結論


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結論

 

結論で、本書においてわたしたちが展開した諸観念を要約することは無駄ではないだろう。

 

 わたしたちの目的は、絶対的義務と絶対的制裁がないある道徳とは何かを探求することであった。つまり、この道程において、実証科学はどこまで行きうるのか?、もろもろの形而上学的思弁の領域がはじまるのはどこにおいてなのか?ということである。

 

 諸事実に先行し優越する法=法則、したがってア・プリオリで定言的な法を方法的に退けて、わたしたちは諸事実そのものから出発し、諸事実のそのものの法=法則を引き出し、現実から出発して現実の理念を引き出し、自然本性から出発して自然本性の道徳性moralitéを引き出さねばならなかった。さて、わたしたちの自然本性を構成し本質的である事実、それはわたしたちが、生き、感じ、考える存在(生物)であるということである。われわれが行為の原理を求めるべきだったのは、生にであり、物質的かつ精神的moraleである生の形式にしたがってこそだった。

 

 この原理が二重の性格を提示するのは不可避である。というのは、人間のもとでは生そのものが無意識的生と意識的生にいわば二重化されているからである。唯心論者たちの大部分は、ほとんど意識の領域しかみない。しかしながら、行為性の真の基底であるのは、無意識ないしは潜在意識である。本当のところ、意識はいつかは反作用し、遺伝の薄暗い(なぞめいた)綜合が個人と人々のもとに蓄積したものを、分析の明晰さ(明るさ))によって徐々に破壊する。意識は、功利主義学派そして進化論学派さえもが考慮しえない打ちこわしえない力をもつ。そこから、意識の内省と無意識的本能の自発性の間に調和を再構築する必要性がでてくる。つまり、二つの領域に共通であり、したがって、自己意識を持つことで自らを破壊するよりもうまく自らを力づけていくような行為の原理を、見出す必要があるのだ。

 

 わたしたちは、この原理を、物質的かつ精神的観点から、もっとも強度があり、可能なかぎり延長した生において見出したと思う。自己意識をもつことによって、生は、その強度と延長をもち、自らを破壊することには向かわない。それは自己固有の力を増すばかりである。

 

 しかしながら、生の領域においては、諸個人が闘争状態におかれることによって生み出されるアンチノミー、あらゆる存在が幸福をもとめる競争によって、あるいは時には生存existenceをもとめる競争によって生み出されるアンチノミーも存在している。

 

 自然において、生存競争のアンチノミーは解決不可能なものではまるでない。唯心論者の夢はそれを解決すること、あるいはすくなくとも、可能なかぎりそれを縮減することだった。そのために唯心論者たちは、生そのものに優越する法、つまり叡智的、永続的、超自然的法を援用したがるのである。この法を、少なくとも法則としては、援用することをわたしたちは断念した。わたしたちは、叡知的世界をもろもろの仮説の世界のなかに置き直したのである。そして、法が由来しうるのは、ひとつの仮説からではない。したがってわたしたちは再度、生を規制するために生に訴えなくてはならない。だがそのさい、より完全でなくより小さい生を規制しうるのはより完全でより大きな生なのである。事実、ひとえに科学的な道徳にとって、可能なる唯一の規制はそうしたものである。

 

