ベルクソンによるギュイヨー評(翻訳中)


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「ギュイヨー『時間の観念の生成』の書評」1891

  このとても興味深い小さな本(フイエ氏の配慮によって公刊された)でギュイヨー氏は、持続の感覚が意識のなかでいかに発達するかを示すことを目的としていた。まず著者は、受動的形式と、時間観念notionの能動的な根底とを区別する。つまり彼は、時間の川床le lit du tempsと、時間の流れcoursを対置する。第一の見地(川床)から考察すると、時間の観念は、差異、類似、数、程度という四つの要素を含む。実際、均質な全体のなかでは、なにも時間の観念を生み出すことはできないだろう。持続は、諸効果の多様性varieté d’effetsとともにしか始まらない。だが他方で、絶対的異質性は、もしそれが可能だとするなら、時間も排除してしまうだろう。時間の主要な性格は連続性なのである。しかるに諸差異と諸類似の知覚は、二重性の観念を帰結し、そして二重性によって数が構成される(pp.20-22)。持続の観念はといえば、時間の各瞬間は行動activitéと感性における程度を前提としているから、瞬間momentの観念と緊密に結びついている。というのは。したがってつまることろ、時間がそこにおいて動いている枠組み、つまり時間の形式は、諸程度の多元性を形成するところの、差異であり同時に類似である表象の秩序なのである(p.25)。

 著者が「時間の観念の能動的根底」と呼ぶところのものが残っている。この能動的な根底は、意識が過去・現在・未来を区別するとすれば、意識そのものである。だがこの区別は後天的なものである。最後の分析でこの区別は、被りpâtirと行為agirの区別に帰着する。「われわれが苦痛をこうむり、それを遠ざけようと反応reagirするとき、時間を二つのもの、つまり現在と未来に切断する。この快と苦にたいする反作用は、意識的なものとなるときは志向性=意図intentionである。そして、とっさのものであれ熟慮されたものであれ志向性こそが、空間と時間の観念を同時に生み出す」(p.31)。「未来、それははじめは、存在の面前le devant êtreである。それは、私が持っていないもの、私が望むか欲するかするものである。…はじめは時間の流れは、欲されているものと所有されているものの区別でしかない。その区別はそれ自体、感情と満足の一貫した志向性に還元される」(pp32-33)。この志向性自体、最初は力もしくは努力でしかない。未来は、動物の面前にあるもの、動物が得ようと追求するものである。過去は、背後にあるもの、動物がもはや見ていないものである(p35)。したがって、つまるところ継起は、空間において行使される駆動的努力の、つまり意識的なものとなることで志向性であるところの努力の、抽象なのである。

 したがってギュイヨー氏は、時間におけるイマージュの配置の起源もしくは説明を、空間の中に求めるように徐々に導かれている。「私がA点からB点に行き、B点からA点に戻るとする。こうして私は、諸々の感覚作用の二つの系列、つまりその各項が他方の系列の項のうちの一つに対応する系列を手に入れる。ただし、対応する各項は、あるときは目標とされたB点との、あるときはA点との関連で、私の精神のなかで配列される。このとき、これらの二系列の一端ともう一端が完全に一致するためには、二系列を行きつ戻りつすることで双方を適応させるのみでよい。おわかりのように、感覚作用の二つのグループのこうした完全な一致は、空間を時間からもっともよく区別するものである。この可能で現実的な一致を考えないなら、明瞭な秩序に従って配列された一連の諸々の感覚作用しか、記憶のなかで持たないだろう。こうして、前方に向かう、未来に向かう内的な展望が築かれる。

 ギュイヨー氏はこうした分析で、時間の観念は空間のそれから解き放たれ、運動は媒介としての役目をはたす、と結論づける。「時間は運動の抽象であり、またそれゆえ相互に区別された感覚作用もしくは努力の総体をまとめる形式である」(p.37)。そしてまた少し後では「人間的意識における時間を創造するのは空間における運動である。運動なしには、時間は存在しない」(p.47)。時間における想起の局所化そのものが、空間の媒介によってなされる。というのは想起の枠組みはなによりもまず、日付の想起を引き起こす場所であるからである(p.63)。局所化するためにわれわれは指標となる点を用いるということをリボー、テーヌ両氏が示したとするなら、ギュイヨー氏によれば、これら指標となる点は、常に延長のなかに、あるいは延長と結び付けられて、捉えられるということが必要である。たとえひとが指標点として、なんらかの大きな道徳的苦痛もしくは大きな快楽をとらえるにせよ、この苦痛、この快楽は不可避に空間の中に局所化される。そして、それが時間のなかに局所化されることができ、それから時間におけるさらなる局所化の指標点としてもっぱら役に立つことができるのは、そのことによるのである。単なる類推ではなく、時間の局所化と空間の局所化の間には同一性が存在する。また、われわれが時間を測ることができるのは空間の媒介のみによってなのである。「ある環境においてある時間の間にあなたがしたことを思い出す、そしてこの想起をあなたの現在の印象と比較する。そして言う「ほとんど同じか同じでないかの長さだ」と」(p.74)

 だがその時、われわれは時間を空間からどう区別するのだろうか。ギュイヨー氏によれば、この区別をするのにもっとも役立った外官は、聴覚である。正確に言うと聴覚は、持続の中には見事に局所化する一方で、非常に曖昧にしか空間の中には局所化しないからである。聴覚のあとに、想像(構想力)が到来する。「われわれは自分の足だけによって運動をするのではない。われわれは表象によって運動をする。われわれはこの種の内的な散歩と、外的な移動を区別をすぐさまする」(p.75)

