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Last update 2008年01月13日

Wonderland in Alice 著者:Clown


 「おわり」と「はじまり」は、いつもいっしょにやってくる。
 だから、これも、つぎのための「はじまり」なんだ。


「私たち、右手と左手のようになれないかなぁ?」
「ん?」

 何となく言葉の意味を掴み損ねて、僕は気のない返事をしてしまった。すると、彼女は案の定少し膨れた顔をしてもう一度繰り返す。

「だから、私たち、右手と左手のようになれないかなって」
「どういう事?」

 繰り返されてもやはり意味を理解できない僕は、どうやら相当に鈍感らしい。彼女はため息一つ付くと、僕の方に右手の人差し指を突き出して、「いい?」と大袈裟に眉をしかめて言った。

「例えば、私が右手で、君が左手だったとして……ほら、ちゃんと想像して!」
「う、うん……」

 無理矢理僕の手を掴んで、右手に「私」、左手に「君」と指で文字を書く彼女。掌をなぞる指の感覚が、何となくくすぐったくて、でも何故か心地良い。
 彼女は書き終えると、掴んだ僕の手を、掌同士が向かい合うように持っていく。

「そうしたら、ほら!」

 そして、その手を重ね合わせた。

「いつも、こうやって一緒にいられるでしょ? 『アリス』と君が」

 そう言って、彼女は屈託泣く笑った。
 ようやく意味を理解した僕は、彼女につられて笑った。
 笑った。
 涙が出そうになるのを、じっとこらえながら、笑った。


 ──Alice inferno syndrome

 「アリス地獄症候群」などと言う何とも奇怪な名前の病気が世間で騒がれ始めたのは、第二次高度経済成長とも呼ばれた時代を過ぎてすぐの事だ。
 女性、しかも思春期を過ぎて成人になるまでと言う非常に限定された年齢の女性にのみ発症し、なおかつ成人を過ぎてから急激に身体機能が衰え、わずか数ヶ月で死に至るという奇病にして難病。
 症状は主に精神症状、半ば統合失調症にも近い症状を呈する。いわゆる妄想、妄言などが目立ち、酷い場合は性格が破綻・荒廃し、まともな精神活動が行えなくなる。
 そして、人格が荒廃した女性は、その終末期に自分のことをこう呼称するという。

 ──アリス。

 現在も全世界で一万人以上が発症していると見られているが、人種・国籍に限らず、全ての発症者が同じ顛末を辿る──つまり、自分をアリスと呼称する。
 アリスと言えば「不思議の国のアリス」を誰もが想像するだろう。だが、生前彼女たちがこの物語を読んでいたかどうかは、発症に全く影響していないようだった。
 それぞれ文明も違う地域で、それぞれの文化的生活レベルもバラバラの彼女たちに共通する物は、何一つない。
 事態を重く見た世界中の医師は連帯し、症候群を呈した被験者に対し、考えられ得る全ての医学的検査を行った。
 結果、人類はその奇病に対して絶望的な結論を知る。
 すなわち、原因不明。
 医学的に見て、患者の身体的ステータスは至って正常。臓器の異常も認められない。ただ精神だけが、人間が未だ解明できていないブラックボックスだけが、急激に異常を来す。ある日突然、彼女たちは「不思議の国の住人」になってしまうのだ。
 それは正しく人類にとって「地獄」であった。
 友人が、家族が、愛する人が、緩やかに「他人になりながら死んでいく」。
 発症した人物から、命だけではなく、その人物としての死さえも奪い取る病。
 皆、「アリス」と言う別の人間になって、この世界から居なくなってしまうのだ。

 ──僕の、姉さんも。


 僕は、姉さんを愛していた。

「ねぇ、お花のサークレットを作りましょう! こんなに綺麗なお花があるんだもの、きっと素敵なサークレットが作れるわ!」

 小さい頃から憧れていた、姉さん。
 なんでも出来て、力強くて、でもとても美しくて。僕にはこの、僕と二つしか年の離れていない姉が、もっとずっと大人びて見えていた。
 いや、もしかしたらそれは、必要に迫られて身につけたたくましさだったのかも知れない。
 僕達の家庭環境遍歴は、お世辞にも良いとは言えなかった。
 父は僕たちが小さい頃に職場を解雇されて以来、酒に溺れて自分をなくす日々が続いた。暴力こそ振るわなかったが、酒を飲んでは泣いて母や僕たちにくだを巻き、夜中に急に叫び起きては寝付くまで酒を浴びた。
 そしてついには、川に飛び込み、本当に自分自身を失った。
 母はそんな生活を支えるために無理をして働いていた。どれほど働いても、父が酒につぎ込んでしまうために、生活は一向に苦しさから解放されなかった。父が亡くなると、途端に生活は楽になり始めたが、その頃にはもう、母の体は錆び付いた機械のようになってしまっていた。後は、朽ちるに任せて静かに佇むのみ。
 結局、僕が十三歳を終える頃には、僕らはたった二人だけの家族になってしまっていた。
 遠くに離れ住む叔父は気を遣って僕らを引き取ろうとしてくれたが、姉はその提案を丁重に断った。

