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Last update 2008年03月15日

リスニング・ネーム  著者:ヨーノ


     リスニング・ネーム


 出逢い系サイトのサクラとして働き出した頃、まだ良心の呵責が幻聴となって胸をチクリと刺していた。今となってはそれはもう聞こえない。
 男性向け出逢い系サイトで働くサクラの性別は、もちろん男である。女の場合、サクラとして働くよりも、アダルト業界であれば他に収入の良い仕事がごろごろしている。わざわざいくつも携帯電話を使用する煩瑣なサクラの仕事をすることもない。
 女性向け出逢い系サイトで働くサクラの性別は、こちらも男である。こちらのサクラが美味しいのは、雇い主から収入を得ながら女とつきあえることだ。おまけに客をつまみ食いしても文句を言われない。厨房シェフと同じ特権を与えられていながらも、いくらつまみ食いしてもいいから会員契約期間を引き延ばすよう指示されるばかりだ。
 無料の出逢い系サイトがメールアドレスの収集であるのと違って、有料の出逢い系サイトは月々いくらの契約料金が発生する。いかに契約を更新させ、長く契約料金を払わせるかが重要である。
 女であれば、女であるということだけで男は寄ってくる。なにも有料のアダルトサイトを利用せずとも自分の身体を資本にセックスフレンドを捕まえられるのに、それでも金を払って登録してくる女というのは、なにかと影があり、依存の泥沼に片足が浸かってしまっているのがほとんどだ。男が女子学生の体を買い、女子学生が男に体を売り、そうして夜が濡れ賑わう昨今で、女がわざわざ金を払って股を開くなんて変な話があったもんだ。あまつさえ、サクラとしてこちらは待っていれば良いだけなのだから、世も末である。
 とはいえ、ホストクラブにでも行ってあの何百万もするシャンパンタワーを作って遊ぶこともできるだろうセレブな女が大方の客層だ。小銭を池に投げ入れて遊ぶような感覚に違いない。女だ、金だ、餌に脊髄反射な男を内心で見下しながら言葉遊びをしているだけに過ぎないのだろう。
「今、話せるかしら?」
 勿論、あなたはお金を払って俺と話す権利を得たお客様だ。なにを遠慮をすることがあるのか。夜中の二時を過ぎ、彼女はやっと残業を終えたのだ。くたくたな彼女はこれっぽっちの愚痴もこぼさず、「ねぇ、なにか話をして」と耳を澄ませた。俺は、他の女にもそうだが、小話を聞かせてやる。なんとも救いのない悲哀の物語を少々――。俺の場合、契約更新を取り付ける武器はそれだった。非生産的な友人的なメールを取り交わしていては契約更新にはありつけない。話術には自信はなかったが、少々の小話を語ってやることはできた。サクラ仲間には積極的に女に接触し、体を武器に契約を更新する者もいた。卑猥な話術を得意とする者もいた。みなそれぞれに武器を持ち、その武器で突かれることに弱い女を選別し、回しあった。若い子や綺麗な女などはつまみ食いにつけ込んだ仲間達がぺろりと持って行ってしまい、俺のところに回ってくるのは肉体的な関係を求めていない、俺をていのいいメル友と勘違いしたような女ばかりだ。いつ終わるか判らない残業に追われて、恋愛にうつつを抜かす暇のなかった女が、わがままな仕事に振り回された後の着地地点に俺を選んだのだ。
 ある時から、彼女からのメールがぷっつりと途絶えた。いくら残業が長引こうとも、午前五時を過ぎてもメールを寄こさない日はなかった。次の日もメールはなかった。そうして一週間が過ぎた。契約は解約されていなかったが、メールは届かず、こちらからメールをしても返事はなかった。それっきりだ。俺の中で彼女は自殺したことになっている。
 出逢い系サイトに依存するのは寂しい人間とは誰が言ったものか。なるほど、日常の憂いから始まり、次第に退行するように思春期の心寂しさを語る。傷つきやすく繊細な少女時代を感傷的に語り、失語の時代であった幼児期を自傷的に語る。やがて赤ん坊に戻る。 いくらも聞いてきた自分語りの筋書きの上に立ち、俺は哀切な悲劇物語をうそぶく。悲劇の揺りかごに赤ん坊は安らいで眠る。吐息が柔らかな素肌に落ちる。


