目次
(一九八七年十一月十日の霊示)
1.日々の祈り
祈りということは、人間の生活の中において、もっとも崇高なものである。動物や植物には、祈りということがない。しかし、人間には、祈りということがある。
祈りはこれ、人間と神との掛け橋。また、神から人間への答えを意味するものであろう。
神に祈るとき、人間は、ここに謙虚となり、神に祈るとき、自分ならざるものを念うのである。
人間はもと、神より分かれたる尊厳ある生命であるが、この地上で生きていく過程において、そうした尊厳を忘れ去り、虚しい日々を送ることが、数多くあるのである。
さすれば、人生の意義を追究し、そのなかに神の子としての本質を顕現していくためには、祈りの生活というこことが、何にもまして大切となる。
祈りは、己の心を清らかにし、己の心を神と共にし、己の心に、常に、高級諸霊の働きを受けんとするものである。
ここに私は、日々の祈りの大切さを訴えんとするものである。
まず、朝に起きて祈れよ。朝起きて、窓辺に座りて、太陽に向かいて祈りなさい。朝日に向かって祈りなさい。
《朝の祈り》
神よ、今日も私に、素情らしい一日をくださりまして、まことに有難うございます。
私は、神のしもべとして、今日の命の与えられしことを感謝するものです。
今日も神の子として、日々、清く、正しく、健康に生きていくことを誓います。
日々あなたの心を心として、生きていくことを誓います。
日々、あなたの希望を実現せんがために、生きていくことを誓います。
日々、あなたと共に歩くことを誓います。
今日、目が覚めてより、この一日を始めんとするにあたって、自分一人の利益を考えることなく、家族の幸せを考え、また、社会の人びとの幸せを考え、人類全体の利益にならんがために、行動することを、ここに誓います。
そして、あなたのお心に、少しでもこの地上を近づけんがために、熱意をもって一日を送ることを誓います。
この一日の二十四時間を、御心の導きのままに生きていくことを誓います。
神よ、どうか、この私をお導きください。
神よ、どうか、この私の前途を、明るく照らしてください。
神よ、どうか、我と共にあってください。
神よ、どうか、高級諸霊からの導きのもとに、我が前に道を開き給え。
我が前に、一筋の道を開き給え。
これが、朝の祈りです。こうした祈りでもって、一日をまず始めることです。そして、朝の食事のときにもまた、神に対する祈りを忘れぬことです。
《朝食のときの祈り》
神よ、今日一日を始めるにあたって、私に、朝の食事の機会を与えてくださいましたことを感謝いたします。
ここにあるものは、我が肉体となり、我が血となり我がエネルギーとなる食物であります。
あなた様のお力で、こうした食物を今日一日の人生を始めるにあたって、食することができることを、心より感謝します。
また、我が血となリ肉となるパンよ、御飯よ、また、スープよ、味噌汁よ、その他もろもろのものたちよ、私の魂修行のために奉仕していてくださることを、心より感謝いたします。
あなた方の御奉仕に、心から感謝して、この感謝の心をエネルギーとして、今日一日を出発することを、ここに誓います。
こうした祈りの言葉を、朝の言葉としなさい。朝食のときの誓いといたしなさい。
また、夕食のときには、こうした祈りをしなさい。
また、夕食のときには、こうした祈りをしなさい。
《夕食のときの祈り》
神よ、今日一日を、このように健やかに、過ごさせてくださいましたことを、心より感謝します。
あなたはいつも、私の人生に対して、変わらない愛と優しさを、投げかけてくださいました。そして、今日一日を無事、過ごさしてくださいました。
あなたの与えてくださる日の光、あなたの与えてくださる空気、あなたの与えてくださるさまざまな人の恵み、あなたの与えてくださる機会によって、私が今日一日を心正しく生きられたことを、心より感謝し、これをご報告申し上げます。
また、家族と共にこうして相集いて、あなた様に感謝しながら、夕食のときをもてるということを、私は心から幸福なるものとして受けとめます。
神よ、どうか、家族相集いて、健康にて、こうしてあなた様に感謝の祈りを捧げさしていただけますことを、心より感謝いたします。
どうか、こうした素晴らしい夕べの日が、今日も、明日も、あさっても、また、その先の日も続いていきますことを、心より願ってやみません。
ありがとうございました。
