目次
(一九八六年二月十日の霊示)
1.環境と人間、運命と神の真意について
― ― ヘレン・ケラー女史の招霊を行なう ―
ヘレン ヘレンです。
善川 ヘレン・ケラー先生ですか。突然お招きいたしましたけれども、既にご承知かとも思いますけれども、私共のいま行っております精神運動の一環としまして、心霊の書物を発行いたしておりますが、現在読者の方々から激励やら、相談ごとの手紙が沢山参っております。その中で女性の方々のお便りの中には、現在まで名僧、高僧、聖者の方々のご霊訓はございますが、女性の問題、女が抱く悩み苦しみということについてのご教示があまりありませんので、女性の方の光の指導霊方からお教えを願えれば、との強い希望がございましたので、今回、古今東西の女性の光の指導霊の方々からいろんな角度から、心の問題、或いは女性の本来のあるべきすがたについて、または、皆様方の霊天上界における日常のご様子など伺っておりますのですが、先生には、この地上では三重苦という苛酷な身体的な労苦を克服され、同じような苦悩のもとに置かれている多くの人びとに対し、神の光をお与えになられ、世の人びとの心の窓に神の明りをお点しになられましたし、この日本へも幾度かお越しになられてご指導下さったというご縁もございますので、わが国の事情についてのご理解もまだま新しいものがあろうと思いますので、できますことなら現代の女性開題、それと特に、身障者達、或いはそのような方で病床についておられ苦しんでおられるような方々に対してのご指教をお願いできましたならば幸いと存じますが、お願いできましょうか。
ヘレン ―わかりました。あなた方は大変な使命を持っておられます。このような偉大な使命を授って努力をしておられる方が、この日本の国にもいらっしゃるということを知って、私は嬉しく思います。
皆様方にとっては新たな教えの中味が、どのようなものであるかということが当面の課題であろうかと思われます。しかしその新たな教えの中味を悩まれる以前に、自らの環境の恵まれていることを感謝する気持を忘れてはなりません。私は、通常の人間と同じだけの基礎をつくるのにずい分と時間と、労力と、また他の方々の迷惑を顧りみずにお願いをいたしたことがかなりあります。けれどもあなた方は、環境において恵まれた方々であろうと思われます。どうかあなたご自身にとっても、いろいろと不自由なこととか、ご不満なことも多いとは思うのですが、このヘレンの立場と比べて、如何にあなた方が有利な立場におありかということを、お考えになって頂きたいのです。
私も、たとえば、普通の人間として恵まれた環境に育って、恵まれた関係においていろいろな人達を救うこともできたでありましょうが、敢てこのようなハンディキャップを背負うことによって、人間に生きる道、光の天使としての生き方を教える必要があったために、このような生き方をしたのです。いわば水面下に一旦潜ってみせたということです。ですからそうではないあなた方には私が達した以上に高いとこるまで達して頂きたいと思います。
まず私があなた方に申し上げたいことは、「環境と人間」ということです。これについて申し上げたいと思います。世の中の人々はどうかすると自分は不幸な人間であると思いがちです。なぜ不幸でしょうか、その大半を人々はその境遇なり環境なりに求めているのではないでしょうか、たとえば或る自分にとっての環境が現われたら自分は幸せになれると、こう考えていることが多いのです。女性の方々であったならば、もっと自分が美しくあったら、もっと自分がたとえばスマートであったならば、もっと自分が賢かったなら、或いはもっと父親に財産があったら、もっと彼に思いやりがあったなら、もっと彼が素敵な人であったなら、このように特に女性というものは環境に対する期待というものが多いのです。どちらかというと、自分自身を見つめる代りに環境を見詰め過ぎるのが女性であるのです。
男性の方も、似たようなことはあるかも知れません。けれども、女性は特に環境に対する不平不満が多いのです。ですが私は世の女性に言って置きたいと思います。天国においては不平不満はないのです。その不平不満のない天国から敢えて肉体を持ってこの苦しい地上に降りてくる理由は一体何でありましょうか、それは不遇な環境、苦労は、当然のことと承知の上で生まれて来ているということなのです。よろしいですか――。
