無題13

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無題13」(2008/03/13 (木) 15:39:29) の最新版変更点

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---- 宿屋の、それもそう悪くない部屋で昼間から本を読んでいるなんて、一昔前の自分が なら、一体何所の貴族さまだ、と思っただろう。 けれどそんな事をしている自分は、いまだにしがない行商人でしかない。 ただ。一つ違うことを挙げるなら、それは間違いなく、横で自分と同じように分厚い本を 読んでいる少女――ホロがいることだ。 一見しただけなら美しい亜麻色の長髪を持った、器量の良い小娘なのだが。 その実、御年数百歳を越える賢狼だと言うのだから信じ難い。 だがその証拠に目の前では、毛並みの良い尻尾が右へ左へ。 狼ではないが、その可愛らしい動きに思わず飛び掛りたくなる。 が、そんな事をしようものなら、ホロは瞬く間に毛を逆立たせ反撃してくるだろう。 いや、それで済めばよいほうだ。もし機嫌を損ねられたら、元に戻すには大変な労力と 銀貨の数枚を費やすような食事が必要になる。 ただそれを惜しい、と思わなくなって来ている様な気もする。 まったく、自分もえらく変わってしまったな と、自嘲気味に思ってもみるが、やはり悪い気はしなかった。 このほの暖かい部屋に満ちる甘ったるい空気。こんな心地好いものがあるなど、以前は 思いもしなかった。始めて手にした金貨が放っていたような、脳を痺れさせる恍惚の魔法。 それを何倍にも強めたもはや、毒のような空気。そんな物に浸って理性を保つのは なかなか骨だ。 が、それも時々ホロが冷たい空気を、当ててくれている御蔭かもしれないが。 そんな事を考えていると、先程まではなんとか読めていた本の文字が、急に何の 意味もない複雑な模様に変わってしまい。しおりを挟んでベッドで横になると、ホロの 横顔をからかわれない程度に観察した。 琥珀色の瞳が文字を追って小さく動き、時々なにか気になる記述があったのか、いつもの それとは違った趣で細められている。 しかし、耳も尻尾もへたり込んでいるところを見ると、読書にも飽きかけているのかも知れない。 いつ外にでようと言い出すかと待っていると、ホロは本を閉じ、こちらをチラリと 見て、妖しい笑みを浮かべ。 ベッドに横になっている自分に、抱かれるような格好で倒れ込んだ。 慌てて声をあげなかったのは、上出来かも知れないが、ここで何も出来なかった時点で もう負けだったのだろう。 困惑に身動きの出来ないところに、追い討ちをかけるよう。 ホロは、恐ろしく妖艶な、しなをつくって、こちらを上目遣いに見詰てきた。 一瞬その赤を帯びた瞳が、理性を焼き切るほど激しいものに見え、心臓が破れるのでは と感じるほどに、脈打った。唇は淡い桃色をして、そこにあるのは悪戯な笑みではなく、 微かに濡れ、情的に結ばれた誘惑であった。 もし、を挙げればキリがないが、酒が少しでも入っていたら、此れをされたのが夜だったら。 あと、こいつが楽しそうに尻尾を振っていなければ、自分はホロを組み伏したかも知れない。 口惜しいやら情けないやらで、そっぽを向くと、ホロは肩に縋るようにして 「愛しいぬし様がそのような瞳で見詰めてくださるから、意を決してその腕に我が身をまかせる 決意をしたと言うのに…… ぬし様はわっちに恥をかかせるのかや」 一体どこの口がそんな事を言っているのか、くつくつと笑うホロの口元には牙が見え 隠れしている。 「そんなことをしていると、市場も閉まってしまうが、それでいいのならな」 「なんじゃ解っておるなら、はよう用意せい」 そう言ってベッドから跳ね起きると、先程までの聖人さえも射止めそうな成りはどこに いったのか。手早く尻尾を仕舞うと、もうローブに手をかけている。 そんな変わり身の速さにせめてもの反抗と、ベッドで寝転んだままでいると 「それともぬしは、わっちが朝帰りしてもよいのかや」 冗談でも心臓に悪い。本気なら尚更悪い。そして自分が今、こいつの喜びそうな情けない 顔をしているのかと思うと、負けっぱなしにも程がある。 溜息を吐きつつ、身を起こすと、もう準備を済ませていたホロの手を取り。