Mystery Circle 作品置き場

なずな

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nightstalker

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Last update 2008年03月15日

波紋  著者:なずな



「お芝居が、うまいのね」

小さな嘘やごまかしに対して、母はいつもそういう風に言った。
それは 頂き物のお菓子をこっそり食べた事をとぼけてみせた時、
友達との喧嘩の傷を、ささいな事故と偽った時、
いじめられた事実を隠して何事も無かったようにした時などだった。

特に長い言い訳や作り話をしたとは思わない。
まして 演技のようなもので母を騙そうなんて思った事も無い。
ばれて叱られることなど、恐れてはいなかった。
むしろ小さい事ならば、その場で笑って指摘し、
深刻な場合はそれとなく気づいて見守って欲しかった。

何故、よその母親みたいに「嘘をつくな」と叱らないのか、
「お芝居がうまいのね」・・その言葉の中に 母のどんな感情が詰まっているのか 
子供時分の僕にはまったく解らないことだった。
母の表情やその言葉の響きには、僕に対する非難や叱責でない別のものが感じられたが
それが何かを考えるには 僕は幼すぎた。
長々と叱られずに済んだ事の方が、僕には大切だったのだ。

 *

僕の家族は母と僕で完結しており それを不自然に感じたことはなかった。
だから「あいつの父親、誰だか分からないんだって」などという中傷も、
僕の心を全く傷つけたりはしなかった。断じて誇張ではない。
詳しい事情は知らない。
「父親」は養育費だけきちんと振り込んでくれる存在で、それ以上でも以下でもない。
母は「その人」の名を決して僕に教えなかった。
名前なんて知ったところで「父親」が僕の中で具体的な形を持つとは思えなかったが。

男の振込む多額の「養育費」のおかげで、僕と母は生活に不自由したことはなかった。
母は習い事でも趣味でも僕のしたいようにさせてくれたし、ちょっとした成果も喜んでくれた。
僕らの母子関係はとても穏やかで心地良いものだと 僕は思っていた。
時々物足りないくらい優しい母・・感情の起伏の少ない物静かな人なのだ、僕は思っていた。

 *

大学では演劇のサークルに入りびたりで、単位取得が危ういことを告げた時も
本気で役者を目指すから中退する、と宣言した時も 母は慌てもせず反対もせず、
またあの台詞を口にした。
「そう。藤哉はお芝居が上手だものね」

僕はそのとき初めて、思ったのだ。
この人はずっと僕になんか興味が無かったのではないか、早く手が離れるのをただ待っていたのではないか、
その思いは打ち消そうとすればする程 染み広がっていくインクのように僕の心を塗りつぶしていく。
母もまた長い間上手な芝居で、僕を「愛して」きたのかもしれない・・
急に目の前の母が「知らない女」のように見え、見慣れた風景がすべて、書割の背景ように見えた。
母との様々な思い出が、よく出来た芝居の一場面一場面のようにフラッシュバックする。
自分の立っている場所が酷く不安定なものに感じられる。

僕は、僕を抱きしめてくれた時の母の表情を知らなかった。
膝枕でまどろんだ時の母の視線の行方を知らなかった。
そんな当たり前のことに 今気づく。

 *

二十歳のお祝いに 一緒にお芝居を観に行こう・・母が言い出した。
古典を得意とする劇団。看板俳優は、好感度の高い渋い演技派。
政治家の娘である夫人との夫婦仲の良さも よくマスコミに取り上げられていた。
芝居の評も人物についても、内容はこぞって好意的だった。
近々、ひとり娘が資産家と結婚するという。

僕が小さい頃 母が食い入るように見ていたドラマの主演。
それがまだ若かったこの役者だった事を、ふと思い出す。僕と同じ一字が彼の名前にもある。
知らない漢字が多い中、読める字があったことがただ嬉しくて、その役者に親近感も覚えたものだ。
「あ、このひとも名前に『藤』がついてるね」
傍にいたことに初めて気づいたような顔をして 母は僕を見、
「わぁ、ほんとだ・・そんな名前の人だったのね 母さん名前知らないで見てたわ」
母にしては大げさなリアクションをした後、何度もリモコンのスイッチを間違えながらTVを消した。
その後台所で食器をカシャカシャ音立てて洗い、グラスを一個割った。白い指に血が滲む。
その役者の名前は「梶原 藤一朗」といった。

 *

芝居は重い内容の悲劇作品で、梶原藤一朗は、波乱の人生を歩む孤独な皇帝の役だった。
裏切りの疑いを掛けられた親友も、悲運の恋人も皆、最後には哀れな死を遂げた。

母は僕の存在も忘れたかのように 舞台を見つめている。
ぐっと握り締めた右の手は、幕が下り明かりが点いても、そのままで、
上気した頬に涙の跡をつけた母は 劇場を出てもずっと無言だった。
劇場を出て間もなく、小さな川に架かった橋の上で母は急に立ち止まり
しばし川に向かって佇んだ後、右手をすうっと上げ、何かを投げようとした。
それは 舞台の間ずっと握っていた右手の中に握り込まれていた物。
手にすっぽり嵌る位の大きさの黒い小石だった。
「どうしたの?それ」
僕が聞くと 母はあの時と同じように僕の存在に初めて気がついたような顔をした。
よっぽどきつく握っていたのだろう、開いた手の平にくっきり 石の型がついている。
「ああ、これ?これね・・そう、賭けみたいなものだったのよ。
 あんまり下手なお芝居だったら 舞台に投げ込んでやろうかなんて・・
 ふふ、ちょっと思ってたの。」
そんな激しさのかけらも感じさせない人だったので 僕は唖然として母の顔を見る。
「やだ、藤くん、冗談よ。本当はね お守りみたいなもの。
 感動しずぎて取り乱したりしないための。」
どちらも何だか信じがたかったが、僕は酷く切迫したものを母の目に感じたものだ。
その日珍しく着物を着た母は僕から見てもとても綺麗で、凛とした、という表現が良く合った。
子供の時のように 母は二十歳になった僕のことを「藤くん」と呼んだ。