私は特殊な使命を持って地上に生まれて来ました。そして私はある時に自分の運命を恨みました。なぜ私は眼が見えないのだろうか、なぜ私は耳が聴こえないのでしょうか、なぜ私は喋(しゃべ)ることもできないのでしょうか、なぜ人も嫌がるこのような三重苦が、わが身体に、わが生命に襲いかかって来たのでしょうか。私の思いは恐らくは旧約聖書にあるヨブの嘆きのようなものでもあったでありましょう。あの旧約聖書のヨブの答え、神の答えをもう一度現わすために、神は私を遣(つか)わせたのかも知れません。人々は旧約聖書において、ヨブに次ぎつぎにふりかかった苦難について知っております。そしてヨブは神を恨みます。あの善良なヨブ、人のことを悪くいわず、神のことを決して恨まなかったヨブが、最後には、― なぜ私はこんな苦難を受けねばならないのだろうか。と、神を恨み不平に思う心を持ちました。その時に神は言いました。「ヨブよ、一体お前に何が分るのか、お前は宇宙の初めの時を知っているか、お前は宇宙の終りの時を知っているか、お前は宇宙がどのように動いて来たかを知っているか、お前は人類の歴史を知っているか、お前は天地創造を知っているか、お前は何一つ知らないではないか。何一つ知らないお前が神である私を裁こうとしている、それはお前自身の都合によって、お前にとって都合が悪いということでもって、神である私を裁こうとしている。そのようなお前は非常に傲慢なお前になっているのではないか。お前は神である私と対等なものではない筈である。お前は非常に無知な一個の人間である。無力な一個の人間である。天の経綸、神の経倫も知らず、自らが置かれた境遇の不幸だけを呪う心が果たして神の子としての心であろうか――。」
神はこのように次ぎつぎとヨブに語っていきます。そして最後にヨブは、はたとして悟るものがあったのです。人間というものは、ともすれば恵まれた環境に置かれると神に感謝し、神を念う心を持つことができるのです。ところが自分がいざ不幸になってみると、こんどは代償を求めるのです。あれだけ神に対して祈ってやったのに、あれだけ神を信じてやったのに、あれだけ毎日信仰の心を持っていたのに、どうしてその信仰と引換えに、神はこんな不幸な環境を私に与えるのか、私をこんなに苦しめるのか、直ぐ堪忍袋の緒が切れてしまうのが人間です。
2.ヨブの苦難、イエスの苦の祈りに「沈黙」という神の真意を学んだ
ヘレン 人々は旧約聖書においてそのヨブヘの神の答えを読まれました。けれどもまだ人々はまだ本当の意味が分っていない。このために神は、このヘレン・ケラーという人間を、この地上に送り込んでもう一度ヨブと同じようなことをさせたのです。私のように眼が見えない人は多いでしょう。で、彼女ら、彼らのうちのいったいどれだけの人が、世の人々を勇気ずけるように起ち上ったでありましょうか、彼ら、或いは彼女らの大多数は世のお荷物になりこそすれ、世の人々を照らすところまではいっていないはずです。そのような環境を呪う心が彼らにはあるはずです。そこで私が現代のヨブとなって生まれて来たのです。どのようなハンディキャップを持っていたとしても、人間というものは、そのハンディに負けず燦然(さんぜん)と輝くことができるということを示せというのが神の私に対する指命であったのです。
私も環境に負けかけました。神を呪ったこともありました。けれども私は漸(ようや)く自分の使命を悟り、やがて光の天使としての使命の一端を担うことができるようになりました。ですから世の人々に知って頂きたいのです。ヘレン・ケラーの役割は、ヨブの役割であったということです。義人ヨブの役割の現代版であります。ですから私はあなたにも言っておきたい。新たな宗教を興こすという人は、ともすればご利益というものを考えるものです。神を信ずることによって萎(な)えていた足が治るとか、見えていなかった眼が見えるとか、或いは死人が甦える――極端なことを言えば、こうしたご利益を人は希望もし、願いもするのです。しかし、神は私に対しては何もお答えなさらなかったのです。神は私の眼を開かそうとはしませんでした。神は私の耳を聴こえるようにはされませんでした。神は私の口を自由にしようとはされませんでした。