日本拳法道連盟 豊前福光派古術連盟 風門館

公家文化と格闘技ファン論、再び

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wotoko

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公家文化と格闘技ファン論、再び(2006-10-25)

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私は「公家文化」が嫌いだ。と言っても、本物のお公家さんなど知らないから、書物で読む限りにおいての、のイメージにおける話だが。これは、言わば「評論家文化」だと思う。近年、日本国も豊かになったせいか、この「公家文化」が蔓延しすぎていると感じるのは私だけだろうか?

何がそんなに嫌かというと、彼らは自らは決してリスクを取らない、そのくせ、評論だけは専門家並みに達者だ。そして、田舎武芸、小さな道場、そういうものを馬鹿にする。私も武道をして長いが、そういう連中に嫌な思いを何度もさせられた。今から書く話は、決して他流の批判ではないので誤解無きように。私が批判するのはいつも、無礼で、なおかつ自らはリスクを取らずに人の批判をし、馬鹿にするような、「公家文化」の担い手達だ。私の流儀は、名もなく絶流寸前だが、それでも頭を下げてまで、「公家文化」の匂いをぷんぷんさせる連中に来て欲しいとは思っていない。

色んな実体験うち、この私の名付けた「公家文化」、つまりは「評論家文化」とはどんなものかを言伝えしておこう。

私は、大学時代、八光流柔術を習っていた。その関係で源流の大東流をぜひ学びたいと思っていたところ、知人の紹介で、ある空手の師範と出会うことができた。その方は佐藤金兵衛先生の弟子でもあり、中国拳法と浅山一伝流体術の師範免許を持ち、大東流や柳生心眼流もできると言うことだったので、入門をお願いした。空手や中国拳法をやりながらならという条件だったので、私は、空手は、沖縄小林流を学んだ。

ここで話は戻るのだが、私が大学を出て社会人一年生となった時に、職場の三年ほど先輩に、剣道三段で元極真空手にいたと言う人がいた。この人が、大の極真ファンと言うのか、とにかく「空手なら極真、それ以外の流派はやるだけ無駄だ。」と言って、ひどく馬鹿にするのである。職場では先輩に当たるし、剣道も三段の自称武道家であるから、私も最初の内はひたすら我慢を続けた。しかし、あまりにも伝統空手を馬鹿にするので、そのうち私の我慢も限界に達していた。また、私は剣道初段であるが、その事をわざわざ職場の若い女性の前で、さも小馬鹿にしたように、「剣道の初段などは剣道をしたうちに入らない。」と、こちらは何も言いもしないのに大声で言うのである。さしずめ、新人いびりというか、今で言ういじめであろう。

私も、空手バカ一代に憧れて高校時代空手をかじったので、極真は強い、と思っていたが、あまりにも伝統派を馬鹿にしたように言い続けるので、我慢できなくなって、ある日こう言った。
「先輩は、極真、極真と言うけど、極真が強いのと先輩が強いかどうかは別物でしょ、なんなら一度立ち会いましょうか?」と。

しかも、その人は元極真と人前でいつも自慢していたわりに、一度どこまでいったかを聞くと、なんと3ヶ月いただけだと言うのだ。まったくもってお笑いであった。

剣道三段というのは本当であったので、私もかなり緊張したが、どうしてもこのままでは許し難かったので、ルールは顔面有り(拳サポ付き)、ローキック有りというコンタクトルールで手合うことにした。

ちなみに、私が高校時代にいた空手道場は、ローキック有り、中段ライトコンタクト、顔面寸止めルールで組み手をしていたので、私はけっこう組み手慣れしていた。

3ヶ月(自称だが)とは言え、やはり元極真と名乗る以上、私もそれなりに覚悟は決めていた。

結果は、何度か蹴り合い、打ち合ったが、相手はローキックもできず、やりながら、本当にこいつ極真にいたのか?と言う感じであった。とにかく、仕事はクビになってもいいから、こいつの鼻だけは折ってやると思っていたので、機を窺いながら、しかし慎重に、私もチャンスを待った。(剣道三段は確かであり、剣道家は素手でも出鼻技が得意であるから、私もかなり用心していた)
そして、一気に飛び込んでのワン・ツー(高校時代からこれが得意技だった)を打ち込むと、左も右も食い込むような手応えを感じた。相手はうずくまったので、すぐにとどめを刺そうとしたが、さすがに職場の人間であったから、裂帛の気合いとともに寸止めで決めを入れた。

そうすると、相手は「今日は体調が悪いから、ここまでにしょう。」と言ったので、まあ、いいか、と思って、そこで終わった。多分、極真3ヶ月も嘘だったのではないかと思う。私の経験からすると、極真で3ヶ月も稽古していればかなりのローを打ってくるはずだから、とてもそうは思えなかった。結局、後で分かったのだが、彼は職場でも回りから色々と言われており、私に当たる事でその憂さを晴らそうとしていたのだろう。それにしても、剣道三段は事実であり、武道とは一体なんのためにやるのだろうとその頃強く思ったものである。

人格陶冶の道、それも武道の大きな目的の一つではないのか?新人をいびり、ましてや極真の名を語り、他流の空手を馬鹿にするなど、武道家にあらざる者といえよう。以来、日本拳法道の指導員として弟子を取るようになってからも、私は門人諸氏生に「他流誹謗中傷すること無かれ」と厳格に指導してきた。そういう意味では、私の指導は厳しかったと思う。

その後、その人は私の前では二度と伝統空手の悪口を言わなくなった。後には仲も良くなったが、私が「公家文化」を嫌う訳は、こういう思いを何度もしてきたからである。

形稽古だと言って馬鹿にする者。防具着きだと言って馬鹿にする者。あるいは、空手・拳法も刃物には勝てないだろうと言ってからんでくる輩。武道をしているなどと言うと、色んな連中が色々に言ってくる。だから、私は武道をしているなどとは、相手を見てからしか言わないことにしている。

まして、古芸などは、まして、ましてである。

私にとって、「公家文化」とはこういうイメージである。要するに、「語り屋」が嫌いである、ということである。私は、少なくともやる側にいた人間であるから、見る側の人間からとやかく言われるのを極端に嫌う。

同じやる側の人間で、しっかり稽古している人、実力のある人から、色々言われるのは仕方がないことだが、やったこともないのに大言壮語を吐く人間は、評論家であり、「公家文化」の名残だと認識している。

また、やる側の人間で、実力ある人は、不思議と爽やかな人が多い。ちなみに、極真空手の名誉のために言っておくが、私は、その事件から半年後ぐらいに、元極真の茶帯までいったという人(こちらは本物である)と手合わせをしたが、本当に強かった。私などは全く通用しなかった。その人は、元極真にいたということもあまり話したがらなかった。「茶帯までしか続きませんでしたから。」と。それだけでも、私には極真のレベルの高さと荒稽古が想像できた。

世の中には色んな人間がいるが、少なくとも「風門」は「公家文化」にならないように、と、いつも私自身を含め、戒めにしている。(館長)

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