※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

「あ~、今日も疲れた」
 1日の仕事を終え、社員寮の自室にたどり着く。後ろ手で適当に閉めたドアが、思いのほか響いて、薄い壁を伝わり食器棚をびりびりと震わせた。
 社員寮とは名ばかりの、築40年は経過した木造のおんぼろアパート。その8畳のワンルームが俺の部屋だ。壁は薄い、廊下はなぜか鴬張りのように軋みをあげる、階段はやたらと足音が響く、風呂がなくてトイレは共同など、なかなか問題の多い建物であるが、個人的には気に入っている。案外風通りは良いし、何より部屋が広い。学生時代は六畳一間で慎ましやかに暮らしていた身としては、八畳という広さは筆舌に尽くしがたい。そして何よりも、社員寮ということで家賃が格安なのだ。

 靴を脱いで部屋に上がった。電気のスイッチをいれ、壁にかけた時計を見る。8時30分前。今日は少し遅くなったようだ。実際、今日は良く働いた。いつもの様に朝本部に出向して幹部のアポロガイス子先輩の訓示を受け、その後デスクワークを黙々とこなし、午後からは戦闘訓練でボコボコにされ、ようやく部屋まで帰ってきたのだから。特に今日は休日前ということで、戦闘訓練がいつもの倍以上厳しかった。戦闘員ということで強化された肉体でなければ、三ヶ月以上入院する羽目になっていただろう。

 部屋の冷蔵庫から麦茶を取り出し、喉を潤す。よく冷えた麦茶が、疲れのたまった体に心地よく染み渡る。そのまま晩飯の支度をしようとして、冷蔵庫の中身を見て愕然とした。
「……何にもねえ」
 空だった。見事なまでに空だった。涙が出るほどに空だった。それはいっそ清々しいくらいに空だった。
 かといって晩飯を食べないわけにもいかない。一晩の間、この空腹を抱えたまま過ごすなんて真っ平ごめんだ。

 ポケットから財布を取り出し、口を開く。中身がないのはいつものことだが、せめてコンビニで晩飯を買う分くらいは――買う分くらい――買う分――あれ?
 ありえない光景に、俺の脳みそが一瞬フリーズする。なんというか、ひどく見たくない光景がそこにあった。
 意を決し、改めて財布の中身を覗き込む。まずは札入れ。続いて、小銭入れ。
 空だった。冷蔵庫に続いて、そこも空だった。問答無用に空だった。涙が出るほどに空だった。ていうか実際視界が滲んで前が見えなかった。コレが涙か。
 数ヶ月ぶりに涙した理由のあまりの情けなさに更に泣きそうになりながら、俺は肩を落としたまま玄関に向かった。サンダルを突っかけて、そのまま近所のコンビニを目指す。最近のコンビニには、24時間営業のATMが置いてある。カードさえあれば、いつでも引き出せる優れものだ。まだ給料も少しは残っていただろうから、千円くらい引き出して晩飯を購入しよう。どうせ引き出すなら、手数料の高いコンビニATMではなく、銀行か普通のATMに行きたかったが、文句を言っても始まらない。背に腹は変えられないのだ。

 泣く泣く不要の出費を覚悟して、意気消沈したまま外に出ようとする。
 そのとき、家の置き電話が鳴った。ピピピピピ……と、やかましい電子音を撒き散らす。一瞬このまま出ようかという考えが頭をよぎるが、かぶりを振ってその考えを打ち消した。
「……なんてタイミングだ、くそ」
 家を出ようとしたタイミングでかけて来た、空気の読めない奴を取り敢えず呪っておく。スルーを諦めたとはいえ、やはりこの間の悪さは恨めしい
(もしセールスの電話だったりしたら、只じゃおかねえぞ)
 邪悪な覚悟を固めて、受話器を取る。そのまま耳に押し当て、こちらの名を名乗った。
「はい、もしもし」
 自分自身でも予想外なほど、不機嫌な口調になった。どうやら俺は、自分の予想以上に腹が立っていたらしい。
 一方、相手は妙に押し黙っている。受信口からはかすかに呼吸音が聞こえるだけだ。
(イタズラかよ)
 俺はそう確信した。最悪のタイミングで、最悪のパターンだ。覗かれているんじゃないかと疑いたくなるほどの間の悪さである。なんのつもりかは知らないが、やられてこれ程不快になるイタズラもそうは無いだろう。
 いや、もしかしたら間違い電話かもしれなかったが、俺はその可能性を黙殺した。最近の間違い電話は、このパターンが増えている。想像しない声が出ると黙りこくり、「間違えました」の一言も、「すいません」の一言も無いまま、ぶつりと切ってしまうパターンだ。これはもはや、イタズラ電話といってもいい。それに不快感なら、そう引けを取らないだろう。
「もしもし?どちら様ですか?」
 不機嫌さを全開にして、義務的にたずねる。電話の主は、沈黙を保ったままだ。聞こえてくるのは、相変わらずかすかな空気音だけ。
 相手の反応を待ちながら、俺は違和感を覚えた。普通、イタズラだったらすぐに切ってしまうパターンが殆どだ。ここまで粘る馬鹿はそう居ない。
「もしもし、聞こえてます?イタズラなら切りますよ?」
 本当はさっさと切ってしまいたかったけれど、一応の最後通告を突きつける。受話器の向こうで、息を飲む声が聞こえた。――息を呑む声?

