Mystery Circle 作品置き場

グラン

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nightstalker

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Last update 2008年03月16日

20260815  著者:Glan



「えっと、ミラーさん……だよね?」

 声の主は窓辺に立っていた。白い白い、汚れ一つない壁に寄りかかっていた。
私が驚いて何も言い出せないのも気にせず、ゆっくり近づいてくる。
そうして目の前にあったPCを覗き込み、「綺麗な壁紙だね」と感嘆した。

「あ、あのえっと」

 情けないくらいに挙動不審だった。
緊張で喉が縮まるような感覚。絞り出そうとしても声が出てこない。

「それにしても、早く起きないといけないのに夜遅くまでPCとはね」

 え?
なんだか声が変わった。それに口調も。
誰、と思いつつ私は声の主を確認しようと首を動かすが、窓からの光がまぶしくて何も見えない。
ならば直接近づいてみようと思い立った私は、瞬間、世界が逆さまになって落ちていくような浮遊感を覚えた。
何も見えない、何もわからない。光が、闇の中で弾ける。

 視線の先には、天井があった。
水滴のついた、プラスチックの無味乾燥なそれは、何も語らずそこにある。
私は、ここがどこなのかを確かめようとして身体を起こす。だが、重石を乗せられたように、体はびくともしない。
それに、全身の感覚がほとんど失われているような気がする。力を入れているつもりでも、反応がない。
何度か試みて、ついに私はあきらめた。
 目が良く見えない。先ほど天井だと認識したのが、本当に天井なのかどうか良くわからない。寝起き時のように、反射神経的にそこに天井が見えると勘違いしているだけなのかもしれない。
 ここはどこなんだろう。
首を動かしてあたりを見回す。……動かない。いや、動かないというよりは「動かしたくない」。
動かした途端、何かとても悪いことが起こりそうな予感がした。しばらくじっとしてたほうがいいのかもしれない。
ふぅ、と一つため息をついた時、耳の奥から音が聞こえた。
がたん、がたん。何か叩いている。耳をすましてみる。

『姉ちゃん!』

 びくっ、と私の眠っていた五感がいっせいに反応し体を震わせた。
子供の、しかも少年の声。姉ちゃんとは、私のことだろうか。
 頭の中で声の主を思い出そうと記憶をたどっていると、猛烈な眠気に襲われた。目の前が遠くなっていく。

 『……繰り返しお伝えします。先ほど、高田馬場駅付近で人身事故が発生しました。
この事故の影響で、新宿・池袋間の上下線が運転を見合わせております……』

 「うわ、誰か飛び込んだのかな、気持ちわりー……」

 隣にいた弟の薫が、わざとらしく顔を歪ませて口を押さえた。
私はというと、そんな不吉な放送よりも駅構内の人の波のほうがよっぽど気持ち悪かった。ここは人が多すぎる。
背中がじんわりと汗ばんでいる。今日のために、わざわざ勇気を出して渋谷で買った高い服が汚れていると思うと、なおさら気分が滅入る。女の性分なのだろうか、今まで毎日家にいてファッションとは無縁の生活を送ってきたのに、いざ服を買いに行くと目の色を変えて何時間も品定めしてしまう。まったく、自分で自分に呆れる。

「姉ちゃん……おーい、姉ちゃん?」

 遠くで薫の声がしたが、私はそれに気づかず服のチェックをしていた。
恥ずかしさを我慢して、今日のためと買ってきたデニムのショートパンツ。女の子なら男のように日焼けしていなくても不自然ではないけれど、私の生足の白さは、綺麗を通り越して病弱な印象がある。
あのまま日に当たらずずっと部屋の中ですごしていたら、足だけじゃなく全身が青白くなって腐っていたかもしれない。
そう考えると、今日の何年かぶりの外出には、心の底から感謝しなければいけない。というか、私自身、沸きあがってくる心臓の高鳴りを抑えられない。

「姉ちゃん! 何顔赤くしてんの?」

「え? あ、え?」

 驚いたのと、顔が赤いと言われて恥ずかしくなったせいで、思わず背筋をピンと伸ばして直立不動の姿勢をとってしまった。
駅を流れていく人の一部が、顔をこちらに向ける。慌てて視線をそらすが、鋭くなった私の聴覚は、私に投げつけられたかすかな笑い声を聞き逃さなかった。……目立たないつもりが逆に目立ってしまうのは私の悪いクセだ。

