目次
1.中道とは剣道でいう自然体、中段のかまえ
「中道とはなにか」というところへはいってきましたよ。まあこの中道というのはわが教えの中核も中核であります。
結局ね、私が人生においてなにが言いたかったかといえば、まあこの中道をわかればね、だいたい六、七割はわかったようなもんですね。
中道ってなんだ、中道っていったらなんか公明党か民社党かしら、なんて言う人もいるかも知らんけど、そんなこと言ってるわけじゃないんですよ、中道というのはね。
中道というのは、昔孔子様のことはあまりよく言わなかったけど、まあ孔子様は中庸だね、中庸ってことを言っておるんだね、大事なことなんですね。
人間っていうのはね、極端な生きかたをしておってはやはり長生きできんのですね。
長生きとはべつに肉体生命の長生きだけを言うとるのではない。人間のやはり貫禄のある調和のとれた生活ね、これが自由にできなくなるのだな。
だから中道の道というのはある意味では無限に発展する道でもあるんですね。やはりね、べつの言葉で言えば、これは自然体っていうやつですね。まあこういうことなんですよ。
読者のなかには剣道なんかやったかたも数多いと思うんですが、剣道なんかでも竹刀(しない)のかまえかたでね、いろいろあるね。
上段にかまえたり、下段にかまえたり、ハ双(はっそう)のかまえとか、まあいろいろあるんだけれども、やはりね、正限のかまえというかね、前に真正面に中段がまえをする、これが基本ですね。これは防御もできるし攻撃もできる。
中段のかまえといって目の前に竹刀をかまえて、中段ぐらいの高さにしておると、これはそのまま相手の小手を打てるし、面も打てるし、胴も打てる。同時に向こうが打ち込んできたときに守りもできるんだね。竹刀で。
ところが上段のかまえなんかやっていると打ち下ろすしかないんだな。だから向こうにすきができたらボーンと打ち下ろして「面あり。」なんて言えるけれども、空振りしたらね、もうガラガラになっちゃって、自分のは小手と面を打たれちゃってね、「アッ、イタ。」なんて、面ありと思ったら自分のほうがやられちゃった。こういうことがありますね。
下段のかまえなんてね、竹刀が下のほうからスースと動いて、かっこいいんだけれども、下段のかまえでパーツと上へあげたらなんかね、はかまの裾なんかめくれちゃってね。「キャー。」なんて女の子が言っちゃったりして。そういうこともあるわけでね、やっぱりそんなの不自然なわけですね。
だからまあ中段のかまえというのは、これはね、自由自在、融通無碍(ゆうずうむげ)でね、動く。だからまあ、この道はなにかというと、剣道でいうとこれが中段のかまえですね。ごく自然の基本の形ですね。
あるいは柔道なんかそうだよね。自然体とかね、自然体ですね、これなんかそうですね。
2.基本あってこその応用である
まあこういうふうになんの道でもそうでありますが、基本の形というのがあるんですね。自然体というのがね。まあこれがいちばん重要なんですね。これができて、あといろんな応用練習というのができるってわけですね。
まあこの中道の道というのは、スポーツでいうとランニングみたいなもんかもしれないね。
走るということは単調でそれほどおもしろくないけれども、走るということのなかにおいて筋肉を鍛えるすべての動作がはいっているわけだな。足も腰も肩もね、腕もみんな鍛えられるんだね。首だって鍛えられちゃうんだよね。
こういうことで、まずスポーツは走るということが基本。これで応用にテニスがあったり、サッカーがあったり、野球があったりするけれども、これはみんな走って足腰を鍛えるというのが基本だね。
ウサギ跳びなんていうのもあるけれども、あれだって筋肉を痛めるという説があるぐらいでね。まああんまり基本じゃないね。だからやっぱり走るというのが基本で無理がない。
まあこういうふうにやはりいちばんたいせつな生きかたね、極端に走らずにたいせつな基本形、これをだいじにしなければいけないんですね。
だから人生における基本というのはなにか。基本形というのはなにかね、このことをみなさんに一度考えていただきたいのですね。
