目次
1.悟りの奥行き
3.悟りの道標
5.悟りの武者修行
10.「ピンの発見」と「正見」
11.自分のピン・他人のピン
12.阿羅漢の心
13.阿羅漢・不退転そして如心
14.如心と観自在力
16.霊速度とのギャップ
17.神通力
19.如来界の悟りとは
21.釈迦の悟りについて
22.神理学習の時代へ向けて
23.九次元の悟りの三つの条件
24.超能力信仰と読心力
25.九次元霊を順番に出す意味
1.悟りの奥行き
「悟り」について語ってまいりたいと思います。奥行きもそうとうありますから、ほんとうはいくらやっても終わりはありません。やはり一章くらいの講義ではとても終わりそうもないという感じがいたします。なぜならば、この『太陽の法』の第4章「悟りの極致」あたりに書いてある悟りの内容といっても、まだまだ入口であるからなのです。ひじょうに初歩の段階であって、このあたりは私としての講義を早めに終わらせ、講師のほうに譲っていきたいと思っているのです。そして足場をつくり、さらに次の段階へと進んでいきたいと思っています。
法のスケールもだんだんと大きくなりますし、『観自在力』という本を読み返しておりまして、もう少し大きな創世記といいますか、地球創造の物理学のような、何かそのようなことをテーマとして本にしたいなというイメージが、インスピレーションとして降りてくるのです。はたしてどのように地球ができてきたのかということも興味深い本になるだろうと思います。それを本にしようと思えばすぐにできるのでありますが、単に一つのイメージだけが降ってくるのではなく、あっちからもこっちからもいろいろとイメージが出てくるものですから、肉体人間の限界というものをひじょうに感じています。
やはり三次元の存在でありますと、能力がずっと落ちてくるのはどうしようもないようです。そのような霊肉の葛藤というものは、私自身にもありますし、おそらくみなさん方自身にもあると思うのです。
『観自在力』のなかでは、この霊能力のことを、神の光がまゆのなかに宿っているようなものだという説明をしております。まゆのなかに豆ランプのようなものが入っていて光を出しているのです。光を出してはいるけれども、いかんせんまゆがあるために、なかなか光が外へ漏れてこないのです。それで多少光が漏れてきたあたりの人を霊能者といっているのであって、本来の光そのものはなかなか出てくることができないのです。このような感覚を私自身もひじょうに感じています。
2.観自在力への三次元的な歯止め
観自在力といっても、これはほんとうにきりがない内容で、私自身が今どの程度まで観自在力を使っているかということを考えてみたのでありますが、現段階、どうみても持っている能力の10パーセント以上は出していないのです。平常使っているのはだいたい2、3パーセントくらいだと思います。そして、マックス(最高値)にしても10パーセントぐらいであると思えるのです。これ以上出せば人間ではなくなってくるのです。ですから、それ以上はこの能力を出すことができないわけなのです。
なぜ人間ではなくなるかといいますと、たとえばある人のほうを向いて、ぱっとその人の意識をみると一秒単位で連続して、百万年ぐらい前からのその人の姿や過去の記憶などが全部見えてきてしまうからなのです。一人だけではなく、まわりにいる人のことも同時に見えてきたりします。このようなことをしはじめますと、当然ながら人間としては生活していられなくなるのです。
したがって、この意味で、これは歯止めをかけなければいけないのです。絞りをかけなければ、この世とひじょうに遊離してくるのです。そして十年後に起きるようなことをあたかも明日起きることのように感じはじめるので、この世的な発言とはひじょうに違ってくるわけです。
そうして絞りをかけていても、やはり多少は出てくるのです。たとえば、職場で社員が働いているのを見ていましても、どうも遅く見えてしかたがないということがあります。何かどうもかたつむりがはっているように見えてくるのです。ですから本来の能力を全部開放すれば、いったいどのようになるのかといえば興味はありますが、やはりそれをするわけにはいきません。人間として生活ができなくなってきますので、どうしても押さえが必要なのです。
