Mystery Circle 作品置き場

望月来羅

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nightstalker

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Last update 2008年03月15日

天使の黙示録  著者:望月来羅


 弱虫は、幸福をさえおそれる。あまりに幸せすぎると、かえって怖くなるからだ。

 だが、だからといって、不幸な境遇を望んでいるわけではない。
 フィアラは、目の前にいる上司の顔を恐る恐る見上げた。目の前の豪奢な椅子に優雅に腰掛けているのは、長身痩躯、長いうねった黒髪と優しげな微笑が特徴的な、第一階級織天使ウリエル。足を組み、椅子の手摺に肘をついて頬杖をついている。彼のことを良く知らない者は、その笑みに騙されるが、弟子としてもう半世紀以上仕えているフィアラにとって、その笑みは恐怖心を煽るだけだった。震える身体に反応して、思わず背中の白い二枚の羽に悪寒が走る。

「・・・それで?」

 微笑んだまま、ウリエルが問う。
 椅子の前に正座をして、傍らに今しがた片付け終わった壺の、破片の入った容器を置きながら、フィアラはギュッと衣の裾を握った。下ばかり向いているせいで、先ほどから肩ほどまでのウェーブの入った金髪が眼に入ってむず痒かったが、心情的にそれどころではない。
「黙ってないで言いなさい。弁解があるなら聞きましょう」
「ご・・・ごめんなさい!ウリエル様!掃除をしていた時に引っかかってしまったらしくて・・・中の蛇がその拍子に・・・ちゅ、注意はしたんですけど・・・」
 バッと、顔を上げて弁解をしたが、ウリエルと目が合い、話しているうちにだんだんと語尾は消えていった。無意識の内に目に涙が溜まる。だが、悪いのが自分なのは明らかで、泣くのは逃げているようで顔が上げられなかった。上からため息が聞こえる。
「ケルビム(智天使)からセラフィム(織天使)になった祝いにミカエルから貰ったもの。断罪の蛇が入っているから気をつけるようにと・・・私は確かそういいましたよね?」
「はい・・・」
 フィアラの上司であり、師匠でもあるウリエルが織天使になったときに賜った職は魂の審判である。罪人かどうかを見定め、罪人を永遠の業火で焼き、不敬者を舌で吊り下げて燃え盛る火にかける。『神の炎』の称号を持つウリエルは、外見に反して激しい気性の持ち主だ。

 そんなウリエルが織天使になった際、幼馴染であり、先に織天使になっていたミカエルから贈られたのが、今回フィアラが割ってしまった壺だった。
 高さは1メートルほど。藍色で、天界の花が金や銀の文様で綺麗にあしらわれていた。中に入っていたのは白い断罪の蛇。
 元はミカエルが育てていたもので、ウリエルに贈られてからは罪人の心の奥底を見透かす『使い』として役目を果たしてきた。第6階級能天使のフィアラは断罪の場に立ち入ることは出来ない為見たことはないが、その重要さは理解していた。
「・・・・ごめんなさい。ごめんなさい」
 泣いては駄目だと思うほどに、目の淵から涙があふれ出た。拭っても拭ってもとどまることを知らない涙に情けなくなる。目の前のウリエルは何も言わない。きっと呆れているのだと思うと、より一層惨めになった。
 目の前のウリエルから衣擦れの音がして、涙に曇った視線を挙げるとウリエルが立ち上がった所だった。バサリと音がして、織天使の象徴でもある6枚羽が伸びをするように一斉に広げられる。
「やれやれ。フィアラの悪い癖ですね。すぐに泣く」
「ご、ごめんなさい・・・!」
「謝り癖もですね。さて、どうしますか。業火の間の掃除をするか、それともケルベロスの世話係になりますか?」
「う・・・」
 自分の顔から血の気が引くのがはっきり分かった。覚悟していたとはいえ、まだ行った事の無い阿鼻叫喚の業火の間か、地獄の番犬ケルベロスか。なにも言えずに首を振る。
「どちらも嫌ではしょうがないでしょう。しかし・・・そうですね、フィアラが逃がしてしまった蛇の代わりに、私の裁きの手伝いをしてくれますか?」
「え・・・僕がですか」
「ええ。お前が私の元にきて随分経ちますからね。そろそろ裁きの方法を覚えてもらいましょう。どうしますか」
 ウリエルの表情は、罰でも手伝いでも、どちらでもいいのだと告げていた。迷うことなく後者を選ぶ。フィアラにとって、尊敬するウリエルの仕事の手伝いを出来るのなら、断る理由などなかった。
「そうですか。では、早速行きますよ。昨日今日と仕事が押しているんです」
 安堵感からホッと顔が綻ぶ。はい、と頷いて。フィアラは痺れてきていた足を押さえつけて、ウリエルの後を追った。