剣道でいえば竹刀のかまえがね、変なかまえになっていないかどうかね。奇をてらったかまえになっていないかどうかね。そういうことですね。
中段でどこから打ち込んできても制御をし、どこへでも打ち込んでいけるような、そういうかまえができているかどうかね。長続きできるかどうか。まあこういうことでありますね。
だからテニスなんかでもそうなんでしょう。なんか知らないけれどもトップスピンだかなんだか知らんが、上から打ち込んだり、水平打ちしたり、いろいろとあるけれども、基本というのは、あれでしょう。
タマを膝の高さでとらえて打ち返すんでしょう。これ基本じゃないの。ねえそうでしょう。膝の高さで走っていってね。膝の高さでタマがはずんだところでラケットで打ち込む。これ基本だよね。
これやらないで横着してどこででもね、タマが高いところだったら上から打ち込んで、肩ぐらいの高さだったら水平打ちしてね、あっちでも打ってこっちでも打って、どこでもいいから打ち返すといったら、これじゃおかしいよね。
野球だってストライクゾーン来たら打つわけでしょう。そういうふうにやるわけですね。で、まあ、野球の選手だってカーブだとかシュートだとかスライダーだとかいっぱいあるけれども、基本はやっぱり直球ですよね、投手だって。
まず直球を投げる練習からはいるんですね。これができてカーブ投げたり、それからシュート投げたり、スライダー投げたりね。
最近なんかいろいろあるんだってね。なんとかフィンガーボールなんてあるらしいね。なんかそんなのやってみたり、まあいろんな変化球あるらしいですなあ。
まあ私もそれはよく知らんが、なかにはすっぽ抜けて大暴投になったりするのがあるけれどもね。そういう変化球もある。
打者だってそういうカーブを打つ練習をするだろうけど、基本はやっぱり直球を打ち返す練習だよね。だからそういうことかだいじなんですよ。まず基本を中心にやることね。
だからテニスだってそうで、そんなスマッシュばっかりうまくたって普通の打ち返しができなければ、ふつうのレシーブができないとこんなのいいテニスプレーに絶対にならないのですね。
スマッシュでも高いボールを打ち込むのだけ専門でね、そのときだけは、もう大地も割れよというばかりタマ打ち込むのはいいけれど、ほかのふつうのタマがきたらぜんぜん返せないとか。
前衛でもそうだね。ボレーとかいってポンポンと前に落とすのね、これができないなんてこれでは駄目だね。
だからテニスなんかの後衛なんかの打ちかたでもね、斜めでね、クロスで向こうの後衛とタマの打ち合いしてリレーしながらポンポンやっているうらにヘタなほうが負けちやうんでしょ。
こういう打ち返しができてラリーっていうのが、これが基本なんですね。
そうじゃなくてね、たとえば向こうからタマを打ってきたらね、いきなり向こうの前衛の横を抜いてね、スパッとすみの端っこを決めてやるとかね、こんなことばかり考えちゃあいけないんだ。
サーブ打ち込んでも絶対取れないようなサーブ、ウルトラCサーブ打ち込んで見せる。おれのサーブはいったら最後ね、もう絶対二度と打ち返せない。こんなのばっかり工夫しないでね、サーブははいればいいんですよ。
力があったらこれをラリーしてね、打ち返して勝てるようになりゃあいいの。
だから歌なんかもそうですね。この曲だけは日本一なんてね、そうね、奇妙きてれつなへんな歌一生懸命練習しないでね、まあみなさんが歌える歌、いちおう歌えるようになってそのなかから持ち歌出ればいい。これしか歌えないなんていうのはまあ惨めだよね。
まあカラオケやらしたら「思い出のサンフランシスコ」ばっかり歌う人がおるんだよな、ほかのなんにも歌えなくて思い出のサンフランシスコってね、「シスコ」ってこればっかり言ってね、そんな人もいるんだよね。
カラオケ行っても「シスコー」で、それで自分の持ち歌をね知らずに、会社の部長だとすりゃね、子飼いの部下が来てね、新人社員だと知らずに、部長の持ち歌を知らずに「サンフランシスコ」なんて先にやっちゃったらあとプンとおこっちゃってね。おれの持ち歌歌いやがって。
