目次
1.日本
2.天皇
3.政治
4.文化
5.歴史
6.天照大御神
(1987年10月29日の神示)
1.日本
さて、本章では、われわれにとって最も大切な国、日本ということに関して、さまざまな話をしてゆきたいと思う。
まず、古米より、この日本という国は、「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」といわれてきた。また、「美し国」「大和(やまと)の国」「麗(うるわ)しき国」といわれてきた。これらの言葉は、決してこれが自分のところのみをよしとする、我田引水的な考え方ではないのである。それぞれの国には、それぞれの国の霊域というものがあり、その国独特の霊域に生じた文化というものもあるのである。したがって、我らは実在界にあって、日本という国に、このような特色ある文化を現出せしめたということに、大いなる誇りを感ずるものである。さすれば日本という国は、一体いかなる目的を持ち、いかなる特色を持った国といえようか。このことについて話をしてみたいと思うのである。
日本という国は、今、地球というこの大きな霊的磁場の中にあって、特段の光を放っている国である。それは過去のなかにおいてもそうした時期が多かったけれども、特に今時代においては、日本という国に光が、今、満ちてきておるのである。
なにゆえに光が満ちてきておるか。それは、今、神々という神々が、この日本の国に対し関心を持ち、日本の国のために、力を尽くさんとしておるからである。それぞれの地域に住む神々は、それぞれの地域の発展のために、尽くしてきたのであるが、やはり、時代時代というものはあり、その国が世界の中心として栄えるべき時代はあるのだ。
今や世界の宗数的中心は、インドも、中国も、そしてヨーロッパも、アメリカも、またイスラエルの地も、中心と言いきれるだけの実力もなければ、霊的な香りもないと思う。今、世界の宗数的な中心は、すなわちこれ、日本である。日本という国である。この日の出(い)ずる国、日の昇る国において、大いなる精神の波が押し寄せ、大いなる精神革命の息吹が今、始まろうとしておるのだ。大いなる胎動が始まろうとしておるのだ。
それは一体何かというと、我らがこの三千年の長きにわたって、日本という国に溜(た)めきたったこの文化のエネルギーが、この神の栄光の蓄えが、今、一挙にこの三次元の地上に噴出し、そして、その大いなるエネルギーの波が、全世界を覆わんとしてきておるのである。
我らはこうした時代の出現に際して、今まで努力せしことを誇りに思う。今まで全力を尽くしてこの国を、よき国にせんとして努力してきたことをこそ、うれしく思う。我らの努力により、日本という国を、日本という民族を、ひとつの単一なる、すばらしい国家として育て上げてきたことに対し、大いなる安らぎと、誇りと、希望と、自信と、揺るぎない信念を感ずるものである。また、これは大いなる成功感をも秘めているものである。我らはこうして麗(うるわ)しき国を創ってきたことを、そして世界の中に、日本という奇跡の国が存在することをうれしく思うものである。
諸君は、この日本という国に生まれた以上、この国をさらに麗しき国とするために努力せよ。さらに美しき国とするために努力せよ。さらにすばらしき国となるために努力せよ。さらに文化の香り高い国となるために努力せよ。それが、諸君に与えられた義務ではないであろうか。
諸君はかつて、異境の地に生まれたこともあったかもしれぬ。しかしながら、かつて他国に生まれたとしても、今世においてこの日本という国を選んで生まれてきたということは、諸君はこの国をよしと思って出てきたのである。この国を麗しき国と思って出てきたのである。また神々も、諸君がこの国に住まうことをよしとされたのである。すべてがよしと思ってこの国に幸(さきは)えておるのである。幸(さいわ)いを共有しておるのである。幸いを実践しておるのである。さらば諸君よ、されば諸君よ、諸君らはこの幸福の源(みなもと)となれ。まず、日本の国を麗しき国とせよ。日本の国を幸福の国とせよ。日本の国をユートピアの国とせよ。それが諸君らの、まず第一義的なる努力であろう。
他国をユートピアにしていくことも、また大きな仕事かもしれぬ。しかし、他国にはまた、他国の論理があり、考え方もあろう。他国の人びとの自治もあろう。他国の人びとの努力もあろう。さすれば諸君はまず、自国をすばらしいものとしてゆけ。それは決して、偏狭な自国主義、あるいは自分中心の考え方ではないのである。それぞれの人間は、自らの国を立派なものにする義務を負っておるのだ。それは、それぞれの人間が、自らの家庭を立派にする義務を負っているのと同じである。そして自らの家庭を立派にするのと同じように、自らの心の内を立派にする義務を負っているのと同じである。まず自分から始めていくということが、ユートピアの原点であるということを忘れてはならない。