 ―――絶叫の余韻が耳の鼓膜を震わせた。
 フィアラは茫然と眼を見開いて、今しがたまで炎に包まれてころげまわっていた男がいた場所を見つめた。視線を移すと、表情を少しも変えないウリエルと視線がぶつかる。
 今、フィアラとウリエルがいるところは『裁断の間』と呼ばれるウリエルの仕事場だ。見渡す限りの魂と天使。広い空間だった。

 全体的に、色調は明るい薄紫。霧のようなものが漂っており遠くまでを一望することは出来ないが、フィアラのいる位置からは向いの壁が見えなかった。老若男女の霊体が、ウリエルの場所から数メートルの距離を隔ててひしめき合っている。
 魂の審判を司るウリエルは、部屋に入ってくるなり、最前列に並んでいた初老の男性を、何も言わずに断罪の槍で炎上させた。切っ先を魂に突き刺すと、体が燃え上がったのだ。

「ウ、リエル様・・・?」
「今の男は一家心中で家族を道連れにしています。反省の色も無い。・・・ここにいるのは人間の魂だけです。覚えておきなさい、フィアラ。動物達の魂は、階級7以下の下級天使たちが審判をしています。もっとも複雑な人間の心理を読み解き、外見に惑わされることなく裁きを下すこと。それが私の役目です」
「でも、あんな小さな子までですか・・・?」
 男の後ろには、黒い肌の、怯えた表情の少女がいた。人間の年でいえば10歳に届いているかいないかと言う所だろう。
「審判というのは何も悪を裁くだけではありません。彼女は北の貧困街で凍死したようですね。ここは最後の審判を下す所です。動物同様、一目瞭然とも言えるような悪行ばかりではありません。例えば彼女なら盗みを働いています。生きていく為にですが、盗みは盗み。しかし、この場合の行為は一概に『悪』とは言えない。分かりますね」

 修行で稽古を付けるときのように淡々とウリエルは話すが、背景では様々な魂が阿鼻叫喚の叫び声をあげ、ウリエルの手伝いだろうか、魂の並ぶ列は他にもあり、天使達が逃げ出そうとする魂を押さえつけていた。そんな中でのウリエルの説明は、場の空気にそぐわな過ぎた。だが、反射で頷く。
「い、一応は・・・」
「彼女の罪は、無きにしも非ず」
 歌うように呟きながら、ウリエルは槍の前に手を翳したまま、ソッと手を少女の方に押し出した。少女は、何を受けたのか、小さく叫び声を挙げた後に、輪廻の門へと案内役の天使に手を引かれていった。
「今のは」
「彼女には、自分がしたことを何回も振り返ってもらいます。物を盗ったあとの、被害者の様子も、全部・・・。輪廻が成就する瞬間まで、彼女は自分の行いを悔やみ続ける・・・それが彼女の罰です。私達は、被害者も加害者も、記憶や心理を読み取らねばならない・・・神はそのために私達に言語を理解できるようにしてくださった」
 フィアラに説明をしながらもウリエルはすでに次の魂の審判をしていた。本当に分かっているのかというようなスピードで、どんどん列は短くなった。
 確かに、とフィアラは胸中で頷く。フィアラは生前は白人だった。死んだ瞬間、生前の記憶は曖昧だったが、少なくとも異国の言葉が分かりはしなかった。今まさに目の前で罪の軽減を乞う男の言葉が分かるのは、自覚してみれば奇妙な感覚だった。
 ウリエルによれば、一日の死者数は、大規模な災害が無い限りほぼ一定らしい。奇妙な法則があるのだそうだ。