これが、夕食のときの祈りであります。こうした気持でもって、今日一日を振り返って感謝し、また、家族と共に食事ができることを、感謝していきなさい。
そして、夜寝る前に、最後の祈りというものが必要です。これが、就寝の前の祈りです。
《就寝の前の祈り》
神よ、今日ー日を無事に過ごさしていただきましたことを、心より感謝します。
私はこれより先、深い眠りに落ちていくこととなっております。
その深い眠りは、あなたが今日一日の時間を、私に与え給うて、私を人生修行のために、この一日を、有意義に過ごさせてくださったことの結果であります。
どうか、深い深い眠りを、私にお与えください。
そして、一日の疲れをお癒しください。
そして、明日の朝、また私が世の中のために尽くせるような健康な身体と健康な心でもって目覚めることができますことを、心よりお祈り申し上げます。
神よ、ありがとうございました。
今日一日、あなたが私をお導きくださったがごとく、明日の日もまた、私をお導きください。
また、私の心のうちなる守護、指導霊よ、私の今日一日を、守護、指導してくださって、心から感謝いたします。
あなたがたのお力のお陰をもって、今日一日が幸せのうちに終わったことを、心から感謝いたします。
ありがとうごぎいました。
こうした、朝の目覚めの祈り、朝食のときの折り、夕食のときの祈り、また、就寝前の祈り。 この四つの祈りというものを、一日の、日々の祈りとして、大切にしていきなさい。
2.悲しみのときの祈り
人生には、さまざまな悲しみというものがあります。
それは肉親の不幸であったり、自らの不幸であったり、その原因は、人さまざまであり、その現われ方もまた、人さまざまでありますが、悲しみというものも、人生を彩(いろど)るための、冬の日を彩るための、飾るための、柊(ひいらぎ)の葉のようなものでありましょう。柊の小枝のようなものでありましょう。
しかし、そうしたときにも、祈りの心を忘れてはいけません。祈りの心をもって生きていくという気持を、忘れてはなりません。
祈りと共にあるとき、あなたは神と共にあるのです。神と共に歩み、神と共に生きていくためには、悲しみのときにも、祈りというものを、忘れないことだと思います。
それではこれから、悲しみのときの祈りの仕方について、ご説明申し上げたいと思います。
《悲しみのときの祈り1》
天にまします我らが主よ、昨日の命があり、今日また命があり、明日もまた我が命があることを、心より感謝します。
あなたが、私たちに永遠の生命を与え給うたために、私たちは、どんな悲しみにも打ち勝っていくことができるのです。
悲しみの日にも、太陽は輝き、悲しみの日にも、空気は私に、快い風を与え、悲しみのときにも、植物たちは私にほほえみかけ、悲しみのときにも、動物たちは笑いかけてくれました。
悲しみのときにも、我がために泣いてくれる友があり、悲しみのときにも、我がために喜んでくれる母がある。
悲しみのときにも、我がために、道を開いてくれる天使がある。
そうした、大いなる友人たちの力を、心から感謝し、私は悲しみの祈りを主に捧げたいと思います。
主よ、主よ、主よ、あなたのお力は、この地球の始めのときよりも古く、そしてこの地球の終わりのときよりも、また、長い。
永遠の時を、あなたは生きていらっしゃるのです。
千年の日も、あなたにとっては、一日の如くであります。
さすれば、我が悲しみのときも、あなたにとっては、過ぎゆくはかないものでありましょう。
主よ、どうか、この私の悲しみを取り去り給え。
主よ、どうか、我が悲しみを慰め給え。
主よ、どうか、我が悲しみの日々を過去のものとならしめ給え。
主よ、どうか、この悲しみの月日を、我が心の中より追い払い給え。
主よ、どうか、幸せの日々を、我がために招き給え。
主よ、どうか、幸せの生活を、我がために与え給え。
主よ、どうか、多くの人々の協力と、多くの天使たちの協力を得て、我が前に、ただ一筋の美しき道がひろがることを、心よりお願い申し上げます。
主よ、悲しみのときに、我と共に在ってください。
主よ、悲しみのときにこそ、我が傍らに来て、我を慰めて下さい。
主よ、私は、あなたを心から愛しております。
あなたのために、私は生きておるのです。
我が悲しみのときに、私共に泣いてください。
我が悲しみのときに、私と共に、その悲しみに耐えてください。
我が悲しみのときに、私を心より励まし、私の希望の光となってください。
主よ、いつも我と共にありますことを、ありがたく感謝いたします。
