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erabare_19

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tlanszedan

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   選ばれた者達

   No.19

   日常と非日常の狭間で、マレスター 1/3



 男はまたいつものように食料品店に顔を出し、牛乳をニパック買うとそれだけで店を後にする。店員は男がいつも牛乳だけを買っていくのに慣れているらしく、代金を受け取ると袋に詰めて男に手渡した。
 男は汚らしいアパートの階段を登り、二階の部屋に入った。冷蔵庫を開け、先ほど買った牛乳を入れる。冷蔵庫の中身は一本の口の空いている牛乳があるだけだった。
 買い物の荷物を決められた位置にしまうと、部屋の中を歩き、キャンバス、筆、絵の具、バケツを集める。一通りの荷物がまとまった所で、男は近所の公園に向かって行った。その公園は広く、池、丘、生い茂る木々などに恵まれている。
 軍人としての現役を退いた男にとっては、何か趣味を持つことが必要だった。それでここ最近絵をやってみようかという気になったのだ。そろそろ絵をはじめて一年。マレスターは自分の描く絵がそれなりに様になっているのを感じていた。静かな池。草の生える丘。そして背の高い木々。マレスターは自然風景を主に描いていた。そこには当然動物も人も通り過ぎるのだが、マレスターはそれらを被写体にすることはなく、ただ自然のみを描き続けていた。
「俺に、武器以外にもこの手で扱えることがあるんだろうか……。まあ大分描けるようにはなったが、まだまだガキの落書き以上ってレベルだな、これは」
 軽くため息をつく。しばらくして絵を描くのに飽きてくると、マレスターは足元に落ちている落ち葉を拾った。何気なく手の平の上に乗せて眺めた後、それを前方にある木へ投げつけた。落ち葉は矢のように鋭くなると、深々と木に突き刺さった。マレスターは折りたたみ椅子から立ち上がり、その投げつけた落ち葉へ向かう。木の前で立ち止まり、落ち葉に触れた時にはすでに落ち葉に一瞬見られた矢の様な特徴は消えており、木から抜き取ろうとするとぼろぼろに崩れ落ちた。

 翌朝、窓から入り込む朝日で目が覚めると、マレスターは冷蔵庫から牛乳を取り出し一気に飲みほした。その日は天気も良く、暑さを感じるほどだった。GパンにTシャツ一枚の格好になると、工具をいくつかかき集め、部屋を出る。駐輪場に置いてある自転車を通りに出すと、メンテナンスを始めた。ねじを締め直し、チェーン、ブレーキ、ペダルに油をさす。タオルで車体を拭き、前輪、後輪に空気を入れなおす。
 一時間ほどその作業に没頭すると、マレスターは作業を終え、部屋に荷物を置きに戻った。今日はこのまま散歩に行くとするか。絵描き道具をまとめると再び表に出て行き、自転車を走らせた。風を切り、どこへ行くという目的もないまま自由に足を動かす。そしてマレスターは一つの小さな公園を見つけた。ブランコが一つ、ベンチが二つだけという寂しい公園だ。木々は高く生い茂り、公園の中は光が射さずに暗くなっている。ちょうど暑かったので、そこで一休みをすることにした。道具一式をベンチに置き、水筒から水を一口、二口喉に流し込む。それからここで絵を描こうかと思ったが、あまりに暗いのと被写体がないことで絵など描けない。しばらく涼しんだ後、別の場所へ移動することにした。
 結局その日は絵は描かなかった。

 そんなことを繰り返しているマレスターは、生きがいを見つけられないでいた。何か趣味を持とうと絵を始めているのだが、それも長続きはしそうもない。今までの生活があまりに現実離れし、特異なものだったので普通の生活に慣れることが出来なかったのだ。