「明日は久しぶりに街に出てみようと思うんです。良かったらあたしと会ってやってくれませんか?」
 いつもどこかうっすらと乖離感がつきまとう、そういう子だった。言葉使いから察するに若い子なのだろうけれど、仲間達は敏感に感じ取って俺に回してきた子だ。相手は恥ずかしいからと、プロフィールを一切明かしていない。
「世間からずっと離れてしまったあたしなので、何を教えていいのか判りません」
「不思議なことを言うお嬢さんだ。本人を目の前にして呼び名がないと変なものです。宜しければお名前を教えてください」
「レネ。LN(Listening・Name)よ。素敵でしょう? 異国の女の子みたい」
 リスニングネーム。なるほど、彼女は俺がいつもこしらえる悲劇物語の一番の読者だ。 俺の悲劇物語なんて、ギリシャ三大悲劇詩人のそれに到底及びもしないのは言うまでもないことだ。純愛きどって、結局は三角関係からの私情のもつれな韓国ドラマと似ていなくもない。アイスキュロス、エウリピデス、ソポクレスの詩人達の悲劇舞台の俳優は、仮面を被った三人の俳優と決まっていたのだから、三角関係だってそう捨てたものじゃないらしいが。
 その悲劇につきものだったコロスと呼ばれた舞踊合唱隊、ドラマで言うなら脇役とBGMが、俺の小話に足りないのが口惜しいところか。出逢い系でサクラなんぞやっている自分をピエロと割り切ってみせれば、それくらいの演出があってもいい。悲劇と知って集まる聴衆には、大袈裟すぎるくらいの演出を見せてやればいいのだ。結果知ったる悲劇なんぞ、ピエロにゃ喜劇だ。
 とびきり値の張る展望レストランの席を予約し、その階下の一室の鍵をフロントで受け取る。一旦外に出て、レネとの待ち合わせの場所へと車を走らせた。
 待ち合わせの場所には約束の時間よりも先に着く、けれども遅刻していく。あらかじめどんな服装であるのかを聞いておく――黒っぽいコートに白いマフラー、頭には帽子を被っています――判りやすい服装だ。人待ち顔のそれを探す。夕方五時ともなるとどの色も黒っぽく思えるが、そこに白いマフラーが垂れるのは数少なく、帽子を被っている女性は一人しかいなかった。
 煙草に火を点け煙を吸い、時間を掛けて吐き出した。
 スタイルは悪くない。斜め掛けのショルダーバックのセンスは如何と思うが、それが体のラインをコートに刻んでいる。コートの裾からは、いやらしく細く白い脚が伸びている。だが如何せん、若い子だとは思っていたが、若すぎやしないか。
 メールが届いた。
「待ち合わせの場所で待っています。以前にお伝えした通りの服装ですけど、あたしは真っ白な髪をしているのですぐに判ると思います。あたしで良かったら声を掛けてください。人目が嫌なので、二分だけ待ちます」
 人混みの中でレネだと見当を付けていた子は、帽子を脱いだ。
 一瞬、我が目を疑った。レネだと思われる女の子の髪は、メールに書かれている通りに真っ白だった。
 首に巻いたマフラーに落ちる白髪に、通りを歩く人々も思わず振り返る。レネは俯いて人目に耐えている。縮こまっているものだから、なおのこと幼く見える。なんでこんな子がうちの出逢い系サイトなんか利用しているのだ。それになんだ、メールには『あたしで良かったら』とあった、『二分だけ待ちます』とも。出逢い系を利用した付き合いでは、待ち合わせの場所で俺のように隠れて、相手を性的な視線で値踏みして声を掛けるかどうか考えたりしているなんてことを、レネはとっくに知っていて、俺のは場合はそうだと臆断し、二分だけ待つと書いてきたわけか。
 俺は声を殺して笑ったね。ご明察。
 しかし惜しいかな、そう見透かされて、はい降参しましたとはにかんで姿を現すような男では、俺はない。そうすぐに白旗降って女の勘は鋭いなとアホ面をかく男は、一生女の尻に引かれていればいいのだ。
 俺はなおゆっくりと煙を吸って、吐いた。
 値踏みされていると知っての二分を、あの年頃の女の子がどんな思いで耐えているものか。人々が物珍しとレネの新雪のような髪をちらちらと覗く。こちらから視線を投げてやれば目を背けるくせして、レネが俯いていることを良いことに無遠慮な者もいる。ビル風がレネの髪を振り乱す。髪を抑えるもどかしさに、遂に耐えられなくなったのか、レネは白髪を隠すように帽子を被ると、背を丸めて走り去って行った。
 俺は雑踏を走り抜けるレネの後ろ姿を見送った。 
 気付けば煙草は根本まで燃えてしまっていた。