2.天皇
諸君は今、新たな日本国憲法というものによって、天皇制度というのが、ひじょうに改変されたことを知っておるであろう。明治憲法下においては、天皇陛下というものは、これは君主であり、支配者であり、そして、統治者でもあった。しかし、現憲法においては、天皇は単なる象徴にしかすぎない。一国の象徴であり、一国の精神的な集まりの中心、そういうことになっておると思う。このことに対して、私(わたくし)の考えを述べてみたいと思う。
天皇制というものは、さまざまな変遷を経てきておる。まあ、百代も二百代もの天皇が連綿と続いておるといわれておる。そして、神武天皇以来、さまざまな天皇があったといわれている。その定かな歴史は、しかし現在には伝わってはおらぬ。主として、奈良時代において、そうした国史が編纂(へんさん)されたのであるが、その時には、充分な資料もなく、さまざまなまちがいも多く、また、いい伝えによる伝説の集大成という点が多かったと思う。
神武という天皇が、本当にいたわけではない。しかし、その神武天皇というのにあたるのが、この天之御中主である。本来は私である。本来は、神武天皇といわれておる、その人格に相当するのが、実は私である。私が、今から二千八百年近い昔、南九州において、朝廷を創った。それ以前にも、さまざまな豪族としての、そうした王家の伝統はあったけれども、その当時に、巨大な一つの支配国家を創ったのが私である。
ところが、時代が下るにつれて、天之御中主というのは、日本の神の中では宇宙の根本神というふうにいわれた。そして、実在したそうした天之御中主の姿が、神武天皇というような形で、いわれておるのである。そして、神武天皇という言葉でいわれておる内容には、天之御中主と、日本武尊(やまとたけるのみこと)を合体させたようなものがある。私自身は、東征をしたわけでもなんでもない。けれども、のちの日本武尊伝説と合体されて、そういう神武天皇の話となっておるようである。
ただ、今、ここで明らかにする必要があることは、初代の天皇がだれであり、五代目がだれであり、十代目がだれである、そうしたことではないということだ。大切なことは、そうした古代、今から三千年近い昔に王朝を創った者の歴史が、連綿と現代まで続いておるということである。その間、たくさんの変遷があった。けれども、その中に、一本の一つの歴史的な、歴史を貫く、霊的な糸というものがあったということ、これは事実である。
それは、私が日本の国においては、結局のところ天地創造の神と同じく、同じ使命を果たしたということである。ユダヤの地にあっては、我はおそらくは、アブラハムのようなものであったかもしれぬ。あるいは、アブラハム以前の万能の神といわれる、ヤーヴェや、あるいはアラーの神のような存在であったかもしれぬ。まあ、諸外国のことは詳しくは申せぬ。ただ、我が時代において、最初の精神的支柱が日本の国に打ち立てられたということは、これはまぎれもない事実である。
そして、我(われ)が最初に打ち立てた支柱は、これは、宗教的中心であり、また、政治的中心でもあるという柱であった。神の心に近い者が国を治めるというのが、天皇家の原点であったということである。したがって、天皇家の原点は、光の天使の歴史であり、また実際、歴史上にも数多くの光の天使が、天皇家のなかに生まれたことも事実である。これをひとつひとつ論証していこうとは思わぬが、歴史のなかに、名を残した多くの天皇の中には、我(われ)らの世界から送り込んできた光の天使も数多くいたということである。
それは、仏教において、宗祖がさまざまな法を継いでいったように、キリスト教において、教皇が法を継いでいったように、また、イスラム教の中において、さまざまな支配者が続いていったように、この日本という国の中において、宗教と政治の融合的見地から、そうした光の天使が数多く降りていって、そして、時代が下ってくるとまた、新たな偉大な人を送り出していったという、そうした歴史があったのである。
したがって、ここ三千年における日本の国の歴史の計画は、この天皇家、これを中心に構築されてきたのである。これが、我らが実在界での、約束ごとでもあり、また、計画でもあったということだ。その間、地上においてはさまざまな政争があり、政権も替わってきたけれども、天皇家というものは連綿として続いてきた。それは、高天原(たかまがはら)より、この地上に降ろしたる、神の出張所としての役割があったからである。神の出城(でじろ)としての役割があったからである。
そうして数千年続いた歴史である。これに対して過去の日本人は、いずれも畏敬の念を持ってきたのである。それは、我が国を創った神々への畏敬の念と同じものであったと思う。そうした精神的なるものが、国を治めるということが、日本の政治の伝統でもあったのである。
