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無心の祈りこそ神に通じる
今のあなた方は文明文化が進み、世の中が変って来て昔の、幽霊だとか、鬼だとか、妖怪だとか、或いは自然霊だとか、そうしたものがもうなくなってきたような気持ちでいるかも知れないけれども、決してそうではないのです。あなた方は、雨が降ったり、風が吹いたり、雪が降ったり、嵐になったり、そうしたことがどうして起きるかということを知らないのです。むしろ、私達の時代の方が知っていたのです。あなた方の時代はわからなくなっているのです。そして台風の予報をやったり、雨の予報をしたりしていますけれども、その本当の理由はわからないでいるのです。
空には黒雲というのが湧いて来ます。これは勿論水蒸気になってそして上昇していくんですけれども、水が蒸発していくだけでは雲は出来ないのです。雲を造るには、その雲をあらしめるための力がいるんです。雲が此処にこう出るような、そうした力がいるんです。雷雲には雷雲をつくる力がいるんです。風というものは何処にでも吹くのではないのです。風はやはり吹くべくして吹いているのです。
これは、あなた方お信じにならないかも知れませんけれども、自然を司どる神霊達が居るということなのです。昔古事記や日本書紀の中で、あなた方はいろんな神様、八百萬(やおよろず)の神々を知りました。火の神だとか、川の神だとか、山の神だとか、今日あなた方はそうしたことを一笑に付しておられます。けれどもそうではないのです。やはり自然に関しても霊というものがあるのです。ですから海の神もやはりあるし、海の中でもたとえば相模湾であるとか、駿河湾であるとか、そうした所を司どっている海神も居るのです。
また、いろんな嵐を起こすような霊達もいるんです。そうした自然霊が居るんですけれどもそれ以外にも、地上を彷徨(わまよ)っている悪霊達が様々な力を及ぼすことがあるのです。たとえば暴風雨、嵐というようなことが起きますと、もちろんそれを起こすそうした霊が居るんですけれど、それに乗じてくる霊達が居るということです。それが夫の日本武が平定して来た、斗争してきた人達の霊ですね。そうした者達が私達に対して悪意を持っていたぃにめに、様々な災を起こそうとしていたのです。そして海が荒れたわけです。ですからその時に私は、夫の身代わりとなって、海の神の怒りを鎮めるために一身を投げ出したのです。そうすると嵐が止んだと、そうした史実になっております。実際そのとおりであります。
私は、あなた方に教えておきたいと思います。祈りというものは大切なものです。祈りというものは、或る事を成就せんとして祈ります。祈りをする時には何んらかの希望を持っています。こうしたことが実現して欲しいという希望を持って居ります。しかし祈りというものは、いつも叶えられるものではありません。自我我欲の祈りというものは中々叶えられるものではありません。祈りの本当のすがたは、他の者に対する祈りです。他の者の幸せを祈る祈りです。自分を捨てたところに本当の祈りがあるのです。自分を良かれとする折りは中々神仏の心には通じないものです。自分を捨てた時、無心になった時にはじめて祈りというものは天に届き、神に届くものなのです。
私がしたこと自体は大したことではありません。ただ私は身を投げて夫を救おうとしたこと、その気持ちが天に通じ、また後の世に伝えられたということです。本当の祈りというものは、無私の祈りです。私を無くすということです。今の日本には、この無私の祈り、夫を思う妻の無私の気持というものが、段々になくなってきています。これが今問題なところですね。
言葉にはカがあるんです。常に美しい言葉を言っていないといけないのです。よろしいですか、言葉には力があるのです。悪しき言葉をあなたが仰るなら悪しき現象が現われてくるのです。″言霊″といいますが、言葉には力があるのです。清まった言葉を出さねばなりません。美しい言葉を使わねばなりません。言葉には力があるのです。言葉には霊があるのです。これを言霊(ことだま)といいます。
あなたは自分の言葉を、自分の思いの通り言っているつもりでいるのでしょうが、あなたの言葉はある時には善霊となり、ある時は悪霊となるのです。あなたが悪しき言葉を発すると、その悪しき言葉は悪霊となって世間を駈け巡ぐるのです。その悪しき言葉が他人の心の中に入り、また社会を駈け巡っていくのです。ですからロにする時は、決して悪しき言葉を出してはいけないということです。
邪悪な念いについての言葉は言わないことです。その言葉自体が一つの霊となって世界を駈け巡るのです。どうか常々清い心を持つだけではなくて、清い言霊を生むということです。
太初にコトバがありコトバが万物万象を生む
日本の神話の中には男の神様がお子様を生んだりするようなところがあったと思います。口から子供が生まれたり、眼を洗えば眼から子供が生まれたり、そうしたことがあったと思います。これは本当の意味で子供を産むということではなくて言霊なのです。よろしいですか、物が出来る、或いは生き物ができる、人間ができるためには、〈斯くあれ〉という言葉があるんです。男の子があれ、女の子があれ、姫君あれ、王様あれ、というコトバがあってはじめてそうしたものが生まれてくるのです。