横の課長をつついてね、「あいつおれの持ち歌歌っている。なんとかやめさせろ。」なんてね。「おれの前に。」なんてね。まあこういうことになりますね。
だから基本というのはだいじですよ。そして応用があるね。基本があって応用がある。まあそういう考えかたをね、だいじにしなければいけない。
3.人生の中道、基本形とは、ふつうの幸せな生きかたのなかにある
さて、まあそういうことで、だいたい考えはわかったと思いますが、では、みなさんの人生の中道、基本形ってじゃあいったいなんでしょうかね。いったいなにが基本形なんだろう。まあこれ考えなきゃいけないね。そうしてみると基本形というのはね、無理のない、やはり生きかたということですね。無理のない生きかた。
じゃあ無理のない生きかたというのはどういう生きかたかというと、まあ毎日がね、やはり心が安らいでいるというのがこれがいちばん中心ですね。心が安らいでいる毎日であれば、毎日毎日がね、平和に暮らしていけるし、長続きしますね。
ところが心が乱れに乱れておると、こらあ長続きしませんわね。どう考えたって。ちがいますか。奥さんとケンカばかりしていて旦那さんの心の平和ありませんね。これ自然体とは言いませんわね。そうではないでしょうか。
子供のことでもう頭がいっぱいで、こんなの自然体じゃありませんね。高熱出してウンウンうなっているの、これも自然体じゃございませんね。
だからやはりみなさん、そうね、極端なね、王侯貴族みたいな生活ばかりねらわずにね、まあごく平凡なね、ふつうの幸せな生きかたをまず基本形として押さえていく必要があるんですよ。
けっしてね、象の背中に乗ってね、ヤシの葉っぱで風を送ってもらうのがこれが幸せではないんですよ。こんなの象の背中に乗ってユタユタ歩けばいいなんて思ったら、象の上から落ちてあなたね、踏みつぶされちゃって、「ギャー。」なんて言っておわるんですよ。
そんな王様になろうなんてしないでね、まずね、扇風機のある部屋で夏過ごせるとか、軽井沢の別荘なんてなかなか持てないだろうけど、まあせめてね、二十何万円ぐらいのクーラーがはいるていどの家を持つとかね。まあありますわね。
だから極端をねらわずに、まあ満足できるぐらいの、生きかたをまずねらってみるということですね。
ですからそうしてみるとどうすりゃあいいかというと、自分の性格というのを、もう一回ね、ふり返ってみてほしいんですね。そして自分の生きかたのなかにデコボコがないかどうか。これを一回点検してみる必要があるんですね。
だからそのデコボコというのはけっして悪いところだけではなくていいところもあるんですよ。いいとこ悪いところをよーく見てみる必要がある。
4.有名人となることの苦しみ
たとえば女性であれば、美人であるということだけでなにかのデコボコを作っておるんですね。
それが顔が美しいということによって多くの男性から言い寄られるかもしれないけれども、それはかならずしも幸福を意味しているわけでもないんですね。そうすることによって心のなかで、たとえば自惚れ、自己顕示欲、こういうものがいっぱいになったり、あるいは注目願望ね、喝采願望みたいのがいっぱい集まってきて、とにかくスターになりたい、もう有名になりたい、まあこういう気持ち。多くの男性にもてたい。
こういうのになって、ひどいのになってきたらほんとう男から男へというのもあれば、逆にいうともうあんまりスターになっちゃって、男なんか近寄れなくなっちゃったりしてね。
いま、女優さんとかスターなんかけっこう多いんですよ。多くの人にもてるのはいいけれど、もてるけれど有名すぎて、もう交際もできないで苦しんでいる人いっぱいいるんですよ。
そんな人そうなっちゃったらもうどこも歩けない。町のなか、デートもできないね。顔もばれちゃってどこも歩けないし。ほんとね楽しいことしたくたってホテル行けないんだ。もう顔みんなわかっているし、週刊誌が追いかけまわっている。マンションも行けない。
もうマンション行ってもね、最近あるねえ、有名な歌手の夫婦なんか、また引越し。引越し、引越し、もう近所がうるさくて買い物も行けない。もう引越しの引越しね。せっかく落着いて新婚家庭かと思ったら、もう引越し。うるさくてしょうがない。