神は、ヨブの祈りで言うならば、ヘレン・ケラーの祈りを何一つとして叶えられなかったのです。しかし、答えられない、沈黙しておられるという中にまた神の回答があるのです。よろしいでしょうか、あのイエス・キリストと言われる偉大な人でさえ、十字架に掛けられる自分というものを知っておりました。そのイエスでさえ、その神の子であるイエスでさえ、ゲッセマネの園において血の汗を流して祈られたといわれております。イエス・キリストは何を祈ったでありましょうか。それは彼自身に、ご自身に聴いてみなければ分らないところがあります。けれども彼は自分の運命というものを知っていました。明日は十字架に掛けられる自分というものを知っておりました。そのイエスでさえ、その神の子であるイエスでさえ、ゲッセマネの園において最後の迷いと悩みがあったということです。彼は血の汗を流して祈ったといわれます。深夜まで祈りが続いたということです。弟子達は眠りこけておりました。彼があれだけ教えた弟子達は、主の最後が来ているというのに誰一人としてそのことを気がつこうとせず、眼を覚ましていなさいと言っているのに眠りこけている有様です。イエスは孤独であったでありましょう。そしてゲッセマネの園において、イエスが祈ったことは何でしょうか、―『神よ、願わくばこの苦杯を我れより取り去り給え――。』あのイエスにしてそう祈ったのです。しかしまた、『されど我が意のままに成さんとすにあらず、御意(みこころ)のままに成し給え。』と彼はこういうふうに祈られたのです。あの彼にしてそうです。できれば苦盃を取り除いて欲しかったのです。苦い盃をわが唇から避けて欲しかったんです。彼は思ったでありましょう。あのモーゼの成功を思ったでありましょう。神は追手の軍勢が来た時にモーゼに対し、紅海の水を割いて逃がしめたではないか。神は、エリアが、饑(ひもじ)い思いをして餓えた時に、鳥に餌を運ばせてエリヤに食べさせたではないか。その神であるならばなぜイエス・キリストをして十字架から逃がしめられないのか。彼はそれを神に問い詰めたのです。このようなことははじめてではないか。救世主として生まれてこのような死に方をするのははじめてではないか。イエスはそのことを祈りに祈りました。それは人間としてのイエスの弱さでもあり迷いでもあったでありましょう。この血の汗の祈りに対して、神は何一つ答え給わなかったのです。
今あなた方は私達を呼ぶことができます。私達を呼んで私達が来ないということはほとんどありませんでしょう。イエス・キリストも同じような状態でありました。彼も聖霊達と自由に話をすることができました。そのイエスが血の汗を流して祈っても、神は何もお答えになりませんでした。これが答えであったわけです。言葉として言われなかったことが神の慈悲であったでしょう。しかし沈黙しているということが即ち答えであったということです。汝は汝の運命に従えということであります。その運命の中において神の子としての使命を果せよ、燦然(さんぜん)として輝け、光の子として輝けというのが神の御意(みこころ)であったということです。イエスもそのことを悟りました。そして運命を悟った彼は勇敢に最後の苦盃を飲み乾したのです。
同じことはソクラテスに対しても言えます。ソクラテスは世の人々を導くために、全力を尽くしておりました。青年達に無知の知を説いておりました。汝ら覚醒(めざめ)よ、本当の霊的知識に覚醒よ、ということを彼は声を大にして日々語っておりました。しかし市民達は、愚かな市民達は彼を捕まえ、青年達を惑わすものだと言って刑務所に入れてしまいました。これはソクラテスにとって大きな苦盃であったでありましょう。彼は、神よこの苦盃をとり除き給えと祈ったでしょうか。彼は祈りもしなかったのです。彼もまた当時私達といいますか、聖霊達と語ることができました。ソクラテスとその頃詰っていた天使の一人がアポロンといわれる天使です。こういった方々、古代ギリシャのソクラテスの時の、もっと以前の古代ギリシャ、ゼウスとかアポロンとかいわれた方々と、ソクラテスは話しをしておりました。けれどもその時にまた、アポロンは何も答えなかったのです。ソクラテスは運命を感じとりました。彼は足掻(あが)きをしようとはしませんでした。彼は牢番達の逃がれよ、という言葉に耳を背けました。なぜならば、光の天使達が彼に逃がれよと勧めなかったからです。この時光の天使達は何も答えなかったのです。死ねとも言わなかった。逃げろとも言わなかった。答え給わなかったのです。これがソクラテスに対する"沈黙" の答えでありました。ソクラテスは自分の運命を感じとりました。彼は毒盃を呷(あお)って翌日刑死することになります。