人生には、どうしても、悲しみというものがつきまとうものです。
しかし、悲しみということに負けてしまってはいけないのです。なんとかして、それに打ち勝っていかねばならない。なんとかして、その悲しみを乗り越えていかねばならない。それもまた、魂の大きく飛躍するときであるからです。
悲しみのときこそ、人間はその人の真価が、試されているのです。人間に涙というものがあるということは、人生の途中において、何らかの悲しみがあるということです。それを否定することはできません。
ただ、ただ、単に涙を流すだけの存在であっては、いけないということです。その涙は、あなた方を輝かせるがための、宝石でなければいけない。
あなた方を、天上に導いていくがための、大いなる力でなければいけない。
あなた方を、根本から光らしていくための、清い、清い、心の現われでなければいけない。
そうしたことを、私は感じます。
悲しみのときに、人間よ、強くありなさい。悲しみのときに、自分一人だけが悲しんでいると思ってはいけない。世の中には、涙を流している人が数多くいることを知りなさい。
そして、涙で濡らしたパンを食べることの、その意味を、深く、深く、考えなさい。
涙に濡れたパンを食したことのない人間にとっては、人生の真実というものは、決してわからないものなのです。
もう一つの悲しみのときの祈りを、ここにご披露しておきましょう。
《悲しみのときの祈り2》
主よ、嵐のときにも、雨のときにも、風のときにも、海が荒れたときにも、大地が揺れたときにも、あなたは私と共にありました。
主よ、あなたは私がどのような悲しみの中にあっても、私にパンを与えてくださいました。
私は、涙で濡れたそのパンを、幾日食べたことでありましょうか。
そして、涙に濡れたそのパンが、我が心をどれだけ暖かく、生命のエネルギーで燃やしたでしょうか。
主よ、あなたの与えてくださるパンは、生命のパンです。
どのように涙に濡れることがあっても、そのパンの中からは、無限のエネルギーが湧き出でてきます。
私は、昨日もそのパンを食しました。今日もそのパンを食しました。私はきっと、明日もまた、あなたのくださるパンを食することになりましょう。
主よ、これからも、我がために、毎日一切れのパンをお与えくださいませ。
その一切れのパンを糧として、私はこの悲しみを乗り超えていきます。
主よ、ご協力に、心から感謝いたします。
これもまた、もう一つの、悲しみのときの折りであります。
悲しみのときには、心を動揺させずに、じっと耐えていくということが大切です。自分一人だけが涙しているのではないという思いを、持つことです。
そして、深い悲しみを知るということにおいて、他の人びとへの愛というものを知らねばなりません、他の人びとへの同情、優しさというものに目覚めるあなた方でなければいけません。
悲しさというものが、自分一人のための悲しさであってはいけない。他の多くの人びとへの大いなる愛とならねばいけない。それが本当の、悲しさというものが、悲しみというものが、持つ意味なのです。
3.苦難のときの祈り
悲しみについて語りました。さて、ここでは、苦難のときの祈りというものを、ご披露(ひろう)しようと思います。
人生には、さまざまな苦難というものがあります。その苦難というのは、自分の力でもっては、どうしても打ち砕いていけないような、大きな障害というときであります。障害のときであります。
大きな岩のようなものが、目の前に立ちはだかって、どうしてもその岩を退(しりぞ)けることができない。どうしても乗り超えていくことができない。こうしたときに、苦難というものを人間は感じるのです。
しかし、こうしたときに、苦難というものを、巌(いわお)のごとく大きなものと思ってはいけない。人間の信仰というものは、もっと、もっと大きなものです。もっと、もっと強いものです。
信ずる者には、すべてが与えられるのです。信ずる者にとって、不可能なものは何もないのです。信ずる者にとっては、すべてが可能性であり、すべてが希望であります。
どうか、心から神を信じるという気持を、そのときに忘れてはいけない。そうした、すべてを神に任せるという、大きな気持を忘れてはいけない。
苦難のときにも、決して挫(くじ)けることなく、力強く、逞(たくま)しく生きていくあなた方でなければいけない。
私は、そのように思います。
私は、そのように思います。
それでは、ここに、苦難のときの祈りを、ご披露いたします。
《苦難のときの祈り1》
