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   旅眼百貨店    No.5    マトボッククリ  いつも通りの勤務。  私は客のいない店内をのんびりと眺めながら、手に持った文庫本を読んでいた。  二人のちびは学校へ行っていて、昨夜も遅くまで書斎で作業をしていた吉吉さんはまだ起きてこない。時間だけがゆっくりと過ぎていき、ちらりと時計を見るとそろそろ十二時になろうという時間だ。そろそろ来るな、と思っていると、まるでその考えを待ち構えていたかのように吉吉さんが姿を現し、私に声をかけた。 「昼飯の時間じゃな」 「そんな時間ですね。ちょっと待っててください、サンドイッチでも作りますから」  立ち上がり、台所へ向かおうとすると吉吉さんは私を止めていた。どこかへ出かけるのか、洋服に着替えている。 「今日は外で食事することにしよう。午後、お客さんの所へ行くのでね」  私は軽く頷くと〝休憩中〟の看板を取り出し、店の入り口に立てかけた。店に戻り支度をするとすでに吉吉さんは裏口の扉で待っており、鍵をくるくると回して待っている。 「用意はいいかの」 「はい、大丈夫です」  駅前の静かな喫茶店に入ると、私達はランチセットを頼んだ。ひょいひょいと口に運ぶ吉吉さんを見ながら私は自分のペースで食べていく。  あらかた食事が終わりコーヒーだけが残ると、吉吉さんは鞄から手帳を取り出した。 「今日の午後の仕事なんじゃがな、……ある品物を受け取りに行こうと思っておる」 「なんですか、急に声を小さくしたりして。そんなすごいものなんですか」  大げさに辺りを見渡し、盗み聞きされていないかを確かめている。私は妙な緊張感を持って続きを待った。 「この日本全国を探してもその数は二桁も存在しないという純正の〈マトボッククリ〉じゃ。時価数十億円にもなろうかというそれを、これから引き取りに行くんじゃよ」 「ええと、〈マトボッククリ〉ですか? すいませんけど吉吉さん、私はあんまり信じてないんです。どうせホラ話とかネタ話とかのレベルでしょう? 高級品も偽物も、今まで一度も書物や写真で見たことないですし」  吉吉さんはその言葉を聞くとにやにやと笑っていた。どうも話は吉吉さんの都合のいいように進んでいるらしい。 「そういうものじゃ。セージ君、君の考えは一般的で正しい。それじゃから、この話は長年表には出てこなかったのじゃ。誰もが嘘だと思うような風潮。書物も写真も存在しない。証拠が無ければ事実とははかないものなんじゃ」 「……そこまでいうからには、本当に〈マトボッククリ〉は存在するんですか?」 「本当も何も、ワシは今までに何度かそれらを目にしてきておるんじゃよ」  そういうと手帳を開き、ぱらぱらとページをめくりだしだ。そこに挟まれた一枚の古ぼけた写真を取り出すと、そっとテーブルの真ん中にそれを置いた。  こげ茶色で漆が塗られたかのように光沢を放っている。マツボックリに似た卵形をしており、木なのか石なのか判断は出来ない。 「フフフ、驚いているようじゃな。これが上流貴族のブルジョワな趣味の一つといわれておる〈マトボッククリ〉じゃ。ちなみに、この写真のものはサイズは三〇号品で、五十年前当時の金額で三十二億円じゃった」  金銀財宝、ダイヤモンドなどとは一線を画す価値に私は唖然とした。こんな小さなものが三十億? 何かの間違いじゃないかと思うのと同時に、これからその実物を見ることが出来るかもしれないという期待で、自分でも気付かないうちに体を震わせていた。 「それで、これを今日はどうするんですか? 旅眼百貨店の商品にするんですか?」 「まさか! そんな大それたことはワシのような小者にはとてもとても……。今回は仲介役なんじゃ。依頼者からそれを預かり、アメリカにある協会に届ける。協会は相手に相応の金額を振り込む。ワシは依頼者のマトボッククリの真偽を確かめ、安全に移動する役なんじゃ」  アメリカの協会――吉吉さんの言っているのは同じ店の仲間の協会のことだ。