さて、翻(ひるがえ)って考えてみるに、天皇は人間宣言をし、現行憲法の中においては、天皇は国体の象徴であるということになっておる。そして象徴的行為以外の国事行為はすることができぬということになっておる。これは、私の立場から見れば、ひじょうに嘆かわしいものであると思う。
ただ、我々が今、実在界にあって思うことは、これから必要とされる時代、これから必要とされる国の運営の方法、これから必要とされる政治の手法は、すなわち、真理というものを政治の中に持ち込んでゆかねばならんということだ。これだけを私ははっきりと言っておかねばならん。天皇制を葬り去るのも結構であるが、そうであるならば、天皇制に替わるものを打ち立てねばならん。我はそのように思う。
今、民主主義とか、いろいろなことで呼ばれておるような、多数決の原理が通用しておるが、これは決して、普遍的な真理ではないということを知らねばならんと思う。このことに関して、次節でさらに話を進めてゆきたい。
3.政治
天皇の話をして、さらに政治の話へと入ってゆきたいと思う。今の日本人は、国の教育思想、あるいは、教科書による精神的統一によって、民主主義というものをひじょうにすばらしいもののように考えておるようである。しかし、その民主主義として語られておることの内容は、わずかここ百年、二百年の間に起きてきた思想の一つの運動にしかすぎない。これを決して普遍的なものと思ってはならん。現代の政治を貫く原理としての民主主義は、その根本において、最大多数の意見を聞くということであろうと思う。しかし、この原理は、決して普遍的なるものではないということだ。
霊界においても、さまざまな次元構造があるということは、あなた方も学んでおることであろう。その中には、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元というような、世界構造があることも知っておるであろう。これで最大多数の意見を聞けばどうなるかということを考えてみられたい。人口としては四次元の人数がいちばん多いのである。さらに、五次元、六次元、そして頂点に登るほど人間は少なくなっている。高級霊ほど数は少なくなっておるのである。
こうした世界構造を前提にして、この地上の生き方を考えてみると、最大多数の意見を聞くということは、四次元的支配原理が地上に働くということである。地上が混乱しておる原因は、多数決の原理でもって、政治を運営しているというところにその根本がある。ここに大きな誤りがあることを、あなた方は知らねばならない。多数決は必ずしも最善の原理ではないのだ。それは、本当の意味での支配ということを、統治ということを知らない人たちのやることなのである。
今、地獄に堕ちる人も数多いと聞いておる。場合によっては、五割を超えて、六割、七割ともいわれている。それが現代のあり方ともいえようか。そうした心不調和な人びとの最大多数でもって、政(まつりごと)を決めた時に、国政を牛耳(ぎゅうじ)った時に、一体どのようになるかということを考えてみなければならない。それは、この地上において、四次元的なる世界が単に展開するだけではなく、もっとはっきりと言うならば、地獄図が地上に展開されるということではないのか。
戦後のデモクラシーが、日本に持ちきたらしたものは何か。考えてみなさい。それは、アメリカ的な数の論理であり、そしてまた、権利の主張ではなかったか。世の中を見てみよ。男女同権、それは結構でもあろうか。一人ひとりが主権者、その考えも結構かもしれない。しかし、言葉のその甘美な響きのみに、惑わされてはならない。一人ひとりが主権者であるとはどういうことか。一人ひとりが神の子であるという理由ならそれはよい。それは正しい論理であろう。しかし、一人ひとりが主権者であるということが、一人ひとりが自我のままに生きてよいということなら、これはまちがっているということだ。現代の民主主義は、欲望の民主主義であり、自我の多数決による民主主義ではないのか。こうしたことに対して、大いなるメスを入れねばならんと思う。これに代わるべき原理が、もう一度摸索されねばならぬ時代が来ておると、私は感じるのである。
さすれば伝統的な日本の支配原理でもあり、また、孔子などを中心として中国を支配してきた、長幼(ちょうよう)、歳をとっておるか、若いかという、年功序列の制度をもってよしとするか否か。これも日本の政治や、あるいは経済、社会、これらの仕組みにおいて、年功序列ということも幅をきかしておるであろう。この年功序列ということは、ごく自然に決まった順番を重視するということであり、この世に争いをなくすという意味では、意味はあったと思う。これが、多数決の競争原理に対置するべき概念としての自然の序列、安定という考え方であったかもしれぬ。