「なにやってんだよ。人の話聞いてる?」

「ごめん……」

 紅潮した顔を隠すために背中を丸めてみる。弟の怪訝そうな表情が、目の前に迫ってきている。

「えっと、それで、なに?」

「だからぁ……その、誰だっけ、イザナミさん? その人とどこで待ち合わせてるのかって」

「あ、あぁそのことか。えっと、歩君は確か、石のふくろう前でって言ってたけど……」

 言い終わらないうちに、私はいつの間にかあの人を「歩君」と呼んでいた事に気づいた。
なんてことだ。まだ会ってもいないのに、馴れ馴れしすぎる。でも、この感情は一体何なんだろう。

「あー、そうだ池袋だったんだぁ……。たった今運転を見合わせてるって言ってたじゃん、もう最悪」

 薫が悪態をついているのを横目で見ながら、私は必死で頭の中で思考して気を紛らわせる
 ――出雲歩。
ネットで知り合った、島根の高校生。
オンラインゲーム、というかゲームやパソコン全般についての知識が豊富で、多分私以上に良く知ってる。
頭は良いらしく、ゲームばっかりやっていても出席はちゃんとしてる上、文芸部に所属。
将来は作家になりたいとか言ってたけど、多分彼なら可能だろう。
あらゆる意味で私は勝てないとは思うけど、それ以上に彼は優しくて力強い。

「姉ちゃーん、どうすんだよぉ。これしばらく復旧しそうにないよ電車……」

「ん、そうだね。でも、まだ待ち合わせ時間まで三時間もあるし」

「でもさぁ、お昼は待ち合わせ場所に近くでゆっくり食べようとか言ってなかった?」

「そうだっけ。じゃあえっと、それはナシってことにして」

 頭の中で別のことを考えていたので、ついつい投げやりになってしまう。
 三時間後、ネットを介してしか知らなかった人間と会う。
簡単な言葉で言ってしまえば「オフ会」だ。まぁ、黎明期のネットと比べれば、個人と個人の距離は、様々なツールの発明や発達のおかげで限りなくリアルでの関係と近いところまで縮まったし、わざわざ実際に会う必要なんてない。でも、ほんの数年前には一種のブームになっていたくらいだから、それほど時代遅れでもないと思う。
今まで私はネットだけの狭い自室を中心とした狭い世界で生きていた。オフで誰かと会おうだなんて考えたこともなかった。

「そうだ薫、もう少しでお昼だし、駅から出て高級な店でも探そうよ」

 自分でも笑えるくらいはりきった声が出た。浮かれている自分が、なんだか可愛らしい。

「もう、恋人に会うわけでもないのに何はりきってんだよ。じゃあ思いっきり高い店探してやるから」

 嫌味を言って、弟はケータイを取り出した。素早い指さばきで、レストランを値段の高い順番に表示させている。
駅構内の人の流れは、大分落ち着いてきたように見える。私の心臓も、そうなってくれたら良いんだけど。


 ぱしゃっ、と水の跳ねる音がした。
私はまた、暗く不自由な空間にいた。さっきまでのは、夢だったのか。
 今は真夜中のようだ。
感覚が戻ってくるに従い、水につかっていることは分かった。だが、力を入れても体はブルブルと小刻みに震えるばかりで、どうやっても起き上がることが出来ない。五感を取り戻した途端やってきた猛烈な吐き気が、さらに追い討ちをかけてくる。

「あ……」

 ようやく声が出た。
それは声というより、空気が僅かに震えただけという程度のものだったが、私はそれでも満足した。
 暗闇の中で、無意識に手が頭頂部あたりをさすっていた。あるはずの髪の毛はない。私のまわりに落ちている黒い塊は、どうやら影ではなくて髪の毛のようだ。
不思議と、悲壮感はなかった。こんなもんか、という感じ。あまりに異常な事態に、頭が追いついていないのかもしれない。髪の毛が抜けるのは何の病気だったか。前に本で読んだことがあった。あれは多分――