 いろいろな魂があった。外見は、生前の姿形だ。事故死でも老衰でも、綺麗な体で現れる。きているものは皆白い上質の絹服のようだった。
 綺麗な女性、優しそうな老婦人、血気の盛んな若者・・・。皆、フィアラのことが、ウリエルの関係者だと分かるのだろう。あるものは親しげに話しかけ、あるものは無視をし、またある者は暴力を振るおうとした。恐怖心が増して、なるべく霊達に耳を傾けないようにしながら、列の整頓を整えた。

 ウリエルが魂の断罪をし、フィアラは雑用をこなしながらウリエルの仕事を徐々に覚えていく。常に明るい天界で、一日を刻む砂時計が数百回も返された頃には、ウリエルから貰った小さな小刀を媒介にして、炎を出せるようになっていた。ただし、刀の力が強いのか、炎の力が強すぎて、自分ではコントロールできないのだが。断罪の瞬間、悪と判断され、焼き尽くされる者の叫びを聞くのはいつになってもびくついていたが、魂と普通に話せるくらいには慣れてきていた。

「後、もう一つ注意することが」
 ウリエルが槍を構えながらフィアラに注意を促した。顎の先には今まさに裁きを下そうとしている人物がいた。外見は8歳ほどの白人の少年だ。
「この少年は、死んだ時の年齢は88歳です。時折このように、生前の記憶が曖昧なものが出てきます。外見と実際の年が違う。というのは、ここにいる魂は皆死ぬ直前の自分の姿を思い出して形取っています。なろうと思えばどんな姿形にだってなれる。後は・・・」
 何を思い出したのか、フッと槍を頭上から下ろしたウリエルは、その少年を裁くのではなく、側に控えていた別の天使に何かを呟き、心得たらしいその下級天使が少年を連れていくのを見送った。
「今の少年は・・・正確には老人ですが。いい人間のようですね。仲間になってもらいましょう。それから言いたかったのはですね、フィアラ。ここには裁きの規律があります。
一つ、神の言葉は絶対。一つ、魂を連れ出してはならない。一つ、身内がいても罪を軽減させてはならない。それだけです。それから・・・」

 それから、と呟いたまま、ウリエルの表情が微妙に曇った。ひしめき合う魂達と、その間で働く天使達を見回し、その広大な空間の隅に何かを見つけたように、目を細めた。外見だけならまさに慈愛の象徴とも言える優しげな表情が、一気に鋭いものに変わる。
「ウリエル様?何が・・・」
 ウリエルの常に無い表情につられるようにして遠くを振り返ろうとしたフィアラは、手を伸ばしたウリエルに強い力で頭を抑えられた。長い前髪で顔を隠したウリエルが、数秒後に顔を上げたときにはいつもの微笑を浮かべていた。フィアラの頭からソッと手を外した。

「いえ、ちょっと不愉快な場面を見たもので。フィアラ、綺麗すぎる魂には、充分気をつけなさい」
 微笑の中に、なにやら苦いものが混じっていたが、フィアラには何のことかは分からなかった。僅かに腰を折ったウリエルが、フィアラの眼を覗き込んできた。
「その金髪に藍色の眼は・・・兄妹そろって同じなんですね」
「え、はい・・・・え?ウリエル様、なんでセイラのことを・・・?」
 これまでウリエルといた半世紀、一度も触れなかった妹の話題に、ついていけなくて首を傾げる。何も言わなくてもフィアラのことが分かっていたのだろうか。

 確かにフィアラには生前妹がいた。フィアラが14歳で死ぬまで、2歳離れた妹とは常に一緒にいた気がする。フィアラは生まれつき体が弱く、事故で死んだのか病気が悪化したのかは覚えていない。ただ、おぼろげに覚えているのは、最後に自分に取り縋ってなく妹の後頭部だ。自分とそっくりの金髪と、藍色の眼。両親のことはもう顔すら思い出せなかったが、妹のことは忘れることは無かった。
「この列の最後尾の方に、お前の妹が来ているようです」
「え・・・」
「そこまでは今日は裁きません。今日は充分に仕事をしましたから」
 ウリエルが眼を伏せ気味にして言った瞬間、頭の中が真っ白になった。確かに、半世紀ということは妹もすっかり年をとったことだろう。天使のようだった妹を思い出す。人を恨むこともなく、妬く事もなく、本当に出来た妹だった。
 最前列の女性の霊とウリエル、列の最後の方を戸惑い気味にして眺めたが、押さえきれなくなり、ウリエルに一つ礼をすると、最後尾へと一気に駆けた。

