作:1 ◆IDXsB1A/aY
月明かりが、ぼんやりと街を照らし出す。
繁華街は無機質なネオンに彩られてはいるが、それに見合うほどの賑やかさは無い。
車道は込み合う時間をとうに過ぎており、ぽつぽつと行き交うヘッドライトは、ただ何も無い空間を捉え続けている。
丑三つ時。
街は華やかな喧騒を脱ぎ捨て、夜の世界へと姿を変えている。
だが、どれだけ夜に、闇に近付こうとも、そこには光が存在し――影が生まれる。
ビル街の一角。
街の中心から少し離れた路地裏は、闇の溜まり場である。
通路を囲う壁面は、搭のように高い。月明かりは高層ビルによって遮られ、光の死角を生み出している。
そんな、普通の人間ならば寄り付かないであろう場所に、一人の青年の姿があった。
左肘を強く押さえつけ、壁に体重を預けている。
ズボンは落下してくる水分によって不自然に湿っており、元を辿っていくと――――
腕が、無い。
彼の左腕は、肘から先が無くなっていた。
ぽたぽたと落ち続ける水滴はその出血によるものだが、落下音が彼に認識されることはない。
がちがち、がちがちと、不快な、金属にも似た音が、外界の音を妨げていたからだ。
なんだこの音は、うるさい、止めてくれ。そう思ったところで、気付く。
音は、自分の口の中から生じている、ということに。
震えが止まらないのは、そこだけではない。
全身が、否、心までもが、込み上げる恐怖感に強く揺さぶられている。
かろうじて失禁を堪えているのは、命の危険を感じ慣れているからだろうか。
ぐるぐると、彼の脳内を思考が駆け巡る。
何故だ? 俺が何をした? 何故俺が、俺がこんな目に……!
だが、そんなモノは逃避じみた言い訳に過ぎない。
彼は理解していた。
何故、自分が、彼女に狙われているのか、ということを。
暗闇に銀光が翻る。
ごく僅かに差し込む明かりが、空中で拾い上げられる。
宙に散らばった星の如く、輝きは闇の中に点在している。
一見何も無いかのような空間には、その実、無数の線が走っている。
「あなたに恨みはないけど……」
ひたり、ひたり、と足音が響く。
地面を直に踏みしめているだろう音が、一歩一歩、着実に彼へと近付いていく。
「これも、仕事なのよ」
柔らかな声色は、明らかに女性によるものだ。
その優しげな口調に、青年はぞくりと肩を震わせる。
「……な、なんでだよ! 何でアンタは」
「何で? ……そんなの、わかってるくせに」
暗黒の中で、彼女はニタリと笑みを浮かべた。
不意に、ガスッという音が聞こえてくる。
その音に合わせ、何かがゴロゴロと転がって来て……足下で、止まった。
首。
人の首が、転がっている。
口は半開きで固定され、眼は大きく見開かれていてる。
それに意思など介在しようはずもない。
だが彼は、自分に怨念じみた双眸が向けられているように、錯覚した。
「……う、うわああああああああ!」
「あらあら、怯えちゃって。可愛い」
彼は生首を凝視して、思う。
次は俺がこうなる番だ、と。
肩からガクリと力が抜ける。
……何故、こんなことになったのか。
首から下が無い男は、青年がついさっきまで話を――厳密に言えば、取引をしていた相手だった。
青年は男に情報を売り、男は別の人物に情報を転売する。
男は、いわゆる情報屋という奴だった。
言ってしまえば、青年のやっていたことは、明確な裏切りだ。
組織の情報を売りさばき、金を手にする。
当然、そんなことが許されるはずもない。
嗅ぎ付けた組織は刺客を送り込み、取引の成される直前、男の五体は一瞬にして無数の肉隗となった。
そして、次は――――
「……!」
ごくり、と唾を飲み込み、青年は意識を覚醒させる。
嫌だ。こんな所で死にたくない……!
運命に少しでも抗わんと、暗闇へ目を凝らす。
縦横無尽に描かれている銀線は、幻覚ではない。
恐らくは、鋼。
全てを切り裂く鋼線が、獲物を求め狂い暴れているように、彼には見えた。
噂には聞いていたものの、信じてはいなかった。身を持って知るまでは。
彼女が用いる武器の一つ。
体内で精製される鋼糸は、あらゆるモノを噛み砕き、切断するのだと。
信じられなかったのは、それ自体が与太話だと思ったからではない。
それを使っている姿が、普段の彼女からはイメージできなかったからだ。
優しく、温和で、誰にでも友好的に接していた彼女が――――
「そんなわけで」
掛けられた声に、逃避が打ち消される。
ぽたり、ぽたりと聞こえてくる音は、左腕の流血によるものではない。
水滴が滴る音色は、朱に染まった臭いを帯びて、彼の絶望を増徴させる。
よく見れば、音だけではない。
照らし返されている光は、ところどころ鈍い、赤黒い、血の色に染まっていた。
悪鬼が姿を表す。
死という現実を携えて、彼の眼前へとその姿を露わにする。
「大人しく、死んでね? 坊や」
その声と同時に、躊躇無く五指が動きを見せる。
しゅるり、と、何かが擦れる音。
ピンと張り詰めたモノを感じた瞬間には――バラバラに分解されている。
彼が最期に見たのは、血風を全身に浴びる、死神の姿だった。
怪人クモ女。
それが、死神の名前。
最終更新:2006年08月17日 18:01