このように神というものは、光の天使であればすべて救うかというとそうではないのです。答え給わないということがあるのです。それは、その運命がこの人間が地上に生まれてくる前に、神と約束していたものだからであります。そうした運命です。逆境において最高の神の子としての使命を果たすということを約束して出て来ているからこそ、神はその約束を敢(あえ)て破らないのです。わが子が可愛いのは当然です。救いたいのは当然です。けれどもそうであったならば約束を違えることになってしまいます。ですから私は世の人達に言いたいのです。様々なハンディキャップはありますでしょう。様々な不幸はありますでしょう。様々な不遇はあるでしょう。けれどもそのような不幸や苦難も、或る意味ではあなた方がこの地上に出る前に神と約束して出て来られているということです。あなた方は生まれる前に、これだけの人生、こういう人生であっても頑張って来るということを神に約束して生まれて来ているということです。
例えば眼が見えない。例えば足が立たない、例えば耳が聴こえないということは、これは本人の責任でもない、誰れの責任でもないと人々はよくいいますが、そのような意味においては本人の責任なんです。そういう人生であることを承知の上で生まれて来ているということなのです。ここを間違ってはいけないのです。人々は生まれて来て、人間は平等であるはずなのに、他の人間に比較て自分はこんな不幸を背負っている。神は不公平ではないのか、そう恨んでしまうのです。あたかもヨブの最後の頃のように、けれどもそうではないのです。生まれてくる前には、人間というものは、或る程度自分の人生のシナリオを自分の守護指導霊達と相談して生まれてきているのです。ですからこの今の世において、この地上において、不利な立場にある人こそ、逆境にある人こそ、神との間に大いなる試練を約束して来た人だということであります。
ですから私は敢て言いたいのです。逆境にある人こそ選ばれたる人であるということです。神の子として選ばれたる人であるということです。その逆境から立ち直ることによって世の人々の手本になりなさいという神の意向なのです。神のお考えなのです。ですから、自らの不幸を嘆いてはいけないのです。あなた方はそのような不幸の中で、神の栄光を輝かすために生まれてきているのです。ですから自分が、或いは私生児として生まれて来たとしても、それは予定された人生であり、自分が選択した人生修行の場であったということなのです。そのような不幸な環境において、或いは継母に育てられるということもありますでしょう。それでも予定された環境だということなのです。それを選んで魂の修行になるとして選んで生まれて来ているのです。誰れに不満を言うことでもないのです。不満を言うのは間違っているのです。自分がそのような勉強の計画をたてて生まれて来ているのです。ですから、その中で最大限に悟って行きなさいということなのです。
ある中国の方が先日言っておられましたね、自分の人生を愛しなさいと。これはこういう意味なんです。与えられた環境をね、人はともすれば運命論的に受け入れるのかというけれども、運命というのは他人事のように言ってはいけないのです。自分が決めて来たことなのです。自分が決めて来たこと、運命であるからこそそれを愛する必要があるんです。これは決して一般の方々だけではありませんよ、あなた方についてもそうなんですよ。あなた方はまた別の人生を羨(うらや)んでおられるでしょう。自分にないような、ああいう人のような生き方をしたいとか、こういう人間でありたいとか、いろいろな希(ねが)いや、想いがあるでしょう。けれどもそれはまたあなた方の運命なのです。自分で決めて来た運命なのです。神はそのあなた方との約束を忠実に守っておられるのです。であるならば、かけがえのない自分の人生を、自分の手で磨かずして一体誰れが磨いてくれるでありましょうか。こういうことです。これが「環境と人間、或いは運命と人間」ということについての私の考えであります。