 利己主義と利他主義―唯心論者の賢者の石である結合―を、ある限りにおいてわたしたちに結びつけることを許す生の性格、それはわたしたちが精神的=道徳的多産性(豊饒性)féconditéと呼んだものである。個人的生は、他者へと、他者のなかへと広がり、必要な場合には、身を捧げなければならない。といっても、この膨張=拡張は、その自然本性に反しない。逆にそれは、自らの自然本性に従っているのである。さらには、それは真の生の条件そのものである。功利主義学派は、私とお前との、私のものとお前のものとの、個人的利害と私たちの一般的利害とのこうしたアンチテーゼの手前で、多かれ少なかれ躊躇して止まっている。だが生ける自然は、こうした断固としたものであり論理的に厳正な分割にとどまってはいない。個人的生は、それが多産であるゆえに他者へと膨張的であり、それが生であるこということそれ自体によって、多産なのである。私たちがそれを見たように、物質的=身体的観点から、他なる個人を生み出すことこそ個人の欲求であるがゆえに、この他者はわたしたち自身の生の条件として生成するのである。生は、火のように、伝わることによってのみ自らを保つ。そしてそれが、身体のみならず知性の真理である。知性を聖火のように自己に閉じ込めておくことは不可能である。知性は放射するようにつくられている。感性における膨張の力ですらそうだ。わたしたちはわたしたちの喜びを、また苦痛を分かち合わなければならない。社交的sociableであるのがわたしたちすべてのあり方なのだ。生は論理学者と形而上学者の分類も絶対的分割もしらない。生は、たとえ利己主義者であろうとしても、完全に利己主義者ではありえない。わたしたちはいたる所から開かれている。いたる所から侵入し、侵入されるのである。それは、生物学がわたしたちに提供する根底的法則、生は単に栄養摂取なのではなく、生産と多産=生殖力である、に起因する。生きること、それは獲得することでも消費することでもあるのだ。

 

 こうした身体的かつ心理的な生の一般法則を提示した後に、いかにしてそれから義務の一種の等価物を生じさせうるかをわたしたちは探求した。結局のところ、そのゆえに絶対的命令も超越的法も認めないところの義務とは何なのか。-衝動のある形式である。実際に、「道徳的義務」、「義務」、「道徳的法」を分析してみよ。それらに能動的actifな性格を与えるもの、それはそうした性格と分離不可能なものである衝動、すなわち実践されることを求める力である。そう私たちには、この衝動力こそが、超自然的義務の第一の自然的等価物に思われるのである。

功利主義者たちは、いまだに目的性の考察に夢中になっている。彼らは目的にとらわれている。目的とは彼らにとっては、自体が快楽に還元されうるところの功利性である。かれらは快楽主義者である。つまり彼らは、利己主義の形式もしくは共感の形式のもとに、快楽を精神的生活の原動力とみなす。反対にわたしたちはといえば、目的性ではなく因果性の観点に身を置く。目的としての快楽の誘引それ以前でさえ作用agirしている原因を、わたしたちは認める。すなわちこの原因とは、その自然本性そのものによって、増大し、発散することを目指す、このようにして快楽を帰結としてはみなすが必然的には目的finとはみなさない、である。生きものは、純粋かつ単純にベンサムにおける計算機ではない。彼の偉大な本によるところの収支の均衡をなす金融家ではない。生きることは、計算することではなく、行為agirすることである。生きものうちには、力の蓄積、つまり、消費される快楽のためではなく、消費されることが必要であるがゆえに消費される活動性の貯蔵、が存在しているのである。一つの原因は、目的を考慮に入れることさえなしに、もろもろの自らの結果を生み出さずにはおれないのである。

 

   かくして、わたしたちは、わたちしたちの根底的定式、「義務とは、行為に必然的に移行する傾向のある力=可能pouvoirの遊離した表現でしかない」、に到達した。わたしたちが義務という言葉によって描写するのは、力―現実を乗り超え、現実との関係で理念となり、みずからしかるべきものでありうるがゆえに、また現在をすでに溢れ出す未来の萌芽であるがゆえにみずからがあるべきものとなる力―のみである。わたしたちの道徳には、いかなる超自然的原理も存在しない。すべてが由来するのは、生そのもの、生に内属する力からである。生は、絶えず発展することを渇望することで、自らを自らの法=法則としている。生は、行為する自らの力能によって行為することをみずからの義務とするのである。

 

 私たちは、「わたしはなすべきである、ゆえになしうる」と言うかわりに、そうしたことを示したのであり、「わたしはなしうる、ゆえになすべきである」というほうが正しい。そこから、行為する力そのものによって生み出される或る非人格的義務の存在が帰結する。以上が、神秘的、超越的義務の第一の自然的等価物である。

 

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