神よ、今私は、大いなる苦難の中にあります。
我は今、自らの魂が、大いなる辛酸(しんさん)によって、試されていることを知リました。
神よ、しかし、私は信じます。
この山のような苦難も、やがては解決されんことを。
山のように見えし苦難も、小さく小さく細分化していけば、やがてスコップの一掘りで、片づけていけるものであることを、私は信じます。
人間の力でもって、解決ができないような苦難は、ないと思います。
なぜなら、私たちは、神の子だからです。
そして、私たちは神の子であるからこそ、あなたのお力を、いつも受けることができるからです。
この苦難は、必ずしも、私にとって、害を意味するものではないと私は思います。
苦難は必ず、魂の糧(かて)になるものであることを、私は信じます。
苦難は必ず、砥石(といし)となって、我が魂を光らせるものであることを、私は信じます。
この苦難をバネとして、私は、よりいっそう飛躍していくことを、ここに誓います。
神よ、どうか、こうした苦難を乗り超えていくための力を、私に与え給え。
神よ、どうか、この苦難を乗り超えていくための勇気を、私に与え給え。
神よ、どうか、私にこの苦難を乗り超えていくための、根源的なる生命の光をお与えください。
神よ、いつも私に愛をお与えくださいまして、ありがとうございます。
心から感謝いたします。
あなたの導きのもとに、私は今、勇ましく第一歩を踏み出すことを誓いました。
この誓いとともに、生きていきたいと思います。
神よ、私は今誓いました。
どんなことがあろうとも、どんな苦難が降りかかろうとも、神の子は、これを乗り超えていくのが使命であることを、私は悟りました。
神よ、私は、勇気をもって前進していきます。
どんなことがあろうとも、雪の日にも、嵐の日にも、雨の日にも、私は前進していくことを決めました。
前進しないことが恥(はじ)であるならば、私は前進しないということを、決して心の中に刻むまい。決して日記の中に、そうしたことを書くまいと思います。
どうか神よ、前進せる私を励(はげ)ましてください。
どんな嵐の中も、私は突き進んでいきます。
昨日より今日、今日より明日、一歩でも二歩でも、前に進んでいく私でありたいと思います。
神よ、こうした私を、心から勇気づけください。
ありがとうございました。
これが、苦難のときの祈りであります。苦難のときに、大切なことは、常に神と共にあるという気持を忘れないことです。神と共にあるという気持。神があなた方のそばにあるならば、一体誰が、あなた方に敵することができるであろうか。神が我が内にあるならば、一体何者が、自分を害することがあるであろうか。
神をまず、我が内に呼び込むことです。神が我と共にあるならば、何も恐れるものはないのです。
それでは、もう一つの、苦難のときの祈りをご披露いたしましょう。
神をまず、我が内に呼び込むことです。神が我と共にあるならば、何も恐れるものはないのです。
それでは、もう一つの、苦難のときの祈りをご披露いたしましょう。
《苦難のときの祈り2》
神よ、私は、人生を織(お)りなす一本の糸が、「努力」という二字で貫(つらぬ)かれていることを信じます。
神よ、私は、どんな日にも、努力ということを怠(おこた)らずに生きてまいりました。
そして今、この努力のもとに私は、日々を歩もうと決意しておりますが、わが前に大きな苦難が待ち受けているかのように見えます。
しかし、神よ、私は信じています。努力によって打ち破れない苦難は、決してこの地上には無いことを。
苦難というものは、人間の心でもって、そのように見えるだけであって、本当は私たちを、さらに、二倍、三倍の努力をさせるために、神が用意された、大いなる配剤であることを信じます。
さすれば、これは神が私たちの魂の足腰を鍛えんがために、用意された試練であると信じるものです。
それゆえ、私は、この大いなる試練を、二倍、三倍、四倍、五倍の努力でもって、克服していかんとするものであります。
神よ、我が努力に対して、心より、暖かいまなざしをお送りください。
神よ、我が努力に対して、最後までお励(はげ)ましください。
神よ、我が努力する才能を与えられましたことを、心より感謝します。
あなた様が、人間を創られたときに、人間の心の中に「 努力」という二字を刻印されましたことを、私は何よりもの希望といたします。