この押さえの部分のことを、漏尽通力というのです。これはもうすでに『漏尽通力』などで勉強されている方もいらっしゃると思います。この観自在力を押さえている漏尽通力の絞り、あるいは縛りというものをはずせばどうなるかという観点があります。
悟りということも霊的能力としての観自在力とひじょうに関係がありますので、その話を進めていきたいと思います。
3.悟りの道標
ここでは、悟りとは何かという話からはじめていきたいと思います。悟りということについては、哲学的悟りと道徳的悟り、あるいは教育的な悟り、それから宗数的な悟りという違いがあると思いますが、まず出発点を明らかにする必要があるわけです。そこで宗数的な悟りにおいては、神仏との関係において悟りが語られるという点を抜くわけにはまいりません。哲学やその他のものであれば、このあたりをなしに語られることが多いでありましょう。科学などでも、ある意味では、悟りを求めているのです。
現代化学においても、あるいはサイエンスのほうの科学にしても、物理学にしても、真理を追究しているのです。この真理を得るということも、一つの悟りのかたちであることは事実です。ただ、その奥に神仏とのかかわりというものがはっきり出てこないがゆえに、宗教的な悟りとはならないということになるわけです。
私は『太陽の法』において、「悟りとは、神仏のつくられたこの世界の原理を究明しながらも、自ら自身が神仏に近づいてゆくということです。そういう意味では、悟りには、限界がありません。つまり、『悟った』ということは、永遠にありえないことなのです。」と定義しております。ただ、一定の段階を考えたときに、その段階に応じた悟りということは考えることができますし、またそのような程度の問題としてありうるということです。
これは何の世界においても言えることでありまして、たとえば英語が上達することには限界がありません。けれども、英語の達人とはいっても、どの程度の達人であるのか、やはりレベルに差はあるのです。これは考えてみればわかることでありますが、日本語の達人といっても、その差はもちろんあるわけで、完成した日本語の達人というものはありえないのです。また、どのあたりのところまでいけば最高の日本語といえるのかどうか、ということがわからないのです。
同じように、宗教的悟りにおいても段階があり、究極とまでにはなかなか達することができないのです。ただ実力が上であるという感じは明らかにあって、一定のラインをひくことはできるのです。そして、このラインについては、いろいろな角度でお話をさせていただいているわけなのです。
したがって、本書の前提となっている『太陽の法』自体が、一つの「悟りの書」でもあると考えます。それも、かなりレベルの高い悟りであるといえるのではないでしょうか。この一冊の本に盛られた内容については、これだけの悟りが過去にまとまったかたちで出されたということはなかったと思います。その意味で、この一冊を学ぶということは、過去の時代において、如来格で出た人たちでさえも到達していない内容のものを学ぶということなのです。如来といえども明らかに到達していなかったといえる、そのくらいの内容であります。
ただ、これを読んでどこまでいくことができるかは、学ばれるみなさま方しだいでありまして、ひじょうにばらつきが出てくることでありましょう。残念ながら地獄界でとどまる方もあれば、ずっと上のほうまで登ってゆく方もいらっしゃることと思います。そのような差はあるということです。
4.何のために三次元世界で悟りを求めるのか
古い言葉ですが、「悟りの功徳」ということについて述べてみたいと思います。この「悟りの功徳」、すなわち何のために悟るのか、悟ってどうなるのかということについて、これをまず地上の人間の目的と使命という点から考えてみましょう。
天上界ではすべての人の心がガラス張りで、お互いの心がだれにでもわかるため、不調和な心ではいられないということを、すでに学ばれている方もいらっしゃることと思います。そして四次元以降の世界では意識の差がありすぎると、同じところに住むことはできないのです。
