日本拳法道連盟 豊前福光派古術連盟 風門館 公家文化と格闘技ファン論

公家文化と格闘技ファン論(2006-10-23)

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いきなり妙な切り出しだが、私は最近、歴史の本を読みながら、ふと思ったことなので書いてみる。格闘技ファンとは、公家文化の名残ではないかという仮説である。

私は日本拳法道の指導員時代、述べにして六百人ほどを教えたが、そこで私の武的感覚を疑うような人間に多く出くわした。その中の一つが、格闘技ファンと言う、ある種のマニア達だった。とにかくよく知っている。プロの格闘家のこと、それから世界中の格闘技のこと。確かにクイズの選手権なら、間違いなく優勝するであろう。もっとも、こちらも「K-1」とか「PRIDE」のアマチュア版だと言って宣伝していたから、あまり人の批判もできないが。

彼らの特徴もまた、面白いというか、私には不思議であった。とにかく、誰それが強いとか、どこそこが強いとかいう事にものすごい信仰心を持っているのだ。

だから、私は一度言ったことがある。
「それほど『極真空手』が強いと思うなら、『極真』の方に行ったらどうですか?」、と。

すると、「『極真』は怖いです。」というのだ。舐めたものである。当方を小さな田舎道場と思ってのことだろうが、あきれ果てて物が言えなかった。

そんな輩を相手にして、(無論全部ではないので、誤解無きように)うんざりうんざりするような思いをしながら、選手兼指導員として十年ほどやってきた。

体質的に、私はそういう連中が大嫌いだった。日本拳法道に対して、防具付きだと言って小馬鹿にするような事も平気で言う輩どもであった。その頃は気付かなかったことであるが、今にして思えば、連中は「公家」だな、と思う。自らは闘わずして、人の評論ばかりしている。日本人にはこういう体質があると言うことも忘れてはなるまい。

そして、連中は奴らが小馬鹿にしている防具付きの試合でさえ、私がエントリーすると、いつのまにか消え去って行くのである。あきれた奴らだった。

大会前一ヶ月くらいまでは大言壮語を吐きながら、1週間くらいになると突然いなくなり、連絡もできなくなる。

格闘技ファンはいいが、ただのマニアになっても護身にもなるまいに。まったくもって不思議な連中だった。無名の小さな田舎道場を一番悩まさせるのが、そういうマニア系の者たちだった。

先日、護身と言う観点から、型稽古を主とする流儀の中に勘違い甚だしい人間のいることを述べたが、現代格闘技をする者の中にも、汗もかかず、強い選手の取り巻きとなって自分まで強くなったかのように錯覚しているようなマニアもいる、と言うことも片手落ちがないよう伝えておこう。

それなら、地道に型稽古を続ける者の方が、間違いなく護身としては役に立つ。格闘技ファンというのか、見るだけの者はまさに「公家」の文化だと思う。型稽古の流儀においても、乱稽古主たる流儀においても、必ず少数ながら「公家」が紛れ込む。まして、今の時代、みな庶民階級だから、いよいよ見分けがつかない。これらが匂いで分かるようになることも、心眼を得る上で大事なことだ。私は、古芸をさほど世間に広めたいと言う気にならないのも、そんな「公家文化」に惑わされて、十六代続いた流儀を損なうことがあってはならないと考えているからだ。

「謂われ無き、名も無き手なれど、必ずや心眼ある者には分かり申す手とぞ、覚えけれ。覚悟岩根に張りて、更々に手習一途に励むべし」

古術、口上の一説である。(館長)