冬から春になろうかという時期になり


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冬から春になろうかという時期になり昼間は随分暖かくなってきたが、日が暮れてしまえば途端に空気は冷たくなり遠慮なく身体を包んでくる。
ロレンスは宿の裏手にある井戸から汲み上げた水を前に少し躊躇したが、思い切って手を突っ込んだ。
吐く息が白くなるほどではないが、手綱を握る手をついさすってしまう、そんな日が続いていた。
水から出した手を火が出るくらい擦り合わせ、軽くズボンで拭くとロレンスは顔を上げた。
目の前には闇にまぎれて見えないが北の大地に連なる山々があるはずだった。
随分ヨイツに近づいたな、ロレンスはもう一度手を擦りながらそう思う。
ホロとの暗黙の了解でかなり遠回りに旅をしてきたがそれも終わりに近づいていた。
ここからヨイツがあったとされる場所まではそう遠くは無い。
ロレンスは厠を後にしてホロの待つ部屋へと戻りだした。
ロレンスが宿の二階に上がり部屋に入ると、ホロはベッドの上で胡坐をかいて尻尾の毛づくろいをしている。
「うー、寒いな」
井戸水で洗ってきたばかりの両手を擦りながら自分のベッドに腰を下ろす。
何とはなしに窓際のベッドにいるホロを見た。
ロレンスの視線を感じたらしく、ホロはちらりとこっちを見たがすぐに目をそらした。
何か変な感じがした。知らない内にまたホロの機嫌でも損ねたのか。
気づかれない程度に溜息をつくと、ロレンスは机の上のパンに手を伸ばしつつホロを観察する。
ぱっと見は日課としている尻尾の手入れをしているように見える。
だが、注意深く見ると分かるが尻尾に顔を向けてはいても目はそれを見ていない。
ロレンスに意識が集中しているようだ。その証拠に自慢の耳が忙しく揺れながらこっちを向いている。
「どうした、腹でも減ったか」
腹が減れば勝手にあるものを食べてる筈だから本気でそう思っている訳じゃない。
何か言いたい事や、聞きたい事があるのかもしれない。だから取り敢えずそのきっかけとして聞いたのだ。
「…減ってはおらぬ」
相変わらず尻尾に顔を向けたままのホロにロレンスは軽く肩をすくめた。
ホロの横顔は怒ってるようにも見えるし、すねてるようにも見える。よく分からないがここは放っておいた方がよさそうだ。
「そうか、それならいい」
そう言ってパンをちぎって口に入れようとした時、視線を感じたので見るとホロがこちらを向いている。
「ぬしよ、わっちはぬしに言いたい事がありんす」

少し思いつめたような表情でホロは言った。
「ん、俺にか」
そういってロレンスは手にしていたパンをに口に入れた。
まず、頭に浮かんだのはやはりこの先の旅のことだ。故郷のことでロレンスに今まで黙っていた事でもあるのだろうか。
それとも道中で寄ってほしい場所でもあるのか。いや、それとも今まで二人ともが誤魔化してきた旅の終わり、そう、ヨイツに到着した後の
話だろうか。もしそうならホロは自分なりに答えを出したことになる。
ロレンスは胸が苦しくなるのを感じながら、そうでは無いことを祈った。
ホロはそんなロレンスの胸中を知ってか知らずか、すっと目をそらすと左の手で自分の座ってるベッドの横をぽんぽんと叩く。
ここに座れ、ということらしい。いったい何を企んでいるかはさっぱり分からないが、取り敢えず横に座ると今度はホロが自分の右肩をぽんぽんと叩く。
この状況は覚えがある。教会でエリサに見せつけようとホロが仕組んだいたずらに引っかかったときだ。
ロレンスは一瞬、警戒はしたがよく考えて見ると今回は違うようだ。大体見せ付ける相手がいない。
宿の女将に見せつけるにしては歳がかなりいってるし、若い娘もここにはいない。
完全に安心した訳ではないが、ロレンスはホロの望みどうり、肩に手を置いた。
とたんにホロが細い身体を預けてくる。胡坐をかいてる足の上で尻尾がゆっくり左右に揺れだした。
甘えたいだけなのかもしれない。ホロに限ってそんなことはないような気はするが、思ってることを素直にいえないところがあるのも事実だ。
ホロの甘い匂いが鼻を充満する頃にはもうロレンスはそう決め付けていた。
だからホロがロレンスの右手をつかんで自分の顔の前に持っていっても、ただじゃれてるだけだと思っていた。
この後のホロの台詞を聞くまでは。
「ぬしは、この右手で今まで何をしておったんかや」
小首をかしげながらロレンスの掌を見つめている。
ホロが何を聞いているのかがよく分からない。右手がどうしたっていうんだ。