しかし地上界では、これがおもしろいことに、この点がまったく違った感じになってきているのです。読者のみなさんのなかにもいろいろなレベルの意識の方がいらっしゃることでありましょう。すでに光が出かかっている人もいれば、今はまったく出ていないけれども、もしかすれば、まもなく光るかもしれないという人もおりますし、光る可能性が全然ないと思われる人もいて、いろいろなレベルにあるのです。ところがいっしょにいても、お互いにそのレベルがわからないのです。どの程度の光の素質を持っているのか、また現に放ちつつあるのか、さっぱりわからないのです。だから、おもしろいのです。
ここに、三次元世界の意味のひとつがあるのです。ところが実在界においては、これがありえないこととなってくるのです。その意味で、魂にとっては、ひじょうに大きな経験です。お互いに多少、目隠しされた感じになっておりますが、このようなところでいっしょに切磋琢磨ができるのです。これは、むしろ悟りのレベルや魂の霊格において、四次元・五次元のレベルの人がひじょうに得ることが多いというだけではなく、如来や菩薩といわれる方であっても、このような玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の世界に出されるということは、ひじょうに魂の修行となるのです。これはもちろんそのとおりで、いろいろと学ぶことが多いのです。
5.悟りの武者修行
自分と同じような意識レベルの人とばかり話をしていますと、当然とばかりに思っていることがたくさんあるのです。共通認識で当然であると思っているけれども、実はこれが違うところへ行けば全然通じなくなることがあります。あとで、これはいったいどういうことであったのかと、根源からさかのぼって考え直してみなければどうしようにもわからないことがあるのです。
たとえばみなさん方の間では、一年以上もいらっしゃる方どうしであれば、だいたい基本的な知識があるために話がよく通じます。しかし、それをよそに行って話をしても、全然チンプンカンプンなのです。これは外へ出てみなければやはり修行にならない部分であるのです。いつも同じ仲間とばかり話をしていれば、やはりその世界では当然のごとく、十四次元ではどうだ、十五次元ではこうだとやっているわけなのです。ところが、これが外へ行けばまったく通じないこととなるのです。これと同じように、やはり三次元に出るということを時どきやらなければ、全然違う世界のなかで浮いてしまうことになるのです。
ですから高次元の霊たちであっても、いったん地上に出て修行するということには意味があります。「オギャアと赤ん坊として生まれて、平等に人生をやり直す機会が与えられているのです。すなわち、悟りの功徳とは、人生のやり直しがきくというところにあるのです。」と『太陽の法』のなかに書いてあります。これを考えてみますと、ひじょうにおもしろいことだと思います。やり直しがきくのです。
現に高次元に住んでいる人にとっては、はたしてもとのところへ戻ってこれるのかどうかがわからないので、多少危険なところもあるのです。しかし、地獄からやっとはい上がってきたような人にとっては、いわば敗者復活戦でありますから、みんなはりきって「見ておれ、この次は」と思って出てきているわけなのです。このような人でもあとでまたストーンと堕ちたり、あるいは、うまく上がれたりするのです。このように同じリングに出してくれるというわけでありますからおもしろいのです。
この意味で、この三次元はチャンスと希望に満ちた世界です。地球上でもニューヨークなどは、いろいろな希望と期待を持ってさまざまな人が集まってきており、過去百年くらいは人種のるつぼのようになってまいりましたけれども、そのような面が地上世界自体にもあるわけです。夢と希望を持ってみんなが集まるなかで、うまくいく人は大成功し、失敗する人は退廃して、スラム街などでもすごいところがありますが、あのような感じになったりするわけでありまして、けっきょく、よい面と悪い面の両方がありうるわけなのです。
そこで、私なりの悟りの定義をあげてみたいと思います。
「悟りとは、人生のやりなおしをする過程で、さらに霊性、神性を磨くことですが、その霊性、神性を磨く方法とはなんなのかを考えると、そこには、さまざまな可能性と無限の道が用意されていることに気づきます。」
ここに世界的宗教、あるいは他の宗教への考え方というのが出されているわけです。わりあい寛容な考え方を持っていますし、そうとう大枠でつかんで考えているところがあります。