3.マラソン選手は苦斗の中に人生の悦びを一歩ずつ昧わって行く
善川 そのような崇高な精神というものは、また事実そのような約束事で人は生まれて来ているのでありましょうけれども、遺憾(いかん)ながらその教えに接することもなく、ただ現実の自分の日常生活の不如意を託(かこ)って神の余りにも無慈悲な、自分達への運命の与え方というものに対する哀しみというか、不満というか、そういう言葉で表現せざるを得ないというような形で歎いている人々が多いように思います。
しかしながらそうした中で、身体不自由な身であっても、自分は自分なりにせめて自分のことだけでもやって行こうと努めて、この世を去って行く人もそこここに見うけられます。今後、あなた様のようなご指教が、そういう人達の上に大きな光となり、希望となってゆくことを期待したいと思います。
ヘレン 例えば、あなた方にとっては、他の宗教家達がやっているように人の病を治すというようなこと、これは神がその気持になり、あなたの守護指導霊達がその気になれば、簡単にできることなのです。他人の病を治すことぐらいのことはできるのです。けれどもね、その人が病んでいるにはその人独自の問題ということもあるのです。その人独自の運命もあるのです。それを何も知らないあなた方が、直ぐ病を治してしまうということは、それも神の栄光の一つの現われには違いありませんが、ある意味においてはその人の運命を勝手に修正してしまうことにもなりかねません。その人にとっては病気は治して欲しいでしょう。そうしていろんなところを駈け廻っているでしょう。けれども、それを治すということによって、奇績を起こすということによって、神理を伝道するという方法もあることは確かですが、私のような場合のことも考えて頂きたいのです。
医学が進歩してたとえばヘレン・ケラーとして生まれた私が、二十才にして目も耳も口もきけるようになった。全部使えるようになった。普通の通りになった。それで私は幸せであっただろうかと考えた場合に、恐らくそうではなかっただろうということです。私は長寿八十数才まで生きました。そして三重苦の中で起ち上がり文学活動をし、講演会もするまでになりました。そして世界中を廻って恵まれない人達を勇気づけました。私はやはりこのような人生の方が素晴しかったと思うのです。たとえ重荷を背負っていたとしても、これが素晴しい人生であったと私は思います。ですから皆さん、人生というのはマラソンのようなものなのです。汗を流して苦しんで走っているんです。端からみれば、そんなに苦しまなくてもいいではないかと、この車に乗って行きなさいと言いたいのですが。それではいけないということなんですね、ですからあなた方も、人間の幸福というものを今後とも考えていかれるでしょうが、マラソンでいえば、安易に横から走っていって、車にお乗りなさいと言っているようなことではいけないということです。
あなた方が学んでおられる日本神道系の教えの中にも残念ながら誤りがあると私は思うのです。それは、すべての人間がすぐ幸せになるということは大事ですけれどもそれは、この三次元の本当の役割というものを見過ごしているところがあると思うからです。
私はこちらの世界へ来て目も見えますし、耳も聴こえます。ロも喋れます。本来人間自由です。ただ三次元の中においてそのような厳しい環境に置かれたということです。ですから私は世の人々に言いたいのは、環境をよくするために奔走するよりも、環境の中で、自らを輝かす。そのような努力をして頂きたいと思うのです。人生は困難があるからこそ素晴らしいんです。困難があるからこそ嬉しいんです。輝いているんです。それは困難礼讃ではありませんよ。たとえばですよ、自ら車に当たっていって、そして交通事故になって、神よ困難を与え給うて有難うございますと、こんなのは愚者です。こういうことを言っているのではありません。自らの不注意で、不幸を起こして、それでよしとせよなど私は言っているのではないんです。しかし人生においてはどうしても避け難い困難苦難というものはあるんです。そうであるならば勇敢にそれを受け止めるということです。譬えて言うならば、この三次元における人生というものは、シェークスピアの劇のようなものです。喜劇ばかりやっていても中なか為にはならないんです。時には悲劇の幕も切って落とされねばならないということです。そうすることによって人生の質は深まっていくのです。
