空はまだ暗い。


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 空はまだ暗い。鬨の声をあげる鶏でさえまだ眠っている時間帯だった。
 ロレンスは夢の中で、娘の声を聞いた。何を言っているのかはわからないが、声の調子でロレンスをとがめてすねているのだと知れた。
「……レンス、ロレンス」
「ん……んん」
「これ、はようおきぬか」
「……ホロ?」
 視界いっぱいにホロの顔があった。
「どうしたんだ……こんな夜中に」
「たわけ、もう朝じゃ」
「まだ真っ暗じゃないか」
「商売人の朝は早いのじゃ」
「……いつも寝坊するやつに、言われたくはないよ……」
「おぬしはいつも寝坊するやつより、はやく起きられないのか」
「減らず口を……」
 人一倍寝ぎたないあのホロが、こんな夜中(朝?)に、炯々と目を光らせているなんて、めったにあることではない。
「ほれ、行くぞ。たいまつを用意してくりゃれ」
「……どこに?」
「ええい、じれったいのう」
 鋭く言うと、ホロはロレンスの布団を剥いだ。ロレンスの着衣が乱れているのに構う様子もなく、勢い込んでまくしたてる。
「森じゃよ」

 朝ぼらけの森は、寝ぼけ眼のロレンスに原初の恐怖を呼び起こさせた。
ロレンスが掲げたかがり火は人の腕ほどもある樫の木に布をまきつけて
こしらえたものだから、ただ持っているだけで手や髪があぶられそうに熱い。
その火さえも、広大なオークの森の前では、風前のともし火だ。
「懐かしい香りじゃ」
 この心ごと腐食されそうな闇を前にしても、ホロは持ち前のふてぶてしさを失わない。
 ロレンスはそちらにかがり火を向けた。瞬間、暗闇の中から、人の娘がいとしげに
目を細めるのとちょうどそっくりの様子で風読みをするホロの姿が鮮やかに浮かび、
ロレンスの網膜を焼く。踊る炎はホロの亜麻色の髪をさっとみごとな金と紅に染め、
すべらかな頬に血のような色を上乗せした。
「! あっつ……ぬし、こちらは風下なのじゃぞ。少しは考えて近づけてくれぬと、
わっちの耳が焦げてしまいんす」
 と、ホロは、自分の耳を不機嫌そうに動かしてみせた。本来人の耳があるべき
場所には豊かな髪が流れており、代わりに頭のてっぺんには、こげ茶の被毛の、
ひくひくとよく動くかわいらしい狼の耳がついている。
「あ、ああ、すまん」
 とっさにうまい切り返しが出てこなかったのは、かがり火に照らされたホロが
思いがけないほど艶っぽく見えたからだ。
 ホロは新たなおもちゃを見つけたといわんばかりの表情で、にまーっと目を
細めてみせた。賢狼を自称する少女は、長い年月を生きてきただけあって、
相手の機微を読むことにも長けている。  
「なんじゃ。おぬしも風に酔ったかや?」
 いたずらっぽく言う様子は、なぞなぞを得意げに披露する子どもそのものだ。
「狼っていうのは、風だけで酔っ払えるのか?」
「わっちゃあこんな風では酔ったりせん。じゃが、人の子は娘の持つ空気に
酔うことがあるようじゃからのう。さてはぬし、わっちに酔ったか?」
 ロレンスは、肩をすくめる。
「自分で言ってりゃ世話ないな」

「なんじゃ、気のきかぬ雄じゃのう。こういうときは、嘘でもああそうだと言いなさんせ」
「いえるわけがないだろ」
「なぜじゃ? 社交ができぬで何が商売人かや」
「嘘じゃない、まことの心は、そうそう口にしないのが商人だ」
 ホロは虚をつかれたようだった。
「……なっ、なにをたわけたことを」
「たわけろと言ったのは、ホロじゃないか」
 ホロは反射的に何かを食ってかかろうとしたが、一瞬後にはころころと笑い出した。
「まあ、よい。おぬしも言うようになったということかの」
 ロレンスはそんなホロを目を細めて見やる。
「ずいぶん上機嫌じゃないか」
「当然じゃ。この森の、なんともいえない匂い。甘くて痺れるような、よい香りじゃの」
 耳としっぽがわさわさと動いている。ホロはうそをつくのはうまいが、耳としっぽが
動くのはどうしても隠せない。陶酔気味なのは、どうやら本当のことらしかった。
「匂い、ねえ」
「そうじゃ。この匂い、とくと堪能せよ。人もケモノも分け隔てなく、あらゆる種族で
これに奮い立たぬ者があるなら、その血にはただ滅びあれ!
これほど濃密に漂っているのじゃから、そろそろぬしの鼻でも嗅ぎ分けられぬかや」
 ロレンスはやや鼻白んだ。それがどんなものであれ、知らない、と自分の口から
言わされるのは愉快なことではない。と同時に、どうもホロの様子がいつもと違うのだ。
 ――こんなに高揚したホロは見たことがない。
「別に……森特有の、湿った葉と土のにおいがする」
「ほかには?」
「何も。……どうもお前の言うことがよく分からないな。またたびか何かが生っているのか? 何の香りなんだ?」