「…右手がなんだって」と心の中の声がそのまま口から出た。
するとホロはくんくんとロレンスの掌の匂いを嗅いでから小さく頷くとロレンスにむかっていった。
「こんなに雄の匂いが染み付くほど右手を使って、ぬしは今まで何をしておったんじゃ…と、こう聞いておる」
耳をぴくぴくと動かしながら上目使いにロレンスを見るホロ。
雄の匂いとは。ロレンスは自分の右手を見つめながらホロの言葉の意味を一生懸命考える。
右手。今まで。まさか。背筋がぴくんと伸びた。
ロレンスは一つ思い当たることがあった。しかし、それは幾らなんでも。
思わずホロの顔に視線を戻すとホロはにやにやと笑っている。
途端にロレンスの身体がまるでパン窯に入れられたように熱くなった。多分顔は熟した林檎のようになってる筈だ。
そうだっ。ついさっきまで俺は厠で…。
「どうやら思い出したようじゃの」
噴出すのを堪えているのか顔を赤くして口に握り拳を当てながらいう。
ホロを抱き寄せていた右手を素早く戻し、そのまま顔を隠すように目を覆った。
身体は熱くなっているのに額と背筋を流れ出す汗はとても冷たく感じる。いやな汗というやつだ。
「こそこそと、あんなことをぬしがしてるとはわっちもぜーんぜん気づかんじゃった」
そんな声を聞きながら自分のしたことを思い出すと、恥ずかしさで身体が焦げてしまいそうだ。
「…ぬしも雄だったんじゃなぁ」としみじみという。さも感慨深げな言い方ではあったが、表情までそうだとは思えない。
例えるなら、一生遊んで暮らせるほどの儲け話を聞いた商人だって敵わないぐらい顔がにやついているに決まっている。
それにしても、これほどまで恥ずかしい思いは久しぶりだ。

商人になりたての頃に、しきたりやわきまえを知らずかなり恥ずかしいことをしてきたがそれとはわけが違う。
ホロのような若い娘、しかもかなり控えめに見ても綺麗な娘にあの事がばれてしまったのだ。
どれだけ顔を赤くしてもたりないぐらいで、掌の下でロレンスの眉がぎゅっと寄ってしまう。この音がホロに聞かれてなければいいが。
ホロに対してどうしてそんなことを言うんだという怒りの感情は湧き上がってはこなかった。
それよりも頭の中をぐるぐると回っているのは何故ホロにばれたのかということだ。
ロレンスはホロと一緒に旅をすることになってからは少しあの行為は控えていたし、するときは慎重に慎重を重ねてきた筈だった。
なにせホロは狼でもあるので耳もいいし、鼻もきく。何よりロレンスのちょっとした言動でこちらの思ってることが分かってしまう。警戒するのは当然だった。
やはり、厠にしては帰りが遅すぎたのかもしれない。ちょっと酔いを醒ましてくるなどといって部屋を出たほうがよかったか。
いや、今夜はいつもより飲んだ酒の量は少ない。ちょっと無理がある理由だ。
それともその時にはもうズボンが膨らんでいたのだろうか。いや、それはない。いくらなんでもそんな状態でホロに声をかけることは絶対にない。
そんなことを必死に考えていると、服の袖を引っ張っられているのに気づいた。
「…ぬしよ、ぬし。聞いておるかや。ほれ」
ロレンスは思わず苦笑した。隣でホロが何度も呼んでいるのに全く気づかないぐらい動揺していたわけだ。
これはいかん。商人たるものどんな状況であっても常に冷静でなければたちどころに足元をすくわれる。
気を落ち着かせるためにゆっくりと、しかし大きく深呼吸をするとホロがロレンスの腕をつかんできた。
顔に視線を感じたので目を覆っていた手をゆっくりと下ろすとホロと目があった。
どうせにやついた顔だと思っていたが、意外にもホロは笑ってはおらずどちらかと言えばロレンスを心配しているように見える。
「大丈夫かや」
ロレンスの様子を見て小さく微笑む。からかうような笑顔ではなかった。
そんなホロの顔を見たとたん顔が緩んでしまう自分は安上がりな男だとつくづく思う。
もう一度軽く深呼吸すると気持ちも随分落ち着いてきたのが分かる。服が燃えるほど熱かった身体も冷めてきた。
ロレンスはシャツの胸元を広げこもっていた熱い空気を追い出しながらホロにいう。
「どうして分かった?」
ことさらなんでもないように普段どうりの口調で言ったつもりだ。
ホロはロレンスが立ち直ったのを感じてか、くふっ、と笑うと自分の尻尾を指で鋤き始める。もういつもの顔に戻っていた。
「ぬし、帰りが遅かったじゃろう」
「うむ。…確かに遅かった」
「わっちは、その…心配だったんじゃ」
そう言いながら指でつまんだ小さい綿毛のようなものをじっと見つめる。