それから有名人になるともうスターなんかなっちゃって、いつもサングラスかけて歩かにゃあいかん。夏だけならいいけれども、冬にもサングラスかけて、ときどきチンピラのヤクザとまちがえられたりしてね。おもて歩くようになりますからね。
だから無名であるということもけっこう幸せですね。だからそりゃあいいこと悪いことあるけれども、極端な部分ね、自分のなかの極端な部分があるということはそれがやはりね、カルマを生んだり、苦しみを生んだりする根源になりやすいんでね。
そこをもういっぺん考えてみる必要があるね。
でまあ経済的な苦境というようなことで味わっている人というのは、けっこうそこでね、経済的な問題でね、ウンウンいつもいっておるんだね。やはりそのへんに問題があるんだな。
だから人並みのところへ持っていく必要があるし、頭でね、おれは頭が悪いなあーなんてね、いつも悩んでおる人がいますね。そしたらこれも悩みっていうのはなかほどともいかんけど、そんな苦悩を作らない程度のやはりね、頭にするためにね、多少は知性を磨くなりね、していく必要があるんですね。
5.中道に入るためには、まずみずからの極端な部分を点検せよ
だからまず中道に入るための第一は、自分の才能や人格や、あるいは肉体的なもの、こういうものをふり返ってみてね、極端な部分がないかどうかよく見てみる。
そして極端な部分があるとすれば、それによってどのような喜びを生み出したり、あるいはこれが悲しみになっておるか、こうしたことをね、つぶさに見てみることですね。
だから極端の部分ももちろんとりえとして生かせるのがあるけれども、それによって心の安らぎがうばわれておらんかどうかね。こういうことがだいじなんですね。
だからまあ有名な俳優さんなんかでも、いろんなふうに世間からちやほやされても、なにか解放感がほしくてね、その衣装を脱ぎたくなって禅寺へ隠(こも)ってみたりするわけですよ。まあそういうことがあってね、なぜかどっかで裸になりたいんだな。
そりゃあ逆に映画俳優かなにかになってみると、洗面器ぶら下げてね、銭湯なんか行ってみたいんだよ、逆にね。「ああ、行ってみたい。」なんてね。
銭湯の前を通りかかって何とか湯とかね、「松の湯」「玉の湯」なんてあったらもう洗面器にね、石けんとタオル持ってね、肩かけて玉の湯ヘカラカラサンダルはいて行ってみたいんだよね。夏になったら夕方ごろなあ。
それはそんなこと知らないミーチャン、ハーチャンや、あるいは貧乏学生さんなんかね、まあ会費が払えんから安くしてくれなんて言うような貧乏学生さんにかぎってね、二百円ぐらいの風呂代払って二百六十円か三百円か知らんけれどもね。読者から抗議がくるといかんから、二百七十円かね、払ってね。
で、「高いな、二百七十円の風呂、高いなー、こんなの毎日はいれないや。」なんて、二百七十円なんか払って「どうにかならんのか。もっと百円ぐらいにならんのか。」なんてブーブー言ってね、不平不満言いながら、サンダルはいてカラカラ行っている学生さんなんか見たらねえ、俳優さんが見ると「ああうらやましいなあ。」お風呂行ってもぜんぜん見られないしね、裸になってもだれも注目しない。
「俺が裸になんかなったら、おへその横にあるホクロまで見られちゃってたいへんなことになっちゃう。いいなあ。」なんてね、ありますね。そういうことけっこうあるんですよね。
それと有名人だからといってもお金ピィーピィー言っているのもいっぱいあるしね。有名人は金があるなんてとんでもない。だから羽振りのいいとこ見せなきゃいかんからますます苦しくなる。こういうことあります。
だからまあ極端に人から見てよく見えるようなことも、辛いこともあるわけですね。
6.「聖者」と言われることの「虚」と「実」の苦しみ
それは高橋信次だって同じですよ。人様の前であなた、釈迦か、キリストか、高橋信次か、なんて説法し始めるとなんにも悪いことできなくなるんですね。聖人君子にならなければいけないんで。