 男・・・女・・・老人・・・少女・・・少年・・・
 列を探しながら見落とさないように速度を落としたが、見ている限り金髪に藍色の眼の老婦人はいなかった。最後尾まで来てしまうと、そんな、と呟いて今度はゆっくりと歩き出す。
「・・・・兄さん?」
 十歳くらいの少女の横をゆっくりと去ろうとしたときに、確かに少女が呟くのが聞こえた。確かに少女は金髪だったが、まさかと思って振り返る。振り返って、思わず息を呑んだ。
 そこにいた少女は、金髪。長い睫毛に縁取られた大きな藍色の眼。半世紀前、一緒に育ったままの姿の・・・
「セイラ・・・?」
「あ、やっぱり兄さんなんだ。羽ふさふさ。やっぱりここ天国なの?」
 あっさりとフィアラのことを兄と認めると、その少女は花が綻ぶような笑みを浮かべた。背は小さく、フィアラの胸ほどまでしかない。だが、たしかにその笑い方は遠い昔の妹のもので、思わずセイラを列から連れ出すと何も言えずに抱きしめた。身体を離すと、やはりそこには妹がいる。だが・・・

「セイラ・・・本当にセイラ・・・?だってお前、僕が死んでからここに来て半世紀経っているってことは・・・」
 その格好、と呟いたところで、先ほどの少年の姿を思い出した。年を取っているにも関わらず、幼いままの姿。
「お前・・・生前のことを覚えてないの?」
「ううん。覚えてるよ。私幸せに暮らしたの。兄さんが死んじゃって一時期すっごい落ち込んでたんだけどね。教会の神父さまが、いつか会えますよって。結婚もしたし、子供も生んだわ。孫もね。だから、覚えてないわけじゃないの。でも、私がここにきて一番会いたかったのは兄さんだから。そう考えたら、昔の姿の方が分かるのかなって」
 肩を竦めながら高い声で話す妹に、半ば呆然となる。フィアラはウリエルに教えてもらったが、セイラは誰に教わることなく霊の特質を理解したらしい。

 不意にウリエルに呼ばれた気がして振り返ると、ウリエルが退出するところだった。退出の刻限らしい。これも規則だ。フィアラは迷いながらも妹の方に向き直ると、もう一度抱きしめた。
「ごめんね。会えて嬉しいけど行かなきゃいけないみたいなんだ。やっと会えたけど・・」
「・・・・やっと会えたのに?」
 悲しげなセイラの声に微苦笑して、フィアラはセイラと手を合わせた。
「明日、また来るよ。誰よりも早く・・・。お前を裁くのはウリエル様だけど、大丈夫。お前なら業火の炎に焼かれることはないと思うから・・・」
 霊体であるセイラと天使になったフィアラ。熱が通うはずがないのに、確かに掌は温かかった。セイラがわずかに頷く。
「・・・兄さんってば天使みたいだったけど、本当に天使になってるんだもの。驚いたわ。明日・・・会えるといいね。大丈夫。私も兄さんといたときよりは年を取ったから・・・」
 僅かに目尻に涙を浮かべてフィアラを見上げるセイラは、外見は幼いのに眼の奥には確かに年月を感じさせる何かがあった。
 振り返り、振り返り、刻限ギリギリまで部屋に留まっていたが、時間になって部屋の外に出される。半世紀振りに会った血縁。胸が高揚するのを感じた。扉には、鍵は掛けられない。中からも自由に出入りは出来る。ただ、神の意思をそこに感じるものは、けして開けようという気にはならないのだ。
 ウリエルの部屋を訪れたが、ウリエルはそこにはいなかった。妹のことを報告しようと屋敷中を探し回ったが、ウリエルを見つけることは出来なかった。
 しょうがなく、ウリエルの書斎で主が戻るのを待つことにする。明日を考えると、裁きの間だというのに胸が躍った。