「…なにを心配してたんだ」
ホロが心配するようなことがあっただろうか。つられるようにホロの持つ綿毛を見つめながらロレンスは頭を働かせる。
ホロと一緒に旅をするようになってからは何故か面倒な事に巻き込まれることが多い。だがこの村に関しては特に何も無かった筈。
しかし、それはあくまでもロレンスがそう思うだけの話で、自分にしか感じれない不穏な空気をホロは感じ取ったのかもしれない。
ロレンスがそう思いついたのを見透かすようにホロが話し出した

「ぬしの思うようなことではありんせん。わっちが心配したのはぬしの身体じゃ」綿毛をロレンスに向けて指ではじく。
「今までの長旅でぬしの疲れがたまってるように思えてな。特にこの辺りは昼間は暑いが夜は毛布が手放せないほど寒くなる。
そんな所で今までずーっと野宿をしてきたんじゃから身体には随分堪えたと思いんす」
「それはそうだが疲れているのは俺だけじゃないだろう」
「確かに。わっちも元の姿じゃ無い時はそれなりに堪える、特に寒いのは毛皮が無いので苦手じゃ。じゃがそれ以上にぬしの方が具合が悪そうに見えとった。
久々に宿で飯が食えるというのにぬし、あまり食わんかったじゃろう。酒もいつもよりかなり少なかったしの。旅の連れと
しては心配するの当然ではないかや」
確かにホロの指摘の通り酒は控え気味だった。酒を飲みすぎるとアレの時に困る、しっかり起たなくて時間が掛かるからだ。
料理の方はたまたま苦手なものが入ってただけだ。ホロにそのことを言えばよかったと今になって後悔したが、あの時はホロに知られるとまずいと思って
わざと黙っていたのだ。ロレンスぐらいの年齢で好き嫌いがあるというのはあまり褒められることではないし、行商人なら尚更だ。
しかし、今回はそれが裏目に出たらしい。
「しかもそそくさと、厠に行ってくるなどといわれれば腹の調子でも悪くなったかや、と思うのは仕方がないと思いんす」
確かにそうだ。
「部屋に戻ってからもぬしが厠から帰ってくる気配がありんせん。もしかして厠で倒れているかもしれぬ、と思いこの可愛い耳で
ぬしを捜したというわけじゃ。すると……その、厠からぬしの…苦しそうな吐息が聞こえてくるではないかや」
話しながらホロの横顔が少し赤くなってきた。ホロがいう苦しそうな声というのは、もちろん本当に苦しくて出た声ではない。
それを分かっているからロレンスの顔もつられて赤くなってしまう。
「具合が悪い時に食べた物を吐いてしまう事は、何も人だけでなくわっちら狼だってあることじゃ。中にはそのまま吐いた物が喉に詰まってそのまま死んでしまうのもおる。
狼でさえそうなのじゃから喉の細い人間ではいわずかなもの。もしぬしがそうなっているのであれば一大事であろう。わっちはすぐにでもこの窓から飛び降りてぬしのところへ行くつもりだったのじゃが」
そこまでいうとホロは顔をロレンスに向けた。
「考えてみると吐息がきこえたのなら息ができてるということ。つまりぬしは吐いた物を喉に詰まらせているわけではない。じゃあぬしは何をやっとるんじゃ?と不思議に思ったわっちが
そこでさらに気配を探ってみればじゃ、なにやらおかしな感じではないかや。よくよく聞いてみれば妙な音も聞こえてくるし苦しそうに聞こえた声は…その…あの時の声に近い」
…まるでのぞきじゃないか。ロレンスはそう思った。もちろんホロは実際には目で見ておらず正しく言えば盗み聞きなのだがロレンスにとってはどちらでも同じことだった。
いくら狼の耳とはいえそこまで分かってしまうなんてあんまりだ。
「まぁそうなると、ぬしが自分で自分を慰めておるとしか考えられぬ。…どうじゃ、見事に当たっておったじゃろう」
ホロは上目遣いにロレンスを見るとにやっと笑う。推理が当たりさぞ気分がいいのだろう。だが、そんなホロに対して俺はどうすれば良いのか。
一緒に旅をしている娘にこんなことを指摘されて笑っていられる男なんているわけがない。明日からどんな顔ですごせば良いのか。
しかも相手はホロだ、明日からは厠に行く度にからかわれるのが目に見えているし、ちょっとした用事で一人出かけるときも一言あるに決まっている。
ロレンスはこれからのことを考えると思わず溜息をついてしまった。その溜息に反応してホロの耳がピクリと動いたのが見えたが、取り敢えずここは早く話を打ち切って寝るのが良策だと思い自分のベッドに帰ろうとした、その時だった。ホロが意外な事を言い出したのは。
「そんなに恥ずかしがる事ではないと思うんじゃが…」