アメリカ版・旅眼百貨店のような場所は、大英博物館、ルーヴル美術館、スミソニアン博物館、メトロポリタン美術館という知名度の高い場所とは違い、公には公開されていない。吉吉さんや、以前植物調査として現れた鳥野狐子博士のような一部の者だけが入館を許されるような場所だ。  旅眼百貨店は一般に公開されているように見えるが、本当に希少価値のあるものは奥底に厳重に保管されている。そう、私は未だ足を踏み入れることの許されない秘蔵庫というものが店には存在するのだ。  高鳴る期待を胸に、私達は依頼主の元へと向かった。  電車で三十分弱、駅からタクシーでまた三十分程度。賑やかな駅周辺から離れ、私達は一軒の豪邸の前に立っていた。一体何坪あるのだろうかというほどの大きさで、塀の端から端は五十メートルはあるかもしれない。  正面の門には監視カメラが取り付けられ、来客者をしっかりと睨みつけている。 「わたくし、アポイントを取っておりました旅眼百貨店の士口吉吉と申します。隣にいるのは助手の桜丘星司という者です。饅頭院田部麻呂《まんじゅういんたべまろ》様をお願いしたいのですが……」  吉吉さんから仰々しい名前を聞くと、頭の片隅にある記憶が刺激された。マンジュウイン……確か、その名前は聞いたことがある。そしてこの豪邸の様子から学生時代の記憶が思い出される。 「士口様ですね。ロックは解除しましたからそのままお入りください」  スピーカー越しに聞こえる男の声に、吉吉さんは頷くと私に目を向けた。私は意識を元に戻すと静かに後に続き、第一の門をくぐった。  予想通り、第一の門から玄関までも庭が広がっている。大型駐車場と言ってもいいような無駄な広さにあっけに取られていると、吉吉さんに遅れてしまい、あわてて駆け出す。  ようやく家の玄関につくと、待ち構えていたかのように扉が開き、中年男性が姿を現した。吉吉さんより若く、五、六十代といった所だろう。髪はありえないくらいに黒く、ワックスが効いて光を反射している。毎日いいものを食べているのだろう。中年太りというものか、突き出た腹はまるで妊娠しているようだ。 「ようこそいらっしゃいました。私が家主の饅頭院田部麻呂です。さ、おあがりください」  私達は頭を下げると、促されるままに応接間まで案内された。  応接間には油絵や壺、銅像や彫刻の数々が飾られている。その一つをとっても私の年収の何年分になるのだろうか――。腫れ物にでも触れるような気分で私は落ち着かなかった。 「士口さんに桜丘さん、よくいらっしゃいました。失礼ながら旅眼百貨店というのは存じ上げなかったのですが、xxx1協会からの推薦ということで期待をしております」 「いえいえお気になさらずに。私の店は趣味程度の規模でして、あなたのような大富豪のお方に知ってもらうなど恥ずかしい限りです。この歳でもまだまだ未熟なのですが、xxx1協会から依頼を受けたということで、今回の件は私めが責任を持ってお引き受けいたします」  吉吉さんは相手を褒めつつ、自分を下に置いた話し方をしている。うまいやり方だと私は思った。今回のお客は途方も無い富豪だ。何気ない一言から相手を怒らせるということになっても困る。私はなるべく口を開かずに、相槌を打つ程度にしていった方がいいと思った。不意に奥の扉が小さな音を立てて開いた。髪を金色に染め、糊の効いたスーツを着込んだ若い男が姿を見せる。私達は座って話をしている為、その男から見下ろされるような形になっていた。 「……父さん、その人達がxxx1協会から推薦された人? 随分貧相に見えるけど大丈夫なのかな……」 「界翔《かいと》、私は仕事の話をしているんだ。失礼のないようにな。……これはこれはお見苦しい所をお見せしてしまいましたかな? この子は私の息子で界翔と申します。二十歳になったばかりでまだ大学生なのですが、私に似たのか、このような古典的なものにも少々関心がありましてな」 「……あれ、お前、桜丘か? 桜丘星司じゃないのか?」 「饅頭院……界翔。一度聞いたら忘れない名前だよ。そうか、ここは君の家だったのか」  私はなるべく感情を押し殺して答えた。出来るならば会いたくない相手。