何も言わずに 指を絡め部屋の扉を開いた。 「なるほど、たまにはこういうのもいいかもしれんかや」 「何のことだ」 「こういう事」 そう言ってホロは、堅く結ばれた手をロレンスに見える所にまでもって来る。 そしてその向こうでうつむき、伏せ目がちにこちらを見詰るホロは、中々魅力的ではあったが。 演技とわかっていては酔うに酔えない。 これが純朴で場慣れしていない小娘にされたのなら、少しは揺れたかも知れないが。 「なにを考えておる」 抑揚の無い声と共に、繋がれた手が降ろされ、視界にはホロの不機嫌な顔ばかりが映った。 しかも、かなり悪い。射殺すような瞳の奥には、いつもとは違う、濃い赤が鈍く流れていた。 「正直にはなしんす。 誰のことを考えておったこのわっちを目の前にして」 ホロが繋いだ手にこめる力を痛いくらいに強くする。 この小さな体から出せる力の有らん限りが、そこに集まっているのではと思うほどで、背筋が 凍る思いがした。が、同時に小さな喜びがないこともなかった。 「別に、誰という訳じゃないさ。 ただ少し気が散っただ――イテッ」 手に込められた力がさらに強くなる。ホロの纏う空気は、ふつふつと苛立ちに歪み。 「正直に」ともう一度開かれた唇に残った笑みは、どこか醜ささえ感じさせた。 「……確かに女性のことを考えたのは事実だ。 けど、それは特定の誰という訳じゃ なくて…… そう、なんと言うかこういうことを、お前と違った感じの人にされたらどうなるかな と」 「どうなるんじゃ」 手に掛る力は変わらない。が、雰囲気はいくらか和らいで感じられた。 しかし、その分下手をすれば、この手は離れ二度と帰らないようにも思われた。 「一瞬だけ揺れるかも知れない」 ローブの下で小さく、耳が動いた。一瞬、手に込められた力が霧のように掻き消える。 しかし、慌てる間もなく、またそこには温かな感触が戻った。先程までは全く感じらなかった 柔らかな手のひらの温もり、自分のそれに絡む細くしなやかな指の存在。 まったく、力の入れよう一つで、こんなにも変わる物なのかと感心してしまった。 「ぬしは良い雄じゃよ。 それこそわっちがまいってしまうほどにな」 そう言って、身をすり寄せてくるホロの笑顔は、悔しいがさっきの気苦労の分を差し引いても 余りある位。自分には購い難いものだ。 「……わっちだって、こうされるとたまらなく嬉しいんでありんすよ」 目をやったのが間違いだった。そこには、まるで傷心の少女のような、儚げで痛々しい ホロの瞳があった。自分でも解るくらいに全身が熱くなり、それが手のひらからか、 他の何かから、ホロに伝わった瞬間。その口元には何時もの悪戯なそれが宿り、 こう言った。 「今日は大猟じゃ」 宿の部屋に戻って、酒の入った皮袋を二つ机に置き、窮屈なローブを脱ぎ耳と尻尾を さらすと、親密な場所にいる心地の良い開放感が心を休めた。 連れはまだ帰っていない様だが、急いだのだからそうでなくては困る。 ベッドに腰かけ、先程の連れの顔を思い出すと、それだけで自然と笑みがこぼれてしまう。 ただ、今日の夕食は宿の部屋で軽く済ませよう、と言っただけだろうに。 連れはえらく心配して、はてに薬を調合してもらおうなどと言い出したので、 向う脛を蹴ってやった。まったくお人好しにもほどがある。 村に居たときは無表情が顔に張り付いていたが、今は一つの状態でじっとしている ことがない。退屈は遠く、日々の欲ばかりが近くにいる。美味い酒に、甘い菓子。 そしてなにより、自分を狂わせてしまう甘美な時間。 もういっそ、あの腕の中に溺れてしまいたい、あの匂いで鼻腔を満たし、永遠に 酔い続けていたいとまで思ってしまう。 しかし、自分の中の冷徹な賢狼がその酔いを覚ます。 お前とあの若者が、幸福であり続けることは決して無い、と。 もし、自分の生が人と同じ時であるなら、不可能ではないかもしれぬ。 老いた人間の番がその最後まで、緩やかな愛を紡ぐことがあるように。 だが、自分は違う。たとえ、あの連れと――ロレンスと番になったとて、その先に 横たわるものは、不幸だけだ。自分は嫌というほど、人の短命を知っているではないか。 世が無慈悲であるから、孤独を知ったのではないか。 片割だけが老いる番など、いびつで番と称するのもできまい。 