この「努力」という二字を、常に日々、心に刻み、常に日々、これを思い出し、この二字の「努力」という文字を、我が信条となし、我が人生訓となし、我が処世訓(しょせいくん)となして、あらゆる困難を打ち破っていくことを、私はここに誓います。
神よ、どうもありがとうございました。
これが、苦難のときの、第二の祈リであります。こうした祈りをして、こうした苦難の日々を乗り超えることです。
それでは、第三の、苦難のときの祈りをご披露いたしましょう。
《苦難のときの祈り3》
神よ、私という人間は、もともとこの地上にはなかったものであります。
私をこの地上に遣(つか)わせたのは、あなたの御心であります。
あなたは人間を創り、人間の中に、高貴なる魂を吹き込みなさいました。
そして、人間の肉体の中に、高貴なる魂を吹き込まれたその理由は、あなたの代わりに、私たちにこの地上にて、ユートピア建設をせよとの御心であったと思われます。
さすれば神よ、我らは今、この地上に、大いなるユートピアを建設せんとしているものです。
この我らの前に、何らの苦難がないように、お取り計らいくださいますことを、心よりお願い申し上げます。
ユートピア建設という、大きな意図のもとに、私は日々精進しております。
この私の心に、どうか答えてください。
神よ、ユートピア建設という偉大な目的のために、我が前にある障害をお取り除きください。
心よりお願い申し上げます。
これが、苦難のときの第三の祈りです。こうした祈りを大切にしながら、日々生きていくことです。
4.疲れたときの祈り
日々の祈り、悲しみのときの祈り、苦難のときの祈り、こうした祈りを、話をしてまいりましたが、これ以外のときにも、人生においては祈りが必要なときもあります。
それは、大きな悲しみや、大いなる苦難が、我が身に降りかかったときだけが、祈りのときではないからです。
日々の人生を生きていく中において、生きていくエネルギーが枯渇し、生命力が滅退したように感じるときがあります。こうしたときを、小さなこうした困難を、乗りきっていくための祈りも、また大事です。
それは、祈りというものは、地上から天に架けられた僑であり、また、天の神のところにと、伸ばされたパイプでもあるからです。
このパイプを通して、愛のエネルギーが、天から降り注いでくるのです。
どうかそうした心をもって、自分のエネルギーを、食物だけに求めるのではなくて、大いなる神に求めるという気持が大切です。
どうかそうした心をもって、自分のエネルギーを、食物だけに求めるのではなくて、大いなる神に求めるという気持が大切です。
疲れたときにも、私たちにエネルギーをくださるのは、大いなる神です。天なる神です。神に、エネルギーを補給してくださることを、心から祈ることです。
さすれば、勇気が凛々と湧き、さすれば、やる気が次々と湧いてくるはずです。こうした、疲れたときの祈りというものを、大切にしなければいけません。
それでは、疲れたときの祈りの、最初の祈りをご披露いたしましょう。
《疲れたときの祈り1》
神よ、私は、千里の道を、一歩、一歩と歩んでいるものです。
しかし、私の気力は萎え、私の体力は萎え、今、老いたるラバのごとく、我が肉体と精神は弱っております。
神よ、しかし私は、この千里の道を、まだ踏破(とうは)していないものであります。
この道の途上において、私が疲れのために倒れてしまうということは、どうしてもどうしても、残念なことに思われるのです。
さすれば、神よ、我が疲れたる肉体に鞭(むち)打ち、我が疲れたる精神に鞭打ち、我の前に、勇気ある人生を展開させ給え。
我の前に、希望ある人生を展開させ給え。
我の前に、迫力ある生き方を展開させ給え。
我は今、神に析る。
我の今、欲せんとするものは、エネルギーなり。
我の今、欲せんとするものは、神の力なり。
我の今、欲せんとするものは、神の無限の英知なり。
我の今、欲せんとするものは、神の人を生かさんとする力なり。
我の今、欲せんとするものは、神の無限の勇気なり。
我の今、欲せんとするものは、神の無限の光なり。
神よ、我にすべてのものを与え給え。
かつてあなたが、我にすべてのものをお与えになったごとく、今、旅において疲れておるこの私に、大いなる力をお授けください。
大いなる光をお与えください。
大いなる勇気をお与えください。
大いなる知恵をお与えください。
神よ、どうか我が前に、道を開き給え。
ありがとうございます。
これが、疲れたときの祈りの、一番目であります。