「察しのよいぬしらしくもない質問じゃのう。……ふむ」
 ホロはやや陶酔から冷めたような顔で、手近な大木の幹を叩いてみせた。
と思うと、服が汚れるのも構わず、べたっと身を伏せて、素手でびっしりと
下草が生えた腐葉土をかきわけはじめた。
「いったい何なんだ?」
「ぬしら人の子は、こう呼んでおったはずじゃが」
 やわらかい黒土をかきわけながら、ホロは何か、ひときわ大きな土の塊の
ようなものを引っ張り出す。

「土中のダイヤ。――最強最悪の、毒きのこじゃ」

 とたんにむっとする強烈な臭いがロレンスの鼻をついた。
いわく言いがたいとはまさにこのことで、一度嗅いだら忘れられそうにない臭いだ。
「ああ……」
 ホロのしっぽがわさわさと動く。もはやとめようもないほど興奮しているのが分かる。
賢きものの称号とはおよそ遠い痴れたまなざしで一心に土の塊のようなものを
見つめている。
「悪いキノコじゃ、これは毒キノコじゃ。ぬしら人が食えばたちまち心身が古蝕し、
青くあざができ、黄色く膿んで、赤黒く血も凝ろうぞ――ああ、わっちゃあもう我慢できぬ」
 どろの塊にかぶりつこうとするホロのフードを、ロレンスはかなり強引に引き戻した。
「よせ、腹を壊すだけではすまないぞ」
 いまにも「ならば、狼に戻る」と言いたげな目つきで、ホロはうらめしげにロレンスを
見上げる。賢狼が聞いてあきれる子どもじみた振る舞いに苦笑しながら、ロレンスは
ようやく我が意を得たりとうなずいてみせた。
「もしかしてこれ、トリュフなのか」
「毒じゃ」
「しかも、ものすごい良い出来だろう」
「毒じゃと言っておる」
 まったく隠せていない嘘を突き通そうとするほど、ホロは心を奪われてしまっている
ようだった。あとでからかいの種にしようと思いながら、ロレンスは深く追求せずにおく。
「ホロ。お前、もっとこれを探せるか」 
「任しんす」
 言いながらもホロは、次々とすごい臭気を放つ泥の塊をほっくり返していく。


142 名前:名無しさん@ピンキー[sage] 投稿日:2007/05/30(水) 23:46:12 ID:9Uvroxrc
 一枚。
「全く、トリュフが生えてるなら、早くそう言ってくれればいいじゃないか」
「ならぬ。どこで誰が聞いているのかもわからぬのに」
 また一枚。
「しかし、そうと分かってれば、もっと籠だって用意したし」
「そんな大きなものを抱えてうろついておっては、ぬし、この土地のものに
切り殺されても文句は言えなかろう」
 そしてまた一枚。
「そりゃ、そうなんだが……」
 ホロは薄く切り出したトリュフを嬉々として丸呑みにしていく。ロレンスも
ひとつふたつつまんだが、ホロに唸られたのでやめた。
「ぬし、人の分より、自分の分を食べるがよかろ」
「いや……俺の分は食わずに売るよ」
「それもならぬ!」
 ホロはさっと顔色を変えた。
「売るくらいなら、わっちが食べてしまいんす」
「しかし……売ればかなりの値で売れるぞ、これは」
 1kgがトレニー銀貨にして百枚と等価値になることもある珍味だ。
王侯貴族など、売る相手を間違えなければ、香辛料と変わらない利益になる。
「ほんの一塊売れれば、お前の借金が帳消しになって釣りまでつけられる」
「ならぬ、と言っておる」