さっきまでとは違いちょっと声が小さい。ホロを見るともうロレンスを見ておらず、尻尾の先を軽く指で鋤いていた。
「ぬしほどの歳を重ねた人の雄ならば、誰でもやっておることじゃったと思いんす」
「いや…まぁ、そうなんだろうが」
「じゃろう?わっちら狼とは違ってぬしら人間は常にさかっておるからの」
「言い方が少し下品だな」

下品といわれて怒るかと思ったが意外にも笑いだした。
「くふふ…子種が溜まるのは雄も雌も一緒じゃが、雌は勝手に身体から出て行く、雄は自分で出さなければならん。むしろ我慢していると身体を壊してしまうんじゃから何も恥ずかしがることは無いというわけじゃ…違っておるかや」
「違っちゃあいない…お前よく知ってるな」
さっきもあの時の声なんてことも言ってたし、少し感心していうとホロはますますご機嫌になったようだ。
「当たりまえじゃ。わっちが今までどれだけ生きてきたと思っているのじゃ。ぬしなんぞわっちから見れば小僧どころか赤子同然じゃろう」
尻尾から手を離すとそのまま後ろに両手をついて、控えめな胸を得意げに突き出す。
「そうだろうな」
そうはいったが実際には麦の神様として崇められていた間は、ずうっとあの村から出れなかったのだから、最近の世のことは俺に教えられることが多いはずだが。
「それでじゃな…話を戻すんじゃが、言いたい事というのは」
「言いたいことって、もう散々…」
「何を言っておる、まだ肝心なことは言っておらん」
「それじゃあ、今までの話はなんだったんだ」
「まぁそう怒るでない。ぬしの慌て方があんまりにも可愛かったんでな、その、ちょっとからかっただけじゃ。」
そんなことで人をからかうんじゃない、と強く抗議しようとしたがホロが急にすねた顔つきになったので、喉まで出掛かっていた言葉をぐっと飲み込み別の言葉に変えてみた。
「それで、言いたいことってなんだ」
「うむ…これはわっちの気持ちの話であって、ぬしがどう思うかはわかりんせん。じゃがあえて言わせてもらうと…ぬしよ」
ホロはそこで小さく溜息をつくと唇を少し尖らせた顔をロレンスに向けた。
「ん…?」ロレンスもホロを見つめた。
「なんでわっちを…抱こうとせんのかや?」
「…はっ?」
ホロの言葉にロレンスは固まってしまった。咄嗟に理解できなかったのだ。ホロは耳をぴんと立てて尻尾も動かさずロレンスの返事を待ち構えている。だが、一向にロレンスが口を開こうとしないのにじれてきたようで耳も尻尾もぴくぴくと震えてきた。
「なにも自分で自分を慰めずともわっちがおるじゃろう」と苛立ちを含んだ声でロレンスにいう。
「ちょっ…ちょっとまってくれ!」
ホロの言うことは理解できた。だが、話が思いっきり変な方向にそれてるように思う。
「…抱くって…お前、何を言ってるのか分かってないだろ?」
いった途端、右の脇腹に小さい拳が突き刺さった。
「たわけ!それぐらいのことわかっておる。ぬしはわっちをなんだと思うとるんじゃ」
不意を突かれたためホロの拳でも結構痛い。ロレンスは脇腹をさすりながらホロの機嫌が少しでもよくなる様にいった。
「賢狼…だろ」
「ヨイツの、が抜けとる」
そういうとホロは顔を反対に向けて黙ってしまう。ロレンスは握り締められて白くなっている小さな拳を見て溜息をつくと視線をホロの横顔に移した。少し頬を膨らませてそっぽを向くホロは、見た目どおりの少女が持つ可愛いさを見せていた
。素直に可愛いな、と思う。ただ、そっぽを向いている理由が理由なだけに、そう呑気にしてはいられないが。
「大体ぬしはわっちのことを、どう思うとるんじゃ?」
「どう…って?」
「可愛いと思わんのかや」
そう言う間にホロの頬が朱に染まる。きっと普通の娘なら頬どころか耳まで朱に染まるところだろうが、生憎ホロの耳ではそこまでわからない。ただ、ピンと立てられた耳が返事を聞き漏らさぬようにと、ロレンスの方に少し向けられていた。
そっぽを向いてる癖にこちらの返事が気になって仕方がない、そんなホロをやはり可愛いと思ったロレンスは、正直に言ってやった。
「そうだな…可愛いな」
言いながら自分の顔が赤くなるのに気づいたロレンスは、誤魔化す為自分の顔を両の手でこすった。
「本当かや?」

弾けるように振り向くと嬉しさと不安がない交ぜになった顔で確認を取るホロ。そんなホロにロレンスが驚いているのを見てとると、ホロは咄嗟に手で口を隠してから再びそっぽを向いて黙ってしまった。