 マレスターは二十年以上も、軍隊で陸軍歩兵として勤務していた。当時は血気盛んで、どんな危険にも喜んで頭を突っ込んでいた。ある時、携帯していた銃の弾薬が底をつき、仲間の武器もなくなりかけて死の淵に瀕したことがある。その時とっさにマレスターは足元に落ちていた数個の石を掴み取ると敵に向かって投げつけたのだ。銃相手に石つぶてとは無謀な戦いだったが、その石つぶては空中で見る見るうちに薄くなり、かみそりのように変形していた。その石つぶての刃物は敵の両手の指を切断し、銃を使えなくしていた。マレスターはその姿を確認すると、隠れ家から飛び出していった。仲間もそれに続き、火気を使えなくなった敵を立ち上がれなくなるまで殴りつけていた。そんな風に危機を脱した後、マレスターは冷静に戦いのことを整理し、自分の不思議な力を認め、開花させていったのだ。物を武器化する……。マレスターは自分が触れたものに対して重量を変化させたり、強度を変えたり、変形させることが出来た。訓練次第でその力は鍛えられ、軍人として大いに役に立つものとなった。落ち葉を手裏剣のように扱い、木の枝を槍のように扱う。川、水筒に入っている水を使った水鉄砲という子供の遊びのようなものでもテーブル、椅子のようなものならば破壊することさえ出来た。
 しかしそんな能力も、日常生活には役に立つことがない。
 まるで抜け殻になってしまったような気持ちで、数年は惰性の生活を送っていた。しばらくは国からの退職金で暮らしていけたが、何かをしていないとそのまま腐っていってしまうだけだろう、とマレスターは思い、何か夢中になれることを探していたのだ。

 ある日、再び絵の道具をそろえて公園へ行こうとしていたが、絵の具が足りないことに気づいた。いつのまにか何色かの絵の具がほとんどなくなっていたのだ。買い物に出掛けるか。マレスターは汚い服で絵を描きに出掛けようとしていたが、買い物に行くことになったので着替えを済ませた。人に会っても相手に迷惑のかからない程度の服に。
 自転車をこぎ、駅周辺の商店街へ向かう。平日だというのにそこは人でにぎわっていた。若者の姿もたくさん見える。まだ午前中、マレスターの目に映る若者はどう見ても高校生といっていい年齢だった。五、六人のグループで道端に座り込み、タバコをふかしている。マレスターはため息をついていた。……平和な世の中はいい。いいんだが、俺達軍人はこんな者達の生活の為に命をかけていたのか? と。しかしこんなことを考えていても仕方がない。マレスターはその若者の横を通り過ぎて、何件か先の画材屋へ向かっていった。若者の一人は、マレスターが通り過ぎた後に眉間にしわを寄せてマレスターに罵声を飛ばしていた。
「おい、汚いんだよ、オッサン。あんた、浮浪者じゃねえの?」
 途端にグループから笑い声が響く。マレスターは一度立ち止まると、ゆっくりと振り返った。若者のグループはしゃがみこんだままこちらに視線を向けている。マレスターは何も言わずに、その冷たい視線で若者達を威圧した。死線を潜り抜けてきた人間が持つ凄み。圧倒的な力の視線に、若者達は途端にすくみあがってしまっていた。
「な、なんだよ浮浪者のオッサン。文句でもあんのか……」
 その声は小さく、情けなく震えている。マレスターはすぐに相手に背を向けると、目的の店に向かって再び歩き出す。
 若者達は緊迫感から解かれ、大きく息を吐いていた。――今のオッサン、絶対に人を殺したことがある……。
 全く、あんな空威張りの若者がなんと多いことよ。あんなものでは戦場では何の役にも立たない。……しかし今の世の中、戦場などないだろう。あったとしても頭脳戦、知略戦。戦いの武器は兵士の銃、刃物から細菌兵器、核など大掛かりなものになっている。そして、その世の中ではマレスターも何の役にも立たないのだ。俺も、あの若者達も所詮は同じレベルということか。
 ふと物思いにふけり、昔を懐かしがっている自分に嫌気がさしていた。あんな殺伐とした時代を懐かしみ、戻りたいと思うなんて。マレスターは数年間の心のケアがあまり役に立っていないことは十分わかっているつもりだったが、それでも世間から戦争中毒者と呼ばれたくはなかった。――これからはささやかに暮らしたいんだ。
 それから画材道具を何点か買い揃えたが、その日は絵を描く気分ではなくひたすら風を切って自転車を走らせた。戦場での、人との生死をかけたふれあい。今の平和な世の中の、緩慢な人とのふれあい。一人で自転車を走らせていると、それら人間のしがらみから一時でも離れられ、純粋に自分自身だけの空間を持つことが出来た。部屋に一人じっとしていても、何かを考え出してしまうと途端に憂鬱になってしまうこともある。しかし今のように単純にペダルをこぎ、特に何も考えずに風に包まれているというのはマレスターにとっては心の安らぐ時だった。
 すっかり日が暮れるまで自転車をこぎ続け、心地よい疲労が体を包んでいた。アパートに帰る途中、コンビニエンスに立ち寄ると、牛乳を一本買う。そして適当な公園を見つけると自転車を止めてベンチに腰掛けた。道路沿いにあるその小さな公園にはマレスター以外には誰もおらず、ひっきりなしに目の前を通り過ぎる車のせいで、音がやむことはない。マレスターは騒音を気にすることもなくのんびりと牛乳を口にしていた。しばらくその一人きりの時間を満喫し、夜空を眺める。車の排気ガスによって空はよどみ、すっかり夜になっているというのに星一つ見えない。
 牛乳を三分の二ほど空けた時、足元に何かがいるのに気がついた。黒い野良猫だ。毛はぼさぼさで、瞳は闇の中で不吉に黄色く光っている。しばらく足元にいたが何もくれないと感じたのか、数メートル先まで離れていった。しかしそこで立ち止まると未練があるようにこちらを振り返った。
「なぁー」
 喉の枯れたかわいくない泣き声だった。マレスターはかがみこむと相手の瞳を見据えた。黒い野良猫は振り返った態勢のままじっとしている。そしてまた一泣き。
「なぁー」
「なんて可愛げのない奴だ。ほら、こいつはやるよ」
 マレスターは飲みかけの牛乳パックの口を開いた。しかしこのままでは猫の舌は奥にある牛乳まで届かないだろう。マレスターは先ほどのコンビニエンスでもらっていたレシートをポケットから取り出した。右手に持ち、力を入れる。するとレシートはかみそりのように強度を増した。そのレシートで牛乳パックを半分に切りさくと、足元に置いた。黒い野良猫は怪訝な表情でその様子を眺めていた。マレスターはじっと待っていたが、猫が寄ってくる気配はない。
「なぁー」
 猫は迷惑そうにマレスターに向かって声を出しているようだった。マレスターは立ち上がると画材道具を背負い、自転車をゆっくりと押していった。少し離れた所で先ほどのベンチを見てみると、あの黒い野良猫はようやく牛乳を飲み始めている所だった。人間がいなくなってようやく緊張を解いたのだろう。マレスターはその姿を確認してから帰路に向かった。