ただ、この考えにも問題はあることは事実である。それは、人間は、生年月日によって偉しとはされないからである。何をもって、その人より二年前に生まれた人が、その人の次の年に生まれた人より上に立つという理由があるであろうか。白髪(しらが)の数であるか。顔の皺(しわ)の数であるか。腰の曲がり方であるか。そうしたことでもっては、この原理は解明することはできないと思う。
数の多数決、そして年齢の長幼の序、これらは、ごくごく単純なる思考を有せる人びとの受け入れるところとはなったかもしれぬが、しかしながら、本当の意味での実相世界を展開し、反映しておるとはいえぬ。
本当のこの世の原理も、この世が秩序と、そして、進歩とを組み合わせたものであるためには、やはり実相界の原理を、実相世界の原理をこそとり入れねばならんと思う。実相世界の原理とは何であるか。すなわち、霊的に悟っておる者が、他の者を指導する世界である。この原理に例外はないのである。悟っておるものが、まだ悟っておらぬ者を指導するということが、神の創られた世界の原理なのである。
さすれば、この原理を地上にも導入すべきではないだろうか。それを地上に導入すれば、いかなる現象が起きるであろうか。それはこういうことになるであろうと私は考える。より徳高き人が、未だ徳の発達せざる者を指導する。そういう世界が求められてきておるのだと思う。今、政治家を選ぶ時に、この人は徳の高い人だから選ぶというようなことがあるであろうか。今、たとえば、企業の中において、出世の基準をはかる時に、この人は徳高き人だから出世させるということがあるであろうか。そうした価値の考え方が、失われて久しいのではないであろうか。
日本人はもっともっとこの徳ということ、すなわち人望といってもいい、多くの人びとの信望といってもいい、尊敬といってもいい、仰ぎ見る感情といってもいい、こうした高貴なる感情というものをもう一度、考え直さねばならん。多くの人びとから信望を集めうる人であってこそ、初めて世の中が治まるのである。それは年齢だけで治まるものではない。それは多数決で治まるものでもない。お金で治まるものでもない。学歴でもない。それは徳の力である。
もっともっと、この徳の力というものを、これを実在化する論理を諸君は学ばねばならん。徳というものは現にあるのだ。徳とは何か。すなわち、人をして尊敬せしめるような何かである。すなわち、神近さを感じさせるようなものである。その人の持っておるものが、神の性質に近いということだ。あたかも、神の代理として地上に出ておるような人。そういう人びとが、地上の他の人びとを指導して、初めてこの世の中はよくなってゆくのだ。
したがって、これからの世界を、あるいは、これからの日本を変えてゆくためには、変革してゆくためには、この徳の原理というものをもっともっと学ばねばならん。もっともっと多くの人の口にのぼってよいのだ。あの方は徳のある人だが、あの人はまだ徳が発達していない。徳をつけるためにはどのように修行してゆけばよいのか。こうしたことをもっともっと地上の人間は学ばねばならんと思う。そして、徳ということに関して、目が肥えてこなければいけない。そうではない知名度であるとか、そうしたことでもって、人をより分けておるようでは意味がない。
そうしてみれば、現在の日本の国会議員などは、直ちに辞職せねばならん人が数多くいるはずである。この徳というものを持っておるかどうかという基準でふるいにかけた時に、数多くの人が、そのふるいから落ちているのではないのか。それでよいのである。人をして従わしめるだけの、それだけの信望のない人たち、それだけの徳力のない人たちは、政治の世界から手を引くがよい。それが自分のためともなり、他の人のためともなるのである。
その徳望とは何か。ひとつにはやはり、より多くの人びとの幸せを自分の幸せと同一視する能力といえると思う。多くの人びとの幸せを自分の幸せと感じうる能力である。これを徳というのだ。一人でも多くの人びとを幸せにするということをもって、自分の誇りとする。これを徳というのだ。その人の生き方を見て、他の人びとが自然に感化される。これをもって徳というのだ。
したがって、現在の日本の憲法における政教分離の原則というのは、根本からまちがっている。これは根本的にまちがっておって、やがて改変せねばならんと私は思う。その政教分離の原則の中には、宗教というものは悪しきもの、政治を惑わすもの、政治を利用するもの、こうした考え方があると思う。そうであってはならんのである。政治というものをそれほどこの世的なるものにしてはならんのである。政治というものは政(まつりごと)と言う。政(まつりごと)は、神より命じられた者による政であるのだ。本当の意味の宗教家がおれば、政治家は不要である。こうした原理をもうひとつ考えてみる必要があると、私はそのように思う。