そりゃあ「ちょっと」なんてね「パチンコしたかったのになあ、あそこで浅草のあそこのパチンコ屋、きょうは出るだろうな。出るかもわからんなあ。」どうだ、あそこ。
「おばちゃん、二十七番、玉出ないよー。」なんてね、こんなの言ってたらね、「あれはGLAの高橋信次じゃねえか。なにしているんだ、あんなところで。GLAの会長パチンコまたやってる。」なんて、「またバンバン叩いて『出ないぞー』なんてやってるぞー。」なんて言われるとたいへんだからパチンコもできなくなっちゃうね。そうでしょう、ねえ。
パチンコはできないし、小桜姫様じゃございませんが、六次元の愛じゃありませんが、あなた愛人もつくれません。
当然、デートもできない。はあ苦しい。ほんとうね。悪いことなにもできなくてアリ一匹踏みつぶしてもいけないし、もうたいへんなんだよね。
弟子にかこまれたらほんと仏様の顔をして、優しく愛と慈悲の魂にならなきゃいかんし、もうそりゃあたいへんですよ。
そりゃあかあちゃんに腹が立ったって、夫婦げんかなんかして近所にきかれると、「なに、あの人。心と行ない、中道など言いながらぜんぜんじゃないの。」、「もう毎日鍋釜飛びまくっているじゃないの。」なんてね、言われちゃいますね。こんなことあったようだ。
で、私の大森の家なんかちっちゃいふつうの家でありますけれども、ねえ、そしたらいろんな人が来る。ご飯食べに来たりするから。
ちっちゃい家だけれども、「やあ、やっぱり本当の聖者というのはちっちゃい家に住むんですね、ぜいたくじゃないんですね。」なんて言われると、ほんとうは家を大きくしたいと思っても「ウッ。」と思ってね。
ほんとうは大邸宅のほうに住みたくても、「いや、聖者というのはほんとうに銭金じゃないんですね。こういう質素な生活をするんですね。」と言われると「ウッ。」と言って言葉がつまっちゃって、そして大きな家に移れないね。
そして人があふれて正月なんか困っちゃうね。まあこんなことになりますね。まあそれほどむずかしいんですよ。
だからまあこれは幸福の科学出版から出る本なんでカットもされないと思うんで安心してしゃべれるんですけれども、ねえ、GLAなんかもそうですねえ。
基本的には、まあ私も中道をずいぶん言っとったけれども、全般に私の、まあ昭和四十三年ごろだったかな、その動きと、現在もう六十二年ですが、まあ二十年だね、足かけ二十年になるけれども、この二十年のGLAの動きっていうのを、歩みというのを見れば、やはり極端がずいぶんあったね。
自宅で七人相手に説法したときから始まって、急速に発展してね。「私は宗教家ではございません。私は電気屋です。電気のことならわかります。」やっていましたね。
「仏典なんか読まなくてもわかります。キリスト教の聖書なんか読んだことありません。使徒行伝第何章、華厳経十地品のなかに書かれておるのです。これはすべて指導霊によって私は教えられるのです。」なんて言って全国各地まわっておって、電気屋のおじさんがねえ、まわっちゃって。
そして経営はかあちゃんにやらせたり、ときどき、「あんたも出てきなさいよ。」なんて言われて、「わかったよ、わかったよ、ハンコ渡してあるのにお前わかんないのかよ、ほんとうにしょうがない。」なんてね。で、まあ行って社員教育したりね。
まああっちこっちしながらゃっとったけれども、無理があったね。それで無理がどこへ来たかというと、けっきょく私個人にそうとう来た部分があるね。
そして、「宗教で飯を食っちゃいけない。」ということであったんで、事業のほうで利益出して、日大講堂なんかね、一円も取らずに日大講堂で講演やって私が全部払ってやってね、悔しいもんだからね、経営者ゼミなんか十万取ってね、「お金じゃありません。物質じゃありません。そんな欲望を捨てなさい。」一生懸命教えちゃったりしてね。
そしたらみんな、「ハアそうですか。」なんてね。あと経営に苦しんだりしてね。どうしたらいいんだかわからなくて。まあいろいろやりましたけれども、まあちょっと極端は私にもあったように思います。
7.個人にしても団体にしても、極端から極端にゆれてはいけない