「ゲームだよ、ゲーム!」

 突然大声を出したので、私は驚いて飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。
隣にいる声の主は、分厚い眼鏡と瞳を輝かせて私を見つめている。

「ゲームが、どうしたの?」

「おいおいおい、さっき話したばかりのことだろっての。計画だよ計画」

「計画……?」

 本当に何を言われているのか分からなかったので、私はさらに聞き返した。彼は呆れた、というより驚いて目を丸くしていた。

「大丈夫? 今ほんの十分前に話しあってたことだぜ。白昼夢でも見てたのか」

 その問いに曖昧に返事をして、私は目の前のパソコンに目を移した。ネットカフェのパソコンは旧世代のものだし、使いづらくて好きになれないが、かといって彼――ルナティックを自分の汚い部屋に案内するわけにもいかなかった。

「もう少しで"ひだっち"がチャット入るみたいだから、どっちが話すか決めようぜ」

「え、うん分かった。でも、何の話するの?」

 ルナ君は心底呆れた顔で私を覗き込み、パソコンの傍に置いてあった一冊のノートを手に取った。

「ほら、俺たち四人で話し合ったじゃん。高校卒業前に、何かすっげーもの創ってやろうぜって」

「四人っていうと、君と火田さんと……」

「イザナミ――出雲な。俺とミラーは住所が近いから、こうして会ってるけど、他の二人は遠いから」

「そっか。それで、創るものっていうのがゲーム、なんだ」

 ようやく理解した私に、ほとんど哀れむような視線を向けて、良かった良かったと彼はつぶやいた。

「ゲームなんて言っても、アクション、RPG、シューティング、サウンドノベル、アドベンチャー……種類はいくらでもあるなぁ」

「まずは作り易いもの一つ作って腕試ししたほうがいいかな、とは思う」

 同じことを、誰かが言っていた気がする。

「腕試しねぇ。でも、俺たちもう高3だよ。時間ないんだよなー」

 腕を組んで唸るルナ君を尻目に、私はとりあえず火田さんが来るチャットに入室した。
マイクを引き寄せて、音量を調節する。以前は、文字だけの薄いコミュニケーションで、薄い関係しか気づいてなかった私が、今はこうしてネットで知り合った友人とオフで会い、談笑している。なんだか、不思議な高揚感を覚えた。

「あ、やるんだ。それじゃ、ゲームのことちゃんと話してくれよ」

「分かってる。あっ」

 チャットに誰かが入室した。無論、私達が待っていた人物だ。
音声チャットに切り替えて、「ミラー」でログインする。

『おいっす! ミラーってことは、カホっちかい?』

「う、うん。久しぶり」

 相手のあまりの元気のよさに少し声が強張ったが、なんとか挨拶できた。

『おひさー! カホっち、うちに会えなくて寂しかったんやないの?』

「うんまぁ、ちょっとはそうかも」

 真横に人がいるので、なんだか恥ずかしい。
そんな私にはおかまいなしに、関西気質なのか彼女はしゃべりまくる。

『ま、うちは部活に勉強に遊びに、あと恋愛に、忙しかったからなー』

 れ、ん、あ、い、とわざとらしく強調されたものの、一体どう反応すればいいのか分からない。
何故か脳裏に歩君の顔が浮かんだ。

『せや、ちょっと聞いて! うちのクラスな、東大行くって子が二人も出たんやで。しかも二人とも、めっちゃワルで学校荒らしまくってた子達やから、学年でエライ有名人なって校長まで教室訪問しに来たんや。ほんでな、うちの近所にタツヤっちゅう子がおるんやけどこれがまた――』

「あー、あの、ごめん本題入っていい?」

 あまりの早口トークに全くついていけず、そういって中断させるのが精一杯だった。
普段あまりしゃべらない私と、おしゃべりの女子高生、これはかなり問題がありそうな組み合わせだ。