例え、どれだけの逸話が在ったとしてもその全てが、不遇でその物語を終えているではないか。 なら、何をすべきかは解りきっている。最後の、別れ時まで、賢狼であり続ければよい。 ロレンスに抱かれることなく、旅の伴侶として楽しい旅に撤すればよい。 そして、最後に、笑って別れる。これで、物語は美しく終わる。 これでよい、これでよい―― これ以上考えていたら、連れを見てどんな顔をしてしまうかわかったものじゃない。 そう思い酒をコップに注ごうとすると、木窓の向こうに、煌々と輝く満月が見えた。 青白く、どこか神々しい光が空のコップを満たし、皮袋を持つ手を止めた。 月に冷やされた風が、頬を撫で、治めたはずの想いを煽る。 こんな日にうずくのは体ばかりではない、魂も抑えられなくなる。 いや、魂とは名ばかりの身勝手で薄暗く生臭い欲望。それが嘲笑っている。 お前は、その物語の先を受け入れることが出来るのか、あの若者の目に 一瞬映った。居もしない雌の影にすら嫉妬を抑えられなかったお前が 本に記される物語は終わっても、その先が消えるわけではない。 自分にはヨイツの森での、望まぬ重い責務が再び身に圧し掛かる。 もう、誰も甘えさせてくれない。あきれつつも、親しげな笑みを返してくれるお人好しもいない。 そんな日々に戻るしかない。 偶然に手に入った夢のような時間を、返してまで。 そんな所に帰らなければならない。 そして、ロレンスは――ロレンスには一体どんな続きがあるのだろう。 幸福であって欲しい。そう願うのが偽りである筈がない。 念願であった自分の店を手に入れ、小さな弟子にあれこれと指示を出す姿を 思うだけで、胸が温かく優しい想いに包まれる。 そして、その体に寄り添って、誰にも、二人にしか聞こえない小さな声で、二人にしか わからない旅の話がしたい。 だが、それは叶わない。自分はその隣にいない。いるのは―― わかっている人には人、狼には狼それが順当なのだと。 しかし、そんな非常な道理はこの深い絶望を和らげてもくれない。 不相応なのか、雌である自分が雄と番になり。幸福になることが。 あの腕に、あの胸に抱かれ睦言をつぶやく。どんなに願っても、ロレンスの未来を 思うと自分には出来なかった事を、他の誰とも知れぬ雌が易々と奪ってゆく。 そんなことはまかり通ると言うのに―― 番となり、子を成し、共に老い。その最後に手を取る。 その居もしない雌とその子を思うと、喰い殺してしまいたくなる。 自分でも吐気がするくらい陰惨で醜悪な嫉妬、そんな膿のような感情が、傷口から 血と混じり止め処なく溢れている。 ならばどうする。姦策を廻らし、愛欲に溺れ、今際の際を看取る。それで満たされる のは、ただ己の一瞬の儚い独占欲だけではないか。何も残るものはなく、決して戻らぬ 時を愁うという、死に等しい絶望と孤独に、身を沈めるだけではないか。 大切に想っているからこそ、愛しているからこそ誠実であるべきだろう。 自分には出来ぬことと認め、相手の幸福こそを願うべきだろう。 胸に去来する相容れない感情の帯が、心を責め苛む。 息をすることすら苦しくなり、今想うことは唯一つだった。 「ロレンスはやく、はやくきてくりゃれ。 でないと――」 誰も聞いているはずのない台詞は、なぜか殊更に芝居がかっていた。 「……でないと、月がわっちを殺してしまう」 料理の包みを持って、コツコツと音を立てて階段を上っていると、ホロに酒を買いに 行かせたのは、良くなかったかも知れない。と、今更思ってしまった。 金の心配をしているのではない、ホロに渡した金額はそれなりだが。日ごろの酒場での 飲み食いに比べれば、全額使われたところで、安上がりだ。 なら何かと言えば、ホロが帰りがてら妙な連中に、といった類のものでもなく。 酒屋の主人をたぶらかして、二人じゃ到底飲み切れない量の酒を、買っていない だろうかとか、コップ1杯で参ってしまうようなきつい酒を、買っていないだろうか というものだが。 まあ、前者はともかく、後者なら食事のほかに、ちょっとした土産もあるが。 やはり酒は、甘く飲み易いほうがいい。そう思いながら扉を開いた。 ホロはやっと来たか、と言わんばかりの顔でこちらを見ていた。この賢狼のことだ 食い物の匂いか何かで、自分のことなど宿に入ったとき気づいていたのだろうが。 