目次
(一九八七年十一月六日の霊示)
1.神について
さて、神とは何かということについて、話をしていきたいと思います。私は、生涯を通して、神とは何かということをさまぎまな角度から、話をしてきたつもりです。その神の素晴らしさ、神あってこその人間であることの素晴らしさ、こうしたことについて、数限りなく話をしてきました。
そして今もまた、天上界で語るのみでなく、こうして、地上のあなた方に話すことができる機会を得たことを、大変嬉しく思います。
あなた方は、神と言われても、一言では理解をすることができないでしょう。また、霊言集の中において、さまざまな形で、神について語られておりますが、それでもやはり、あなた方に理解できる範囲での神でしかない。こういうふうに、言うことができると思います。
私をはじめ、さまざまな高級霊たちが、あなた方に話をしているけれども、これらもやはり、人格をもった姿での高級霊、高級神霊ということにしか過ぎないと思う。神の真なる姿は、そうしたものを超えたものであります。古来から、一神教であるとか、多神教であるとか、さまざまな話がされております。あるところでは、神というものは、非常に多くの高級神霊からできているというように言われているし、キリスト教では、私が一神教を始めたというように言われたりもしております。
ただ、これらは、いずれも正しい考えではありません、宇宙の奥の奥なる神というのは確かにいますし、それは、人格を超えたものであろうと思われます。けれども、この地球という霊的な磁場を中心に考えるならば、そこにいる神というのは、やはり最高度に発達した神霊ということになるでありましょう。
あなた方の書物の中で、その高級神霊たちの姿というのが、すでに、かなり明らかにされてきております。私がいるような、九次元世界というところには、人格的に最高度に進化した神霊が、十柱いるというふうに言われているはずです。
そして、私のいる世界を超えた十次元の世界において、三体の巨大意識、人格をもたない巨大意識があるということ、そしてその巨大意識とは、すなわち、いろいろな地球進化のための作用の意識にしか過ぎないということを知っているでしょう。
その一柱が、大日意識という言葉でも呼ばれているように、陽の意識、積極性の意識、すべてを良くしていこう、すべてを美しくしていこうとする意識です。この意識が、昔から太陽信仰になったり、あるいは、大日信仰というものの本来の起源というのは、この大日意、これへの信仰というものであったのです。
人間に対して、そうした太陽信仰のようなことをやったこともありますが、その奥にある信仰としては、この大日意識を第一位の神霊として信仰するということがあったわけです。まさしく、これは本当に、神の神たるゆえんとも言うべき意識であります。
また、第二の意識として、月意識というものがあります。これは、芸術性をつかさどっている意識です。ある意味では、女性霊の起源でもあります。美しさ、そして、優しさ、あるいは柔らかさ、しなやかさ、そういう芸術的な陰の部分、陰陽の陰の部分をつかさどっている意識というのがあります。これが、この地球に潤いを与えるために存在している意識です。
大日意識というのが、一つの巨大な作業人、あるいは工作人とするならば、この月意識というものは、仕上げを専門にしている意識と言っていいかもしれない。大日意識が、土台をつくり、柱をつくり、屋根を葺くのを仕事としているならば、この月意識というのが、窓をつくり、壁を貼り、そしてペンキを塗るというような役割をしているかもしれない。こうした、役割分担をしているということが言えましょうか。
そして、この二柱の神霊以外に、そもそもの生命の起源としての、地球を磁場とする生命の起源としての、地球意識というものがあるのです。これが、地球の生命の起源なのです。
なぜ地球にいろんな生命が誕生したかと言われても、結局のところこうした巨大な生命体が、実は、地球の中に宿っておって、この生命体がいろんな形で現われているというのが、実際の姿であるわけなのです。
たとえて言うならば、この地球意識というのは、一人の人間の人体にも、たとえることができると思います。この体の中に、さまざまな無数の細胞というのが働いています。同じように、地球意識というものの中に、いろんな意識が残っているのです。そういうように言うことが可能であろうかと思います。
ですから、この地球意識というものができた起源というものは、本当はかなリ古いものであって、地球のできる前の段階に、出てきているわけですね。そして地球というものの起源が、実は、あの大いなる大陽系の太陽から分かれてきたものだということを、みなさんはすでに学んでおられることと思います。太陽の一部から、地球が飛び出したというふうに言われています。とするならば、地球意識の起源は一体どこにあるかというと、この太陽意識の一部が出てきたということですね。