ロレンスはホロの尻尾が左右に揺れるのを暫く見ていたが、先ほどの確認に対しての返事を待ってるのかホロは黙ったままだ。仕方が無いので小さく咳をしてから尻尾に軽く手を置いて、もう一度言った。
「お前は可愛い。本当だ」
「そ…それなら…」
微かに震える声を喜んでくれた証拠だと思いほっとしたロレンスに、ホロは振り向きざまに言い放った。
「なんでぬしはわっちを抱こうとせんのかや!?」
振り向いた顔は目はつりあがり、唇の端から牙が見え、さらにロレンスの手の下で尻尾の毛が針のように逆立った。ついさっきの態度はなんだったんだと言いたいくらいの豹変振りに怯みながらもロレンスは言い返す。
「だ、だから!どうしてそうなるんだ!さっきから変だぞ」」
「わっちを可愛いと思うとるんじゃろ!」
「可愛いと思ったからって、そんなことできるわけ──」
「できんのかや!」
苛立ちを交えた怒鳴り声でロレンスの言葉を遮ると燃えるような目でロレンスを睨んでくる。
「…大体、今までもわっちを手篭めにできる機会は何度もあった筈じゃ」
「手篭め…?」
「そうよ。ずうぅっと、一緒に旅をしておるんじゃ。こんなか弱い小娘一人、何とでもできた筈じゃろう」
「ちょっ、ちょっと待て。もう少し落ち着いてくれ」
ロレンスは自分の額に手を当てながら反対の手をホロの肩に置いた。
「…なんじゃ、この手は?その気になったんかや?」
「い、いや。そういう訳じゃなくてだな」
「なら、触るでない!」
言いながら乱暴にロレンスの手を肩からどかしたホロは、その仕草でさらに興奮度を増したように声を張り上げた。
「まったくぬしは分かっておらぬ!このままヨイツに行けばわっちが大恥をかくのは火を見るより明らかじゃろうが!」
「恥?…恥ってどういうことだ?」
「ぬしがわっちに手を出しておらんということがじゃ!」
まったくホロの理屈が分からない。ロレンスはほとほと困り果てたがホロはお構いなしだ。
「わっちはこんなに可愛い娘になっておるのに、一緒に連れ歩いておる雄が手を出しておらんとはどういうことかや?って事じゃろうが。外見の可愛さを差っ引いてもお釣りがくるくらいわっちに何か欠点があるみたいじゃろ」
「そんなことは…」
「このままではわっちに可愛い娘に化けてはいるが、人の雄に見向きもされない不憫なやつと笑われると言うものじゃ」
話している間に落ち着いてきたのか、ホロの言い方も随分普段どおりの感じになってきた。
だが不機嫌そうに揺れる尻尾と吊り上った眉を見る限りまだ怒りは治まってないようだ。
そんなホロにわざわざ言いたくは無かったが、一つ疑問に思ったことがあったので敢えて訊いてみた。
「…お前、もしかして俺に」まで言ったとたんホロの拳が突き刺さった。

ホロに脇腹を殴られるのはこれで何回目になるんだ、そんなことを頭の隅で考えつつロレンスは右手で
痛む脇腹をさすった。だが、さすっても治まるのは痛みだけでホロの機嫌が治まるわけじゃない。
一体どうすればこの狼の機嫌が直るのか、頭を働かせても見当がまったくつかなかった。
商売の話ではそこそこ巡りがいいロレンスの頭もこんな話では、枯れた川の水車のように止まったままだ。
ホロが言ってる事はつまり、こんなに可愛い娘の姿をしている自分が一緒に旅をしている人の男に
全然相手にされてないというのがまずいということらしい。なるほど、そういうものかもしれない。
賢狼とはいえホロも一応は女、いや雌なのだ。そんな感情があってもおかしくはないかもしれないが、そこまで
考えてロレンスは自分の中にある感情が湧き上がってくるのに気づいてしまった。それはちょっとした幻滅だ。
ホロを初めて見たときは思わず商売女と勘違いしてしまったがその後、狼の化身であることや豊作の神として
崇められていた事を知り、そしてその可憐で美しい少女の容貌からロレンスはホロを何人にも汚されていない
ものと思っていた。
だがそんな恥をかく、かかないの問題でロレンスに抱いてくれというホロが、何かその辺りにいる歳をとってもまだ
自分に妙な自信を持ち続けている貴族の中年女のように思えてしまう。ロレンスとの今までの旅路で感じられてきた
ホロらしさがまったく感じられない。なぜだろう、ロレンスは脇腹をさする手を止めてホロを見た。
ホロは黙ったままロレンスを見ていたが、やがてゆっくりと視線をそらした。
「…なんでわっちに手をださんのかや」
ホロの声からは苛立ちの色が消え、子供が親にお菓子を買ってもらえないのに気づいた、そんな拗ねたような
声になっていた。
「俺は、お前が言うようなことはしたくない」言いながら手をホロの肩に置きそうになったが、ぐっと堪えた。