4.幸、不幸は神のみ知る、自ら望んで不幸を招くな
善川 高い見地からのお話で大変参考になることだと思いますが、なお、そのようないろんな身体的な故障を本来的に持っておられる方、或いは途中でそのような不幸に遭った。たとえば神の道を伝えて来たクリスチャンの方で全く善良な道を歩んで来られたと思われるような方が、ある日突然倒れ、植物人間になられるというような事例を私は知っておりますが、そういう人達の場合、どういうものでしょうか。果たしてその使命というものはどういうことになるのでしょうか。あなたが仰られた使命によるものであるのか、或は過去世における自己のカルマの現われであるのか、自分達が見定めるその辺の自覚と方向というものが定かにならないで苦しんで居られる方もあると思うのですが…。
ヘレン それは他人から見ても分らないのです。結局は本人の魂と、神との話し合いによって決まることなのです。他人の眼から見れば、なんであんな善良な人がこんな風になっているんだろうと思われるかも知れません。しかし本人の本当の魂の歴史の中から見なければ、その事件がどういう意味があるか、ということはこれは他人が伺い知ることはできません。ただ言えることは、人間というものは与えられた環境の中で、最善を尽くしておれば、いつも天国の中に居るということなのです。最善を尽くす中には地獄はないんです。
ただ、いま一言付言して置きますと、クリスチャンの中には徒らに悲劇を招いているような方々もいます。これはいわば教祖であるイエス・キリストがあのような受難をされたがために、徒(いたず)らに受難礼讃を煽(あお)っているところもあると思うのです。ですから敬虔なクリスチャンの中に怪我をしたり病気に倒れたりする人が多いのだけれども、そのような人の心の中には、やはり受難礼讃の気持があるということも否めないと思うのです。主にもたらされたような苦難を私にも与え給えと祈るような心がどこかにあるということです。特に面白いのはキリスト教の神父達、或いは聖人達といわれる方々に聖痕(せいこん)というのですが、キリストが受刑したときと同じような傷口ができたりですね、そういうことがあるということです。それは苦難を誇りに思う心がそこにあるということです。聖フランシスコでもそうでした。或いは近年においてもピオ神父とか、そうした方々には聖痕というものが現われました。手に十字架を打たれた釘の痕ができたり、そうしたことですね。脇腹に槍で刺された痕が出来たり、こんなことを尊がってはいけないのです。それは自らの受難礼讃の心が感応して肉体にそのような現象が現われただけなんです。どうも教え主の環境を真似てみようという気が強過ぎて、人間はどうもそちらの方向へ行ってしまうのです。
もしキリストが幸福な人生を生きたなら、やはりクリスチャン達もそうした人生を生きる人が多かったでありましょう。どうしても弟子達は先生の悪い面まで見てしまうことがあるのです。これは仏教の方で釈迦が出家をするとみんなが出家をして了ったようなそうしたものと恐らく同じであろうと思います。
人はどうしても形を真似てしまうのです。本質を真似ないで形を真似るのです。ですから私が云っているのは、あくまでも、どうしても避けようと思っても避けられないような運命に対しては勇敢にその中で生きて行きなさいと云っているのです。決して苦難を自ら招いてはいけないのですよ。そういうことをする人もいるのです。宗教者達には特にいるんです。敬虔な方々には、それに対しては、私は忠告を与えて置きたいと思います。そうであってはいけない、決して、心の中に苦難を呼び込むようであってはいけない。それまでをも運命と言い切れないものがある。用心すれば避けられたような苦難を自ら呼び込むようではいけない。ですから恐らくはクリスチャン達は他の宗教の方々に比べて敬虔な人ほど病気になったりする人達が多いのではないかと私は思います。それはどうしてもそういう苦難礼讃の気持があるからです。これは避けて頂きたいと思います。
5.信仰を力とし勇気を起こし事業に成功していく人間たれ