 自分の部屋につくと、荷物を片付ける。ほっと一息をついて腰を下ろし、壁によりかかる。
「俺は何がしたいんだろうな。やはりあの戦場での緊張感は忘れることができない……」
 天井を見上げ、昔を思い出す。戦場。決して楽しい思い出ではない。しかしその時は確かに命が輝いていた。生と死の狭間の生活から生まれる感情。マレスターは急に立ち上がると熱いシャワーを浴びた。嫌な気分は洗い流してしまおう。そしてまだ先は長いんだ。難しい問題はすぐには解決できない。続きは明日だな。
 そして窓を半分開け、風を部屋に入れる。シャワーの後にくしを入れていない髪の毛はぼさぼさのままだった。マレスターはそのまま髪が乾くのを待っていた。夜の静かな冷たい風に当たっていると、眠気がゆっくりと襲ってくる。マレスターはしばらくして窓を閉めるとベットに横になった。腕を頭の下に組み、ゆっくりと気を静める。東洋の禅の気持ちで心を無にしていた。そしてそのまま眠りに落ちていくのに身を任せる。

 翌朝もいつもの時間帯に目が覚めた。一日のスケジュールが体に染み込んでおり、目覚まし時計という道具や、仕事という用事がなくても常に六時には起きることができる。
 洗顔、トイレを済ませ冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。片腕を腰にかけ、もう片方の手で牛乳を一気に喉に流し込んだ。
「さあ、今日は何をするかな……」
 朝の陽射しは優しく部屋の中へ入り込んできていた。
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