「どういうことじゃ」口を尖らせてホロがいう。
「手篭めなんてのはな、相手を傷つけるだけで何の得にもならない。いや、深い恨みを買う分損にしかならん」
「まるで商売の話をしてるようじゃな」口がさらに尖る。
ちょっと言い方が悪かったようだ。ロレンスは慌てて言葉をつなげた。
「いや、その…そうじゃなくてだ、俺が言いたいのは俺自身の気持ちの問題だ。損得だけの話じゃない」
「…ほう。気持ちの問題かや」ホロがロレンスと反対側に顔を向けて言う。
なぜか声にはさっきまでとは違い、苛立ちや拗ねた感じが一切無い。
「気持ちとはどういうことかや。わっちによく分かるように言ってくりゃれ」
「…聞いてなかったのか」

少し呆れたがよくよく考えて見れば聞いてないはずがない。理由は分からないがホロはわざと聞いているのだ。
そしてさっきロレンスが言ったことをもう一度言わせようとしている。仕方がない、狼の仕掛けた罠に自分から
飛び込んでいく哀れな羊の姿を思い浮かべながら、ロレンスはそっぽを向いたままのホロにゆっくりと
噛んで含めるように言った。
「俺は、お前を、手篭めになんかしない」
「なんでじゃ」
「相手の気持ちも考えず無理やりにだな…」そこまで言ってロレンスはあることに気づいて固まってしまった。
ホロがロレンスになぜ自分を抱こうとしないのか、という話がいつの間にかなぜホロを手篭めにしないのか、
という話にすり換えられてられているではないか。そしてこの話の流れからするとロレンスが今から言おうと
してることはまるで…。
「くふふ、ぬしは優しくてお人好しじゃからなぁ。嫌がる相手を無理やりなんてことはできやせん。
まぁ、そんな度胸も無いがの、ぬしには」
尻尾だけではなく肩も大きく揺らせながら可笑しくて堪らないように言うと、ホロは満面の笑顔で振り向き
ロレンスの胸倉を掴んでさらにこう言った。
「じゃが、裏を返せば相手が嫌がってなければ抱くということじゃ」目が笑ってなかった。
「ちょっ、ちょっとまて。それはちがうだろ。俺が言いたいのは」ロレンスの背中に嫌な汗がまた流れ始めた。
「いいや、なぁーんも違わん筈じゃ。ぬしがその口で言ったことはそういうことじゃろ」
ぐいっ、と掴んでいたシャツを引っ張りロレンスの顔をさらに近づける。ホロの息がかかるほどの距離だ。
「ぬしよ安心するがよい。わっちは全然かまわぬ、むしろ助かるくらいじゃ。なにせ故郷に帰っても
恥をかかずにすむ訳じゃからの」とびっきりのにやり顔。
ロレンスは焦った。このままでは話がどんどん変な方向に進んでしまう。
仕方がない、あのことをホロに指摘しなければならないようだ。実はさっきからホロの言ってることにおかしな
箇所があるのに気づいていたのだ。なぜホロが気づかないのかが分からないが、ロレンスにとってはこの状況を
打開するのにはそれしかない。ただ、その内容をホロに言うのは少し気が引けた。
もしかして分かっていながらわざと気づかないふりをしているのかもしれない。
だがこのままホロの言い分に付き合っていては困ることになる。
なるべくホロを傷つけないようにしなければ。ロレンスはホロの頬から視線を引き剥がし床に視線を
落とすと相変わらず胸倉を掴んだままのホロに思い切って声に出した。
「お前はさっきからヨイツに戻ったら恥をかくって散々言っているが、ヨイツにはもう…」
言いながら少しづつ声を小さくしつつ最後まで言わなかったのはせめてもの配慮だ。

言った瞬間ホロが小さく身じろぎしたのがわかった。言い過ぎたかもしれない。
ロレンスもその先を続けるつもりはなかったし、ホロも望んでないような気配がする。
お互い気まずい時間が流れはじめた。
ちっとも高そうじゃない板張りの床を長い間見ていてもホロがぴくりともせず黙っているので、ロレンスはやはり
ここは触れてはいけなかったようだと思い少しばかり後悔した。ロレンス自身も遠く置いてきた故郷に自分を
待っている人がいないと指摘されれば、分かっていても心が痛むだろう。
どうやってホロを慰めようかと考えを巡らせながらホロに視線を戻した。
そこには唇を震わせて今にもその赤い瞳にたまったものが零れ落ちそうになっているホロが見える…
筈だったのだがどういうわけかそこにはロレンスの思い描いていた娘の姿はなく、見えたのはロレンスがいつ
こっちを向くかと待ち構えていたらしく、ここぞとばかりに声を張り上げようとしているホロの姿だった。
「たわけ!わっちがそんなことで涙ぐむと思うとるんか。帰っても誰もおらんじゃと?