決して現在のように学歴社会であるとか、あるいは派閥の政治であってよいわけではない。そうしたものであってはいけない。やはり、きら星のごとく輝くような人たちが宰相(さいしょう)となり、政治家となってゆかねばならんのである。
そうであるならば、もっともっと徳のある人が選ばれてゆくような、そうした土壌を養わねばならん。投票というような紙切れで選ばれるよりは、むしろ徳のある人が推薦(すいせん)されて、互選されて決まってゆくぐらいでよい。そうした方向というものを、もう一度摸索してみなさい。
4.文化
さて、政治についてさまざまな角度から述べてきたが、文化ということに関しても話をしておこうと思う。文化というものは結局、魂の豊かさを意味する。魂を豊かならしめるもの、そうした人間的産物、業績、生産物、これを文化と呼ぶのだ。すなわち、魂を豊かにするために、人びとがあみ出した工夫である。これを文化というのだ。人びとの知恵の集大成をもって文化というのだ。さすれば、文化を高めるために、人びとはもっともっと励まねばならないと思う。
この文化を高めるということに関して、今ひとつその阻害原因となっておるものが、貨幣経済であろうと私は思う。こうした貨幣経済の原理から、現在では株式会社という制度が作られ、利潤の追求をもって、会社の目的としておるはずである。株式会社の目的は、利潤の追求であるはずである。そして、社員の仕事の目的は、その利潤の分配にあずかることであるとなっておる。どうしてこんな発想が出てきたのか。もう一度考えてみられたい。そこに何かのまちがいがあるのではないか。
人間は地上に、知恵ある者となるために生まれてきておるのである。そして自らの生み出した知恵によって、より多くの人びとを潤し、より多くの人びとを豊かにし、より多くの人びとを幸せにするために生まれてきておるのである。今後、こうした目的を会社の目的とし、定款(ていかん)とするような会社の存在は、だんだんに廃止されてゆかねばならんと思う。それぞれの会社において、社是として、社則として、第一に、いかに文化を高めるために自分たちが貢献しておるかということを考えてゆかねばならんと思う。それが本当である。より多くの利益を上げておる会社が優良会社といわれている。こんなことでどうして基本的な倫理感覚が育つであろうか。
より高度の目的のために、より高い文化のために、活動しておる会社であってこそ、初めて世の人びとの尊敬を受けてよいのである。そうした会社こそが、存在の意義があるのである。そして多くの人びとの称賛の的(まと)となってよいのである。なぜその目的の高貴さを競おうとせんのか。なぜその精神の高邁(こうまい)さを競おうとせんのか。なぜ利潤の額だけを競おうとするのか。こうしたことの中に、我は大いなる不満を感ずるものである。
会社というものの中において、人びとはその生涯の大半を送ってゆくのである。ならばこそ、その会社の活動方針において、文化の香りを高く掲げよ。そうでなければ、人間に本当の帰属意識というものは生まれない。より高次なるものに奉仕するのが魂の目的であるのだ。これを知らねばならんと思う。
こうした企業人の話をしてきたけれども、企業人以外の世界においても、人びとはさまざまな生活の営みをしておるであろう。それは、商売人が然りであり、また農業をする人が然り、漁業をする人が然りであろうと思う。彼らにも言おう。彼らの活動そのものが、文化を担うということは少ないかもしれぬ。しかし、そうした基本的なる産業に携(たずさ)わっている人たちは、その余力(よりょく)でもって文化交流のために尽くさねばならん。そうした使命があるということを知れ。
基本的な仕事というのはある。それらもまた、多くの人びとのためになることである。農業をする人がいなくなればどうなるか。漁業をする人がいなくなればどうなるか。また、建設工事をする人がいなくなればどうなるであろうか。こうしたことは、ごくごく基本的なる仕事である。そうした基礎的なる仕事も大切にせよ。しかしながら、それだけでもって満足はするな。汝らは余力をもって、日本の国の文化を高めるために活躍せよ。余力をもって、人びとを啓発せよ。そして、余力をもって人びとを啓発する前に、自らを啓発せよ。自らを啓発して、ますます磨いてゆけ。
諸君らの職業が高貴なるものでないからといって、それでなぜ諸君の、諸君らの人格が低卑なるものだといわれてよいのであろうか。そうであってはならん。職業において高い価値を与えられていなければいないほど、心において高貴なれ。心において高邁(こうまい)なれ。心において崇高なれ。そうした精神が必要である。諸君らも文化の担い手として、旗手として、何らかの大きな貢献をしようとせよ。そうした大いなる自覚こそが、新たな道を開いてゆくのである。こうした自覚を決して忘れてはならない。