 レネの自分語りを、俺は聞いたことがない。
 携帯電話で受信した客からのメールは、その内容をほんの少しでも忘れてしまっては客離れを招きかねない。パソコンにデータを移し、客名をつけたフォルダごとに保存している。まるで不倫でもしているような慎重さだ。
 他の客達のフォルダにはおおよそ数百のメールが保存されているが、レネのフォルダは一桁多く、何千だった。
 だが読み返すのは、そう骨の折れる作業ではなかった。俺の勘は正しく、レネは一切自分のことを語っていなかった。だから一通のメールは薄っぺらく白紙に近い。ほとんどは俺の作り話への上っ面な感想だけだ。物語を自分の舌でねっとりと転がしたというような、逆にレネを知る手立てになるような感想文は一つもなかった。何千通ものレネの感想文に一度に目を通すと、ただ無機質に物語で誰々が死んだ、恋人達が別れ離れになったなどという悲劇さに、さすが悲劇だと興じているような、血の通わぬ殺伐しさが込み上げてくるばかりだ。
 どうしてレネは自分語りを忌避するのか。
 他の女達が青春時代を語り、少女時代を語り、失われた時への哀惜を叫び、少しずつ少しずつ体を若らえがえらせ、次第次第に服を脱ぎ落としながら悲劇の揺りかごに収まっていくというのに、レネは等身大のままで悲劇の揺りかごに行儀悪く座り込んで、ユサユサ揺さぶって、「ねぇねぇ、早く次の物語を聞かせて頂戴ね」と囁くのだ。
 非業の死を遂げる恋人達の屍が、数百、数千と散らばる荒廃した大地の上、歩けばしゃれこうべが足の下。火葬後の骨のようにすぐに砕けてぱらぱらと、靴の隙間から骨片が入り込み、指の間に絡みつく。生き方の違いだろうか、骨には柔らかいものもあれば、比較的固いものも中にはあって、ついつい足を取られて転びそうになる。手をついてしまい、手のひらで骨がぱらぱらと砕け、白い粉がついた。手を叩いて払い落とした。
 やがて行くと、骨山の中で、ユサユサ揺れる揺りかごが見えてきた。屍が取り囲む揺りかごは、ユサユサと、延々と続く心音のように揺れ続けている。
 近づいていく。傍に立つと、揺りかごの中で眠る赤ん坊が見えた。なんと平和な寝顔だろうか。両脇に手を差し入れ、抱え上げた。
 この子に名前を付けることにした。
 ――この子の名前は、レネだ。