善川 有意義なお話を伺いましたが、現在あなた様は天上界に居られまして何方(どなた)かのご指導をされて居られますか。
ヘレン おります――。特に私はこの地上において、社会福祉とか事業、そうした方面で活躍されておられる方々を、日向になり陰になって指導しております。――また私が地上に在った時に、私を指導して下さった方は、あの偉大なスウェーデン・ボルグといわれる方でありました。あの方が私を指導して下さいました。
善川 スウェーデン・ボルグ様は現在天上界に居られますか。
ヘレン 居られます。また機会があればあなた方のところへ出て来られるでしょう。あのスウェーデン・ボルグ様が私を導いて下さったのです。また私はあのスウェーデン・ボルグ様の「霊界記録」ですか、あれを生きていた時に、まあ点字でありましたけれどもそれを読むことによって本当の信仰に覚めたということもあったということです。
私が今世の人々に対して訴えかけたいことは、信仰を持って生きるということが如何に美しく輝いてみえるかということです。如何に素晴しいかということです。いま日本の方々をみてもどうも唯物論的になり、科学万能になっておられるようです。心の中では、あるいは家庭の中では神仏を信仰するということも結構しておられるのですが、それを人に知られると何か気まずい思いをする。何か恥ずかしいようなそんな思いを持っておられる方が多いようです。けれども本当はそういうものであってはなりません。本当は信仰がその人を強くし、その人を輝かすようでなくてはなりません。信仰がその人を弱くするようなことでは困るということです。信仰を持つことによって人に負目があるように思われたり、人の目を恐がるようであっては困ります。信仰を持つことによって強く、勇気を持って生きていける人間にならねばならないということです。
キリストは言われました。樹の良し悪しはその果実を見れば分ると。果実が良ければ樹も良いのである。そういう見分け方をされました。これは後の世において宗教の善悪を見分ける方法としてずいぶんと言われております。あなた方もまた一つの樹であります。あなた方の樹の良し悪しはその果実によって判断されます。ですからあなた方も新たな教えを説いていかれるつもりでありましょうが、あなた方の教えを信ずる方々が、世の中において大手を振って歩けるようなそうした教えでなければいけないということです。あなた方の教えを信ずることによって、周りの人々から嫌われ、親戚から破門され追出され、陰に隠れてコソコソしなければならないような、そんな教えではないはずです。もっとあなた方の教えを信ずることによって人生に勇気を持ち、そして事業に成功して行けるような、そうした強い人間を作り出せるような教えであって欲しいと思います。
6.女性こそ神の使徒として強く働け
善川 近年女性の方がこの信仰の問題については非常に熱心になっておられるのですが、それ自体は結構だと思うのでありますが、これはご承知かと思いますが、最近外国系の宗教の或る宗派の婦人宣布班の方々でそれが非常に熱心で、班を編成して各家庭を訪問し教えを説いて廻っております。その熱心さには全く敬意を表するばかりですが、問題はその宗派の教義なり信条なりにはドグマティックなものが強く惑じられるのですが、しかしその行動は今あなたが仰られたコソコソするのではなく真向から信じ切っておられるということと、いま一つは、その果実と樹の喩えによって示された問題についてですが、どうお考えになりますでしょうか。
ヘレン まずあなた方に言って置きます。信じている中味の高低はとも角、その行動自体は立派だということです。あなた方が見習うべきものがあるということです。教えの中味の高低はあります。良し悪しはあるでしょう。けれどもね、それだけの熱意を持って生きるということは、人生にとっては益をなすものであります。女性にとっても家庭にモジモジしているよりは、本当に自分が信じた教えであるならば、それを人々の戸口から戸口へと伝えて行くということは大切なことであります。
たとえば、日本の国に新たな教えが説かれるとするならば、日本各地に居られるご婦人の方々がご近所からご近所へとその教えを語ったならば、やがて日本中にその教えは広まって行くのです。私はあなた方にも言っておきます。あなた方の教えの主たる担手となる方は、むしろご婦人達でありましょう。ご婦人からご婦人へと噂が広がっていき、信じていかれることになりましょう。信じるということの強さにおいて女性は男性よりも遙かに強いものであります。