5.歴史
さて、政治ということ、文化ということ、これらを語ってきた。そこで私は、さらに歴史ということに関して話をしてみたいと思う。それぞれの民族には、それぞれの歴史がある。その歴史のなかには、魂の故郷(ふるさと)があるのである。諸君らはこの魂の故郷を大切にせねばならん。
歴史のなかには、過去この国に生きた人びとの、さまざまな喜びや悲しみ、幸せや苦しみ、そうしたものが流れておるのである。そして、彼らの苦闘の歴史がそのなかに刻まれておるのである。彼らの努力の跡を思え。自らが自らの当然の生活をしておることを当り前と思ってはならん。諸君が通勤電車に乗れるのは、これは当り前であるのか。諸君がマンション住まいができることが、当り前であるのか。諸君が飛行機に乗れることが、これが当り前であるのか。諸君が新幹線に乗れることが、当り前であるのか。諸君が船に乗れることが、これが当り前であるのか。諸君らは常づね、与えられているものの大切さを考えてみねばならん。
諸君らは何の気なく服を着、何の気なくズボンをはき、何の気なくスカートをはいておるであろう。諸君らのうち、ただ一人でも、それらのものを自分だけの力でもって作れる者がいるか。自分だけで背広を作れる者がいるか。自分だけでズボンを作ることができる人がいるか。自分だけでベルトを作ることができる人がいるか。自分だけで靴を作ることができる人がいるか。自分の力だけで、自動車を作ることができる人がいるか。
こうして考えてみると、現在諸君らが恩恵をこうむっておる文化的な遺産、この諸君らの幸せを保障しているものは、すべて諸君らの先人たちの努力の賜物とはいえないであろうか。諸君らはそれらに対して、いくら感謝してもしてもし尽くすことがないのではないのか。
諸君は、日本人が、全国が統一されて平和に暮らしておるのをもって、当然としておるかもしれぬが、ほんの百年前には日本統一のための戦争があったのである。諸君はそのことを知っておるか。日本を統一するために、幾多の血が流れたことを知っておるか。優れた人たちが、骨と化していったことを知っておるであろうか。そして、日本が統一される、その何百年か前には、それぞれの藩が確立するために覇を競っておったことを諸君らは知っておるか。そのために幾多の血が流れたことを知っておるか。諸君らは、過去の人びとの流した、血と涙と汗を、当然のことと思ってはならん。彼らはみな、この地上をユートピアにするために努力してきたのである。そして、自らがユートピアを手に入れることなく、この地上を去って行った人たちなのである。諸君たちの現在の幸せは、そうした多くの先輩たちの努力の賜物なのである。諸君らは一日に一回、そうした人類の歴史というものを思え。また、日本の歴史というものを思え。そして、どれだけ多くのことを、諸君らは先人たちに負っているかということを思え。
自分の一日をふり返る人は多いであろう。そして、自分の思いと行ないを反省している人はいるであろう。しかしながら、諸君らが当然と思って享受しているこの権利が、本当に当然なものであるかどうかということを、もう一度諸君は検討しようと思ったことがあるか。諸君らがロビンソン・クルーソーのように、離れ小島に一人生まれたとして、現在のような境遇を味わうことができたであろうか。それをもう一度考えてみられたい。
どれだけ多くの、何万、何十万、何百万、何億、何十億、そうした数の人たちが、現在の諸君を創るために努力して来たかということを、諸君らは深く深く考えてみなければならんと私は思う。
それは、諸君らが享受している便益ということにおいてもそうであるけれども、諸君らの肉体ということにおいてもそうだ。諸君らが地上に出るためには、必ず両親というものがいたのである。その両親にも両親がいたのである。その両親にもまた両親がいたのである。さすれば、諸君らの肉体というものは、何千年、何万年、何十万年、何百万年と、たどってもたどっても元があったのである。その中の、その子孫の、あるいは先祖の枝の中において、どの一本が欠けておったとしても、どの枝の一本が欠けておって、片親がどれか欠けておったとしても、諸君らの現在の存在はないのである。
たとえば今、タイムマシンにでも乗って一万年前の世界に還ったとしよう。そして、諸君らの肉体先祖がそこにいたとしよう。そのご両親が、その夫婦が結婚しなければ諸君の現在はないのである。その片方が死んでしまっていれば、諸君はなかったのである。さすれば、諸君の肉体の中には、諸君の血液の中には、そうした過去、何万、何十万、何百万という人びとの、連綿とした、そうした努力の歴史があったということを知れ。今から五千年前の人も、一万年前の人も、肉体生命を維持するために努力をしてきたのである。その日の糧を得るために努力をし、そして、心の安らぎを求めてきたのである。そして彼らの生命活動の営みのおかげで、諸君らの現在の肉体があるのである。こうした先祖たちの努力によって、現在自分が生かされておるということを知れ。感謝せねばならん。深い感謝をせねばならん。
