日本拳法道連盟 豊前福光派古術連盟 風門館

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 *古術:十人取りのこと、再び(2006-10-22)
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 再三に渡って、古術「十人取りのこと」について書いているが、守人相伝に当たって、それほど重要事だと言うことである。
 
 いくら手形稽古を積んでも、この「十人取り」を果たしていない者は守人の継承はできない、という厳格な一面があった。それほど、この最終行は福光派にとってこだわりのある行である。
 
 しかし、真剣手合い十本と言っても、それほどおおげさなことでもない。この真剣手合いと言うのは、真刀を持って死に合いを十本やれと言う意味ではない。
 
 得物の場合は、真竹を使用して、素面素小手で、他流儀の目録以上の者と手合うことを意味している。真竹とは言え、危険なことには変わりはないが、負け即ち死と言うほどのことでもない。ただし、鼓膜が破れる、耳がちぎれる、失明する、さらに喉を突かれて、最悪の場合はやはり死、ということは考えなければならないだろうが。袈裟で打たれて気絶というのは結構あったそうだ。
 
 さらに、素手体術においては、禁じ手無しの実戦を意味している。
 
 この、十人取りの目的は
 +手合の形骸化を防ぐ。
 +手合の実用性を保存する。
 +実戦における心法。魂捨猪振を身につけるため。
 +他流と比べて、水準を確かめる。
 というような目的を持って行うわけであるが、私は、四番目の理由が大きかったと思う。
 
-私なども、そうなのだが、一子相伝の武芸と言われても、果たして、どれほどのものか試してみないと分からない。だから、他流の目録以上の者と手合わせし、当流の手合いの理の正しさと、自分自身の力の水準を確かめる、と言った意味合いが強かったのではないかと思う。
+私なども、そうなのだが、一族相伝の武芸と言われても、果たして、どれほどのものか試してみないと分からない。だから、他流の目録以上の者と手合わせし、当流の手合いの理の正しさと、自分自身の力の水準を確かめる、と言った意味合いが強かったのではないかと思う。
 
 現代では、特に素手においては、古術が古術の技を持って手合わせできる、オープンな大会も多くなったので、もし「十人取り」を行おうとする者が現れた時のために、おおよその規準を示しておこう。
 
 真武館:ここの全日本の一本(一試合と言う意味)は、体重別であっても「十人取り」の一本にあたる。北斗旗とかも同じと考えて良いだろう。
 
 アマチュア・キックボクシング:これだと、出る大会のレベルにもよるだろうが五本で一本と換算すれば良いだろう。
 
 防具着き:これは、どんなルールであろうと、間違いなく十本で一本となるだろう。
 
 まあ、古術で言う「真剣手合十本取り」と言うのは公式戦でなくても良い。道場の非公式の立ち会いでも、相手が本気で挑んできた場合、つまり「殺」を持ってきた者との手合わせを指して「真剣手合い」と呼んでいる。また、自分自身が「死」を意識する手合いのことを意味している。だから、より危険なルールの方が価値が有るわけである。
 
 目的はあくまでも、死地において身を守り、「魂捨猪振」を味わうことに主眼を置いているので、勝敗は二の次なのである。
 
 人それぞれの感じ方にもよるだろうが、私にとってはけっこうな荒行であったが、決して、誰にもできないとか言うほどのことでもない。例えば、プライドに出ているような選手は、あのルールで十戦以上、平然と真剣手合いを行っているわけであるから。
 
 古術で言えば、みな「魂捨猪振」をマスターしていると言えよう。
 
 古術は、兵法家として世に出よう、と言う発想は希薄である。武芸はあくまでも、武士道精神を学ぶためのものとして修練を続けて行くので、あまり、誇大妄想的なことも言わない。
 
 しかし、それでも、宗家相伝に当たっては「十人取り」にこだわるというのも、私には非常にリアルに感じられた。
 
 私の場合、真武館は一戦のみであるから、残りの九人分は防具付きや、アマ・キックなどでこなしてきた。
 
 だから、その分、手合いを増やしたので「百人取り」を行ったと言える。ただし、これには、道場での見知った相手との乱稽古などは含んでいないので、それなりにはやったのではないか、と思う。
 
 今後、もし誰かがこの古術最終行法である「十人取り」を行おうと考えた時には、この換算目安を参考にするといい。(館長)
 
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