 高校を卒業する間近になって、付き合っていた女が妊娠しているのだと告げた。下ろせと言う俺に、絶対に産むのだと食い下がった。あの女は逞しく、出産を手段として考えていた。高校を出てからの見通しもなく、斜に構えてばかりな俺へ、一人前の大人になってよと、それは語らずの愛情だった。子を想い、俺を想い、女は一人で分娩室に入り、そして死んだ。母体の腹を裂いて産まれてきた赤ん坊を、俺は一度だけ抱くことができた。だがその子もすぐに死んだ。赤ん坊は母親の側を選んだのだと、人々は罵った。俺もそう思うことにした。父親としてその子を抱けた時間は短かった。
 一晩の夢に、そんな過去を思い出した。
 粘度の高い水の中から起き上がるような気怠さが全身を捉えていた。ベッドサイドの携帯電話を取ると、メールが受信されていた。着信音には気付かなかった。
 レネからだった。
「長い夜ですね。今、誰かと一緒にいるんですか?」
 声を掛けなかった俺への皮肉か、フラれた自分への感傷か、どうにでも取れるセンテンスだ。受信したのは数分前だ。
 大人二人が戯れても余裕のある大きさのキングベッドに一人寝転がり、テーブルにはアルコール臭いグラス。せっかくの夜景展望も、カーテンを開け放って見えてくるのは、すでに頃合いを過ぎた底冷えの街並と、ホテル帰りの男女や風俗女を乗せたタクシーのテールライト。午前四時を少し過ぎていた。
「なぜメールを寄こす?」
「あたしは“お客”でしょう?」  
 街角を走り去るレネに、俺は一つのメールも送らなかった。レネが見透かす通り、俺はレネを性的に値踏みしているということの何よりも証拠だったはずだ。そしてレネは自分で二分を数え、自分の足で立ち去った。たった二分間ではあったけれど、その間に、レネという“女”は凛としてあったのではないのか。
「誰ともいない。一人だ」
「あなたが一人だなんて珍しいんじゃないの? 女の人にフラれたの? それともあなたが?」 
「俺がフラれたんだよ」
 待ち合わせの場所に行ったのだが、待ち人がいなかった。遅刻してしまったからね、愛想尽かして先に帰ってしまったのかもしれない。
 そう書き足そうかと思ったが、途中まで書いて消した。
「あなたを捨てるなんて罪な女ね」
「男なんて星の数ほどいるからね、たった一つの一番星や、気まぐれな流れ星を、いちいち待っていたりしない人なんだ」
「ロマンスの欠片もない人ね」
「まったくだ」
 しばらく間があった。このレネとのメールのやり取りは、脈絡なく突然途絶えてしまいそうなものに思えた。メールを一つ送れば、またメールが返ってくる。単調な反復、電子音が繰り返す。そしてやがて心電図は止んだ。
「どんな人だったの?」
「綺麗な髪をした女だった」
 続けてもう一通メールを送った。
「ハッとさせられるくらい真っ白な髪をしていた。色白な肌と相俟って、異国の子のようだった。髪を耳にかける仕草をすると、イヤリングが見えた。石はガーネットだろうか」
「そうよ」
 素っ気ないメールの後に、続けてもう一通届いた。
「あなた、そんなに近くにいたの?」
「隣に立っていた。煙草を吸っていたヤツがいただろう?」
 そう白状されて、レネはどんな顔をしたものか。
 俺は自嘲した。なにをぬけぬけと。
 熱いシャワーを浴びて、服を着替えた。またレネからメールが届いた。
「声だけでも掛けてくれれば良かったのに」
「俺には娘がいたんだ。もしも娘が生きていたならレネと同じくらいの年頃だ。レネの隣の立っていた時、レネが娘のように思えてきて、決して手を出せないと思った。声も掛けられそうになかったんだ。俺達の関係は終わりにしよう。レネのことは好きだけれど、もう付き合えない」
 卑怯だけれど、けじめはつけた。これで泥沼から這い出るにしろ、また別の男に依存するにしろ、それはレネの自由だ。
 しかし携帯がメールの着信を告げた。
「知っているわ。亡くなった娘さんの名前は、咲花でしょう?」
 目眩がした。なぜその名前を知っているんだ。
 確かに一度だけ抱き上げた子供の名前を、俺は咲花と名付けた。母親となったばかりの女の死を知って複雑な心境であったが、そう名付けた。俺の命名が親族に知り渡る前に咲花は死んだ。俺の子を産むことに反対していた人達が俺を罵った。咲花は死産扱いになり、戸籍にも記録されていない。
「なぜ知っている?」
「当たり前でしょ、あたしはレネだもの。勝手に娘さんと重ねないで」
 Listening・Name、俺はいつぞやの作り話の中で咲花という名前を使ったのか?
 作り話の断片が走馬燈のように頭を駆け抜ける。わからない。わからないけれども、レネが知っている以上、俺はどこかで咲花という名前を用いたのだろう。悲劇に飲み込まれる俳優には使っていないだろう、脇役の誰かの名前か。コロスと呼ばれた舞踊合唱隊のうちの誰かか。メロディが鳴った。メールの着信を知らせた。
「ところでレネちゃんだけど、実は待ち合わせの場所にトンボ返りしちゃっているのよ。もしかしたらあなたが来てくれるんじゃないかと淡い期待を抱きながら」
 もう一通すぐに届いた。
「夜空の一番星やら流れ星やら眺めてロマンチックなレネちゃんだけど、いい加減、体が冷え切ってしまって、今にも凍えそうなの。すぐにも迎えに来てあげて」 