諸君らは、魂だけがすべてであって、肉体はすべてではないというふうに考えるかもしれぬ。あるいは肉体のみがすべてであると考えるかもしれん。まあ、どちらの考えも偏ったものであると思う。魂は魂として、永年の転生輪廻をくり返しておるけれども、この肉体舟というものも、決して粗末にしてよいものでもないのである。それは、その中には、無限の人間の歴史が刻まれておるからである。諸君はこうした神秘を考えたことがあるであろうか。
それは、魚類が一時的に産卵と称して、何万もの卵を産むこととは違っているのである。魚類が何万も、あるいは何億もの卵を産卵し、偶然にそのうちのいくらかが育っていくのとは違うのである。人間が育つには二十年の時間がかかっておるのである。諸君の両親も、そのまた両親も、その両親も、その二十年という長い月日をかけて、子供たちを育ててきたのである。それだけ手塩に掛けてつくってきたのである。そうした家族の流れ、歴史というのがあったのである。そうしたことに関して無限の感謝が必要ではないであろうか。
諸君は現在ある文化が当然と思ってはいけないと同様に、現在ある肉体も当然と思ってはいけない。その肉体があるためには、一万年前の、十万年前の、百万年前の諸君の先祖たちの営みがあったということを知らねばならん。努力があったということを知らねばならん。そういう歴史があったのである。そうしたことを、深く深くふり返らねばならん。それは人間としての義務であり、人生の原点でもあるのだ。
この日本にいる一億二千万人の人口のなかで、だれが一体そうしたことを毎日考えているであろうか。当然のごとく朝起き、当然のごとく一日を過ぎ、当然のごとく就寝しておる。これが毎日毎日ではないであろうか。その文化的遺産が当然かどうか、その肉体的生命が当然かどうか、これをもっともっと、深く深く深く、考えてみねばいかんのではないか。こうしたことについて私は今、諸君らの注意を深く喚起しておきたいと思うのである。
6.天照大御神
さて、本章を閉じるにあたって、天照大御神ということに関して話をしておきたいと思う。日本では昔から、天照大御神が主宰神であり、日本の中心神であるようにいわれてきたと思う。他の民族の神話を手繰(たぐ)ってみても、歴史を見てみても、女性がその中心であったということはひじょうに珍しい場合であろうと思う。しかし、天照大御神という人間、あるいは女性といってもよい、こうした霊格を持った高級神霊といってもよい、そういう方の存在が、今から二千数百年前にあったのであるけれども、その威光が現在まで続いてきておるということを、日本人はひとつの誇りとせねばならん。そして、日本の女性はまた、それを誇りと思わねばならんと思う。
なぜ女性の存在が精神的支柱になりえたのかということを、私は語っておきたいと思う。それは、日本という国の特色に、ひじょうに関係があるからである。
人類をいくつかの民族としてとらえてみるならば、男性的なる民族と、女性的なる民族というのがあるのである。男性的なる民族というものは外交を主とし、そして、さまざまなる画期的な試み、前進ということをもってよしとしている。しかし女性的なる民族というものがある。それは、和というものを大切にする精神である。調和ということだ。すべてを暖かく包み込む優しさ、これが女性的なるものの特徴である。
天照大御神という高級神霊が、この日本神道のなかにおいて中心的神霊の一往として据えられた本当の理由は、この日本の国というものを、麗しい調和のとれた、和のある国とせんがために選ばれたのである。この国の国民(くにたみ)は過去、本当は争いというものを好まなかったのである。「和をもって尊しとせよ」という聖徳太子の言葉は、この天照大御神のお心そのものであるのである。
そのためには神への信仰ということが、何にもまして大切であったということも知らねばならん。神という存在を考えなければ、人間は我(われ)が我(われ)がという気持になるのである。自分が偉い偉いと思う気持ちの根本には、神の不在があるのである。神がいない国であるからこそ、神を信じない人間であるからこそ、優劣を競いどちらが優れておる、どちらが偉いということでもって争いが起きるのである。大いなる神への帰依ということを根本に信じておるならば、そうした人間心の争いがいかほどつまらないものであるかということが、身にしみてわかるのである。
