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Last update 2008年03月16日

欺いた仮面  著者:かしのきタール



   Count-one  埋もれた声


『その時少女は、誰の目にも輝いているようにみえた。
 奇跡のような例外として、その存在を許されたのだ。』

奥歯に苦味が走った気がして、妙子は目を伏せながら、
半ば手探りでそのページに栞をはさみ、ダイニングテーブルの上に
文庫本を置いた。頭の側面に感じるひりつくような痛みは、
手のひらでおさえてなお増すようだ。
「……奇跡のような、例外。。。。」
両手で頭全部を抱え込むようにしてテーブルに突っ伏しながら、
妙子は、そうつぶやく自分が、どれほど奇跡にすがりつきたいと
願っているかを、思い知った気がした。
物語の中で、病気の少女に起こる奇跡は、死の間際にやっとかなう願いだった。
そう、それは最後の手段に違いない。

しばらく目を閉じて、あらゆる苦痛をなじませてから、
ゆっくりと立ち上がる。
洗面台の灯りを点け、鏡の前に立つと、輪郭のはっきりしない陰気な顔が、
じろりを自分を見つめ返していた。
化粧ポーチから取り出したパウダーで顔の脂をおさえ、
別の意志を持っているかのように強い色を放つ
ローズピンクの口紅を薄い唇に塗りつける。
顔をあげてむりやり笑うと、
印象の薄い顔から日紅だけが浮き出てみえた。
「いやな顔。」
自分を嘲り、心のバリアにすりかえる。
深呼吸をしてから、洗面台の灯りを消した。
園バスの到着時刻が迫っていた。

母親たちのざわめきが耳に届かなくなったのは
いつ頃からだっただろう。
そんなことを考える気力すらとうになくした自分に
妙子は気づいていた。
公園のあちらこちらでさんざめくハイトーンの音声は、
妙子の耳に届く前に、素早く泥の塊となって砂場の底に落ち、
吐き出す吐息は、砂にぽつぽつと不気味な穴を開けていく。

 ーーーせめて。
妙子はそれでも思うことがある。
音が空洞にならぬよう、努力をすべきだったのかもしれないと。
泥の塊をかきわけても、声は二度とあらわれてはこない。
妙子にとって、母親たちの音声を言葉として理解するには、
放たれるその瞬間に着地点を予想して待ち構える必要があった。

だから、考える。
せめて予想するすべさえ失っていなかったなら、と。。。。

        ★

「タカト、タカちゃん、ほら、ユウくんも、
そっち行っちゃダメ、道路に出ちゃうでしょ。」

真樹子は他の母親たちに体の正面を向けたまま、
両手をメガホンにして、タカトの背中に呼びかけた。
園バスから飛び降りてそのまま一目散に駆け出すのはいつものことだ。
タカトだけじゃなく、その公園を乗降場所にした園バスから降りてくる
園児のほとんどが、檻から放たれた小動物のように走り出す。

かろうじてまわれ右したタカトと、
同じく方向転換をしたユウの姿を確認して、
視線を元に戻すと、母親たちの輪の中にはいってきた
ミカが、ママに園バッグを預けながらだるそうに
体をもたれかけさせ話しかけていた。
「あのね今日ね、ようちえんでね。」
と言っているようだけれど、
園バスが到着するまでの大人たちの雑談に慣れきった耳には、
幼児の発声は唐突すぎてなかなか聞き取れない。

「……カメ? カメつくったの?」と訊き返した母親に、
ミカは「ちがうぅぅ~っ!」とヒステリーをおこしてしまった。
「ゴメン、ゴメン、ああ、仮面ね、そうか、ハロウィンだもんね」
謝る母親の太ももを、両手の「グー」で力いっぱい叩き始めたミカに、
真樹子をはじめ、他の母親たちも揃ってひざを曲げ、
「ママ、いたいよ、かわいそうだよー」と、
親しきママ友達の、かわいい子供をなだめにかかった。

園での長い一日を無事務めてきたという子供なりの達成感と、
母親の元へ戻ってきた安堵感との狭間でもがき、
母親の関心を自分へ向けようとする子供たちの相手をするのに
苦心しながらなお母たちのおしゃべりは終わらない。
芸能情報に詳しいナオくんママの話に盛り上がり過ぎて、
今日はまだ、お茶会の計画が立っていないのだった。