「・・・・セイラ?」
 気がつかない間に転寝をいていたらしい。机に本を置いて突っ伏した体勢のまま、フィアラはゆっくりと身を起こした。どれだけ時間が経っていたのだろう。
 未だ主人の戻らない書斎の中を見回し、フィアラは僅かに眉を顰めた。根拠のない、胸騒ぎがする。
 夢の中で、幼い頃のセイラとフィアラが遊んでいた。顔の見えない両親の側でままごとをしているようだった。ふいに、セイラのいた足元が崩れるのだ。甲高い悲鳴が尾を引いてセイラの姿が見えなくなる。セイラの姿を夢に見たのは、随分久しぶりのことだった。
「夢、だけど・・・・なんか・・・」

 一概に夢、と否定できないのはウリエルの言葉を思い出したせいだ。夢には意味があるのだと。そろり、と書斎を抜け出す。規則は分かっていた。だが、気になる。胸の不安は治まるどころか、『裁断の間』に近づくにつれて大きくなるだけだった。

           *

 神の意思を無視して扉を静かに開ける。
 拒まれるかと思ったが、拍子抜けるほど簡単に開いた。確認するだけ、と自分に言い聞かせる。たかが夢を見ただけ。臆病になっている自分がおかしかった。天使のいない裁断の間は、霊達が満ちているにも関わらず、やけに静かだった。下を見れば、転がる霊達。安らかな寝息。強制的な眠りにつかされているらしい。

 セイラの姿を探して歩き回るフィアラの眼に、いきなりその場面は飛び込んできた。フィアラの位置から20メートルほど。広大な広間の隅。ちょうど、朝にウリエルが険しい視線を飛ばしていた位置あたりに、数人の天使がいた。というのは、壁の隅あたり、霊達にかこまれて、その存在が見えにくかったのである。同じように、向こうからフィアラのことは気づいていないらしい。
 人数は5,6人ほど。何かを囲むように円になり、羽は2枚で、位を表す腕輪は揃って7位以下の下級天使達だった。
(あれ?なんでこんな時間に・・・)
 声をかけようとして言葉が出てこなかったのは、彼らの一人が動いた拍子に円の内部が見えたからだ。
(あれは・・・!)

 明るい薄紫の空間で、一つだけ歪なもの。暗い、円形の小さな穴が、『裁断の間』に開いている。動いた一人の天使が、傍らから何かをその穴に放り込んだ。
 思わず息を呑む。一瞬だけ見えた。投げ込まれたものは、安らかに眠る、まだ幼い少女だった。黒人だろうか、縮れた毛が見え、胎児のように丸くなって穴に放り込まれる。穴の開いた側の床には、赤い線で複雑な方陣が描かれていた。端々に刺さっているのは黒い羽。
 あまりに遠くてよくは見えないが。フィアラは目の前の寝ている大柄な男の体に身を隠しながらも、その穴の行方に検討がついた。

「『崩天の穴』・・・ルシフェル様の・・・・」

 昔にウリエルから習った言葉を思い出して、愕然となる。では、あの穴の行き先は魔界か。かつて、神に寵愛された大天使長ルシフェルは、驕りと嫉妬によって、神に反旗を翻したとされる。魔界に落とされるさいに、『明けの明星』を意味していた『ルシフェル』という名前から、輝きを意味する『エル』を神によって除かれ、『ルシファー』と名を変えられた。
 サタンの座に収まった今でも天界には恨みがあり、時折人間界に大災害をもたらすことで天界にも恨みの深さを見せ付けているのだという。

 眼を凝らすと、天使達の後ろには数人の霊達が転がされていた。もし、あの霊達を全て穴に投げ込むのであったら。不意に、昼間のウリエルの視線を思い出す。よく考えたら、おかしな話だ。何故、神の息が一番掛かりやすいこの部屋に穴を開けたのか。ウリエルは、いわばこの部屋の番人で、主人だ。穴の存在に気がつかないはずはない。