太陽意識神霊のうちの一部分が、地球の生命体として、加わってきた。そして、太陽から飛び出してきたときに、もう一つの積極性の作用としての大日意識というものを伴ってきた。こういうふうに言うことが、可能であるうかと思います。
そして、やがて、しばらく時間を下って、月意識というものの支配が、作用しはじめたということができるであろうと思います。この意識というのは、実は、惑星意識でありますけれども、月、地球の周りを回っている月というのがありますが、これの意識でもあるわけです。地球の姉妹でもあるし、子供でもある月ですが、この月というものの支配意識が、この月意識であり、これが地球にいろんな影響を与えているのです。芸術性の根拠となっております。
大日意識というのは、地球を照らしている太陽の意識の一つの分化したもの、こうした意識が、大日意識として、地球に今、影響を与えているわけです。そして、この一段高い次元において、また、太陽神霊というのがあるわけです。これが十一次元というところにあるわけですが、この太陽神霊から分かれてきたものなのです。
十一次元の太陽神霊の中から、地球が飛び出してきたときに、地球神霊というものが宿り、また、その目的性のために大日意識というものが宿り、さらに、月意識というものが影響を与えてくるようになったと、こういうふうに言うことができると思います。
そうしてみると、地球意識と月意識というのは、共に、天体としての地球と月の生命体ということができますから、この地球次元における一つの人格を超越した神とは何かと言うと、この大日意識そのものであると言うことができると思います。すなわち、地球における神というのは、この十次元空間における、大日意識のことを指しておいて間違いがないのです。
これは、太陽の生命体の一部から出てきたものでありますが、地球というものを生長させ、発展させるために、地球に特に遣(つか)わされた神霊であるのです。地球意識、月意識が一つの惑星意識であるのに対して、この大日意識は惑星意識ではないのです。これは、一つの地球を支配している、エネルギー体なのです。地球の発展をつかさとっているエネルギー体なのです。
したがって、古くから、根源の神、宇宙根本の神と言われてきたものは、この大日意識というのが、その中心であったと言ってもよいのです。そして、これ以外の作用としての側面として、地球意識、月意識というのがあったということです。したがって、あなた方が、神とは何かと心の中に抱く神、信仰の神というのは、結局、この大日意識、地球神霊の中における陽の意識、積極性の意識、これを神と思えばよいのです。
この巨大な意識が、九次元以下の諸霊たちを導いているのです。地球意識というのは、一つの地球自体の生命体で、いろんな生命作用を育んでおりますが、それ以外の作用はあまりしておらんのです。月意識というのは、月という天体の意識でありながら、地球にさまざまな影響を与えているという、そうしたネガティブな作用をしているのです。積極的に、地上の歴史を創っているこの意識は、大日意識そのものなんです。太陽意識と呼んでもよい。これが、すなわち、地球における神です。これが、大日意識が、地球における神の証拠であります。’
したがって、九次元において、十人の神霊があって、十次元以降からの光を受けていると言いますが、十次元以降の光を受けているのは、実は、この大日意識から受けているのです。この大日意識という十次元神霊が、十一次元神霊である太陽神霊の光を受けて、地球にそのエネルギーを引き、その大日意識のエネルギーが、プリズムにかかるように、九次元の諸神霊へと伝えられているわけであります。
主として、この大日意識のエネルギーをプリズムにかけているのが、今言われている、エル・ランティという神霊の作業であったと言うこともできるでありましょう。
そして九次元には、もうすでにご存知のように、私、イエス・キリストがあり、釈迦があり、モーゼがあり、また、その他の神霊がいるわけであります。こうした者たちは、人格をもった者であり、いずれも地球という星ができる以前から、さまざまな惑星において、最高度に発達した人霊として、指導者をやっておった者たちです。こうした者たちが、地球という磁場で生命の修行所を創るという目的のために、大いなる神の命を受けて、この地球に集ったわけです。
そして、新たな魂の王国を創るという使命のために、結集して来たわけであります。我らもときとして神と言われることがありますが、それは、人格神としての神であり、その意味において、最高度に発達した神であるということができるかと思います。
今、この九次元世界において、指揮命令系統をつかさどっているのが、キリストと言われている、この私の仕事であります。そして、地上の歴史と、新文明の構築という使命を担っているのが、ゴーダマ・ブッダという神霊の意識であります。そういうことが、神について、一般的言うことができるかと思います。