中学時代に思想の違いから犬猿の仲となり、高校へ進学してからは接点がなくなっていた相手。 「父さん、懐かしい友人と少し話がしたいんだ。桜丘君を連れていってもいいかな」 「友達だったら、そうだな……。士口さん、あなたの助手を息子の話し相手にさせても構いませんかな?」 「私だったら問題ありません。助手の彼にはご子息としばらくこのお屋敷を見せてもらうのも勉強になるでしょう」  二人の大人に了承を得ると、私は界翔の後について応接間の扉から廊下に向かった。 「……私には懐かしいという気持ちも、話したいという話題も特に無いんだけどね」  界翔がいつまでも黙って歩いているのに耐え切れなくなると、私はその背中に声をかけた。 「……それは俺も似たようなもんだな。まあ座れよ」  庭のよく見えるガラス張りの窓の部屋につくと、界翔はテーブルを囲んでいる椅子を勧めた。私は促されるままに腰を下ろすと正面に座った相手の顔を見る。相手はこれ以上にないというような嫌悪感を込めた表情で見下すような視線を向けてきた。 「相変わらずダッセぇメガネしてんだな。……お前さあ、俺が言ってたこと、まさか忘れたんじゃないだろうな?」 「あんなに腹が立った言葉、忘れるわけがないよ。『世の中にはうまくいく人間とうまくいかない人間がいる。うまくいく人間は何をやっても成功するが、うまくいかない人間はいくら努力しても報われない』」 「……俺みたいな生まれつきうまくいく運命の人間もいれば、お前みたいないくらやっても駄目な人間がいる。それがちょうどうまく世界のバランスを保っている。……覚えているじゃないか」  界翔は満足そうに笑うと、懐からタバコを取り出して火を着けた。私が嫌がるようにわざと煙を吹き付けてくる。 「そういえば星司、お前あの時言ってたよな。『今のうちからタバコを吸ってたら、大人になる頃にはガンになる』って。……残念だったな。俺はこの通り、健康体そのものだよ。お前はどうなんだ? 血色悪そうだが相変わらずまともな食事も取れない貧乏生活なのか?」 「ほっといてくれよ。お前には関係ない」  私は手を振って煙を払うと、悔しさで相手を睨みつけていた。中学に入って早々からタバコを吸っていた界翔。ろくでもない人物で、毎月の親からの小遣いは数十万円、それとは別に交通費、食費などもろもろで数十万円。何か理由をつけては親に金を出してもらうこともしばしばで、星司には考えられない思考の持ち主だった。  それは界翔にとっても同じだったらしい。いつも質素な格好で身なりを気にすることも無く、周囲の人間の輪に入ろうとはせずに一人黙々と勉強をこなしていた私は、界翔の目には奇怪なものとして映ったのだろう。  ――お前、何でそんなに必死に勉強してるんだ?  ――俺は働かなくてもいいんだ。親の溜め込んだ金を使ってやらないと世の中に貢献できないからな。  ――俺の子分になったら最低限の賃金はやるぜ? どうせ住む家も無いんだろう?  生みの親は蒸発し、遠い親戚の家で肩身の狭い思いをし続けていた。早く自立し、稼げるようになって親戚の家から出て行きたかった。そんな私の気持ちなど一生分かることのない界翔は、意地になっている姿が気に入らなかったのだ。  ある時、いつものような羽振りの良さを発揮して数人の仲間に食事をおごっていた界翔は、気まぐれに私にも声をかけてきた。『たまには恵まれない子にも手を差し伸べてやらないとな。来いよ、うまいもんでもおごってやるぜ』  界翔と、それを取り囲むクラスメイト。皆、ニヤニヤと笑いながら私に憐れみの目を向けてくる。私はただ一言、『結構』と言い断ると、机に向き直って自主的な放課後の居残り勉強を行っていた。  私も若かったし、界翔達も若かった。無理にその場に残って勉強を続けるのはよくなかっただろう。たとえ帰宅して親戚の家で勉強をする場所が無かったとしても、その場を離れるべきだった。  金の力で動かなかった相手にプライドを傷つけられたと思ったのか、顔を真っ赤にした界翔は突然私に殴りかかってきていた。机に向かっていた私は避けることも出来ずに顔を殴られると床に倒れこんでいた。メガネは割れ、倒れた時に体を支えた手は破片を押し付けてしまい切れていた。