確かにあの鳥の娘から借りた本にはそうは書いてあった、じゃがそれが真実とはかぎらぬ。あくまでも人の
言い伝えじゃ。それにあの本が正しかったにせよ、その後わっちのように故郷を懐かしんで帰ってきとる仲間が
いないとも限らぬ。そうじゃろう?」
シャツを掴んだ手をがくがくと揺らしながら一気にまくし立てるとホロは満足そうに頷いた。
少し楽観的すぎるなと思ったが口にはださなかった。口から出たのは別のこと、さっき感じたホロらしさが感じ
られなくなった理由についてだ。
「それはそうだろうが…じゃあ、お前は本当にそんなときの為だけに俺と」
言いながらシャツを握っているホロの手を振りほどいた。この先ホロが何か言うたびにがくがくされては困る。
「それだけの理由じゃありんせん」ホロは即答した。
「ならそのべつの理由とやらをいってもらおう」
「ふむ、まあ、いずれの」少し慌てた感じで言うホロはなぜか頬が朱に染まっていた。
「そんなことよりぬしよ、わっちは今からでもいいんじゃが」
ロレンスの乱れたシャツの襟をそっと撫でながらホロが言う。
「それとも何かや、ほかにわっちを抱けん理由があるのかや」

ベッドの上で揺れるホロの尻尾を見て咄嗟に思いついた理由を言ってみた。
「お前は神様なんだろう。俺はこのとおり何の変哲もないただの商人だ。とてもお前とはつりあわないし、
神様を抱くだなんて恐れ多くてとてもそんなことはできやしない」
言ってから我ながら上手い言い訳だと思った。半分ぐらいは本当にそう思っていることでもある。
「わっちゃあ神なんぞじゃありんせん」
「豊作の神なんだろう」
「人よりも長生きしとるただの賢狼じゃ」
「あんな姿を見て、そう思わない人はいない」
「じゃあぬしは神の姿を見たことがあるのかや」
ロレンスは言葉に詰まってしまった。
「姿形で神かどうかを見極めれる人なんぞどこにもいやせん。ま、確かにわっちの本当の姿は
あんなんじゃがな、それが神であるという証拠にはなりんせん」
ホロはそういうがロレンスから見れば限りなく神に近い存在であることには変わりない。
「だからにも恐れなくてもいい、そう言いたいのか」
「うむ、それにぬしは全然ただの商人ではないとわっちはそう思うし、たとえそうであってもぬしとわっちが
つりあわんとも思えんの」シャツの襟を軽く引っ張りながら言う。
「その理由は」
「神か人かなんてことはお互いの間には関係はない。肝心なのはわっちが雌でぬしが雄ということじゃ」
ホロはにっこりと微笑むと続けて言った。
「十分つりあっておるじゃろう」
「む…」
「じゃあこれで話は決まりじゃ!」胡坐をといたかと思うとベッドの上で仁王立ちになったホロは、腰に手を置いて
呆れるくらいの笑顔でロレンスを見下ろして言った。
「わっちはぬしに抱いてほしい。ぬしはわっちが嫌がってなければ抱いてもいいという。これ以上わっちらの
することを邪魔するものはありんせん」
「まてまて!お前な、俺はそんなこと──」
「そんなにわっちを抱きたくないのかや」少し悲しさがまざったような笑みだ。
「そういうわけじゃ…」ないといいかけてロレンスは口を閉じた。

考えてみればなぜ自分はこんなにむきになってなっているのだろうか。
本音を言えばホロを抱きたい気持ちは当然ある。こんな見た目の娘と一緒にいれば普通の男はそう思うのではないか。
ロレンス自身もホロと出会ってからはホロの身体を思い描きながら自分を慰めてきたのだ。
そんな自分がなぜホロにここまで言われても頑なに拒んでいるのか。
ズボンから出ているホロの細い足首が目に入った。そのまま顔を上げるとホロと目があう。
かなり昔の暗い記憶が嫌になるくらい鮮明にロレンスの頭に浮かび上がってきた。
自問自答する必要もない。理由は明らかだ。だがそれをここでホロに言えない。
「どうなんじゃ」ホロの赤い瞳と小さな口から出た声には不安の色が滲み出していた。
そんなホロの顔はどうせ演技だろうとは思ったが、たとえ演技でもいつまでも見たくはなかったので横を向いて言ってやった。