ですから男の神様が子供を生むというのは勿論象徴的なことでありますが、口から霊を生むことは出来るということなのです。すべてのものが霊を生み出すことができるのです。よき言葉を使うということです。もっと良き言葉を使いなさい。目的において正しくとも悪しき言葉を吐くことは良くないことです。それは世の中を益々悪くされるのです。世の中が悪いとしても、世の中を悪いと肯定する言葉を出すと、世の中はもっと悪くなっていくのです。
美しい心情、美しい言葉が美しい世界を創造する
あなたはどうも、知的なものを通して神の心を説かれようとしております。けれども知識とか、知力とか、そんなものではないのです。よろしいですか、神の本当のお心は何処にあるかというと念いなのです。感情なのです。世の中が乱れているのは知識的に過っているから乱れているのではないのです。感情の面で世の中が大分乱れているのです。いいですか、知識の面でも確かに正邪を分かつものはありましょう。けれども、一番この世の中の乱れを招いているのは感情なのです。念いなのです。人びと一人ひとりの念いなのです。まず人びと一人ひとりの念いを正しい念いにしていくということが大切なことなのです。知識を得たことによって人びとが、或いは世の中が良くなっていくのではないのです。一人ひとりの人が、その心から出す念いをよき想いに変えていくことによって、世の中は良くなっていくのです。
ですからむつかしいことを知ることが大切なことではないのです。一人ひとりの人間が、よき心情です。よき念いです。よき感情です。これを発揮してゆくということこそが本当に素晴しいことなのです。私達の世界はそうなのですよ、そんなむつかしい本を読んだり、むつかしい議論ばかりしているわけではないのです。ただ、私達の世界に住んでいる方々は、皆さん美しい心情を持っているのです。よき心情を持っているのです、真心を持っているのです。暖い感情を持っているのです。これが大切なのです。
神の国に入る最底の前提は、暖い美しき心情を持つということなのです。今私はこの日本の国、やまとの国のくに民を見渡して懐(おも)うことは、このよき心情、美しい心情、というものが喪われているすがただと思うのです。これが一番嘆かわしいところです。いろんなことを知っていることが偉いのではないのです。人の知らないことを知っていることが、或いは人の出来ないようなことをできることが、偉いことではないのです。世の人達は多く間違っております。道を求める人達もそうです。他人が知らないようなことを知識に得ようとしたり、他人が持っていないような力、法力のようなもの、念力のようなものを持とうとしています。けれどもこれは間違っているのです。そうではないのです。世の中をよくしていくものは、一人ひとりの″美しき心情″なのです。これを説いて下さい。
いろんな宗教家達は居ました。けれども美しき心情というものを本当に分り得た宗教家達は少なかったということです。あなた方の直接の守護指導をされているお坊様「日蓮」様という方がいらっしゃいます。この方は偉い方であります。けれどもこの方でも、私から見たならば、″美しき心情″ということ、本当の意味では分っておられなかったと私は思うのです。特に仏教示の方はそうです。″美しき心情″というものがどうも分らない。キリスト教の方も一部の方はそうです。日本神道というものをあなたは非常に低いものと、もしかしたらみておられるかも知れないけれども、美しい心情というものは何ものにも代えがたい素晴しいものなのです。
世の中の一人ひとりが美しい心情を、これを発揮するということ、美しき心情を発揮する方法は、美しい言葉をロから出すということです。世の中の人びと一人ひとりがよき心情を持ってよき言葉を出すようになれば、世界は神の世界となるのです。
あなた方はむつかしいことを考えておられます。何か世の中が変ってユートピアですか、そんな素晴しいものが、社会が出来るかのように思っておられるけれども、そのようなものではないのです。美しき心情と、美しき言葉、それがすべてなんです。これが私達の世界の条件なのです。私達の世界はそうなんです。違う人、会う人がみんな美しき心情を持っているのです。穢れのない言葉です。汚れた言葉を使う人なんて一人も居ないのです。悪しき言葉を語る人なんてひとりも居ないのです。いいですか、あなた方生きていく上において会う人一人ひとりに良き言葉を語っているか、良き言葉を出しているかどうか、心がね、あなたの心が見え透かされたとしても恥かしくないような心であるかどうかということです。ガラス張りの心を持って生きていたとしても恥かしくないようなあなた方であるかどうかです。
あなた方は、特に指導者となる方は、人前では美しき心情をとりつくろっても、私生活においては兎に角いろんな悪いものを詰め込んでいることが多いのです。けれども心はガラス張りにならねばなりません。あなた自身もそうです。あなたは他人の心は読めないと思っているかも知れないけれども、私達からみれば、あなたの心の中はガラス張りなんです。その中にはいっているものは皆見えてしまうのです。よき心情と、美しい言葉を持っていないと、非常に恥かしいことです。