 まさか、と呟く。昼間、ウリエルの綺麗な魂には注意をしろという言葉。魔界は、綺麗な魂をも好む。もし、ウリエルがあの穴の存在に気がついていたとしたら。
 考えに眉を顰めながら、フッとその円を見たとき、フィアラの眼が見開かれた。
 天使の一人が手首を掴んだ少女。その顔は。
 咄嗟に立ち上がる。天使達に向って走りながら、セイラを掴んでいる天使に向ってウリエルから習ったばかりの浄化の炎を躊躇せずに浴びせた。小刀の威力が強すぎたせいか、悲鳴を放った天使はよろけて円の中へを落ちていった。
 セイラを抱き寄せる。熱が伝わったのか、セイラの瞼がわずかに動いた。

「何してるんだあなた達は!!」
 片手に短刀、片手にセイラを抱えたまま、感情のままに叫ぶ。
「魔界なんかと交信して如何するんです!?この霊達を裁くのは織天使ウリエル様の役目ですよ!」
 動揺したどよめきが天使達の間から上がる。顔を見合わせたかと思うと、一斉に逃げ出した。躊躇わずにセイラを置いて、内一人の天使の行く手を炎でさえぎった。手首を掴むと、痛そうに顔を顰めているのは、フィアラも館内で何度か見たことのある天使だった。側にいた天使達は、一斉に扉へと消えていった。

「・・・仲間は置いてきぼりですか。情けないですね。答えてください。魔界に霊体を引き渡すようにと・・・誰に言われたんですか」
「・・・貴方には関係ない」
「ふざけるな!!」
 妹が投げ込まれたかもしれない、と思うと感情の箍が外れかけた。自分よりも背の高い、天使の顔を力一杯殴りつける。
「その顔・・・ウリエル様付きのパワーズ(能天使)ですか。・・・これは魔界と天界の契約です。口を挟まないで下さい」
「何が・・・何が契約ですか!絶対神に言われたとでも!?」
「その通り」
 口の端に血を滲ませながらも、ふてぶてしく笑う。フィアラの手が止まった。
 押さえつけている手が僅かに震えだす。
「正確には言われたのは魔界の使いからなんですが。見つかりにくい下級天使の私達だからこそ、契約を持ちかけてきた。綺麗な魂と、力の交換を・・・!神は何も仰らない!私達に反対していない!」

 何も言えずに、天使の顔を殴る。嘘だ、と否定できない。ウリエルまでが黙認しているのだと信じたくなくて首を振ったが、頭のどこかが本当だと告げていた。
「貴方もこの話を知ってしまった!そこにいる少女も!ルシファー様の話は天界では禁句。私達だけではない!あなた達も処分されるはずだ!」
「無垢な魂を魔界に放り込んでそれを神が認知している・・・!?全てを抱いて許すのが神の仕事じゃ・・・そんな・・・そんな神なんかいらない!!」

 神を拒絶した瞬間、確かに何かしらの言霊がはじけたのが分かった。フィアラの下で殴りつけた天使の笑う声が耳障りで、下唇を強く噛んだまま、短刀を使って天使を炎上させた。感情が高ぶっているのかもしれない。だが、今はいつもの泣き虫でも、臆病者の気分でもなかった。確かに、魔界と天界の契約などと知れ渡れば、天界にとって都合がわるいだろう。神がこの場を見ているなら、きっと抹消されてしまう。だがフィアラは、神に従って、やすやすと消されるつもりも無かった。

 炎上させた天使を穴に落として、背後を振り向く。騒ぎで起きだした霊体達の中で、ただ一人、全てを見ていたセイラが、じっとフィアラの顔を眺めていた。
「話は聞いてたね、セイラ。逃げるよ」
「どこに?私の肉体はもう死んじゃってるし・・・」
「ここにいちゃ駄目だ。お前が見ていたことを神は知ってる。都合が悪くなるんだ。・・・せめて、お前だけでも輪廻の扉に逃がすよ。そうすれば神でも如何しようもないはずだ」
「でも、神様なら今すぐに来ちゃうんじゃ・・・」
「神は動けない。力が強すぎて天界の均衡が崩れるから。おいで!」
 セイラの手を引っ張ると、扉に向って一目散に駆け出した。扉が開かないだろうと思ったが、力の限り、炎をぶつけると溶解して開いた。