6.人類の叡智に対する敬意
私の基本的な立場は、過去の教えのなかにもやはり学ぶべきものがあれぱ学ぶ、そしてそれぞれ特徴がある以上は長短がありますから、問題があると思うところは距離をとっておくという考えです。何もかも自分たちで新しくやればよいというだけのものではありません。過去に神がいろいろな指導霊を出されて、そして教えを説いてきたわけでありますから、そのなかから学べるものは学び、そして修正すべきものは修正し、新たに創造すべきものは創造するという立場です。
これがやはり本当に足腰を鍛えながら発展していく道だと思います。自分たちだけでやっているような気持ちになっても、意外にもろいところというものがけっこうあるわけです。やはり過去集積された人類の叡智に対しては敬意を表して、さらにその上のものを目指していくというのがいちばん賢明なやり方だと思っています。
7.宗数的対立を超えて、今
この意味において、根本的に他宗の非難・排撃はしないという立場をとっています。ただ、そのようにやっていく途中においてどうしても矛盾が出るのは、残念ながら避けられないようです。このときに、やはり何を守るべき利益として考えるかという余地があるわけです。あくまでも灰色にしておくのか、それとも真偽をはっきりすることがよいのか、こうした立場にあるかぎり、どうしてもこのような選択をせまられるところが出てきます。
イエス様は昔「罪を憎んで人を憎まず」というような感じでとらえておられましたが、私の考え方としては、このいろいろな宗教の考え方にしても、間違いは間違いで、正しいことは正しいという神理のレベルで言えば真偽はあるけれど、それら過ちのなかにいる人たちも本来仏性、神性を持ち、 また魂の修行のレベルにおいて、いろいろな段階差があることも事実なので、それらを一概に否定はできないと思っています。ただ私たちの考えから言えば、このようなことが言えるのです。そして、もし言わなければならないことがあれば、言うということです。ですから事実の認識のレベルで、いつも灰色にしておけばよいということでもありません。言うべきことは言う、ただ同じ土俵に立っていろいろなことをやり合う必要はないという考えです。
というのは、こうした一連の本を読んでこられたら、この教えのレベルがいったいどのへんにあるのか、みなさんはおわかりだと思うのです。はっきりいわせていただくならば、他の教えと優劣を競うようなものではないのです。『観自在力』という本がありますが、二千六百年前の仏陀はここまでは悟っていませんでした。イエス様も悟っていません。こういう内容のものが、会がはじまってから二年くらいのうちに出てくるのです。ということはどういうことか、このあとに出てくるのはいったいどういうものなのかと考えていただければわかると思います。そういうことなのです。
ですから、先を見ればどこまで行くか、それを考えてみたときに、現在の枝葉のことであまり考える必要はないということです。
8.新しい時代の新しい悟りの方法――真説・八正道
悟りの方法とは、神仏の境地と自己の境地が融合されていくための手立てです。神仏の心を心とし生きるにはどうしたらいいのかという方法論であるということです。そしてその方法論としては、真説・八正道がひとつにあり、いまひとつには愛の発展段階説があるということを語ってまいりました。
そしてこのどちらを取ってみても、一生かかっても到達しえないぐらいの深遠さがあるということです。たとえば八正道のなかに「正しく見、正しく語る」という項目がありますが、この「正しく見る」、「正しく語る」ということを、ある程度の段階までマスターできたと思うまでには、普通の人であればやはり五年や十年はかかるということなのです。
そうとう修行が進んだと思っても、思わぬ人と出会ったり、思わぬような事情に陥ったときに、思わぬ意見がでたり、やはり取り乱すというのが人間の常なのです。そうしたときにあっても不動の心でいられるまでになるのは、やはりその間の修行にはそうとうの時間がかかるのです。
9.「正見・正語」の深まりのある人
こうした「正見・正語」の悟りが深まってきた方はどのように見えるかといいますと、一見ひじょうに柔和に見えます。ですから、この人がそのような修行を積んでいるということを知らない人、あるいは、外から見てもわからない人からすれば、その人の姿を見て、甘く見ることもたまにあります。なかには甘く考えるだけではなく、小馬鹿にするような態度をとるようなこともあるわけです。