「私たちは、大丈夫です。それに……ここを愛してるんです」

 子供二人で暮らしていけるほど、社会は甘くない。
 そんな叔父の言葉を押し切ってまで、姉は移住を頑なに拒んだ。
 当時の僕には何故そこまでこの土地に執着するのか疑問だったが、今の僕には理解できる。
 ここは、綺麗だ。
 叔父の住む都会は年中空が霞み、大地は黒い泥で固められていて、草一本生えることを許されない土地だった。人工物が森を成し、動物の住処は追いやられ、空を分割する線は鳥が自由に飛ぶことすらも妨げる。
 ここには、その一切がない。
 青々とした草原があり、鬱蒼とした森があり、どこまでも高い空がある。
 それがこの時代、どれほど貴重であるかを、僕はこの三年で知った。
 姉は、僕よりもずっと前にそのことを知っていたのだろう。
 僕たちは、ここで暮らし続けた。
 確かに子供二人でやっていくには辛く苦しかった。どこも僕のような子供を雇ってくれるところはなく、姉が一人給仕場の仕事をして日銭とその日の夕飯を稼いでくれていた。
 叔父からの仕送りもあり、僕も姉も何とか学校を出ることだけは出来た。僕が学校を卒業すると働き口も見つかり始め、生活は少し楽になった。
 何より、姉と一緒に過ごせる時間が増えたのが、嬉しかった。

「何とかやっていけるものね、二人だけでも」

 姉は、そう言って笑っていた。
 決して裕福ではないけれども。その日の飢えをしのぐのが精一杯の生活ではあったけれども。
 僕たちは確かに、幸せだった。
 そして、その幸せを、僕はそれ以上求めてはいけなかったんだ。

 僕は、姉さんを愛していた。
 心から、愛していたんだ。


「……後悔してる?」
「……ううん、全然」
「ふふ……そう? 身内が初めてなんて、あんまり体裁良くないでしょ?」
「……本気だから」
「そう? なら……姉さんも嬉しいわ」

 目を細めて笑う、姉さんの顔。
 シーツを掴む姉さんの手を、両手でぎゅっと握る。
 給仕の仕事で荒れてぼろぼろになった手は、それでもなお心地良く、温かい。

「ごめんね、手、気持ち悪いでしょ?」
「……ううん。姉さんの手、暖かくて、気持ちいいんだ」
「……気に入った?」
「うん……とても」

 僕の頭が、姉さんの胸に抱かれる。
 柔らかい肌。
 遠い日、母親の胸に抱かれたときとは違う、やわらかな感触。

「……ねぇ」
「ん……?」
「もう一回……しても良い?」
「……いいわよ」

 僕は、ずっと求めていた。
 この肌を、この温もりを、僕はずっと求め続けていたんだ。
 そして、僕は手に入れた。この肌を。この温もりを。姉さんの全てを。

「抱いて……『私』を」

 そして僕は、『姉さん』を失った。


 姉さんは、僕の子供を身籠もった。
 それと同時に、姉さんは少しずつ『姉さん』ではなくなっていった。
 最初に気づいた変化は、姉さんが自分のことを『姉さん』と呼ばなくなった事だ。
 いつの間にか、姉さんは自分のことを『私』と呼ぶようになった。だけど、僕はそれを心境の変化という一言で片付けてしまった。
 それこそが、発症の初期段階だと言うことにも気づかずに。
 そのうち、姉さんは食事の合間にぼーっとしたり、仕事の時間を忘れそうになったりするようになった。酷いときは朝も起きれず、しばらくは何とか誤魔化せていたが、ついに給仕の職を解雇されてしまった。
 いずれにせよ、身重になってきた姉さんにとっては給仕の仕事は辛いものがあったが、家の財源は僕の稼ぎと叔父の仕送りだけになってしまい、生活はまた苦しくなった。
 最初の方こそ姉さんはその責任を強く感じ、酷く落ち込んでいたが、症状が進むにつれて、そのことすらも忘れていった。記憶の欠落は積極的に歓迎すべき事ではなかったが、そのことに限って言えば僕に安堵をもたらすにたる。
 しかし、その安堵も、長続きはしなかった。
 健忘が小康状態になると、今度は少しずつ退行と妄想が出現し始めた。

「ねぇ、私のお茶、とって?」
「……え?」

 姉さんは、何もない机の上を指さして、そう言う。そこにはティーカップはおろか、ポットも、ティーバッグすらもない。
 僕が怪訝な顔をすると、姉さんは拗ねた顔でそっぽを向いた。
 姉さんには、机の上にあるお茶が確かに見えていて、それを取ってくれない僕は、いじわるをする人なのだ。
 僕は、絶望した。
 最早、ここにいるのは姉さんではなく、姉さんの形をした誰か。
 その現実が、鎌首をもたげて僕にまとわりついた。