          *

 勝手知ったる屋敷の中を、心を痛めながら輪廻の扉まで向う。きっと、今頃追っ手が来ているはずだ。自分は助かりはしないだろう、と思う。フィアラはただ、血が沸き立つほどに怒っていた。天界に、神に。そして、ウリエルには失望していた。
 逃げるつもりなら、初めから輪廻の扉のある屋敷の地下ではなく、地上へと向っている。狭い屋敷内では羽が使えないからだ。
「セイラ!頑張って!後少しだから!」
「大丈夫。疲れてないよ。でも・・・兄さん。輪廻って、私の後は・・・兄さんは」
「しっ、黙って」
 妹の口を塞いで、広い廊下の角で先を伺う。織天使ウリエルの屋敷の地下は、螺旋のようになっている。中心は巨大な空洞で、螺旋を描いて階段が設計され、その数箇所に広い部屋が設置されている。僅か一周回ったところに、輪廻の扉へと続く扉があるのが見えた。
足音が響くのを恐れて、早足で歩く。
「余計なことは考えないで。今は逃げることだけ考えて。あそこまでだから・・・僕はね、セイラ。織天使ウリエル様にお仕えしてたんだよ」
 半世紀を思い出して、目に涙が溜まる。セイラが首を傾げた。
「ウリエル様って・・・審判の?」
「知ってるの?」
「だって協会に聖書があったもの」
「そっか。・・・ウリエル様。ガブリエル様。ミカエル様・・・。僕もウリエル様に裁かれたんだけどね。地獄行きにはならなかった。それから能天使までなって・・・幸せだったよ。ずっと。楽しかった」

 話しているうちに、堪え切れなくなって涙が頬を伝った。セイラの幼い手が、頬の涙を拭う。
「兄さんは・・・こんなに時間が経っても泣き虫は治ってないんだね。ホント・・・時間が巻き戻ったみたい」
「・・・うるさいな。ほら、セイラ。そこの扉を・・・」
「――兄さん!!」
 涙を拭いながらセイラを押し出すと、不意にドンッと突き飛ばされる。わけも分からぬままに階段ギリギリに尻餅をつくと、瞬間的に周りの大気が熱くなった。何回か目にした、灼熱の炎。違うのは、炎に包まれているのが罪人ではなく、妹だということ。突然のことで、フィアラは動くでもなく、炎を呆然と眺めることしか出来なかった。

 幼い姿に戻った妹の口からは、言葉すら漏れなかった。全身が白い炎に包まれ、その激しさと熱さに思わず顔を腕でかばうと、あっという間にセイラの体が発光とともに砕け散った。そう、正しく『砕け散る』。フィアラには、セイラの魂まで砕かれたのが、分かった。
「・・・セイ・・・ラ・・・?」

 魂まで砕かれた霊は、転生しない。織天使以上の階級のものが修復を施さない限り。

「セイ・・・」
「フィアラ」
 ドクン・・・鼓動が跳ねるのが分かった。意識したとたんに、背を向けてすら感じる、威圧感。ゆっくりと振り返ると、自分と同じくらいの年の美貌の少年と、その傍らにウリエルが厳しい表情で佇んでいた。ウリエルの手の先には断罪の槍があり、先端からは僅かに熱で空気が揺らいでいるのが分かった。今しがたセイラの魂を砕いたのは、ウリエルだと知る。

 少年にも、ウリエルにも、似通った所は一つだけ。背中に輝く純白の6枚羽。少年には、大きな催しごとで、ウリエルに連れて行ってもらった際に数回だけ会ったことがあった。

「大天使長・・・・メタトロン様・・・」

「うん。こうして対面で会うのは初めてかな。僕は審判係だから、普通に暮らしていれば会わないもんね」
 呆然と呟くと、メタトロンと呼ばれた織天使は長い睫毛を伏せ気味にして小さく笑った。
「君のことはウリエルから聞いたことがあったけど。まさか、と思ったよ。・・・シルフ(風の精)が騒いでいる。言霊で、禁句を使ったものがいるって。神に対する暴言を」

 呆然としているフィアラの前まで歩みを進め、顔を覗き込むようにして首を傾げたメタトロンは、その凄みのある美貌に苦笑を浮かべた。能面のような美貌が、一気に親しみ深くなる。
「君も馬鹿だなぁ。僕だって、ウリエルだって一部の天使が影で何をしているかなんて知ってるよ。魂の売り渡しは最もしてはいけない行為だけどね。だけど・・・気づいているはずの神は口を開かない。・・・暗黙の了解があるんだよ。黙っていればよかったんだ」

