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2011年4月

4.01(fri)
  • 待っていた日
この日が来るのをみんなまっていた。歓喜の四月にはさまざまなイベントが用意されていた。それが五月以降に延びた今、今のこの活動のない期間がもどかしい。

4.05(tue)
  • 新年度
あけましておめでとうございます。という声は部内からは聞こえない。まぁ当たり前か。なにがおめでたいのか、よーわからん。
新年度は今年度、昨年度という言葉で使われるが、代が変わるわけでも、年が明けたわけでもない。ただ新入生がはいってきて、新しい幕開けが始まる、という意味で使われるのであろう。私個人は今シーズンという言葉に置き換えて理解している。現状を説明するのならば、今シーズンは始まったが開幕が3週間ほど延期した、という風に説明できる。まぁどーでもいいか。部員諸君自主トレ頑張ろう!

4.10(sun)
  • 春うらら
春という季節は、あたたかく自律神経系が一年で最もいいコンディションになる時期である。疲労も軽減され、怪我もしにくい時期でもあり、持久・体幹の冬型のトレーニングから総合的な能力を一気に伸ばせる時期であり、こういう時期のトレイルランはメンタル的にも肉体的にもいい結果に結びつきやすい。冬の終わりは実践の幕開けを意味することと思う。春、という季節がわれわれに課す試練はいかに実践型に体を戻していくか、発汗の少ない体、脂肪の少ない体、等々実践にむけてわれわれは準備をしなければならない。

4.19(tue)
  • 熊嵐を読んで
6人の死者をだした 三毛別熊害事件 を題材に当時の人の証言に基づいて構成されていた。臨場感あってドキドキ。殺人ヒグマを撃った狩人は実は素行が悪く村人に嫌われていたのだが、話の最後に彼が心に抱える狩人魂の描写に妙に納得した。命をかけるということ、そこから解放されて村に戻って感じる生。

恐怖から帰れば誰でも気も緩む。

この事件は大正期に起きた事件で、当時の貧しい生活が事態を加速させてしまい、6人と胎児が殺された。そのうち女性は冬眠に失敗したヒグマに食い物の標的にされ食い殺されてしまった

山域にもよるが、必要であれば我が部でも熊対策特講を用意しなければならない。

4.20(wed)
  • 第8回部会
今日は装備返還と部室掃除が終わった後13時から部会が行われた。新入部員発表と復部員の発表をし、個人山行連絡でリーダーから気合の入った演説があり、それに応えてエール係からのエールで見送ることをした。

今後の日程の発表で本部陣が把握していない部分があったのは反省点である。自分も予定表を持ってくるのを忘れてしまった。

4.26(mon)
  • Night Run
最近夜にランニングすることが自分の中でマイブームになっている。河原沿いの平坦な道を45分くらいかけて走るのだがなかなかいい。時間帯によっては道に同じくランナーたちがにぎわう。20時くらいが一つのピークのようだ。夜のランニングは結構容易にランニングハイという走ることによる高揚感を味わうことができる。今は節電中で明かりが少ないのも大きな理由だと思う。走っていると闇夜に吸いこまれていくように感じ、遠くに見えるスカイツリーのライトアップ(白色の電灯がついてるだけ)がなんかさみしげで闇夜に調和し、趣深い。昼間に走ってもランニングハイはなかなか味わえない。ひとかけらの不安を携えて、闇夜の中を突き抜けて走り、不安を払しょくができれば、悦に浸れる。どこかさみしげで、闇に吸いこまれていく感覚、走ることに喜びを見いだせる、そうした環境を実現しているのはまぎれもなく、闇夜である。闇夜の中で走ることは一つのロマンである。

4.29(fri)
  • 副将の山の価値観

どうして山なんか行くの?

って聞かれるのが怖い部員よ、それでは先はのぞめないぞ

昔にも言ったが、どうして山なんかに行くのか、というより、どうして山に行かないのか、聞きたくなる。


なんでベテランみたいに人生をうまくわたろうとするのか、まったくもって魅力ない。
どんなにあがいたとこで所詮たいしたことない、半人前なのに、ほめないとなにもやってくれない、と言われるゆとり世代。


そんなゆとり世代は楽してきちゃったから、こう考えるわけだ。

山なんてつらそう、危険じゃないの?、もっとほかにやることあるでしょ


苦笑

若さを腐らせた、頭でっかち口先人間である

その年でじじババかよっ(笑)
なに人生セーブしちゃってんだよ

と思ってしまう。

若いということが、どんだけ貴重かなんてのは年を取らないとわからないから、凡人の我々にはなおさら、気づきにくい山の魅力にありつける機会は少ない。

ごみ捨て場のようなとこで我々は寝られるか?

そういう経験がいかに生産性がなくて、狼狽するかは想像するのは難くない。
しかしそういう経験がどれだけ後で意味をもつのか、わかっている人が少ない。

バカが少ない現代にはバカみたいな思い出が人生の至福の源流であることを悟らせるには 現代には難しい。

そう思えばどうだろう?
自分たちはすごい価値のあるクラブにいるというアイデンティーが生まれないか?

そう考えれば なぜ山に~なんてのに答える必要すらないことが分かってくると思う。

山の魅力のわからない人間に山の魅力を伝えるのは不可能だからである。
みんなそれぞれの山の魅力を悟るものだということを知らない人間にどうして一般論の説明ができるのか、答えられるのか?

興味を持っている人間にしか、山は微笑まない。