「あっあの、クロエですけど、庄家さんのお宅でしょうか……?」
 妙に上ずった声が、受話器から響く。今度は、俺が息を呑む番だった。想像だにしなかった相手に思わず思考が固まり、返事を忘れる。
「あの、もしもし……」
「あ、もしもし。クロエ……?」
「あ、栄兄ぃ……久しぶり」

 クロエの言い分を簡単にまとめると、こうなる。
 俺の実家から電話番号を聞きだして、(何の用かは知らないが)俺のところに久しぶりに電話をかけたそうだ。ところが、いざ掛けてみたら聞こえてきたのは不機嫌極まりない声。どうやら俺のあまりに凶悪な声に驚いて、間違えたと勘違いして、軽いパニックに陥ったらしい。取り敢えず確認してから間違えた非礼を詫びようと思い、かるく呼吸を整えていると、俺が「電話を切る」などと言い出したから、間違え覚悟で確認をしてみた、というのが真相のようだ。

「もう、栄兄ぃがあんな怖い声出すからいけないんだぞ!?」
「ははは、悪い悪い。黙ってるから間違い電話だと思ってさ」
 謝りながら、実際に頭を下げてしまう。昔からの癖だ。友人には「古臭い」と馬鹿にされた。
「それで、一体何のようなんだ?」
「その、さ。ちょっと栄兄ぃに相談したいことがあって」
「ん~、何だ。俺に愛の告白か?」
「バッバカ!栄兄ぃの莫迦!そんなんじゃない!」
 受話器の向こうでも、クロエが顔面を真っ赤にして怒鳴っているのが、手に取るように分かる。相変わらず、からかいやすい奴だ。
「ははは、冗談に決まってるだろ。それよりも、お前明日空いてるか?」
「え、うん。空いてるよ?」
「よし、それなら明日はどっか出かけるか。どうせ落ち着いて会うのも久しぶりだし」
「そうだね。この前はドタバタしてたし」
「よし、なら決まりだ。どこか行きたい場所はあるか?」
「う~ん、なら、動物園!」
「分かったよ。それじゃあ、明日の1時半に駅前な」
「分かったよ。じゃあね」
 相手が受話器を置いたのを確認してから、俺も受話器を置く。
 其の場で伸びをして、再び玄関に向かう。
「さて、こりゃ千円じゃなくて1万円くらいおろさなきゃな」

 次の日、駅前で落ち合った俺とクロエは、そのまま電車に揺られて動物園に来ていた。クロエの動物好きは変わっていないようで、動物園に着くなり元気いっぱいに走り出した。そのまま動物園お決まりの動物たちを眺めて回る。クロエの動物好きは変わらないどころか益々磨きがかかっており、俺に向かって、一つ一つの動物の解説を、それはそれは嬉しそうにするのだった。

「あー、楽しかった」
「俺は疲れたよ」
 クロエに買って来てもらったジュースに口をつけると、俺はベンチに座り込んだ。その隣に、クロエも座り込む。
「栄兄ぃも年取ったね~」
「うるせぇやい」
 クロエの憎まれ口を軽く流し、俺はジュースを飲み干してゆく。果汁100%のオレンジジュース。普段は高いため、こういう機会でもなければ口にしない代物だ。
 俺よりも早くジュースを飲み干していたクロエが、不意に立ち上がった。立ち上がったまま硬直し、そのまま前方を見つめている。つられて俺も視線を向けると、そこには案内板が立っていた。
「動物ふれあいコーナーはコチラ→」
「おい、クロエ……!」
「栄兄ぃ!あれ行くよ!」
 俺が何か言うよりも早く、クロエは俺の手首を掴んだ。そのまま凄まじい力で引っ張り、走り出す。
「ちょっお前、待て!クロエ!」
「栄兄ぃ、早く早く!」
「だから待てと――――!」
 俺の事なんかお構いなしで、先へ進むクロエ。いつの間にか力強くなった手に引かれながら、俺は「こういう一日も、そう悪いもんじゃない」と思っていた。