「…抱きたくないわけないだろ」つい溜息が出てしまう。
この結果がどうなるかがロレンスには見当がついている。どうせホロは、じゃあ今すぐにでも、なんて言い出すんだろう。
そう思いホロの顔を見ると、驚いたことに頬どころか顔全部を朱に染めたままで固まっていた。
「ホロ…?」
ロレンスが声をかけると慌てて横を向く。尻尾がどういうわけか縦方向に大きく揺れていた。
「う、うむ、そうじゃろう。じゃが…もっとはっきりと言えぬものかや」
声が少し上ずっているが相変わらず横を向いたままのホロを見てロレンスはもう一度溜息をついた。
「な、なんじゃ、それは。そんなもの出す前に言うことがあろう」
顔だけでなく体も横に向けると腕を組んであごを突き出すようにして言う。
「わかった。…俺はお前を抱きたい。これでいいんだろ」
「たわけ。最後の一言は余計じゃ」ホロの自慢の耳がぴくぴく動く。
「これくらいは言わせてもらわんとな」
言うと同時にロレンスがびっくりするくらいの速さでこっちに向き直ったホロの顔は、ロレンスが初めて
見るくらいのいい笑顔だった。
「くふふ、そうか。そんなにわっちを抱きたいのかや。ぬしにも困ったものじゃなあ。ま、わっちゃあこんなに
可愛いからの、無理はないがの」
お前が俺にそう言わせたんだろうが。そう指摘してやりたかったがホロの顔をみると言えなくなってしまう。
「そうと決まれば膳は急げじゃ」腹の辺りに手を持っていくとなにやらごそごそし始めた。
「なんのことだ」
「ぬしがいつまでもぐずぐずしておるんでほれ、随分夜が更けてしまっとるじゃろう」
あごで窓を指すとホロはいきなりズボンを膝まで下ろした。上に着ている服の裾のおかげで肝心な箇所は見えない。
ロレンスがちょっと待て、と言う間もなく足をじたばたさせてズボンを脱いでしまった。
「なにをぼさっとしとる。さっさとぬしも服をぬぎんす」
「…いまから?すぐ?」

        • ロレンスの問いに答えずににやりと笑うと、ホロは着ている服のすそを持って一気に引き上げた。
下どころか控えめだが形のいい乳房が丸見えになる。どうやら本気でいまからここでする様だ。
もう何を言っても無駄だな。そう思ったら自然とロレンスの口から、今日何度目か分からない溜息が出た。
「む」ホロの動きが止まった。
ちょうど頭から脱げたところらしく両腕に服が絡み付いていた。
「ど、どうした」今の溜息が気に入らなかったのかと思ったが、そうじゃないようだ。
「…ぬしよ」ホロが自分の腕に絡む服を見ながら言う。
「なんだ」
「わっちが自分で脱いではいかんかったの」
ホロの言わんとすることが分からず返事ができない。
「いや、人の雄というものは雌の着ているものを脱がすのが好きなんじゃろう。ぬしもわっちを
脱がせたかったのかと思い直しての」
「……」開いた口を閉じることができなかった。
「な、なんなら今から服を着るんで、最初からやり直してみるかや」
服を脱いでるときは赤くなかった顔が、その台詞を言った途端に熟れたトマトのように真っ赤になった。
「あ…いや、気にしなくてもいいから。その、続けてくれ」
閉じれなかった口を無理矢理に閉じてから、何とかこれだけの言葉を口から出すことに成功した。
「そうかや…じゃあ遠慮なく」そういってホロは腕から服を振り落とすと本当に裸になった。
「なんじゃ、まだ脱いでおらんのかや。わっちはもう準備万端、ほれ、このとうり」
片手を腰において、もう片手で髪をかき上げる仕草が妙に色っぽかった。
「それともぬしは雌に脱がせてもらうのが好きなのかや」
ニヤニヤして尻尾を振りながら近づいてくるホロを手で制してから、ロレンスはまた溜息をつきながら
言わなければならなかった。
「そんなわけないだろ。俺はどっちも特別好きじゃないんでな」
嫌いでもないが、という言葉が続けて喉から出そうになったのを何とか堪えたロレンスだった。


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