体重がかかっていたため傷は深く、血が勢いよく吹き出した。  その後はよく覚えていない。支離滅裂で早口、つばを飛ばしまくって怒鳴り散らす界翔を理解出来ようはずもなく、四肢をクラスメイトに押さえつけられていた為に逃げることも出来なかった私は徹底的に痛めつけられた――。  後日、饅頭院家に呼ばれた私と親戚は、両腕に包帯を巻いている界翔の言い分を聞くことになった。  ――桜丘星司が俺の裕福な姿を妬んで喧嘩を吹っかけてきた。  ――クラスメイトがいたおかげで大怪我は無かったが、両腕が捻挫してしまいペンも箸も持つことが出来ずに困っている。  ――貧乏な家だというのは分かっているが、それとこれとは別問題で慰謝料を払うという誠意を見せて欲しい。  界翔の腕は、私を殴りすぎた為に捻挫を起こしていた。私は一発も反撃しなかったし、そもそも押さえつけられていたので何も出来なかった。体中あざだらけ、包帯と湿布だらけの私の姿は、饅頭院家の目には入らなかったらしい。  私は事実を口にしたが、親戚の叔父に殴られ、饅頭院家の大人に睨まれ、界翔が口にするあることないことを延々と聞かされると萎縮し、その場から消えてしまい状況に追いつめられていた。  結局、慰謝料ということで百万近くを饅頭院家に払うことになり、私自身の治療費もかかることになり、親戚の家では更に肩身の狭い時を過ごすこととなった。  その後、中学では私は完全に孤立した。金を浪費し、仲間を増やし遊びほうける界翔。小遣いも無く、勉強をするしかなかった私。どうやっても和解する方法など無かったのだ。 「やっぱりお前は高校を出たら働くことになったのか。俺は今、大学に通っているけどな。……それで、あの時の慰謝料は親戚にはもう精算したのか?」 「そんなもの、とっくにしたよ。今は十八まで育ててくれた分の生活費を少しづつ返している所だ」 「全く泣ける話だな。まだまだ金に苦労してるのか。俺はもう月収八百万を超えてるぜ。……年収一億ってことだよ。この国の為に必死に饅頭院家の財産を出費しているつもりなんだが、父は財産を増やすばかりでね」  その額に唖然とすると、界翔は嬉しそうにふかぶかと煙を吸い込んだ。 「父さんの骨董品管理の手伝いでね。本当はもっともらってもいいらしいんだけど、ほら、俺って殊勝な所があるじゃん? 今はそんなにもらわなくていいって自分から辞退したのさ。お前みたいに必死に勉強して必死に働く奴もいるけど、やっぱり素質なんだよな」 「相変わらず汚い奴だな。いや、中学の頃よりもひどくなっている。あの頃はまだ子供の無邪気さというものもあったかもしれない。でも今は意識的に親を利用し、金の力で物事を動かせると考えている……」 「それの何が悪い? この世は金が真理だ」  足を組んで座りなおし、私の顔にその靴底を向けてくる。その横暴な態度は昔と変わらなかった。そして何か思いつくと懐に手をやり、何かを取り出した。札束だ。 「これはまあ、再会の挨拶だ。百万ある。親戚の家の仕送りにでも使ってくれよ。なあに、気にするなって。このくらいの額、俺にははした金なんだから。お前だってこの数年で大人になったんだろう? 受け取れよ」  急に真剣な顔つきになり私を睨みつけてくる。  私はテーブルに手を伸ばし、札束に触れた。――嫌悪感で全身に鳥肌が立っていた。 「結構」  そのまま、札束を押し戻し、界翔の前に置く。 「今日は私は仕事で来ているんだ。理由のない報酬はいらないよ」 「星司……また、俺を怒らせたいのか?」 「お互いやめておこう。もう大人なんだし。それに、今殴ったりしたらさすがにごまかせないだろう?」  私の発した言葉が中学の頃と同じ一言だったことに怒ったのか、それともそんなことはとっくに忘れていて、ただ単に今の態度に怒りを感じているのか……拳を握り締めていた界翔はしばらくその姿勢のままだったが、ようやく力を抜いて落ち着きを取り戻した。 「まあいいさ。お前みたいな小者を殴ったりしたら俺の手が腐っちまう。それはそうと、お前達今日は例のヤツを受け取りに来たんだろ?」  例のヤツ――マトボッククリ。  