 そして、季節は巡り、姉さんの症状は徐々に進行し──お腹の子供は、臨月を迎えようとしていた。
 姉さんは自分を『アリス』と呼称し始め、僕のことを『君』と呼ぶようになった。
 人格の破綻こそ免れてはいるものの、姉さんであった頃の面影は、もうほとんど見られない。
 ただ、お腹の子供のことだけは母性が覚えているらしく、何よりも大事に扱っていた。
 だけど、それももう終わる。
 陣痛が始まり、姉さんの病状はそれに伴って悪化した。意味不明な言葉を口走るようになり、手近な物を捕まえては投げつけるようになった。

「何で誰も助けてくれないの!? アリスはここにいるのに!!」
「誰か私の時計を進めて!! 早くしないと遅れちゃうわ!!」
「そこにいるのは誰!? 早くアリスを自由にして!!」

 支離滅裂な言葉は、決まって陣痛の直前に投げつけられる。
 僕はその度に姉さんを押さえつけ、陣痛が終わって症状が落ち着くまで姉さんのそばから離れないようにしていた。
 僕たちの住む街には産婦人科医はおらず、かといって助産婦を雇うお金も、僕たちにはない。
 僕が一人で、すべてを行うしかなかった。
 次第に間隔を狭める陣痛は、姉さんから最後の一欠片の精神まで削り取っていく。まるで荒れ狂う獣のように、姉さんは喉が裂けそうなほどの咆吼を撒き散らした。
 耳を塞いで逃げてしまいたい衝動に駆られながら、僕は必至で姉さんの汗を拭き、つたない記憶を辿りながら出産の準備を進めた。
 もう、時間の感覚も分からないけれど、暗かった空が次第に白み始めているのは理解できた。かなりの時間が経ったはずだが、赤ちゃんが生まれる気配は一向にない。ただ、姉さんが陣痛の度に発狂するだけで、それも少しずつ弱くなっている気がする。
 体力が、限界に近いのだ。
 僕は姉さんのお腹を押さえつけるなど、あらゆる手を使って赤ちゃんを押し出そうとした。でも、全く何の役にも立っていない。
 もう、駄目かも知れない。
 そんな考えが頭をよぎったとき、姉さんが呟いた。

「助けて……お願い、アリスを助けて……」

 弱々しい声で。
 姉さんは、いや、アリスになった目の前の彼女は、助けを請うた。張り裂けそうな痛みに耐え、ここまで保ったのが不思議だったのだ。彼女は姉さんではなく、出産の心構えなど出来ているはずもないのだから。
 だから、もう終わりにしよう。
 お腹の中の子供には可哀想だけれど、自力で出てこられない以上、後はお腹を裂いて取り上げてやるしかない。だけど、僕には姉さんの体を傷つける勇気はない。
 このまま、静かに看取ってあげるしか……。
 そう思った、次の瞬間。

「お願い……アリスを『助けてあげて』ッ!!」

 突然、彼女は叫んで僕に抱きついた。
 僕は驚いて彼女をふりほどこうとしたが、その言葉の違和感にはっとして彼女を見た。
 視線が交差する。
 彼女は、僕の顔を見上げながら、潤んだ瞳で呟いた。

「お願いよ……私の……私のアリスを助けて……」
「ねえ……さん……?」

 僕の言葉に、彼女はこくんと頷いて、自分のお腹をさすった。
 まさか。
 そんな、まさか。
 僕は脳裏に浮かんだ仮説を受け入れられず、頭を振った。しかし、彼女は……僕の愛した姉さんは、それを拒否することを許さなかった。

「……姉さんの……最後のお願い……」

 その時、僕は泣いていたんだと思う。
 あんなにはっきりしていたはずの姉さんの顔が、ぼやけて見えなくなってしまっていた。
 僕は覚束ない足取りで台所へ向かい、料理用のナイフを取り出すと、姉さんのもとへと戻った。
 そして、まるで小さい子供のような無邪気な笑顔を僕に向ける、最愛の姉さんに最後の口づけをすると、
 そのナイフで、
 姉さんのお腹を、
 切り裂いた。


「……ぅ……ぐ……うぅ……」
「アー……アャ……アー……」

 血に塗れた赤ん坊を、僕は抱いている。
 今まで姉さんを苦しめ続けてきた悪魔を、僕は抱いている。

 姉さんが命を賭して守って欲しいと嘆願した『アリス』を、僕は抱いている。

 僕は、まだ温かい姉さんの、切り開かれたお腹を、撫でた。
 笑顔のまま、永遠に笑顔のままの姉さんに、僕は精一杯の笑顔を返した。



「不思議の国は、ずうっと、ここにあったんだね」




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