『あ、ごめんごめん、まーたうちおしゃべりなってしもた。で、何の話?』

 ルナ君が頭を抱えているのが横目に見えた。

「メールでも言ったけど、何を創るのかってこと。この前、四人で話合ってまとまらなかった計画の」

 自分でも内容を思い出しながら話す。
 そう、私達四人はネットで知り合った、純粋にネットにおいてだけの友達のつもりだった。
当時はまっていたオンラインゲームのプレーヤーとして偶然出会った私達。
「ゲーム何でも大好き」というコミュニティに所属し、そこでゲームについての話を飽きることもなく続けていた日々。
そんなことを半年くらい続けているうち、誰かが「会って話したい」と言い出した。
私は無論、出来ないと即断ったものの、コミュニティが下火になっていたせいか、私をいれてメンバーは四人しかいなかった。そんな時、私が抜けると言えばはいわかりましたというわけにもいかなかったのだろう。散々説得された。
そして、いつの間にかこうして会って話をし、今度は「四人で何かでかいことをしよう」というところまで話は進んでいるのである。

「香月君は、ゲームがいいって言ってるんだけど、火田さんはどう思う?」

 出てくる言葉がスムーズに流れていく。陽気でハツラツとした彼女の雰囲気に影響されたのだろうか。香月というのは、ルナ君の本名だ。火田さんはうなり声を上げて数秒悩んだ後、一人納得したようにうん、とつぶやいた。

『それ、良いと思う! やっぱ、うちらにはゲームしかないやん。ゲーム大好きだったら、いっそのことゲーム創ってまえ! 良いアイデアやと思うよ』

「やっぱそうだよなぁ。ひだっちが賛成してくれると心強い」

 隣のルナ君が嬉しそうに何度もうなずいていた。
私も特に反対する気はなかった。元がゲームから始まった交流なわけだし、大変そうではあるが、やってみる価値はありそうだ。
 ふと、私は思い立って火田さんに聞いてみた。

「火田さん、出雲君からこのことについて何か聞いた?」

 ほんの冗談のつもりだった。
このメンバーの中で一番出雲君と話す機会が多いのは私だし、それはみんなもわかってる。
でも、最近はめっきり連絡がなくなっていた。受験で忙しいという話もあったが、そういう連絡すらもよこしてこない。

『あ、それなら確か連絡あったで』

 意外な答えに、私は動揺を隠せなかった。
いや、意外ではなく「予測どおり」の答えだった。こうなることを無意識のうちにわかっていて、私は聞いたんだ。

「それで?」

『たしか、ゲームって言ってたなぁ。出雲っちもゲームフリークやから、ゲーム創るってのは憧れやったんとちゃうかな?』

「マジかよ、前回あんだけまとまらなかったのに、今度は全会一致かよ」

 ルナ君が驚きつつも嬉しいという表情で画面を見つめながら声を漏らした。
私は、そんな声は聞こえていなかった。言い様のない不安と汚い心が渦巻いてくる。

「詳しくは何か言ってた?」

 画面の前にいるであろう火田さんは、うーんとうなり声を上げてしばらく黙りこむ。腕を組んでいる姿が目に浮かんだ。
私は、その沈黙を利用して気持ちを落ち着かせようとしていた。だが、そう簡単に事が運べば苦労はしない。

『思い出した! 出雲っち、詳しいところまで考えてたんや。それでうちめっちゃ驚いてすごいやん天才! とか言ってエライ興奮してたなぁ』

「……どういう内容?」

 声が震えている。

『ジャンルは、MMORPGの上位形態みたいのなんやて。舞台は中世、未来、何でもアリな感じで、広大な世界を自分の足で動き回れるのがウリなんやとかなんとか。せや、そんで一番の特徴が――』

 彼女のハツラツとした声が、ひどく遠くなった。
私は思い出してしまった。あの言葉を、今一番思い出したくなかった、彼との会話を。

『……これは誰にも秘密なんだけどさ、僕今すごい面白いゲーム考えてるんだ』

『どんな?』

『ジャンルは、そうだなぁ、MMORPGってあるじゃん。あれの上位形態って感じ。
どういうことかっていうと、つまり自分が直接バーチャルリアリティを通してゲームの世界に入れるんだよ。もちろん脳内の出来事だけど、現実と大差ないくらいの現実感を出すんだ。
それで、舞台は何でもありな感じ、SF、ファンタジーなんでも来いみたいな。名前はもう決めてるんだ』

『そこまで?』

『そう、塾通いの間に随分考えたんだ。その名も"Dreamers"! 直訳すると夢想家だけど、僕は"いつまでも架空の世界で冒険をしたいっていう人の夢をかなえるゲーム"って意味でそうしたんだ。かっこいいと思わない?』


