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中国」(2005/08/21 (日) 17:37:14) の最新版変更点

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<h1><br>  <font color="#FF6666">中国</font></h1> <hr> <h3><br>  1.中華人民共和国の略称。(国号の略称としての「中国」)</h3> <h3><br>  2.中国大陸。(概念大陸としての「中国」。ただし、チベット・ウィグル等は除外されることが多い)</h3> <h3><br>  3.中原・中華・中夏・中都・華夏に同じ。(特に古代・中世に於ける地域としての「中国」)</h3> <br> <hr> <br> <h4> 一.<font color= "#FF0000">中国大陸4000年の歴史</font> 【夏→商(殷)→周→ry】</h4> <h4>  一般的に「中国4000年の歴史」という場合には、おそらく2を指すと思われる。<br>  このキャッチフレーズは糸井重里氏によるもので、「中華三昧」のCMに使用された。<br>  現在では、紀元前1700年頃に建国された商(殷)王朝から数えるのが普通であるが、<br>  紀元前2200年頃に建国された夏王朝から数える学者もいる。</h4> <h4>  どちらにしても、大体3700~4200年前後であり、四捨五入すれば4000年になるので、<br>  認識としてはほぼ正しいと言って問題はないと思われる。</h4> <h4>  中華人民共和国では、いわゆる黄河文明(中国文明)を起源として、<br>  「5000年の歴史」として教えている。こういうものは考え方の違いなので、ある意味で正しいと言えるが、<br>  1949年10月1日に建国された中華人民共和国には、現在のところ56年の歴史しか無いので要注意。</h4> <h4><br></h4> <h4> 二.<font color= "#FF0000">「支那」とは何か?</font> 【周→秦→西漢→ry】</h4> <h4> 略。</h4> <h4><br></h4> <h4> 三.<font color= "#FF0000">どこからどこまでが「中国」なのか?</font> 【西漢→新→東漢→三国(魏・蜀漢・呉)→ry】</h4> <h4>  ここでは、2の「地域としての中国」に注目してみたい。<br>  大雑把には、洛陽を中心とする地域でほぼ間違いは無いが、しかし古代に編纂された歴史書を見ても、<br>  「どこからどこまでが中国である」という具体的な記述は意外と少ない。<br>  その中の一つ、『三国志』文帝紀の黄初二年(221)の条の注釈。<br>  文帝は魏の初代皇帝曹丕。曹丕の父親が曹操。ユニコード文字は[]でくくった。</h4> <h4>  「魏略曰、改長安・[言焦]・許昌・[業β]・洛陽爲五都、立石表、西界宜陽、北循太行、東北界陽平、南循魯陽、東界[炎β]、<br>  爲中都之地」(三国志魏書第二文帝紀黄初二年条注引魏略)</h4> <h4> 「『魏略』という書物には、こう書かれてある。<br>  長安・[言焦]・許昌・[業β]・洛陽を、魏の五大都市とした。そして、石の標識を立てて、西は宜陽まで、北は太行山脈まで、<br>  東北は陽平まで、南は魯陽まで、東は[炎β]まで、これを中都の地域とした」</h4> <h4>  長安は西漢の帝都、[言焦]は曹一族の出身地、許昌は曹操の初期本拠地、[業β]は曹操の中期~後期本拠地、<br>  洛陽は東漢・魏の帝都。</h4> <h4>  しかし、宜陽だの、太行山脈だの、陽平だの、魯陽だの、[炎β]だのと言われてもピンと来ないと思います。<br>  わかりやすく赤線でかこってみました。では、西暦221年初頭当時の「中国」の範囲は・・・</h4> <br> <p><img src= "http://www5.atwiki.jp/tasiro_vipper/?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=47&amp;file=chinamap.jpg">)<br> </p> <h4><br>  以下、略。</h4> <h4><br>  文責:組曲</h4> <br> <br>
<h1><br>  <font color="#330099">中国</font></h1> <hr> <h3><br>  1.中華人民共和国の略称。(国号の略称としての「中国」)</h3> <h3><br>  2.中国大陸。(概念大陸としての「中国」。ただし、チベット・ウィグル等は除外されることが多い)</h3> <h3><br>  3.中原・中華・中夏・中都・華夏に同じ。(特に古代・中世に於ける地域としての「中国」)</h3> <br> <hr> <br> <h4> 一.<font color= "#FF0000">中国大陸4000年の歴史</font> 【夏→商(殷)→周→ry】</h4> <h4>  一般的に「中国4000年の歴史」という場合には、おそらく2を指すと思われる。<br>  このキャッチフレーズは糸井重里氏によるもので、「中華三昧」のCMに使用された。<br>  現在では、紀元前1700年頃に建国された商(殷)王朝から数えるのが普通であるが、<br>  紀元前2200年頃に建国された夏王朝から数える学者もいる。</h4> <h4>  どちらにしても、大体3700~4200年前後であり、四捨五入すれば4000年になるので、<br>  認識としてはほぼ正しいと言って問題はないと思われる。</h4> <h4>  中華人民共和国では、いわゆる黄河文明(中国文明)を起源として、<br>  「5000年の歴史」として教えている。こういうものは考え方の違いなので、ある意味で正しいと言えるが、<br>  1949年10月1日に建国された中華人民共和国には、現在のところ56年の歴史しか無いので要注意。</h4> <h4><br></h4> <h4> 二.<font color= "#FF0000">「支那」とは何か?</font> 【周→秦→西漢→ry】</h4> <h4> 略。</h4> <h4><br></h4> <h4> 三.<font color= "#FF0000">どこからどこまでが「中国」なのか?</font> 【西漢→新→東漢→三国(魏・蜀漢・呉)→ry】</h4> <h4>  ここでは、2の「地域としての中国」に注目してみたい。<br>  大雑把には、洛陽を中心とする地域でほぼ間違いは無いが、しかし古代に編纂された歴史書を見ても、<br>  「どこからどこまでが中国である」という具体的な記述は意外と少ない。<br>  その中の一つ、『三国志』文帝紀の黄初二年(221)の条の注釈。<br>  文帝は魏の初代皇帝曹丕。曹丕の父親が曹操。ユニコード文字は[]でくくった。</h4> <h4>  「魏略曰、改長安・[言焦]・許昌・[業β]・洛陽爲五都、立石表、西界宜陽、北循太行、東北界陽平、南循魯陽、東界[炎β]、<br>  爲中都之地」(三国志魏書第二文帝紀黄初二年条注引魏略)</h4> <h4> 「『魏略』という書物には、こう書かれてある。<br>  長安・[言焦]・許昌・[業β]・洛陽を、魏の五大都市とした。そして、石の標識を立てて、西は宜陽まで、北は太行山脈まで、<br>  東北は陽平まで、南は魯陽まで、東は[炎β]まで、これを中都の地域とした」</h4> <h4>  長安は西漢の帝都、[言焦]は曹一族の出身地、許昌は曹操の初期本拠地、[業β]は曹操の中期~後期本拠地、<br>  洛陽は東漢・魏の帝都。</h4> <h4>  しかし、宜陽だの、太行山脈だの、陽平だの、魯陽だの、[炎β]だのと言われてもピンと来ないと思います。<br>  わかりやすく赤線でかこってみました。では、西暦221年初頭当時の「中国」の範囲は・・・</h4> <br> <p><img src= "http://www5.atwiki.jp/tasiro_vipper/?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=47&amp;file=chinamap.jpg">)<br> </p> <h4><br>  以下、略。</h4> <h4><br>  文責:組曲</h4> <br> <br>

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