それと、私自身も幼少時からいろいろと、いろんな問題で苦しんできたこともあったんでね。
そういう悩み苦しみから脱却したいという気持ちもあったのか、やはり私自身もね、謙虚になりなさいということを人にも教えたけれども、やはり自分もそういうコンプレックスもあったんでしょうかね、ひじょうにやはり偉い人間になりたいという気持ちが潜在的にあったように思いますね。
その結果、やはりGLAが、その後私が亡くなったあとに、「偉い偉くない。」というような方向に行ったね。
光の天使だ、大如来だっていう方向でね、行った流れのなかには、私のなかにもそうしたものがあったということを私は認めざるをえんと思いますね。そういった極端があったね。私にもね。
幼少時の苦労と、それから社長になって、まあ若いころも苦労したけれども、夫婦げんかもしたけれども、高電工業がまあまあ発展して、そして急に霊道現象が始まっちゃって、いきなり教世主みたいになっちゃって、パッと拡げちゃって、倒れちゃって。ハ起ビルで死んじゃって。それで娘が立っちゃって。
まあずいぶん目くるめく人生。まあコロコロコロコロといろんなことが起きてきました。あんまり中道とは言えない人生であったと深く反省をしております。
だからまあいま、私の一番のね、心の課題は、そりゃあ娘が主宰するGLAね、これをいったいどういうかたちで収拾つけるかね。
彼女のプライドを傷つけずに、やってきたことを無駄にせずに、そしてみんなが幸せになるようなかたちで、GLAを離れていった何十万の弟子たち、彼らもまとめて、そして現GLAの人たちもなんとかこれをもう一度納得してもらってね、みんなが納得するかたちで犠牲者を出さずにね、できるだけ円満な解決、どうすればいいかね、日夜私はこのことで頭が痛いです。
ね、ほんとう、九次元の霊でも苦しみはあるんですよ。ねえみなさんね、苦しみがないなんていう人いるけど、あるんですよ。
私は言いました。播いた種は刈り取らねばならんと。刈り取っているんですよ。種播いちゃって、種が大きくなっちゃって、まあいろんなことをやっているもんだから、ほんとうたいへんなんですね。
だからまあ私もそういうような極端な人生であったけれども、私の長女なんかもね、やはりいきなり十九歳でね、主宰者になっちゃって、そりゃあ苦しかっただろうよ。それでやっぱり偉い偉いとまわりが言わないとね、人がついてこれないんで苦しい。
そういうことをずいぶんやってきたし、責任感がひじょうに人一倍強かった娘だから弱音を吐けない。絶対最後までやるということでね。
いま、幸福の科学で大川さんなんかやっているけれども、彼女はひめゆりの塔みたいに、沖縄のあんなふうにならないようにね。
僕は最後まで、ボロボロになるまでいかないように、なんとかしてね、収拾をつけたいと、まあここでいま、ほんとうにつらいんだけれども、やりたいと思うんだね。
だからまあ妻だとかね。GLAに残っている弟子たちもよーく考えてね、まあそのへんやってほしいと思うんですね。
だからまあ中道ということは、個人だけではなくて団体にもあるんですね。やっぱり極端から極端にくるといけない。こういう部分はやはりあるんですね。
8.中道に入(い)る方法としての人生のブロック化
だからそういうねえ、人生で大地震があるようなグラグラグラグラとゆれてはいかんのですね。人の生きかたもそうだし、団体にしてもそうなんですよ。
だから幸福の科学というのも発足して一年足らずでありますが、(一九八七年現在)僕はね、自然体でね、だんだんだんだん積み上がっていくようないきかたね、これをしていってほしいなあと思いますね。
だからいちばんたいせつなことは、石橋を叩いて渡るようなそんな慎重さまではいりませんが、やはりレンガを積み重ねていくようないきかたね。ブロックを積み重ねていくようないきかた。こういういきかたをね、していきなさいよ。土台を作っていくね、カチッとね。そういういきかたをしなきゃいけない。