大分待ちわびていたようで、その表情は少し不機嫌そうだ。けれど、自分を待って か、まだ酒に手をつけていないのは、些細なことかも知れないが嬉しかった。 ホロがその事に気づいたかどうかはわからないが、不機嫌そうな顔をやめ。 何か考え事をするよう顔をした後、いつもの悪戯な笑みを浮かべ、こう語った。 「ぬしよ、ここには二つの酒がある。 一つは辛く、一献で酩酊するような酒。 もう一つは甘美じゃが、いくら飲んでも到底酔えぬ酒。ぬしはどちらを選びんす」 「強く、気高い酒は賢狼ホロに。 弱く、軟弱な酒はしがない行商人に」 「……まあまあじゃな。 あんまり待たせるもんじゃから、混ぜたのを飲ませてやろうかと 思ったが、勘弁してやる」 なにを勝手な、と思ったが。それでこぼれて来るは、やはり笑みだけであった。 「まったく。 混ぜた酒は悪酔いするくらいはしっているだろう。 俺が二日酔いで 寝込んだらどうしてくれるんだ」 「安心しんす。 そうなったらわっちが、責任を持って看病してやろう」 嬉しいが、そうなったら逆に長引きそうな気がしないでもなかった。 ホロは賢いが、医術についてはそう詳しいわけではない。 いつか言っていたヨイツの狼の流儀も、あまりあてにならないな。 そう考えながら、皮袋の置かれた机に、自分の持ってきた包みを置いたとき 温かい感触が、背中を包み。耳元で、ホロが小さく囁いた。 「わっちはぬしのためなら、一日、一年の看病など。 苦労だなどと思いやせん」 健気な少女のような台詞と共に、その腕が胸にまわされ自分の体を捕らえる。 ずるいと思ったのは、これが演技だとわかっているからであった。 しかし、身動き一つ取れなかったのは、外で冷えた体の血の巡りが、一瞬で熱いくらい に成ったからだった。 「やはりぬしはかわいいのう。 しかし、わっちに勝てると思うところは中々骨がありんす」 ほめているのかどうか怪しい。いや、馬鹿にしているのだろう。 「ただ――」 そう言うと、ホロの腕がロレンスの上着の内側をもそもそと探った。 何をしているのかと、慌てた自分が、その意味に気づいたときと、ホロが離れたのは ほぼ同時であった。 「こんな良い物を隠しているのは、どういう了見じゃ」 ホロの手に握られているものは、羊の干し肉の入った麻袋であった。 それも良く塩の利いた上物で、部位もわき腹と申し分のないものだ。 「隠していたわけじゃない。 料理を食い終わったら、出そうと思ってたんだ」 耳がぴくぴくと動いて、その顔はまだ疑っているような表情をしていたが。 初めから、全部わかっていたのだろう。その琥珀色の瞳は、ずっと笑っていた。 そして、堪え切れなかったのか、くつくつと笑い出し。たまらなく優しい声色で 「ならば、早く食おう。でないと、ぬしが運んでくれた料理が冷めてしまいんす」 と、何気ないことを言った。 大分、酔いも回った頃だった。料理も干し肉も食べ尽くし、酒もホロののみっぷりなら そう長くはもたないだろう。 酔えない酒、とホロは言ったがなかなか美味いぶどう酒で、自分ならこんな量はとても 買えないだろう。それにホロは自分用の酒まで買っているのだから、酒屋の主人が 少し気の毒に思えた。 「どうじゃ、わっちの選んだ酒は」 「良い酒だ、売った主人が気の毒なくらいな。 で、そっちはどうなんだ。 見たところかなり きつい酒みたいだが」 「うふ、他人の不幸は密の味、というじゃろ。 ならその酒が美味いのは当たり前じゃ。 そして、わっちの酒が美味いのもな。 それに、こんな宵は強い酒でなくてはの」 そう言ってホロは木窓の外を見詰め、しばらくその朱に染まった頬をさますようにしていた。 ふいと目をやると、夜空には見事な満月が浮かんでいた。 「いい月だな。 けど、この月に何か意味が――」 あるのか、と聞かなかったのはその思い出した内容が余りに刺激的なのと、目の前で 月明かりに揺らめくホロの肢体に、目を奪われたからだろう。 「ぬし、忘れてしもうたのか。 わっちは、いった筈じゃ、こんな日は体がうずく、と」 艶っぽい声色と共に、自らの体を抱き身悶えしてみせるその姿が、青白い月光と 燭台に灯された蝋燭の赤い炎に、照らされ。触れる事が躊躇われるような、繊細さと 儚く妖艶な香りがただよっていた。 