 ロレンスはさすがにむっとして、低く、なぜだ、と聞いた。
「それは……」
 いつもシルクの手触りよりなめらかに回る舌が、このときなぜか一瞬つまり、
それがロレンスをさらに苛立たせた。
「たしかにこれは、見事な味だ。しかし、胃に入っちまえばシメジと変わらない。
金塊を腹に入れてまで味わうほどの価値が、俺には分からない。だから売ろうと
思ったんだが、理由もなく食べろの一点張りというのは、よくないだろう」
「ならぬといったらならぬ!」
 ホロはいつになく感情的だ。
「狼は、それはそれは気高き獣よ。譲れぬ時は一歩も譲らぬ。つまり、
今がそのときじゃと知れ――」
「しかしだな、今は路銀も乏しいし」
「ぬしよ、よいのかや。こんなうまいものを捌けば、当然人はどこから
密漁してきたのかと疑うじゃろ。そのときに、万が一誰ぞ他の者らが
秘密に気づいてみよ」
「……隣の町まで行けばいいだろう」
「無理じゃな。こんなに強く匂うものを馬車に乗せて旅すれば、たちまち
狼にも人にも囲まれる……今はまだ、あのあたり一帯に、嗅ぎつけてきた狼が
たむろしておるから人もむやみと近づかぬようだが、もしもキノコの秘密が漏れれば
話は変わってこよう。
わっちら狼は確かに手ごわいが、げに恐ろしきは人の欲よ。ここら一帯を仕切る
貧しき鉱山夫らに、キノコもろとも駆逐されてしまいんす。じゃから、いまはまだ
時期ではない。わっちら二人でたっぷりと楽しみ、時期を見て秘密裏に運ぶのが
一番よい。じゃから――」
「全部自分が食べてもいい、と言いたいのか」
 機先を制してやると、ホロは誇らしげに尾を振って、重々しくうなずいた。
「そうじゃ」
 そしてまた一切れ、そっと舌の上に乗せる。
「この芳香……この歯ざわり」
「そのひときれで山と詰まれたご馳走と交換できるんだがなあ」
 ロレンスは困ったように言う。

「ふむ――」
 ホロは鼻を鳴らして、体ごとロレンスのほうに向き直った。
「本当に知らぬようじゃから、教えてやるとするかの。わっちからこれを取り上げるのが
どういうことか――」
「脅しには屈しない」
 にたりと笑んだ口元から牙が覗けて、ホロの幼い子どものような無邪気な顔つきに、
残酷さが彩を添える。
「そんなことではない。知っておるかや? この香りはわっちら獣の官能を狂わせる――
甘く激しい誘惑の奔流に、良き目良き耳、良き鼻を持つものほど翻弄されてしまいんす――」
 ホロはうっすらと上気した目元に涙さえ溜めて、ロレンスを見上げた。

「ええ雄がいたら、奮いつきたくなるほどにの」

 ロレンスは、いつものようにからかっているだけだと自分に言い聞かせた。
いちいち付き合っていては身が持たない、いくつあっても足りやしない。
「ロレンス」
 それでも、改めて名を呼ばれただけで、どきりとしてしまう自分を呪った。
「この毒きのこがダメじゃというのなら、ぬしには別のものを用意してもらわぬとの」
「……そのキノコと交換なら、羊の干し肉くらい、樽で買えるぞ」
「ロレンス? いま、わっちが欲しいのは、食べ物ではありんせん」
 ロレンスは心臓を掴まされたような錯覚に、ほんのつかの間苦しんだ。
慎重に慎重を期して進めていたはずの商談で、罠にかかってしまったときと
とてもよく似ている。
 勇み足は大損のもとだ。感情は商才を鈍らせる。
「……食べすぎだ。それでおかしくなってるんだろ。だとしたら、ますますこれ以上は
やれない。さっさと横になって休んで――」
「聞こえぬの」
 ホロは一刀両断する。
「わっちゃあ体も頭も火照っておるから、ものがよく考えられぬのじゃ」
 言いながら、ホロはローブをしゅすり、と肩に落とした。ふだんローブで全身を
覆っているホロのむきだしの首と肩に、ロレンスは息苦しさを感じて天井を仰いだ。
 ホロはすずの皿のうえに整列しているトリュフのスライスをひと切れつまむと、
はしを銜えた。赤いおとなしい唇から垂れるトリュフの片一方を、ゆっくりとした動作で
ロレンスに近づける。手はロレンスの首に巻きつけて、睦みあうような仕草だ。
 ホロは度はずれて興奮の波に浚われている。小首をかしげる動作に、いつもの
ホロにはないしめやかな気配が漂っている。