神は、男性に、知性と理性において優れたものをお与えになりました。けれども神は平等にみております。知性と理性の足りない分、悟性といいますか、信ずる力と申しますか、或いは感性と申しますかそうしたものが強くなっているのです。そういうふうに神は、それぞれのものをそれぞれに愛しておられるのです。神はそれぞれのものを一様に愛しておられるのではなくて、それぞれのものをそれぞれに愛しておられます。ですから女性にも信ずる力というものを、弱い女性であるからこそ、信ずる力というものをお与えになって居られるのです。ですからそういう熱狂的な人々は、端からみたら非常におかしくみられるかも知れません。けれども、その中に学ぶべきものはあるということです。要は、真実の教えがまだ十分説かれていないということであって、その行動自体が悪いことでもなんでもありません。むしろ私は素晴しいと思いますよ。あなた方は私達の霊言を書物にしようとしておられるけれども、これらの書物を持って他人の戸口を叩いてこれをお読み下さいと廻る程の女性が出ることは、素晴しいことではないでしょうか。それ程の勇気がなければ本物は伝わっていかないのです。
善川 今日では男性よりも、女性の方が伝道ということについては積極的で勇敢ですね。
ヘレン というのも、男性は今、立場が弱くなっているのです。男性というのが主として経済の基礎をつくらなければならない。経済力を担わなければならないというそういう使命があるために、かえって自分の立場を守るために弱くなっているのです。ですから私は世の女性達に言いたいのです。職場進出されることも結構ですけれども、経済的に余り悩まなくてよいあなた方であるからこそ、神の使徒として働きなさい。強く働きなさいと言って置きたいと思います。
7.この世は天国、曇っているのはあなたの心の窓硝子
ヘレン それとね、私はもう一つ言って置きたいのですが、皆様はともすればこの世の中を非常に醜いもの、穢(けが)れたもの、不浄なもの、困難と苦痛とだけがある世界、まるで地獄が現象化した世界のように言われています。けれどもね、本当の眼で透かして視たならば、この世の中というのは輝いて見えるのですよ。それはあなた方の心が曇っているからなのですよ、窓ガラスが曇っていると、外の景色はどうしてもきれいには見えないのです。景色が曇っているのではなくて、あなた方の心の窓ガラスが曇っているのですよ。
世の中乱れていると言います。しかし世の中を見ようとしているあなた方の一人ひとりの心の中に曇りがあるということなのです。太陽は一万年前も今も同じく、東から出て西に沈んでおります。地球は同じように自転しております。同じように春があり、夏があり、冬があり、同じように鳥たちは群れ、草花は咲いています。この豊かな大自然の姿というものを見てみなさい。世界は本当に美しいものなのです。その美しいものを美しいとして見れないあなた方の心が曇ってきているのです。どうか心の窓ガラスをよく拭いてほしいのです。世界をよきものとして観えるような、あなた方であってほしいのです。世界を悪しきもの、穢らわしきものと思うと、悪しきものや、穢わしきものが次ぎつぎと、むくむくと出てくるのです。人間をみんな悪人だと思っている人ほど最大の悪人であるという言葉があります。世界の人がみんな鬼だと思っている人こそ最大の鬼であります。世間の人を皆善人と見ることができる人は、最大の善人であります。どうか世間が悪いのではなく、世界が悪いのではなく、自分達の心の窓ガラスが曇っているだけだということを認識してほしいのです。
ですから、新しい宗教というものは新しい世界観の提供が大事だと思います。朝、森の中の小屋で目が醒めた時に、美しい鳥の囀(さえず)り、素晴しい太陽の輝き、緑の素晴しさ、小川の流れの清らかさ、空気のすがすがしさ、こうしたものに感謝できる人間であるならば―そうしたすがすがしい気持を持って、毎日生きていけるようであって欲しいと思うのです。そのような「観」の転回こそが、観方の転回こそが大切なのではないでしょうか。そのことこそが現代の宗教に求められていることではないでしょうか。