ところが意外に根を張っているのです。一見してそうとう柔和なので、人びとは甘く考えているのだけれども、実はそういう修行を五年、。十年ど積んできた人は、外側は柔和だけれども内は剛と言いますか、内面にひじょうに固くしっかりしたものができています。
ですから、小さなことにおいては全然とらわれていないのです。それで何をいわれても平気な顔をしているわけですが、大きな判断においては、人の意見に自分の判断を左右されません。このように柔和な感じの人が、ここぞというような判断のときには自分の考えを絶対曲げないのです。私はこう考えるといえば、ほかの人がどう言おうと曲げないのです。普段は何をいわれても、適当に合わせているために、甘く見られそうな人がそのような強さを発揮するわけです。柔和なるがゆえに、適当に話のツマや、刺身のツマにされているような人が、意外にここぞという判断のときに、絶対にぐらつきません。このような人が、このレベルをクリアーした方なのです。外柔内剛タイプの人です。
これを見抜けない方がけっこう多いと思いますが、この「正見・正語」を修行してきた人の姿はそのように見えるということです。それとは対照的に外見からしてもすごいタイプで、見るからにワーワーと自己主張をしそうなタイプはまだこれができていないのです。まだはっきりと自分の考えが明確に出てしまうタイプ、すなわち目はロほどにものを言い、ロはロ以上にものを言う人です。この人たちはまだまだここができていないのです。
この修行は、やはり外に出す前に、自分の言葉をいったんフィルターにかけるという訓練によってできてくるのです。人は「自分はこう見た」と言います。たとえばあなたが、ある人を見てその人をこのような人であると思ったとします。けれども、思ったときにそれをすぐパーッとロに出すようであっては、この修行はできていないわけです。この修行においては、こうだなと思うけれども、第一判断は留保するわけです。そうだろうと思うけれども、もうしばらく観察を続けるわけです。
この人には、このような点はあるけれども、あそこはもしかするとちょっとかわる可能性があるかなという部分では評価をひかえるべきかもしれないし、ほかの人が見たならば評価が違うかもわからないなと思う部分、そのような部分についてはあえてロに出さないでストップしておくのです。そしてどうしてもこれは確実であると思えるところについては、必要があればその人について言うことができる。必要がなければ言わない。このような「正語」の修行ができるかどうかです。
そして「正見」の「正しく見る」の「見る」でありますが、「見る」と言っても自分の目に映ったものを、なんでもかんでも事実ととらえるのではまだ本物ではありません。自分が見たものだけではなく、聞いたものも読んだものも同様でありますが、これらをすべてそのものが事実であるととらえるようであってはいけないのです。やはり自分が得た情報であっても、たとえば第三者を通して得た情報もあるし、直接得たものもあるでしょう。そのようにして得たものであっても、誤解はけっこうあるわけなのです。意外なところに誤解というものが潜んでいるのです。
10.「ピンの発見」と「正見」
一九八八年三月の講演会「知の原理」のときに、「ピンの発見」ということをお話ししたことがあります。これもまた何かの機会にくわしい話をしたいと思っておりますが、意外にピンの部分があるのです。本人も気づいていない、そして他人も気づいていないこのようなピンの部分があって、それが人をいろいろな方向に走らせている場合がけっこうあるのです。それはじっとこの「正しく見る」の延長で見ていきますと、わかってくることがあります。
いろいろな悩みを持っている人が、みなさんのなかにもいらっしゃるでしょうが、その悩みのほんとうの原因は、本人が思っているものと全然違うところにあることがあるのです。本人も気づいていないというところにあるのです。なぜ気づいていないのかといいますと、それを意識したくないからなのです。ほんとうは意識したくないがために気づこうとしない。そしてそれを覆(おお)っているのです。ほかの原因のせいでそうなっているとずっと思っている。ところが意外なところにあることがあるのです。これを自分で発見するとハッと思います。