2.神のお心
さて、私は今、あなた方が九次元と言われている、高い次元にいるわけでありますが、私の次元に立って、神のお心とは何か、こうしたことについて話をしていきたいと思います。
神の心というのは、すなわち、私にとっては、さきほど述べました、大日意識、太陽神霊からその流れを汲んでいる大日意識、この意識への信仰ということになります。この方と、私とが話をしているかと言えば、話をするという形ではありませんが、この方のエネルギー、作用を私は受けているということですね。日々、受けて、それの指導に基づいて、行動している、考えをしている、こういうふうに言うことができると思います。したがって、私どもは、この大いなる太陽意識、大日意識の支配下にあると言うことができると思います。
では、神とも言える、この大日意識のお心は、一体どのようなものでありましょうか。何をもって、そのお心とされているのでしょうか。これについて、さらに話をしていきたいと思います。
大日意識のお心を知るためには、その基本的な目的を知らねばならんと思います。大日意識というのが、一体いかなる目的でもって、この地球に遣わされているのか。地球の十次元意識として、存在しているのか。九次元にいる、十体の意識を統括する役割をもっているのか。これはまた、一つの大きな進化の過程にあると言ってもよいのです。
この太陽神霊から分かれてきた大日意識が、地球という磁場において、ここに理想郷を創り、そして、この星を光満てる星として、惑星として、素晴らしいユートピアとした時に、大日意識自体が霊的に進化をして、また他の天体における、太陽神霊となっていくのです。こういう目的のために、大日意識も今、地球という磁場において、霊的指導をしているのです。
したがって、進化の法則というものは、決して、地上にある人間だけに課されているものではなくて、こうした九次元、十次元の意識であっても、進化の中にある、その流れの中にある、こういうように言うことができると思います。ですから、我らからみれば、神とも言えるこの大日意識も、一つのまだ修行の過程にあると言うことができるわけです。
そしてこの上なる、十一次元太陽神霊もまた、この太陽系をいかにしていくか、この太陽系の使命という大きな目的を担って、活動しているわけであります。そして、この巨大な神霊もまた、大いなる進化を遂(と)げつつあるというように、私はうかがっております。この太陽神霊の意識体は、この我が地球の大日意識の意識体よりも、さらに、数万倍、数百万倍の力をもっているというように言われております。したがって、地上に肉体を持ったことがある、我らのような者にとっては、この本当の意味での、この太陽系における神のお心、神のお力というものは、はかり知れないものがあります。ただ、我らにわかるものは、我らの人格的なる認識能力を通じての、神の把握ということであります。
こうしてみると、神というものは、自らも進化しつつあるということ、こう言えると思います。自らも進化しつつあるからこそ、自らより下位にあるものの進化をもまた、願っておられるということです。自らの下位にあるものが進化しなければ、また、自らの進化もないと言えましょう。
それは、ちょうどこうしたものであります。教師が生徒を教えておっても、生徒の意識が上がってこなければ、教師もまた、実力の磨きがいがないということでありましょう。小学校の教師が、いつまでも小学生を教えておっても、自らの能力が高まらないように、また、ずっと自分よりはるかに次元の下がった意識ばかりを教育しておっても高級神霊もまた進歩はないのであります。大学教授であれば大学生を教え、あるいは大学院生を教えることによって、自らの向上があるでありましょう。こうしたものなわけです。
したがって、神が進化していくためには、自らの傍近き者の進化を目指さねばならんということです。これは、宗教においてもそうであります。弟子の教育が十分にできておらねば、その師もまた、進化していくことができない。これは、より高次なる法を説くことができないという意味であります。こっしたことが言えると思うのであります。
さすれば、優れた宗教者が、優れた弟子を教育し、身の周りに集めるように、さらにその弟子たちが、その下位の者をまた、教育し、優れたる者にしていくのではないでしょうか。同じように、十次元神霊である大日意識も、そうした進化というものを目的としている以上、九次元の霊たちにもまた、進化という役割が与えられているのです。
九次元にも十柱の神霊があるということは、さまざまな個性をもちながら、互いに切磋琢磨せよという意味であります。もし、そういうことが必要でないならば、九次元にも神霊は一人でよいのです。一人の神霊の意識のみでもって、地球次元をとりしきり、そして、教育すればそれでよいと言えるかもしれません。ただ、十柱の意識体があるということは、すなわち、すべての者が自分の個性を発揮しながら、総合的に、この星の進化を目指せという意味であります。