疲れたときには、もう一度人間は、考えてみなければいけないことがあります。それは、自分が、唯物的な生き方をしていないかどうかということです。
疲れの中にも、肉体的な疲れもあり、精神的な疲れもあるでしょう。
しかし、いずれにしても、この世的なる思いでもって非常に疲れていることがあるということは、否めないのではないでしょうか。自分が一体どのようなことによって疲れているのかということを、深く、深く、考えなければいけないと思います。
それは、神の心を心として生きておる途次における疲れであるのか。それとも、そうでないのかということです。これが、何よりも大切な考え方であります。
神の御心にかなわないことをして疲れているならば、その原因をつくっているのが自分であるならば、その原因を取り除くことです。そうしたことが大事です。
無駄なことにエネルギーを使っているならば、そのエネルギーを、蓄(たくわ)えることです。そして、もっと本質的なもののために、このエネルギーというものを使っていくことです。それが大事である。このように思います。
では、痩れたときの祈りの第二を、お教えいたしましょう。
《疲れたときの祈り2》
神よ、私はあなたが、無限のエネルギーであることを信じます。
あなたは無限のエネルギーであり、あなたはこの大地を創り、あなたはこの山を創り、海を創り、地球を創りり、星を創り、太陽を創った。そうした偉大な方があなたであることを、私は知っております。
そして、あなたは生きとし生けるものすべてを育んでおるエネルギーであることも信じております。
さすれば、大いなる神よ、あなたの本質が無限のエネルギーであるならば、あなたの創られた人間である私にも、無限のエネルギーを注ぎ給え。
無限のエネルギーが、我が心の底の底に、吹き出してくるように導き給え。
私は、自分が神の子であることを信じます。
自分が、神の、ただ一人の愛する子であることを言じます。
そうであるならば、神よ、我に無限のエネルギーを与え給え。
無限の勇気を与え給え。
無限の光を与え給え。
無限の供給を与え給え。
無限の繁栄を与え給え。
神よ、我が願いを聞き届けくださって、まことにありがとうごぎいます。
大切なことは、まず、信じるということです。神というものが、無限のエネルギーの固まりであるならば、それから分かれてきた私たちであるならば、神の光を受けるということは、当然のことであります。その無限の生命エネルギーを、我が内に流し込むということが、何にもまして大切なことであるように、私は思います。
5.勇気ある人生のための祈り
以上で、悲しみのとき、苦難のとき、疲れたときという、あなた方の人生における、マイナスの局面における祈りを、お教えいたしました。
ただ、祈りというものは、決してマイナスの自分を、単にブラスに戻すというためだけのものではありません。祈りの中には、もっと積極的なるものもあるということが事実であります。積極的に、道を開いていくための祈りというものもあります。
それは、祈りの本質の中には、念(おも)い、念(ねん)というものがあるからです。これが祈りの本質としてあるのです、この、祈りの本質における念というものが、これは物体的なものでありまして、あなた方の目にはみえませんが、霊的な目には、その念というものが、一つの物体として現われてくるのです。
あなた方が人を愛するならば、その念い、念というものは人に対して、野球のボールを投げるがごとく、向かっていきます。また、あなた方が憎しみを投げるならば、それも憎しみの玉となって、他人に向かって飛んでいくものであります。このように、念いというものは、ボールの玉のような、積極的なる力というものを持っておるのです。
さすれば、この念の性質というものを、十分に研究し、これを利用していくということが、大事であろうと思います。
では、勇気ある人生のための祈りの、第一の祈りをお教えするとしましょう。
《勇気ある人生のための祈り1》
主よ、私は今、神の子としての自分の本質に目覚め、神の子の本質が、この地上に仏国土(ぶっこくど)ユートピアを建設することであるということを知りました。
神の子の本質が、他人への愛を成就せんがために、行動することであることを知りました。
さすれば、神よ、今日ただ今より私は、他の人びとを愛するために、他の人びとの幸せのために、勇気をもって立ち上がることを、決意いたしました。
この我が勇気を、支(ささ)え給え。
この我が勇気を、鼓舞(こぶ)し給え。
この我が勇気を、鼓吹(こすい)し給え、