私は静かに頷いた。驚くことに、この男もニヤニヤ笑いを止めると、真剣な表情になって声を小さくしていた。 「あれは確かに誰もが心を奪われるよ。この日本にほんの数個しかなく、皇室の間で長きに渡り受け継がれていたという逸品。レプリカはそれなりに広まっているが、それでさえも一般市民には見ることもかなわない存在。さすがの俺も実物を見た時は震えたね。今日依頼したのは三〇号相当のもので、さすがに饅頭院家でも手元に置いておくのは命に関わることになるからなんだ」 「さ、三〇号相当?」  その途方もない号に私は腰が抜けそうになっていた。マトボッククリは大きさにより格付けがされる。確認されている中で日本最大なのは六十九号だが、一部欠けており、価値としては四十二号程度とされている。完全な形で最大のものは五〇号で、京都の某所に保管されている。完全な三〇号だったとするとその価値は計り知れないものとなる。 「俺も、マトボッククリを手放すのは忍びないんだけど、三〇号ともなるとさすがにやばいからな。……饅頭院家にある最大のマトボッククリが三〇号で、まだ小さい号のものは手元に置いておくんだけどな」 「……い、いくつもあるんだって?」  界翔は立ち上がると、そこにある本棚に近づいた。ガラス張りのショーウィンドウとなっている棚に目を向けている。私も立ち上がると、その視線の先を同じように見つめた。リモコンのような者を取り出すと、黒塗りのガラスに向けてボタンを押す。ガラスは小さな機械音を出しながら次第に透明感を見せていき、中に陳列されている装飾品の数々が姿を見せだした。  その中でも異彩を放つ黒い者が私の目を捉えた。 〈マトボッククリ〉  卵型で、マツボックリにも似ている。部屋が薄暗い為色は曖昧だが、吉吉さんが見せてくれた写真と同じでこげ茶色で漆が塗られたかのように光沢を放っている。  更に覗き込むように見つめていると、界翔に体を押さえつけられる。 「それ以上近づかない方がいい。……マトボッククリの魔力に魅了されるぞ」  私は慌てて一歩引き、視線を反らしていた。普段住んでいる家にマトボッククリがあり、毎日のように見ることも出来る界翔でさえ、近づいて見る時は震えるほどの存在。これ一個の為に江戸時代以前から何度も戦争が、海外でもそのような歴史を見ることも出来るということに、今更ながらに納得する。 「これが、八号のマトボッククリなんだ」  界翔が口にする。八号といえばそれなりに普及しており、国内に百は存在するだろう。しかし、それでも一個で数億円という途方もない額だ。 「こ、こんな国宝級のものをそんな危なっかしい所に飾っていて大丈夫なのか?」  私は不安になると質問をしていた。 「まあ、考えうる防犯対策はしているからな。――お前が第一の門から玄関に来るまでに監視カメラはいくつあったと思う?」  第一の門で認証される時に二個。玄関についてから頭上に二個のカメラは確認できた。界翔がいうからには他にも隠されているのだろう。 「……十台くらいかな」 「お前馬鹿にしてるのか? 六十四台だよ。それに、この庭を見渡せる窓は強化防弾ガラスで戦車砲弾七十七ミリクラスも弾く。この本棚のガラスも強化ガラスで拳銃の九ミリ弾クラスなら防いでくれる。万が一侵入されても警報装置が反応すれば一分で警備会社の人間が駆けつける」  自信満々で語る界翔。私はマトボッククリから離れたことで落ち着きを取り戻し、冷静に戻りつつあった。そして界翔の顔を見て確信した。  界翔はもう、マトボッククリに取り憑かれてしまったんだな――。  そろそろ仕事に戻る頃合いだろう。しかし、八号品を見てこれほど動揺してしまったのだ。三〇号品なんていうものを見てしまったら一体どうなってしまうのか。  恐怖を覚えると、吉吉さんの元へ戻りづらくなってしまう。しかしちょうど悪いタイミングで吉吉さんの呼ぶ声が聞こえた。 「おーい、セージ君。そろそろ仕事じゃぞ」 「は、はい! 今行きます」  本棚のショーウィンドウに入っているマトボッククリの八号を飽きることなく見つめている界翔をよそに、私は応接間に向かった。  