すなわち、天照大御神というものは包み込む大いなる海のごとき心の、精神の象徴であるということだ。また、美しさの象徴でもあるということだ。美の究極にあるものは何であるか。それは調和ではないだろうか。美の究極にあるものは何か。それは均整ではないだろうか。調和と均整、釣り合いがとれた美しさ、こうしたものを人びとは感ずるのではないであろうか。然り、そのとおりである。
さすれば諸君は、人生の途上において、自らの心の帰依するものを持たねばならん。諸君らの心は何に対して帰依するのか、何に対して敬虔(けいけん)なる心を持つのか。何に対して畏(おそ)れを持つのか。何に対して畏怖を感ずるのか。人間は畏れということ、神仏に対する畏敬の念ということを忘れた時から転落が始まってきたのである。自分が自分がという方向に動き、それぞれが一票の値打ちを持つ自我人間になった時に、人間の転落は最後の段階まで来ているといってよい。そんなものであってはいけない。
諸君よ。地上の人間たちよ。畏れということを知りなさい。大いなるものの前に平伏(ひれふ)すという気持ちを知りなさい。それを知るということが、大いなる第一歩であるのだ。諸君らはいくら謙虚にしても謙虚にしても、まだまだ謙虚さは足りない。本当の意味で、偉大なる神霊と、地上に肉を持つ人間との距離はわかっていないのである。そして、神を引きずり降ろし、神を人間以下のものにまで引きずり降ろしておるのが、諸君らの現代の科学であり、諸君らの現代の思想ではないのか。そしてあまつさえ、「神は人間の想像の産物である」などと言っておる。あるいは、「神は死んだ」と言う哲学者がいる。こうした馬鹿なことを言い、人間は自らが主体者であるとうぬぼれて、増上慢になったこうした思いを起こした時に、地上の地獄が始まったのである。
諸君よ、私は繰(く)り返し繰(く)り返し諸君に言っておく。大いなるものへの畏(おそ)れ、畏(かしこ)みということを忘れるな。大いなるものへの帰依ということを忘れるな。それが謙遜になるということであり、慎しく生きるということでもあるのだ。諸君らの人生は、ほんのささやかなものであるということを知れ。傲慢(ごうまん)になってはいけない。大いなるものへの畏れと、謙譲の美徳を持て。無限の力を持っているものに対して、有限の力を持っておるものの卑小さを知れ。それを知った時に、初めて自我の思いが消えてゆくのだ。そして、ひとつひとつの水の粒子のごとく、大いなる川の水を創るために協力し合って流れてゆくことができるのだ。水の粒子ひとつひとつが、自分の個性を主張し合っておっては、水というものも、川というものも成り立ってゆかんであろう。大いなる川という流れの中に帰依することによって、水の粒子は豊かに幸せに流れていっておるのである。決して水の粒子ひとつが、浮き上がって飛び回ることをもってよしとはせんのである。
諸君よ、大いなるものに帰依せよ。そして、神の自己実現としての、川の流れの中にある自分というものの美しさを知れ。他を害さず、そしてどこまでも自らを伸ばしてゆく努力こそが、だいじなのであるということを知りなさい。
私は再度、再度言おう。諸君よ、心の中に神を持て。そしてその内なる神というものは、結局のところ優しく、美しく、調和のとれた神であるということを、そして、それは伝統的に我が国において崇拝の的でもあった、天照大御神に対する信仰でもあるということを知りなさい。神を失った時に、神を見失った時に、諸君らの堕落があったということを知れ。謙虚さの美徳は、大いなる畏れを感じるということだ。自分を超えたるものの存在を知るということだ。超越した存在を知るということだ。この畏(おそ)れ、畏(かしこ)みということを忘れるな。この畏怖(いふ)ということを忘れるな。これもまた、諸君らの大いなる魂の糧となるであろう。
神々は、高天原(たかまがはら)に確かに集(つど)いたもうのである。高天原という言葉はもう古いかもしれぬが、高級霊界においては、日本では日本の神々、高級神霊たちが集っておるのである。そして彼らは、この日本の国というものをどのようにすばらしい国にするかということのために、日夜心血を注いでおるのである。その努力を想う時に、おまえたちは傲慢になってはならん。不遜になってはならん。常に精神統一をして、神の心を伺(うかが)うような謙虚な自分であれ。神の心に適(かな)ったような自己実現をしてゆく自分であれ。そうした思いを忘れてはならん。この日本の国に神々が集いて、諸君らを幸せにするために、常に神評定(かみひょうじょう)をしているということを忘れてはならん。そして、大いなる帰依を忘れてはならん。心に天照大御神をいつも抱き、そして、健全なる精神でもって生きてゆけ。その時に、限りなく美しく、限りなく輝いている諸君らの未来が開けてくるであろう。以上である。