かった。 でも今シーズンいきなりレギュラーで使えとは。サードは掛布です。セカンドはプロであれほどの実績があるデイブでないと勝てる野球はできない」。 小津が押し切られる。岡田勇朗に掛布天候説を喋った小林治彦は(岡田の父親に)「会わす顔がない」と以来、酒に頼る夜を過ごした。 223 : 岡田彰布入団騒動(下) : 2010/11/09(火) 19:00:00 ID:0KeMvOVb0 開幕は監督案で始まった。「肩が弱くなり始めていたから、ファースト転向へ」と内々でささやかれていた掛布はサードで、 岡田を外野へ追いやったヒルトンはセカンドで、開幕のベルが鳴った。 ベルは鳴ったが・・・ヒルトンのバットから快音が鳴らない。5試合、10試合・・・を消化して打率が彼の身長ほどしか上がらない。 ついにスタンドから「岡田を使え。使わんかい」とファンの罵声が飛ぶ。 ゴールデンルーキーとして鳴り物入りで入った岡田コールはファンからだけではなかった。 スポーツ新聞もやがてブレイザーを批判する記事を多く報道するようになった。 神戸は北野坂のブレイザーの住むマンションにあらぬ封筒が届く。夫人が封を開ける。「キャー」と叫ぶ夫人。中からカミソリが出てくる。 差出人の名前はない。ブレイザーは球団に救いを求める。だが、救いようはない。ヒルトンは変わらず打てない・・・。 ブレイザー宅へは変わらぬ罵声と恐怖の封筒が続く。ついに・・・。 「俺は家族の安全を選ぶ」とブレイザーは日本に背を向けた。頃はまだ五月の声を聞いたばかり。 ヒルトンも逃げるようにブレイザー一家と前後して帰国した。出場試合はわずかに17試合だった。 岡田に出番が巡ってきた。ブレイザーが帰ったから、さあ、小津案でサード・岡田か・・・とはいかなかった。 岡田はセカンドを守り、多く残ったシーズンを全うした。打率.290、18本塁打。終わってみれば「新人王」のタイトルを得ていた。 224 : 代打名無し@実況は野球ch板で : 2010/11/09(火) 19:00:50 ID:0KeMvOVb0 (天候はデイリーチャンの)みすよ。 あーしんどかった(笑)

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