あなたは可哀相な方、お経を背負って山越えをする老僧の姿
結局は澄み切りましょうということなのです。ただ澄み切った心を持てばそれでよいのです。ですからむつかしいことは何もいらないのです。世の中はずいぶん変って来ましたでしょう、交通の便もよくなり、様々な書物が氾濫し様々な職業が出ているでしょう。ただ要はどのような環境の中にあっても、澄み切った心を持って生きていくということに尽きるのです。ただそれだけのことなんです。これだけのことができれば世の中はずいぶん平和に美しくなってくるのです。
むつかしい知識によって人々を救えるのではないのです。澄み切った心になること、清い心になること、よき心情を持つこと、これなんです。知識の山を背負って神の国に入って来るわけではないのです。そういう無駄なことによって、かえって人間は苦しみをつくっているのです。知識が増すということは、かえってよき感情というものを歪めてしまう場合があるのです。世の中の知識人といわれる方々はほとんどそうなのです。知識の領域ばかりが徒らに増えていって感情の領域が窮屈になってきているんです。
けれども、神の世界に来る一番大切なものは何かというと、よき感情だけなんです。これさえあればよいのです。頭が良いとか、悪いとか、世の中で役に立つことをしたとか、しないとか、そうしたことではないのです。よき心情、よき気持、よき感情を持って生きた人間なら、みんな私達の世界へ入って来るんです。たったそれだけのことです。そのたったそれだけのこと、幼児(おさなご)にもできるようなことが、六十年、七十年の人生を生きてくるとできなくなってくるのです。
人間は本来幼児のように澄み切った心、無邪気な心を持っているのに、五十年、六十年と生きてくると様々な皺を順に刻んで、様々な苦悩に打ちひしがれた顔になって、腰も曲がり苦悩に喘(あえ)いでいるのです。ですから何んとかしなければいけない。どうにかして現状を打開しなければいけないというような苦悩の思いや、焦りの思いや、悩みの思いは、これは不用なものなのです。ただ心を澄ませることのみに人びとは専念すればよろしいのです。
余計なものが多いのです。心澄まそうと思っている人でさえ何百巻ものお経を背負って山道を歩いているようなものです。何かむつかしいことがあると思っているのです。神様の世界に入るにはむつかしいことがあると思っているのです。ほとんどの人がそう思っているんです。何か特殊な他の人々にはできないようなことをしなければ神様の世界に入れないと思っているのです。そうではないのです。重荷をはずして清らかな心を持てばそれでいいのです。こんな簡単なことであるからかえって出来ないのです。簡単すぎるがためにかえってできないのです。
あなた方は機械が発達したり、乗物が発達したりして世の中が良くなって来たとか、そんなことを思って居られるのでしょう。私達から見ていると非常に気の毒なのです。皆さん機械が発達し、乗物が発達するにつれて、本当に″よき心″というものを段々に忘れていっているのです。ただ本当は、そんなむつかしいものではないのですよ、神理というものは本当はそんなむつかしいものではないのですよ、それだけは心のどこかに留めてはいてほしいと思います。ほんのそこに有るのです。掌を上に向けると神理が降って来るのです。そんなものなのです。
私は日本女性の鏡として一度生まれただけです
生まれ変りというものも、まあ生まれ変る度によくなるなら結構ですけれども、生まれ変る度に心が真黒になっていくのであるならば、むしろ生まれ変らない方がよろしいのです。ところが人間というものは、どうしても地上に心ひかれていくのです。どうしても心引かれて生まれ変っていくのです。
私の使命は一度生まれたらそれで終ったのです。私は、日本の女性はこのようにありなさいというその姿だけを示すために生まれたのです。ところがその日本の女性が、アメリカの女性を真似しはじめて、私が教えた”よき心情“というものを喪いつつあるのです。これは非常に歎かわしいことであります。
自分は夫とは独立した別の個性であって、自分は自分で幸せであらねばならぬ、そう思って二つの幸せを追っているのです。人のために捧げ尽すという幸せが分らなくなって来ているのです。女性の本当の美しさは、献身にあるのです。尽すところにあるのです。私を空しゆうして人のために献身する。身を挺する、ここに本当の女性の美があるのです。それを私は示すために生まれて来ました。今その私が教えたものが日本女性の間から、喪われようとしています。
金貨を投げ捨て銅貨を拾うアメリカ女性の生き方の愚
人間社会でも、自分が金貨を持っており、相手が銅貨を持っているとして、自分の金貨を捨てて相手の銅貨を得るような人は、これは非常に愚かな人と言われるでしょう。ところが心の世界においては金貨を棄てて銅貨を得ようとしている人が一杯居るのです。それが今の日本の女性の大半です、アメリカ的な女性の生き方というのは、これは銅貨なのです。ところがなぜか。自分の持っている金貨を投げ棄ててしまって、その銅貨ばかりを集めようとしているのです。
どうか日本の女性に、この機会を借りて訴えて置いて下さい。″あなた方、何か考える方向が違っているのではないでしょうか″そういうことをよく訴え置いて下さい。