そして同じく他人についても、あの人は変わった行動をするなと思って見ていることがあると思いますが、やはり、これもじっくりと観察していますと、その人のピンを発見することがあるのです。実はもしかすると、これでこの人はこのように判断して行動するのではないかということがあります。それに気づいてしまうとなぜそうなるのかがわかるのです。逆にそれに気がつかなければ、十年でも二十年でも変わった人だなと見続けるわけなのです。意外なところに原因があるのです。その人自身がそのように動かざるを得ない原因というものがあるのです。
これが極端に出るのが、やはり優越感と劣等感の部分であると思います。いちばん誤解をされやすいのが、優越感でギラギラしているタイプで、ひじょうにプライドが強く見える人です。みなさんのなかにもそのような傾向の方もいらっしゃると思いますが、このような人はひじょうに誤解を受けやすいのです。人からは、なぜあんなにうぬぼれているのか、あいつは何様だと思っているのかと、こう思われがちなのです。
そしてたいていの場合、それを探っていくと、このような人はどこかに根深い劣等感を持っていることが多いです。そして、それをどこかで晴らそうとして、動いておられるわけなのです。けれども、ほかの人にはそのピンの部分が見えないのです。そして本人自身も気づいていないこともあるのです。自分がそのような劣等感の裏返しでやっているということに、実は本人自身も気づいていないのです。ですから、それに気づいたときに、その虚勢のようなものが一瞬のうちに消えてしまうことがあります。
みなさん自身もそうであると思います。気づいたときに、ああ、実は自分はこんなところに劣等感が根差していたんだなというのがやはりあると思います。それで変なところで突っ張っていたんだなというところがおそらくあるのではないでしょうか。
たとえば女性でも、きっと中途半端な年齢の方もいらっしゃると思います。独身主義者などと言う方もたくさんいます。そういう方はだいたい自称独身主義でかためています。親に聞かれても、「私は独身主義者なの」といって、全然異性のことなど考えたこともないし、私はもう自分の考え方で生きたいのですと、一生懸命自分にそう思いこませようとしていて、親や友達にもそう言っていることがあるかもしれません。
しかし、これなどもよくピンを探っていきますと、意外なところにあることがあります。その人に独身主義者という哲学を説かせるのだけれども、ピンが意外なところにあって、昔○○さんにこのようなことを指摘されて、それ以来それを思い出すだけでも嫌になってどうしようもないなどというところにあることがあるのです。ほんとうに人から見ればささいなつまらないところに、このピンがあることがあります。
11.自分のピン・他人のピン
ピンとは、実は潜在意識下にグーッと沈んでいて、自分ではもうふたをして覆っていたいことなのです。表現はあまりよくありませんが、そのようにズーッと臭いものにふたをして、五年、十年と長いあいだ、発酵させてしまいますと匂いが漂ってくるわけです。それが独自の哲学をつくり、プライド強くいろいろな主張をさせたりすることがあります。これは女性の例を出して申しわけありませんでしたが、男性でもそうしたことはいくらでもあるのです。
このように「正しく見る」ということのなかにも、このピンの発見が含まれています。自分自身が人から見て、中道に入った動きをしていないと思われるときや、あるいは人の批判を買ったり、非難を買ったり、怒られたりするようなことがあるときには、やはり人の目から見て自分の発言や行動が異常な動き方をしているのです。
そのときによく見てみますと、そのような行動に自分をかりたてている何らかの原因があることが多いのです。その原因を発見することも、自分を「正しく見る」ということなのです。
また、自分が他人を見ていて、これはおかしいと思うことがありますが、全人格的におかしいとレッテルをパッと貼ってしまう前に、なぜ彼はそうなるのだろうかということをよく見てみるときに、自分がいろいろなことで悩んだことがあれば、わかることがあります。「ははあ、彼はこれでだな。」というのがわかるのです。本人も気づいていませんが、それがわかってくるようになりますと、その人を理解できる鍵が手に入るのです。この人はこれでこのような突拍子もない行動をとるのだなというのがわかるのです。