さすれば、九次元神霊である私たちも、日々修行をしているのであり、日々進化にこれ努めているのであります。そして、我われの進化の原動力は、我われの弟子とも言える、高級霊たちの指導であります。彼らが進化すれば、我らもまた、進化するのであります。それは、自分の教え子が立派になれば、先生もまた、立派に見えるということと同じと言えましょうか。
3.大調和
さて、そうした個性のある光として、さまざまな高級神霊が存在し、そして、互いに切磋琢磨しながら、進化の途上にあるということを述べてまいりました。
これはある意味において、地上における自由競争の原理にも似ているかもしれません。ただ一つだけ、違っているものがあります。それは、自分の進化は、自分のためだけの進化ではない、ということなのです。それぞれの霊が進化していくということは、より高次な目的のための進化であり、より多くの者たちのための進化である、ということなのです。
これは、たとえば、地上の人間で言えば、会社において同じ話ができましょうか。ある人が、ただ偉くなり出世するということだけでもっては、是とされないのです。その人が、能力があり力量がある人であって、昇進することによって、その会社により大きな利益を生み出すことが可能であるならば、その利益をより多くの人が享受できるはずであります。こうした目的があって、初めて、個人の昇進、進歩ということが許されているのです。
個人の利益や個人のプライド、あるいは個人の気分だけのために、進歩、進化が許されているわけではないのです。その人が高まることによって、より高次なる目的に奉仕することができるということ、これが目的であるわけです。
こうしてみると、だいたいその進化の法則の一つの別の側面というものが、出てくると思います。進化と調和というのは、二大原理というように言われているけれども、決してこれは切り離された別のものではないということです。進化、あるいは進歩そのものの中に、調和への芽が潜んでいるということです。
それは、進歩ということが、すなわち、他の者の進歩を意味しているからです。特定の人の進歩が、すなわち他の者の進歩をも意味している。ある人が成功することが、他の人の成功につながる。こういう原理を内包しているからです。ある人の成功が他の人の不成功を意味するのであれば、進歩と調和ということは、両立しなくなってくるかもしれない。しかし、ある人が進歩することによって、他の人の進歩にもつながる。こういう原理があるからです。それはその通りであって、教師がより学べば学ぶほど、優れた者となればなるほど、生徒たちもまた、享受するものも大きいということです。そうしたものであります。
こうしてみると、進歩の原理の中には、調和への芽が潜んでいる。別な言葉で言うならば、他の者たちを害するような進歩は、神の許容されているものではない、ということです。さすれば、高級霊をも含めて、地上に生きている人間の目的というものは、自らの魂の向上を図るとともに、同時に、その魂の向上が同時代に生きている他の人びとへの奉仕となり、貢献となるような生き方であるということです。
こうして、単なる調和ではない、大調和の世界というのが現出してくるのです。調和というものを人びとは、ともすれば、停滞の中に考えてしまいます、現状維持を調和と考えてしまうことが多いのです。現状のままで、誰もが突出することなく、そのままで、伸びやかに牧歌的な生活を送ることをもって、調和と言うかもしれませんが、それは本当の意味での調和ではないということです。
全体が発展し、進歩してゆく中において、伸睦まじく生きていくことが、大調和であるのです。現状のままで、誰もがその才能の芽を伸ばさず、誰もが向上せず、そのまま仲睦まじく生きていくことが調和ではないのです。神の目指している調和は、そういうものではないのです。
ある人が優れていくことによって、その優れたるものを他の者にも分け与え、他の者も同時にまた優れた者となっていって、一段と高い調和を形成していく。こうしたことが、神の本当のお心であるということです。こうした原理をみてみると、向上、そして調和。向上、そして調和。向上、そして調和。こういう無限の作業形式があるということです。
ですから、私も、神のもとにおける魂の平等ということを説きましたが、平等ということは、現在ただ今のままで、そのままでよいということではなくて、すべてのものがさらによくなりつつ、平等であることが望ましいのです。いっそうの向上の途上にありながら、魂が平等に愛されること、神に愛され、お互いに愛され合うことが、大事なことです。ある魂のみが進化して、他の者が進化しないで、それでいいというのではないのです。すべての者が進化していく中において、お互いに愛を確かめ合い、愛を享受し合うことが、大切であると言うことができると思います。