そこには先ほどの界翔に負けるとも劣らない満足げな表情の饅頭院田部麻呂の姿があった。吉吉さんは対照的で静かにそちらに目を向けている。  私はなるべくゆっくりと体を動かし、視界の隅でそれを見ることにした。  ――お、大きい。  息を忘れてしまうほどそのマトボッククリは大きかった。ドッジボール大の球体は、応接間の空間に奇妙な緊張感を放っていた。饅頭院田部麻呂の脇には屈強な男が数人集まり、マトボッククリと吉吉さんに注意を向けている。私が入ってきたことで、私も監視の対象となっている。信頼の置ける人間だとしても、もしもの場合に取り押さえるように訓練されているのだろう。軍人や格闘家といっても良さそうなその見かけは私など一捻りで病院送りにされそうだ。 「セージ君、もう少し近くで見ないとわからんぞ」 「え? は、はい」  私は吉吉さんに並ぶと、テーブルの上に置かれたマトボッククリを注意深く観察する。その存在感と輝きに意識が向けられると、周囲が段々と遠くに飛んでいくような感覚になる。何もない空間に私とマトボッククリだけが存在し、引力に引き寄せられるようにその場から動けなくなっている。私はただただそれを見続けることしか出来なくなっていた。  どれくらいの時間が経ったのか分からなかったが、突然肩に何かがのしかかるのを感じた。――私を邪魔するのは何なんだ? 私は肩のものをうっとうしく思ったが、それを払いのける時間さえも惜しいと思い、ひたすら目の前のマトボッククリを見続けていた。 「――ジ君、セージ君!」  気が付くと、吉吉さんが乱暴に私の肩を揺すっていた。私は深い眠りから覚めるように視界を取り戻し、吉吉さんと室内、正面に座る中年男性と、ボディガードのような屈強な男達を見ていった。 「あ――す、すいません! 意識を失っていたみたいです……」  ほっとしたような吉吉さんの表情。中年男性――饅頭院田部麻呂はマトボッククリの力に満足したような笑みを浮かべた表情。 「どうですかな? 本物を見たという感想は?」 「確かに素晴らしいですね。しかし私の目で見るだけでは本物と断定しかねます。私の見立てでは九割方本物のマトボッククリ三〇号ですが、予定通りxxx1協会へ一度正式調査の為に持ち帰らせていただきたいと思います」 「信頼していますよ士口さん。それで、前金のことですが……」  饅頭院田部麻呂が口にすると、吉吉さんはノートと小切手を取り出し、何か計算をしていく。 「本物の三〇号でしたらおそらく……六十五億円にはなるでしょう。可能性は低いですが、レプリカということも考えられますが、これほど精巧なものだとすると、それでも価値が相当なものになります。……五億円といったところでしょうか。本日はその五億円を一旦お支払いしたいと思うのですがどうでしょう」  形状、色、質量、匂い……。この場で判断できる範囲で吉吉さんはノートに説明を記述していく。饅頭院田部麻呂はふんふんと頷きながら耳を傾け、本物の場合とレプリカの場合の金額に納得した。 「分かりました。一時金としてそれで手を打ちましょう」  吉吉さんはためらわずに小切手に五億円と記述し、それを渡していた。饅頭院田部麻呂は満足そうな笑みを浮かべている。  その後指示されると、私は分厚い生地の鞄を用意した。吉吉さんは手袋を付けると注意深くマトボッククリを手に取り、ショック緩急材で何十にも包みだした。そしてそれを鞄に入れると、自分自身で肩にかけ席を立った。 「それでは今日はありがとうございました。いい結果が出るように祈っていますよ」  饅頭院田部麻呂がいうと、吉吉さんと私は会釈を交わして家を出た。界翔が出てこないのにほっとし、第一の門まで向かう。吉吉さんはしばらく黙ったままだ。  門を潜ると、ようやく吉吉さんは口を開いた。 「まずい……これはまずいことになったぞ」 「え、吉吉さん、どういうことです?」  吉吉さんらしくない動揺の仕方に私は聞き返した。 「どうやらこれは〝本物〟らしい」 「それはそうでしょう。あの大富豪饅頭院家が持っていたんですよ。金に糸目をつけないやり方……一体どこで手に入れたのかは分かりませんけど、きっと本物なんですよ」 「ワシはな、この〈マトボッククリ〉というものの表の面も裏の面も知っとる。