 もし持続を算定することestiomationが、「内的な光学」の現象でしかないとするなら、それは本質的に相対的であろう。実際それは次のものに結びついている-1)表象されたイマージュの強度に。2)これらイマージュの間の差異の強度に。3)これらイマージュの数とそれらのイマージュの差異の程度に。4)これらイマージュの継起の速度に。5)これらイマージュの諸相互関係に。6)これらイマージュとそれらの諸関係の概念形成に必要な時間に。7)これらイマージュと快と苦の興奮とへの、われわれの注意の強度に。快と苦の興奮とは、これらイマージュをともなう欲求ないし触発affectionである。8)これらイマージュと、われわれの予想との、つまりわれわれの予見との関係に。 -ギュイヨー氏は、彼が「時間の錯覚illusions」と呼ぶところのものに特別な一章をあてている。そこにおいて彼は稀な巧妙さで、持続を算定することにおいてわれわれが犯している誤りのいくつかを、分析している。彼はある場合は展望perspectiveの諸錯覚―空間における知覚の錯覚と類似している―によって、これらの誤りを説明する。またある場合は、感情の諸原因と誤りを関連付ける。短い時間を短く見せ、長い時間を長く見せる錯覚についての、スティーヴンスによって指摘されたこのよく知られた説明を、特に引用しよう。[以下、この段落自信なし]「再現すべき間歇が無差別点???を下回るとき、ひとは実際そうではないほどその間歇を長く思い描いてみても、その間歇は速いと知覚され、そして典型以下にとどまらないことを目的とする速さを、運動の再現のなかで自分自身に刻みつける。この速さは、すでに短い間歇をさらに短く見せることになる。反対に、時間の間歇が無差別点を上回るときは、想像は想像であるにもかかわらず間歇を短縮してしまうが、その間歇は長いように思われる。速くしすぎることを恐れて、意志はゆっくりとした運動、抑制された運動を刻み込む」(p.95)。多様で際立った出来事がいっぱいあった年はより長く見えるとしたら、時をおいて評価された時間の見かけ上の長さが、想起された出来事のなかで知覚された薄切りになった激しい諸差異の数に比例して増大するからである(p.104)。結局、年月が青年期には長く思われ、老年期には短く思われるのは、ことに青年期の印象が生き生きとし、初々しく、そして無数にあるからである。したがって年月は、幾千もの仕方で満たされ、差異化される(p104)。

 ギュイヨー氏の結論はつぎのようである。「時間は条件ではなくて、意識の単なる結果である。時間は意識を構成するのではなく、意識に起因するのである。それは、われわれが諸々の現象に課すであろうアプリオリな形式ではない。それは、経験が諸々の現象の間に築く諸関係の総体である。この意味で時間は、進化の諸形式のひとつでしかない。それは、事物に導入される差異化である。それは、ことなった環境の中で類似する効果を再現すること[再生産reproduction]、もしくは類似する環境で異なった効果を再現することなのだ。時間は、宇宙の変化の抽象的な定式なのである」。

 フイエ氏が刊行のために書いた注目すべき序文のなかに、発展させられた同じ結論をわれわれは見出す。フイエ氏は感性の純粋形式についてのカントの理論を、力強く攻撃する。時間の観念はアプリオリに与えられるのではない。無限の観念、無限の広がりの観念、普遍的因果性の観念と同じく、それは人間的内省の洗練された産物なのである。それは知性の完成化作用から帰結する。知性は最初はばらばらな表象から、内包的かつ外延的かつ時間的な一連のものの表象にじょじょに高まっていく。

ギュイヨー氏の仕事とフイエ氏の序文についてのこれまでの分析のなかで、われわれは独創的な指摘、創意ある指摘を脇におき、根底的命題のみを考慮してきた。いまやこの理論から原理を引き出そうとするなら、われわれの意識に与えられ提示された現実として時間を考えることから、そして過去・現在・未来をその現実においていかなるプロセスによって区別するのかを規定することから、本質的にこの理論は成り立っているということになる、とわれわれは考える。ギュイヨー氏が時間における展望について語る際、彼は隠喩を使っているのではない。ひとが空間を自らに与えることができるとおりに彼は時間を自らに与えるということ、新たなやり種類のこの空間の中で継起するもろもろの景観をわれわれがそれによって区別する作用の機構を描写することを彼はとりわけ目的としている、ということが真相である。したがってギュイヨー氏はここで、進化論的心理学者たちのやり方に取り組んでいる。つまり彼は、認識のその対象に対する漸進的な適応を、われわれに示しているのである。

さてわれわれにしたがえば、この方法は多くの心理学的問題には適用可能だが、時間の問題にはそうではない。実際、いかなる過程によってわれわれが対象を認識するにいたるかを自問することは、あの不変な対象、つまりある意味で意識の外側にある対象を想定することなのである。だが持続が問題となるや、同様の想定は矛盾するようになる。持続の本質は、絶えずながれているということ、そしてその結果、意識と記憶にとってしか存在しないということにある。したがってここでは、綜合によって時間の感覚の進化を再構成することが問題なのではない。反対に、分析の努力によって、純粋な継起、つまり時間の直接的な直観を、形式―われわれは論証的思考・言語の思考にもっとも利するように、そうした継起を形式において包み隠してしまっている―から分離しなければならない。
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