ですから、人間はすべて神の子であり、神が創られたものでありますが、この神より分かれたる魂というものは、自らのうちに一つの目的を内包しています。その目的は、やはり、自主的に分かれたる個性として、向上し発展してゆけ、そして、他の者との調和を築いてゆけ、こういうことであります。
さすれば、我らは、すべて一丸となって、神の大庭園を今、築いていると思えばよいのです。神の芸術を創っていると思えばよいのです。芸術としての大庭園を繰り広げており、その作業をしているのが、我らであると言ってよいと思います。
神は、草が生えた荒れ放題の庭でもって、よしとされてはいないということです。この荒れた庭を耕し、そして石を入れ、土を掘り、また、見事な花を植え、噴水を付け、鳥たちを放し、蝶たちを飛ばして、素晴らしい大庭園を創るということを目指しておられるのです。そうした大いなる神のお考え、お心というものを考えて、理解して、そして、それに共感するあなた方でなくてはいけない。
4.限りなき時
さて、今、私は、私の立場に立って認識できる世界観について、お話をしてまいりました。このときに、大切な観点が一つあるのです。それは、決して、急いではならん。しかして、遅れてもならぬという観点であります。
神は、非常に長い、長い、長い、長い時を経て、人間を暖かく、育もうとしておられるのです。長い、長い、長い時、年月の間に、さまざまなことがありました。さまざまな事件がありました。喜びも悲しみもありました。希望も挫析もありました。そうした時の流れを経て、超えて、超越したところに、偉大なる神の存在があったということです。
神は、無始にして、無終であります。我われは、その大いなる超越意識が、いつ始まって、いつ消えていくのか、どこに起源を発して、その後どうなってゆくのか、それを知りません。我らが知っていることは、我ら人格をもてる神霊のこの起源と、そしてゆくえだけです。
そうしてみると、地上にいる人間は、地上における時、時代、こうしたものを刻みながら生きているかもしれないけれども、自分たちが無限の時間の中の一点であるという視点を、決して忘れてはならないと私は思うのであります。無限の時の中の自分ということを、決して忘れてはいけない。これが、神がまた、「忍耐」でもあるという意味であります。
あなた方の目から見れば、この地上は、悪と不正とに溢れているかもしれません。さまざまな悪、さまざまな不正、こうしたものに満ち満ちているかもしれません。あなた方はそれを見て、なぜ神の創られた世界にこうしたものがあるのか、と思うかもしれませんが、これは長い長い時の中でみれば、また、やがて洗い流されていくものなのです。川の水は濁ることもあると言えましょう。しかし、大きな目で見れば、また、流れていくことがあります、こうしたものです。
地球の人間というものは、どうしても自分という目、視点でもって物事を判断しようとします。自分の体の大きさ、身長一メートル何十センチからの体、そして、人生七十年、八十年という有限の時間。こうしたものでもって、この宇宙を計らんとしています。ただ、私は、申しておきますが、あなた方がもっている物差しでもっては、神の時を計り、神のお心を計ることはできないということです。それはちょうど、あなた方が、三十セン千の物差しでもって、地球の円周を計ろうとしても、はなはだ困難であることに似ていると言えましょうか。あなた方の時計でもっては、神の時間を計ることができないのです。
あなた方にとっては、無限の悲しい時間が続いたかにみえることであっても、神の目から見れば、ほんの一瞬であるかもしれない。あなた方の目から見れば、無限の繁栄にみえることであっても、神の目から見たら、また、一点かもしれない。そうしたものであるということなのです。
進化ということも大事。進歩ということも大事。あなた方はしかし、その中において、時に破滅を見、時に退歩を見、時に退化を見ていくでしょう。ただ、それもまた、大いなる時の流れの中に、巻き込まれていくということを知りなさい。これは渦のように、渦巻きのように、渦巻かれながら、海流が流れていくのによく似ています。潮の流れの速い海峡においては、大きな渦が巻いていくと言います。そうした渦は巻きながらも、その渦を巻きつつまた、潮は流れているということを知らねばいけない。
決して止まることはないのです。渦巻きのようにみえても、停滞のようにみえても、退化のようにみえても、それはその場で渦巻いてはいるけれども、決して止まってはいない。大いなる流れの中にあり、大いなる流れと共にある。こうしたことを知らなければいけない。私は、そういうように思います。