『日本史、世界史の裏にマトボッククリあり』と言われるように、これはただの値打ちのあるもの、国宝という代物ではないんじゃ。十号以下のマトボッククリなら、それなりに数もあり、金さえあれば一般人でも手に入れることは可能じゃ。しかし……二〇号、三〇号といった大きなものとなると、各国の大統領、国王や法王。城、博物館や寺院などごく一部しか持つことを許されん。いかに大富豪だとしても、持っていること自体がありえんのじゃ。xxx1協会では、現存する二〇号以上のマトボッククリの全所在を把握しておる」 「だったら、やっぱりこれはレプリカなんじゃ……」  私は恐ろしくなると、吉吉さんの肩にかかっている鞄に目を向けた。視覚的に確認できない為、今はその怪しい魔力に魅了されることはない。吉吉さんは渋い顔をしたままだ。 「そういう事実じゃから、これはレプリカだと思っておったんじゃ。しかし、さっきのセージ君の反応でこれは本物だと確信してしまった。前にも言ったじゃろう? 君には真実を見抜く素質があるんじゃよ。ワシをも凌ぐほどのな」 「そ、そんな褒められたって何も出ませんよ。夕飯だって豪華になりませんからね」  私は動揺していた。いつもの陽気な吉吉さんではなく、いたって真剣な表情でそのようなことを口にしたからだ。今まで生きてきた人生の経験から、自分には非凡以下の素質しかないということは痛いほど実感していた。素質があったらいろいろなことに成功していただろう。素質、実力がないから家族関係、資金関係、そして友人関係とこれほど苦労をしているのだ。くやしいが、界翔の金の力も一種の素質といえるだろう。 「マトボッククリは例えレプリカでも持っているだけで命を狙われるだけの価値のあるものじゃ。それがもし本物だとすると、今こうして会話をしているだけでも危険かもしれん。饅頭院家に保存されていたのはよほどセキュリティが厳重になっていたのか、それとも本当につい最近手に入れたものだったのか……。とにかく、これはすぐにxxx1協会へ持っていかんとならないじゃろう。一晩でも旅眼百貨店に置いておくことはワシらにとっても危険じゃ」 「そ、そこまでやばいんですか? でもxxx1協会ってアメリカにあるんじゃ……」 「ワシはこのままの足で空港へ向かう。数時間後には向こうに着くじゃろう。それと、植物学者と鉱物学者にも同行してもらうことになるから、一応彼女達のことも教えておこう」  手帳の一ページに名前と連絡先を書き込むと、それを千切って私に手渡した。  植物博士‐鳥野狐子   電話:○○○○○○○○○○   携帯:○○○○○○○○○○○  鉱物博士‐中田直幸《なかたなおゆき》   電話:○○○○○○○○○○   携帯:○○○○○○○○○○○ 「狐子君のことは以前会ったことあるから分かるじゃろう? 直幸君というのは誠実で頼りになる男じゃよ。学者に見えないくらいの体格で、何か格闘技をやっていても不思議ではない男じゃ」  吉吉さんは中田直幸という人物の特徴を説明すると、携帯電話を取り出して二人に連絡を行った。二人とはすぐに連絡がつき、何やら小さな声で説明を行っている。『例のマト』という言葉でマトボッククリのことを説明し、二人の予定をつけている。 「二人とも来てくれることになったよ。直幸君は一日遅れるといっていたが、狐子君はすぐに空港に向かってくれることになった。有須と走也にも連絡をしておくが、その間旅眼百貨店の留守番は頼むぞ」 「はい……吉吉さんも気をつけて」  道路に出ると、吉吉さんは二台のタクシーを呼び止めた。一台は空港へ、もう一台は旅眼百貨店へ行くように頼む。挨拶を済ませると大事そうに鞄を抱えて乗り込んでいた。  私はその姿を見送った後、自分のタクシーに乗り込んだ。何事もなければいいのだが。通りでタクシーが別々の道に分かれると、私は吉吉さんを乗せ小さくなっていくタクシーをずっと眺めていた。

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