ベッドに腰掛けている自分と、向かいで同じようにしているホロとの距離は、何もしない 限り狭まることはない。だが、ホロが立ち上がった瞬間、その隙間が消え去ったかのような 思いがした。そして、窓の外からの冷えた風が、燭台の炎を消したとき。 ロレンスの胸に、ホロは倒れこむようにして、抱かれた。 しばらくの間、あったのは沈黙だけで、衣の擦れる音すらなかった。 そうして、次にあったのは、自分の手がホロの亜麻色の髪を撫でることだった。 「ふふ、やはりぬしはこうなんじゃな」 くすぐったそうに笑いながら、そう呟くホロは呆れていたのかも知れないが。 決して、離れようとはせず。 自分とホロの指では、到底数え切れないくらいの長い間ずっとそうしていた。 「のう、ぬし。 ぬしはこんな話をしっておるかや」 「どんな話だ」 しばらく間を置いて口を開いたホロは、静かな、まるで別人のような口調でこう語った。 「ある所に、一人の詩人がおった。 その詩人は大層、妻を愛していて、その妻もまた詩人を愛しておった。 しかしある日、散歩中に妻が毒蛇に噛まれ、死んでしもうた。 詩人の嘆きは深く、妻を諦め切れなかったそやつは、妻を取り戻しに、黄泉の国まで降りていった。  そこで、黄泉の国の王に、美しい詩を歌い。  それに魅了された王は、一つ条件をつけて妻を地上に返すことを許した。  条件は二人が地上に戻るまで、決して振り向き後ろの妻を見ぬこと。  しかし、帰り道に詩人は心配の余り、後ろを見てしまった。  たちまち、妻の姿は霧のように掻き消え。  伸ばしたその腕は、どちらも結ばれることなく、終り。 そして、独り地上に戻った詩人は、後悔と絶望に倒れ。 いつまでも嘆いておったところを、蛮族に見つかり。  体を裂かれて死んだ」 冷たい、歯車の回るような声で語られたこの寓話を、どのように判断すべきなのか、自分 には解らなかった。しかし、自分の背に回された腕は、微かに震えていた。 「この詩人を。 ぬしは、この詩人を、どう思う」 解らなかった。ここで応えるべきである筈の言葉は、一つとしてその役割を果たさず。 口もまた、惨めに閉じられたままだった。 「……すまぬ、興を削いでしまったな。 忘れて――」 立ち上がり、離れようとしたホロが、その顔をもたげロレンスを見る前に、それを押さえ込んで いた。いや、引き寄せ、軋むほど抱きしめた。 何をしたわけでもないのに、呼吸をすることが苦しくなり。搾り出すような、嗚咽に近い息が 静かな宿の部屋に吐き出された。 「その詩人は、体を裂かれる前に。 妻を連れ戻し損ねたとき、死んだ。 そう思う」 目の奥が熱くなる、もしかしたら自分は泣いているのかもしれない。 腕の中のホロは、ロレンスの胸に顔を押し付け、とぎれとぎれ荒い息を吐き出していた。 「わかって――わかっておるなら。 この腕をといてくりゃれ…… ぬしは、ぬしは わっちを殺す気かや」 その言葉を聞いても、腕の力を緩めることは到底出来なかった。 孤独が死に至る病なら、深い絶望もまた死に至る病であり。 夜眠るとき考えるのが、明日のことではなく。朝目覚めたとき思うことが、寂寥であるとしたら それはどれほど、悲しい事だろう。 「つらいの。 こんなことを思うくらいなら、いっそぬしと崖から身を投げたほうがましじゃ」 「そんなことをしたらあの世でも、おまえと旅をするはめになる。 あの世まで二人旅なんて 心労で死んじまう」 「ふふ、あの世でしぬのかや。 ならそのときもわっちが看取ってやりんす」 くつくつと、笑う声にいつもの調子が見え、自然と腕の力が緩まった。 するとホロは、その琥珀色の瞳でこちらを見詰め、こう言い放った。 「ぬし、酷い顔をしとるのお」 「お互い様だ」 ホロの顔は涙やら何やらでぐちゃぐちゃになっていたが、それがまた堪らなく愛しい。 そして、ロレンスの服で顔を拭き、立ち上がったホロは、机の上に残っていた酒を一息に飲み干し。 いつもの悪戯な笑みを浮かべると、ロレンスをベッドに引き倒し。 その胸に顔を押し付けると鼻をひくひくと動かし、こう言った。 「こんな日は、どんな酒も酔えぬが。 この匂いがあれば少しは酔えるかも知れぬ」 「好きにしろ、この狼娘」 ----

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