 闇が薄くなりかけている。
私は青い海の底から浮かび上がったように、荒い息をしてそこにいた。
ここはバスタブか。
なんでこんなところにいるのか、思い出せない。でも、あまり思いだしたいと思うような内容ではないことは何となくわかった。
何度も意識を失っているが、もう眠りたかった。こうして起きているのは、ひどく疲れる。
新しく発見した事実にいちいち絶望するのはもう嫌だった。思い出も、もはや苦痛でしかなかった。
 私は、自ら目を閉じた。暗い暗い、深淵に沈んでいく……




 白い、汚れ一つない壁に朝日が当たり、一層その白さを際立たせていた。
動物のうなり声のようなパソコンの起動音は、時折思い出したように静寂をかき消す。
部屋の隅にある小型で銀色のテレビからは、議論をする大人たちの映像が映し出されていた。

『だからねぇ、何度言ったらわかるんですか? 私達は空想の話をしているのではない、現実問題を話し合ってるんですよ』

『そう信じたいだけでしょう。あなたは随分と独創的な考えを持っているようだけど、証拠がない以上ただの空想、いや妄想に過ぎませんよ』

『証拠ならいくらでもあります! あなたはそれから目を背けているだけでしょうが!』

『これだから右の人は……あのね、ロシアとアメリカが対立していたのは、もう何十年も前の話ですよ。冷戦構造は、当時のソ連が社会主義国家だったからこそ出来たものだし、今更何を心配する必要があるんですか』

『同じことを何でも言わせないでください。こちらにはちゃんと証拠があるんだ。ロシアでは、二十年前に激化した紛争は収束しつつあるし、経済の規模も回復している。国連での発言が、ここ数年妙に自信過剰に見えるのは、はったりではないんです。
彼の国は、再び世界を牛耳る巨大国家への野望を持ち始めたんですよ!』

『まったく、朝までやってここまで不毛な議論が続くなんて初めてだ。あなた気づいてますか? 自分がどれだけ非現実的な――』

 ぷち、と小さな音がして画面は沈黙した。
無言で入ってきた小柄の少年は、呆れたようにため息をつくと、中途半端に閉められていたカーテンを引いた。
途端に、目もくらむほどの光が部屋に差し込む。
その光で気づいたのか、ベッドの上で携帯電話を持ったまま眠っていた少女は、もぞもぞと体を動かした。

「おーい、もう九時だぞぉ。姉ちゃん、起きろー」

 少年は抑揚のない声で言って、テレビの上に乗っていた薄型のデジタル時計を操作し、思いっきり大音量の目覚まし音を鳴らした。
少女は、今度ははっきりと目を覚まし、がばっと飛び起きるようにベッドから上半身を起こした。

「……もう、起きてるってば」

「このくらいやんないと姉ちゃん起きないじゃん」

 彼は言って、スクリーンセーバーが起動したままのパソコンの画面に目を移した。

「それにしても、早く起きないといけないのに夜遅くまでPCとはね」

「眠れなかったの……」

 彼女の普段の声より数段低いオクターブの返事をする。

「睡眠薬でも飲めばよかったじゃん」

「そういう気分じゃなかったし……」

 少女は、寝癖のできた髪の毛をいじりながら、眠気眼で答える。

「まいいや。ご飯はもうとっくに出来てるから、早く食べたほうがいいよ。一時間半後に出発でしょ?」

「うん、わかった」

 消え入るような声で言って、この日のために用意した衣服を見上げた。
ハンガーにかけられた賑やかな色のそれは、目にうっすらとくまが出来ている彼女には、やや不釣合いに見えたが、彼女がそれを気にしている風には見えなかった。
 ――嬉しい。
彼女にはただその気持ちだけがあった。
生まれて初めて、ネットで知り合った人と会える、その感動が彼女を不眠症にさせ、基本的な雑事すらも手につかなくさせた。
 彼女は笑みを含んだ表情で、部屋を、世界を見渡し立ち上がった。その顔に痛々しさが垣間見えたのは何故だろう。
 そして、部屋を出て行くのと同時に、起きる直前まで見ていた不吉で不可解な夢は、彼女の記憶の彼方に葬り去られた。




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