 屍だらけの荒廃した大地に、風に乗って枯葉が舞い込んできた。
 風は東の方向から吹いてきた。
 俺は揺りかごに揺れるレネを抱き上げ、風の吹いてくる方角へと向かった。
 それにしたって、この屍の土地はいつになったら終わるのか。延々続く骨の海、しゃれこうべの禍々しさなど感傷だと割り切った後には、ただの単調さに嫌気が差してくるばかりだ。胸の中で眠るレネが目を覚まして、赤ん坊の気まぐれさで突然泣き出してみろ、俺がこいつを放り出さない保証はないね。
 やがて骨の海に枯葉が紛れ込むようになり、その量は次第次第に増え、そして枯葉がすっかり骨の海を覆う頃には、その大地には樹木が聳えるようになっていた。
 枯葉を運んだ風は、次に潮の香りを運んできた。その次には音楽の賑わいを伴い、人の声を運び、俺は引き潮に連れられるようにしてその方角に進んだ。
 そして小さな漁村を見つけた。子宝に恵まれた活気のある漁村だった。
 レネは子供達の声に目を覚ましていた。黒い髪が潮風になびいている。
 しかし子宝あらばこそ、漁村の民は俺とレネを異国民として絶対に寄せ付けなかった。せめてレネにだけでも食べる物をわけてくれと物乞いすれども、誰も取り合わなかった。
 陽が暮れて潮風も肌寒くなり、俺はレネを抱いたまま物陰に身を潜めた。村では大漁だったのか、大きな火を焚いてさんざ騒ぎしている。
 その賑わいから外れて、一人の少女が俺達のほうへとやって来た。
「可愛いお子さんですね。名前はなんて?」
 囁くような小さな声で話しかけてくる。胸には少しばかりの食料が抱かれていて、少女はそれを俺の方へと寄こした。
「レネという名前なんだ」
 少女の空いた胸にレネを渡してやると、少女はそっとレネを抱き留めた。
 少女は柔らかそうな果物を口に含み、丁寧に噛み砕いてから口移しでレネに食べさせてくれた。キスとは違って、少女は目を開けたままで、レネの表情をよく確かめて舌を動かしている。なんの恥じらいもない様子を見ると、この子は口移しをすることなど慣れてしまっているのだろう。
「もうお腹一杯みたいですね」
 唇を離した少女は、まだ口の中に残る果物の欠片を飲み込んだ。そしてレネの唇の回りを舌で整える。器用にことを終えると、レネの頭を撫でてやる。
「よかったら子守歌でも唄ってあげてくれないか。もう眠らせなくちゃいけない」
「あたし、子守唄なんて歌えませんよ」 
 先ほどのまでの様子からしてみれば、それは意外だった。
「じゃあ、なにか適当な物語でも聞かせてやってくれ」
「物語ですか」
「あぁ、なんでもいいんだ」
「なんだか恥ずかしいですね」
 少女はレネを抱いてふらふらと俺の傍から離れていき、こちらに背を向けて物語を聞かせているらしい。
 どんな物語なのだろうかと、少々興味があった。
 けれど耳を澄ませども、少女の声は潮風に飲まれて聞こえてはこなかった。
 少女の背中はゆらゆらと揺れて、いつぞやの揺りかごを連想させた。ゆらゆらと揺れるリズムは、心幅と呼吸の二つのリズムを股に掛け、ゆらゆら、ゆらゆら、少女の背は揺れた。
 俺は夢中になって見入っていた。
 まるで暗示を掛けられたような浮ついた微睡みの中で、気付けば、少しずつ、少しずつ、少女の背中がさらに小さく、背も縮んでいくように感じられた。気のせいだと思ったが、だがさらに少女の背中は小さくなっていく。ボロ切れを纏っただけの体は縮みゆき、すらりと伸びた脚は短くなっていく。次第次第に少女の体が若返っていくことに確信を持ったのは、少女の胸からレネが落ち転び、まだ立って歩いたりもできなかった幼子だったくせに、二本足で立って見せたからだ。
 宴の園からは音楽が漏れ聞こえてくる。少女は縮み、レネは成長する。成長と衰退が続き、遂に少女の背丈とレネの背丈が等しくなった。まるで姉妹のように見えた。二人は向き合うと、目を閉じてキスをした。
 この時になって、レネの髪が真っ白であることに、俺は気付いた。


 待ち合わせの場所に、レネは待っていた。
 レネの髪の白さは、まるで夜闇の影のように地面に落ちていた。路傍に座り込んで身を縮ませるレネは、俺が目の前に立つと顔を上げた。寒さに凍えて、一層白い地肌が浮かぶ。耳元のガーネットの石光りが冴え冴えとしていた。
 俺はレネの両脇に手を差し入れた。胸を触られるとでも思ったのか、そんな寄せても膨らまぬ胸になど興味はないさ、変に身構えるレネを無視して、そのまま赤ん坊を高い高いをしてあやすようにレネを抱き上げた。
 突然のことにレネは変に慌てて足をぶらぶらさせたりもしたが、やはりそれも無視することにした。
「ちょっと、何するんですか、下ろしてください」
 聞こえないふりをして、俺は言った。
「お嬢さんの、本当のお名前はなんていうんですか?」
「はぁ?」
「名前」
「レネよ」
「いや、本当の名前を教えてください」
 するとレネは急にしおらしくなって、なんだか顔まで赤らめて、そうして観念したかのように、小さな声で本名をぽつりと答えた。




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