何と言えばいいのか解らないまま僕が黙っていると 母はすっと欄干に近づき、
小石を水面に向かって投げた。
小石は綺麗な放物線を描き、さして深くない川の真ん中につうと落ちる。
小さな波紋だけ残して 石は川の底に消えた。間もなく波紋が消え、静かな水面に戻る。

 *

僕が俳優の卵として少しずつ経験を積んでいるうちに 母は死んだ。
睡眠薬の多量の服用が解り、警察の世話にもなったが、結局事故ということで事は済んだ。
連絡を取るべき親類もなく、僕は母の知人や友人のひとりも知らなかった。
母が睡眠薬を常用していたのも その時初めて知った事。
やはり僕は 母のことを何一つ知らない。

家を片付けていたら、母が書いた手紙の束が洋服箪笥の引き出しの奥から出てきた。
宛て先は「梶原 藤一朗」。
切手を貼ったまま仕舞い込まれた手紙には、養育費のお礼と僕の成長がきちんとした文章で書かれており
必ず一枚 僕の写真が入っていた。
僕が梶原藤一朗と母の間にできた息子だということを その文面から想像することは簡単だった。
書き溜められた手紙・・送られなかった手紙。
成人するまで振り込まれていたというその養育費について記録したものはすでに処分されており
振り込んだ人についても 訊ねる人もいない。

母に聞きたいことがたくさんあるのに 母はいない。
そのことが 酷く悲しくて 僕は泣いた。
小石を握って舞台を見た日の母。あの時母さんは彼を憎んでいたの?、愛していたの?
涙の意味は 何だったの?
川に消えた小石、小さなはかない波紋。

梶原藤一朗の現在に、小さな波紋さえも起こせない 母の存在が切なかった。

 *

今更 彼が父親だと知ったからと言って、どうする気もない。
ただ、確かめたくて ここにいる。
梶原藤一朗の主催する劇団のオーディションに応募した。
書類を送った後、連絡してきたのは藤一朗自身。個人的に会いたい、という電話だった。

「君が・・月岡藤哉くんなんだね・・」
両手を差し出す梶原藤一朗の目に僕が映る。
目鼻の形、差し出された手の形・・声。きっと僕はこの人に似ている。

「君に言うのは酷な話かと思ったのですが・・」
梶原藤一朗を遠ざけるようにマネージャーが割って入ってきて話をし始めた。
藤一朗は、一瞬表情を曇らせたが何も言わず、僕にくるりと背を向けて、窓の外を眺めていた。
僕の母、月岡享子は昔からの藤一朗の熱心なファンで・・と、その話は始まった。
「・・妊娠してらしてね、梶原の子だと言い張るんですよ」
僕は藤一朗の背中から目が離せなかった。マネージャーの抑揚のない声。説明が続く。
「梶原には思い当たる節のないことだったんですが、月岡さん・・貴方のお母様ですね、
 かなり難しい方のようでね、心理的にもかなり参ってらしたし・・、
 訳ありの様子に梶原も同情しましてね。ええ、送金させて頂いていたのは
 確かにこちらなんですが・・」
寛大でファン思いの梶原氏。ただ迷惑なだけの哀れな女。
声が出ない程、打ちのめされた。これが真実だったとしても、嘘だったとしても。
こんな事を言われるためにのこのこ出てきたのかと、情けなさに身体が震えた。

愕然として、事務所を後にする。
カツカツと靴音が聞こえ振り返る。追ってきた梶原藤一朗が、僕を呼び止める。
息が荒い。
「お母さん、亡くなったそうだね・・残念だったね。」
僕の目を見据えてそう言った後、続けて彼は思いがけない事を言った。
「君が芝居をしているのを何度か見せてもらった。
 とてもいい芝居だった。僕は 君を推薦しようと思っている。」
それだけ言うとまた、僕に背を向けた。
肩が震えているように思えたのは、気のせいなんかじゃない。

 *

今後、余計なことを言わない事、イメージが被るので芸名に変えて欲しいなど
マネージャー氏から幾度か連絡があり、推薦に幾つかの注文をつけてきた。
普通にオーディションで審査して欲しいと僕の希望を告げ、本名のまま出たいと突っぱねた。
亡くなった母の名誉をこれ以上傷つけないで下さい・・僕はそれだけを条件にもう何も追求しないと約束した。
母の手紙の束はその日 燃やした。
高く高く上っていく細い煙を見上げ、僕は煙の先の空の青に小さな波紋が広がる幻影を見る。
心がキリキリ痛かった。

僕は 母を信じることにした。



 *   *

今日も 芝居の幕が上がる。

疎まれ遠ざけられた王の子は 刃を父王の喉元に突きつけその冷酷な仕打ちを詰るのだ。
王位の安泰のため打ち捨てられた母と子。
魂の真実はどこにあるのだ?
王よ、貴方の誠の愛は誰に向けられたのだ?
陰謀 葛藤、決裂、父王の慟哭。懺悔。狂気。
絶望的なラストシーンに向かって 悲劇は進む。

「まさに入神の演技だった」
明日もまた、梶原藤一朗の演技を新聞はそう絶賛するだろう。



オーディションの通知が届く。

大きな波紋を起こすことを、僕は毎日夢に見る。




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