「古術:力走るのこと」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

古術:力走るのこと」(2006/10/18 (水) 23:28:26) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

*古術:気走るのこと(2006-10-18) #counter 古術では「気走りを読む・気筋を読む」ということが重要視されている。これは、他派に無い特別な理合いというものではなく、剣道で言うところの先の先とか先々の先にあたる概念である。 「相手が打とうとする『う』を打つ、相手が斬ろうとする『き』を断つ」ということを最重要視している。 このことを「宇気断ち(うけだち)」と呼んでいる。 空手や剣道などでは、これを乱稽古で自然と学んで行くわけだが、古術には乱稽古が無いため、手形で学ぶ。だからこそ「寄せ手(技を掛ける方)」は、一本、一本、真剣に打っていく。 その「宇気」を悟って、一気に斬り込むことが大変重要なこととなる。また、この稽古をしていると、自然と相手の「気走り」が読めるようになる。 私は、日本拳法時代、カウンターが得意だとよく人から賞されていたが、正確に言うと、相手の「気走り」を読むことにけっこう長けていたということである。 これは、剣道家なら全く当然の術理であり、特別なことではないのだが、乱稽古無しでも案外といける、と言うのが私の実感である。 ただし、手形稽古とは言え、一本、一本を寄せ手が本気で打っていかないとこれはできない。だから、乱稽古以上に手形稽古は達人を生みにくいシステムだ、と私は考えている。 よく、古武道関係の本などで、現代武道はルールのある闘いであり、古武道は死合いの手だとか言って、現代武道を批判する記事を見かけるが、私は防具付きでも現代武道の方が厳しく、本当の実戦では、型稽古のみの者はよほどの才が無い限り、打ち負かされるのではないかと思っている。 あまり、古武術を神秘化するのもどうかと考えている。しかし、確かに古武術の技の方が真剣試合では役に立つのも事実だから、理想を言えば、乱稽古のある現代武道をやった人が古武道を学び、真剣手合いを知る、というのが一番良いのではないかと考えている。 そういう理由があって、私の所では日本拳法道と古術の二つを平行してやっている訳である。(館長) [[風門の儀に戻る>風門の儀]]
*古術:力走るのこと(2006-10-17) #counter 私は、文章が下手で、古術の理合いをうまく伝えうることができないが、できるだけ「手具合」を「言伝」しておきたいと思う。 今回は、古術の最も奥義である「力走り」について「言伝」ふ。 古術には、「力走り」とか「気走り」と言う概念がある。これは、人間の体が気の流れの線と力の流れの線から出来ているという考えに基づく。 普通は、「力線(りきせん)」と呼び、これを読むことを重視している。古くは、これを「入れ筋」と呼んでいた。 どういうことかと言うと、合気とは違い、相手の力を無効にするという考えではない。むしろ、感覚的には相手の発する力の線にこちら側の力をまっすぐにぶつけていったり、あるいは、相手の力線を感じ取りながら崩れる方向に崩していくという概念である。 言葉で説明するのは非常に難しいのだが、この原理こそが体術・剣体術における福光派の最も重要な理合いとなっている。 これは感覚的なもので、長年手形を稽古していると不思議に読めるようになってくる。その頃には、人間の体を中心線を中心に、手足4本の線から構成される構造物として捉えることができるようになる。 つまり、人間の体は5本の線からなる構造物と言うことになる。この相手の力線のバランスを、崩れる方向に崩していくと人は自然と倒れる、と言うのが福光派の手合いの理合いである。 これを、学ぶために、「岩根」を手習ひする。 「岩根」については一度説明したが、これは、技の受け手が岩に根を張るように頑強に力振って抵抗する稽古法である。 これによって、むしろはっきりと相手の「入れ筋」を読み取ることができるようになる。 福光派は、実戦においては、相手の流れに逆わらず「当身・変手」を用いて制することを流儀の本義としているが、そのためにも、この「岩根手習」で、力線、入れ筋を読み取る能力を鍛錬ししなけらばならないと伝えている。このことを「力走りを読む」と呼んでいる。(館長) [[風門の儀に戻る>風門の儀]]

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
目安箱バナー