 呆然としていた頭の中に、言われた言葉がポツリポツリとしみこんでくる。全部を聞いて、理解した途端、徐々に視界の隅が熱くなるほどの怒りが戻ってくるのを感じた。
「天界の均衡を保つ為にですか!?」
「そうだね。」
「そんな!」
 魂が引き渡されそうだった妹を思い出して、唇をきつく噛んだ。今までに、何年も、いや、メタトロンの様子から見て何百年も、影の生贄は続けられてきたというのか。

 ト―ン・・・と、床を打つ音が響いて、ハッと我に返った。顔を上げるとウリエルが無表情でフィアラに向って断罪の槍の切先を突き出していた。槍が、熱で大気が揺らめく。
フィアラの瞳から、拭ったばかりだというのに涙があふれた。尊敬していたウリエルに、なにも話して欲しくはなかった。
「嘘・・・ですよね、ウリエル様。ウリエル様は知らなくて・・・!」
「・・・フィアラ。自分の言葉を撤回して裁きを受けなさい」
「ウリエル様!」

 頭のどこかで分かっていても、本人に肯定されると胸が張り裂けそうな思いがした。
「ウリエルは君のためを思って言ってるんだよ、フィアラ。君の考えていることは神に対する冒涜だ。フィアラが考え直さないと、僕は君を罰さなくてはならなくなる・・・考え直しなよ」
「メタトロン様・・・」
 傍らに断罪の槍を持ったウリエルを従えて、天使長メタトロンは、その美貌を微笑ませた。
「神がね、君の犯したことは罪だけど、償うというのなら許して下さるってさ。思考、行動力も買って、輝くもの、『エル』の名をくれるって。フィアラ、だからフェリエルになるのかな。良かったじゃん」

「よ、淀んだ思考を無視しろというのですか!見過ごせと!?それが天界だと・・・。天使の掟だと・・・!?罪はどちらですか!無垢な魂を魔界に落とすのを黙認するのが絶対神のすることですか!?」
「口を慎みなさいフィアラ!」 

 無意識のうちに、ほとんど生まれてはじめてと言っていいくらいの、烈しい怒りの声が出た。許されるにせよ、行動力云々は出鱈目だろう。反逆行為をしたものに位を与えるなど、逆はあってもありえない。口封じか。
『エル』。輝くもの。フィアラが心のどこかで望んでいたものだ。だが、輝く影には淀みがある。輝き、光があれば影もあると言うのに、眼を背けていた。

「僕はそんなものはいりません!」

 ルシファーもこんな気持ちだったのか、とぼんやりと思った。
 メタトロンがため息をついたのが見えた。横に佇んでいるウリエルに手を軽く振り、愛想が尽きたと言うように背を向け、去っていく。
 メタトロンの6枚羽を見ながらも、フィアラに後悔は無かった。むしろ、臆病者の自分が、意思を表せたことに喜びすら感じていた。

 ウリエルが、断罪の槍を高く掲げた。

 力のない自分では、天界に一矢報いることも出来ない。魂の審判が、ウリエルの仕事だ。心の中で救えなかった者達に詫びながら、最後にウリエルに頭を下げた。半世紀もの間、自分を置いていてくれたウリエルに。
「残念ですフィアラ・・・言いたいことはありますか?」
「・・・一つだけ・・・。僕の妹の魂を・・・聞き入れて下さるのでしたら、修復を・・・」
 先ほど砕け散った妹を思い出して、ウリエルに乞う。天界の大罪に触れたのだから、セイラも許されるかはわからなかったが、永劫の闇からは救ってやりたかった。
 織天使の表情は無表情だったが、常にウリエルを崇拝してきたフィアラは、頷いた彼がわずかに苦悩の色をにじませているのがわかった。

「長いこと…お世話になりました」
 ウリエル様、と、呟いて。槍の軌跡が、残像が。

 スローモーションで降り下ろされるのを網膜に焼き付けて、フィアラは静かに瞼を下ろした。




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