 トリュフの切れ端が、ひやりとあごに幽霊の手よろしく触れた。きのこ独特の、
みずみずしきをもとろかすような甘くよどんだ香気がロレンスの脳天を割る。
ほんの数センチ先にはホロの顔、ご自慢の美貌もピントがずれて一つ目に
なるほど近づいてはかたなしだ。
 ほんの少しでいい。ロレンスはただ口を開けて、餌を乞いねだる雛鳥のように、
口を開けて上向いて、受け入れれば済む話だ。誇り高さも人一倍の狼は、
平生ではけしてこんな大胆きわまる行動には出まい。酒に酔ったか溺れたか、
そういった言い訳がなければ、お互いのぬくもりを求めることなどついぞないだろう。
 それでも、悪魔めいた誘惑の、自分ではそれと意識しない知覚の縁に、
からかわれているのではないかという思いもこびりついている。
 ロレンスが口を開けたその瞬間に甘美なもやはさっと取り払われ、ぎりぎりで
くちづけを回避したホロが、いつものにやにや笑いを浮かべながら言うのだ。
『ぬしはまことういやつよの』
 それでこそ俺たちらしい、とロレンスは思う。
 あるいはロレンスがこれ幸いとばかりにホロを洒落に韜晦でいなしてやれば、
ホロはいつもの調子に戻って子どものように悔しがったりしてみせるだろう。
 どちらにせよ、均衡は保たれる。この賢狼と睦みごとをささやき交わすことはない。
これまでも、自分たちはそうしてうまくやってきた。
「いらんのかや」
 ホロがちゅるり、と器用にそのトリュフをおのが口にしまいこんだ。あむあむと
満面の笑みで租借する姿は、大好きなお菓子を惜しみながら食べる子どもそのものだ。
 ホロは矢継ぎ早に次の一切れを取った。
「それ一枚で、パンがいくつ買えるか――」
「パンでも腹はふくれようが、パンで胸いっぱいにはなりんせん」
 そしてロレンスを見つめるしぐさは、とくべつに好いた男の前で、得意の色仕掛けも
繰り出せないほど緊張している娼婦そのものだった。
「パンでぬしとの距離が縮まることもありんせん」
 ロレンスはホロの声が小さく震えるのを聞いた。何気ない風を装って、指先が
トリュフをうまくつまめないのも捉えた。

        •  それでもロレンスには、どうすることもできない。ホロがそう悟るまでに
さして時間はかからなかっただろう。この微妙な空気を破るようなことを
しないからロレンスは信用を勝ち得ているのだと心得てもいたからだ。
 ホロはしばしキノコのきれっぱしを銜えて所在なげに立っていたが、
やがてそれもつるんと口に入れ、もう一枚をつまみあげた。
「最後の一枚じゃ」
「食べていいぞ」
 ロレンスはこともなげにいう。実際は、なんでもない風に笑顔を取り繕うので
精一杯だった。そこに芝居がかったものをすばやく感じられるのが平生のホロ、
しかし今はその余裕すらないようだった。
「……これでおしまいじゃ」
「そうだな」
「最後なのじゃぞ!」
 最後、最後サイゴ! と三度も同じことを繰り返した。
「もう次はありんせん」
「見れば分かる」
「わかっとらん!」
 ホロが言ってるのはキノコのことではないのだろう。これを逃せば次はないと
言っているのは――
「ったく、ほんっとうに気のきかん雄じゃ」
 ホロはほんのわずか戸惑ったあと、ロレンスに背伸びで近づき、口に無理やり
指をねじ込んだ。立て続けにトリュフの切れ端を詰め、そこに自分の唇を寄せる。
「んぐっ――」
 ホロは最大までロレンスに顔を寄せ、そっと囁いた。
「最後じゃから――半分わっちにくりゃれ」
 うんと言う間もなく、ホロの熱い舌がロレンスの唇を割った。

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