この我が勇気を、どこまでも、どこまでも、天高く天駆(あまか)けさせ給え。
そもそも勇気とは、人生の偉業を成し遂げんがために、一番大切なものであります。
こうした勇気というものに、今、目覚めた私は、この勇気というものを剣(つるぎ)として、盾(たて)として、槍(やり)として、弓として、人生の艱難(かんなん)と戦い、打ち勝っていきたいと思います。
どんな困難なときにも、どんな苦難のときにも、勇気という武器があるならば、この武器でもって、私は立ち向かい、道を切り開いていこうと思います。
神よ、我に勇気をお与えくださいまして、ありがとうございました。
この勇気という武器を大切にして、私はこれから、積極的なる人生を展開していかんとするものです。
どうか、我が前に道を開き給え。
我が前に、勇気の前に、我が勇気の前に、何らの困難もなきことを、私にお教えください。
私は、あなたの栄光がこの地上に現われんがために、日夜努力し、日々精進していくことを、ここに誓います。
これが、勇気ある人生のための祈りの、第一であります。
結局のところ、逃げのための祈りだけではいけない。もっと、もっと、積極的に人生を生きていくための、祈りでなければいけないということです。
そして、その積極性は、念いの方向が高度であればあるほど、素晴らしいものと言いうることができるでありましょう。より高度な目標をもち、より高邁な理想をもって生きていくことです。そこに、人生の秘訣というものがあるのです。
それでは、勇気ある人生のための祈りの、第二の祈りをお教えいたしましょう。
《勇気ある人生のための祈り2》
神よ、今、私は知りました。人生には決して後退がないということを。
後退があるように見えることは、これは目の錯覚であって、我が人生には決して後退はないのです。
私は、あらゆるものを我が魂の糧(かて)とし、あらゆる困難を、我が魂の砥石(といし)とし、あらゆる悲しみを、大いなる飛躍台(ひやくだい)として用いることを、ここに決意いたしました。
神よ、私を悲しますものは、何もないのです。
神よ、私を苦しめるものは、何もないのです。
神よ、私を恐怖におののかすものは、何もないのです。
なぜなら、この世界はあなたの創られた世界であり、この世界に生きているものはあなたの創られたものであり、この祈りを捧げる私も、あなたの創られたものであるからです。
あなたの創られた世界の中において、あなたの創られたものが生きていかんとするのですから、そこに何らの困難もあるはずがありません。
何らの苦難があるはずがありません。
そこはただ、素績らしい世界があるだけです。
そこはただ、幸せな世界が広がっているだけのはずです。
山を登ることは、ときおり苦難のように見えることがあっても、それはそうでないということに、私は気づきました。
それは、我が足腰を鍛(きた)え、我が健康を保証し、そして、すがすがしい空気を我に与え、また、日の出の太陽を我に見せ、下界の風景を我に見せんがための、あなたの配慮であったことに気がついたのです。
我は、今日(こんにち)ただ今より、勇気をもって山道を歩いていくことを誓います。
勇気をもって、あなたの下(もと)に進んでいくことを誓います。
今日ただ今より、後退のない人生を生きることを誓います。
今日ただ今より、堕落(だらく)のない人生を歩むことを誓います。
今日ただ今より、進歩しかない人生を歩むことを誓います。
今日ただ今より、積極的なる生き方しかない自分を肯定(こうてい)いたします。
神よ、このような私を、今日までお導きくださいまして、心から感謝します。
今日ある私を、明日もまた生かしめ給え。
そして明日以降に、より勇気のある、積極的なる人生が展開しますことを、心からお願い申し上げます。
これが勇気ある人生のための、第二の祈りです。
こうした言葉を、繰り返し、繰り返し、□に出して祈っているうちに、あなた方の心に、凛々(りんりん)とした勇気が湧いてくるでしょう。ふつふつとした勇気が、湧いてくるでしょう。その勇気を大切にして、生きていきなさい。
勇気というものは、人生の闇(やみ)を照らすサーチライトのようなものです。どのような闇夜であっても、サーチライトがあれば、私たちは怯(おび)えることなく、後退することなく、進んでいくことができます。
勇気というものは、目の前の闇を照らすための、サーチライトであるということを知って、どうか、後退なき人生を、生きていってください。それを、私は祈ります。