だから日の丸弁当でもなんでもいいけれどもねえ、お弁当開いてねえ、手でつかんでガボガボ食べるんじゃなくて、ギッシリお母さんがご飯詰めてくれたらね、お箸でね、四角く切ってね、ちっちゃく食べるようにしてポコポコと口のなかにほおり込んで食べるんですよ。こうしたら食べやすいんですよ。もうガブッと食べようとすると苦しみがある。
おにぎりでもそうですよ、口にはいるぐらいのおにぎりだからそれでいいんであってね、重さニキロもあるような大きなおにぎりなんか作ったら、もう食べるのに死んじゃいますね。息がつまっちゃって。そういうことなんですね。
だからまあ中道の方法のひとつとしてね、やはり僕は人生のブロック化、レンガ化と言いますかね、そういうこともだいじだと思うんですね。ひとつひとつね、積み重ねていくっていうことですね。
そりゃあそうですよ、ブロック塀造るときもそうでしょう。下に一列に並べてその上にセメント塗ってね、そしてまたコンクリートですか、塗って、またブロックを積む。そしてその上を積む。そして鉄の棒かなにかを通すんでしょう、中にね。そういうふうにしてますね。
だから中道の生きかたを、あるいはひとりの個人の人生、あるいは団体のいきかたという面でみればね、そういうひとつひとつをたしかに積んでいくことでもあるわけですね。いきなりブロック塀を上から積めますか。積んでごらんなさい。積めないでしょう。
だから団体などが混乱する原因は、たいていブロック塀を上から積もうとしている。下から積まなきゃ、積まれないね。そうでしょ。そういうことなんですよ。上から積めないんですよ。
どうしても上から積んでみると、下のほう、藁(わら)かなにかを積み上げちゃって、まず一番上のブロック積んじゃって、で、藁ちょっと抜いてその下にまたくっつけてね。また藁抜いちゃってね。こんな造りかたする人いないんですね。
ビルでもなんでも下から建てていくんです。上から建てるビルなんかありゃあしないんですね。よく知らないけどね。なんか新しい方法で上から建てるのがあるかもわからないから、建築家から文句出るといかんから、まあこらあ言えんけれども、まあそういうことなんですよ。
9.小さな成功を積み重ねていくことが、人生の黄金の道である
だからねえ、みなさんねえ、自然体、長持ちするやりかたというものをね、まず人生の基礎におく。そして長持ちするやりかたというのは、心に安らぎのある生きかたですね。こういうことを基本におく。
団体においてもそうで、行動の基準としてね、ひとつひとつブロックを積んでいくようにね、たしかな手応え、小さな成功を積み重ねていくということですね。
いきなり世界を救う、人類を救う、日本国中を救うっていうことはありえないですね。
そういうことではなくて、やはりひとつひとつの座談会、講演会、研修会、こうした小さなものをひとつひとつね、成功を積み重ねていく。そしてブロックのように積み重ねていくんですね。
だから本でもいっしょですよ。一冊一冊の本を積み重ねていくことですね。高橋信次霊訓集一集二集と出たら三集も出る。三集が出たら、もちろん四集五集が出る。そして評判がよけりゃ六集七集が出る。いきなり高橋信次霊訓集の六集とか十集とか出ないんです。一集二集三集とあって出るんですね。
このように、たしかに手応えをたしかめていく。こういう手堅い人生というのをみなさん生きていってくださいよ。これはね、あとあと残るんです。そういう生きかたね。これがひとつの中道であります。
真中の飾らない道ね。こういう生きかたをしていってください。これがね、人生の黄金の道ですよ。
ね、ガッチリとした基礎を作って、真正面から、斜めに構えずにふい打ちなんかしようなんてしないで、真正面から向かっていけるような生きかたね。
人様からうしろ指さされないような生きかた、こういう生きかたをしていきなさいよ。ね、常識ですよ。
光の天使であろうがなかろうが関係ないんです。奇跡を求めちゃいけない。奇跡を求めて一発どうするとかねえ、神風が吹くとか、そんな考えを持っちゃいけない。
中道でジワジワジワジワと実力をつけていく。まず五百人、千人の人を救っていくところから人類救済を始めていく。こういう考えをね、だいじにしていきなさい。まあそういうことです。