このようなところをつめていかなければ、「正しく見る」ということはほんとうにできないのです。ですから、今日は美人を美人と評価して、不美人を不美人と評価したから、これで自分は正しく見て評価したなどといって、それで満足していたのでは「正しく見る」ということにならないのです。こうしたことではなく、もっと深く入っていかなければいけないということです。
12.阿羅漢の心
正しく仕事をし、生活をするということもだいじです。そして正しく思い、道に精進するということができるようになれば、だいたい阿羅漢に近いということが言えると思います。阿羅漢とは六次元の神界から菩薩界に入るための登竜門の部分であるということは、よくご存じの方もいらっしゃると思いますが、ある程度自分づくりができた状態を言います。したがって、人のささいな言葉で心が動揺したり、ちょっとしたことでカーッとしたり、地位欲や名誉欲に心が揺れているようでは阿羅漢とはいいがたいということなのです。
ですから、これは宗数的な悟りを試すのにひじょうに便利です。いろいろな団体で先生をやっている方もたくさんいらっしゃると思いますし、読者のなかにも、ほかのところで学んでこられた方、あるいは現に学んでおられる方もいらっしゃると思いますが、ここを見るとわかるのです。そこの指導者といわれる先生が、すぐカーッとなる性格であったり、脅したりすかしたりするようなことがあれば、少なくとも阿羅漢ではないのです。けれども本人は如来、菩薩であると思っているのかもしれません。それでは足が遠ざかって当然です。そのようなことです。
ですから自分が偉いと思いはじめると、その偉い自分の考えを聞かない、言うことを聞かない人というのはもう我慢がならなくなってくるのです。そして攻撃的に非難するようになってきます。そして自分が教えるということが習性になってくると、それが当然になってきて、それ以外のすばらしい考えがあると思えなくなってくるのです。これがいちばん危ない部分です。そのような人たちのなかにも、いったんは、この阿羅漢に達したこともある人が多いのでしょうが、このような状態であれば、危ない状態にあると考えてけっこうかと思います。
心があまり揺れないということが、この部分の前提となっているわけです。自分がそれに達したかどうかを判定したいのならば、心が揺れないということを基準としてください。もちろんいろいろなことが毎日起こりますから、全然揺れないというわけにはいきませんが、心という池のなかにポトンと石を投げ込まれたとしても、大波を起こして渦巻くようではだめだということです。少しは波紋が起こるけれど、スーッと静まっていく。そして一日二日すれば、そんなことはもう忘れ去ってまた平常に戻れるということであれば合格点を差し上げられます。
この心の管理ができていない人は、五年でも十年でも同じようなことで動揺するということがあります。このようなことは損得で考えてみてもつまらないことです。ですから、自分にとってはそれほど大して有益でないことは、心を動揺させないでサーッと流していくのがいちばんよいのです。悩むことがほんとうに自分を愛していることかどうか、悩んで得になったかどうかということを冷静に考えて、得にならないようなことは、サラリと流していくのも心の修行です。ですから思いつめることもほどほどにすることです。「まあいいや、時間がたてば忘れるだろう。」という気持ちを持つことも大切です。
『太陽の法』のなかでも、「基本的な悟りの方法としては、この世的なことで心が揺れず、心がつねに清明で、自らの守護霊と通じあい、他人の気持ちが手にとるようにわかる段階、すなわち阿羅漢の境地をめざすべきであります。ここを経ずしては、それ以降の修行も、悟りも、ありえません。」といっているはずです。これが出発点ですというわけです。ずっと登りつめていたつもりでいても、実はここからUターンしている人がけっこう多いのです。せっかくこのあたりまで達したにもかかわらず、Uターンして返っていくのです。このことはよくよく考えていただきたいと思います。