「いいわ、ウチにきて。」
決して無理しているようにだけは聞こえないよう気をつけて
真樹子が言うと、
「でもほら、倉田さんとこはこの前お邪魔したばかりだし。」
ウチでもいいのよ、とユウくんママは言ってくれるが、
それなら、とお願いする訳にもいかない。
誰もが、ウチでもいいんだけど、というセリフを
すぐに口に出せる用意を整えておいて、
誰かが先に口にするのを待っている。

「いいの。ダンナ、今日も遅いし。全然平気よ。」
 ーーー急いで掃除機だけはかけなくちゃ。
ジュースの買い置きあったかしら。
忙しく思いをめぐらせながら、
それだけではない気分の重さを感じて、真樹子は憂鬱になった。
高峰妙子のローズピンクの口元が、脳裏をよぎった。

        ★

真樹子たちママ友達は、同じ園バス乗り場を利用する
というだけでなく、同じ公団住宅に住むという共通点を持っていた。
ほぼ同じ間取りの2LDKに、似たような構成の家族が
多く入居していたその団地は、比較的家賃が安いこともあって、
母親たちは出産後慌てて働きに出ることもなく、
同じ頃に出産した母同士での付き合いを深めていった。

午前中、団地前の公園で子供を遊ばせながら立ち話をしたあと、
近くのスーパーで買い物をし、家に帰って
子供との昼食を済ませたら、午後からは、
誰かの家に集まるのが、ほぼ毎日の日課だった。
乳幼児を抱えた不自由さをまぎらわせ、
家に籠らざるを得ない孤独感を解決するために、それは、
必要不可欠なことに思えた。

子供が幼稚園にあがっても、それは自然に続いていた。
その頃になると、子供も二人に増えていたため、
上の子を幼稚園に送り出したあと、まだ歩くのも怪しい下の子を
公園で遊ばせながらおしゃべりし、お茶会の設定をしていったん別れ、
午後、幼稚園から戻ってきた子供を連れて誰かの家に上がりこむ。

 ーーーこの間、ウチでお茶した時は
と、真樹子は急いで掃除機を取り出しながら思う。
園で芋堀りがあった後だったから、
みんなそれぞれに、さつまいもを使った手作りのお菓子を
持参してくれたんだった。
ユウくんママのポテトケーキは美味しかったわ。
バターの分量が難しいのよね。今日は正確なレシピを教えてもらおう。
真樹子はその日、簡単なスイートポテトを作った。
みんなおいしいと言ってくれたけれど、
もう少ししっとり感が欲しかったと、残念に思っていた。

ざっと掃除機をかけて、脱ぎ散らかした洋服だけは片づけて。
どうせ部屋の間取りも同じ。
付き合いの長いママや、生まれた時から知っている子供たちに
気兼ねや遠慮はいらない。
「ウチにきて」と口火を切らざるをえなかった時によぎった
億劫な気分はもうすっかりなくなって、真樹子は
おしゃべりの続きがしたくてたまらなくなっていた。
ナオくんの芸能情報には続きがあるはずだったし、
お菓子作りの上手なユウくんママには今日こそレシピを聞きたいし、
下の子の誕生日が近いミカちゃんのママには
保健所の検診予定を確認したい。。。。

タカトのお迎えの時間を含めてぐっすりと昼寝していたアキトが、
掃除機の音で起きてきた。午前中の公園遊びで疲れて、
ちょうど園バスのお迎えの時刻に眠ってくれるアキトには助かる、
と真樹子は思う。

 ーーータカトはちっとも寝てくれない子だったから、しんどかったわ。
ママ友達に、いまだに真樹子はついこぼしてしまう。
それに比べて、2歳になったばかりのアキトは
赤ちゃんの頃から、本当に手のかからない子供だった。
声が枯れるまで泣き続ける癇癪持ちのタカトとは、
一緒に泣きたい気分で過ごした真樹子も、
教科書通りにミルクを飲んでは眠ってくれるアキトの育児には
まったくといっていいほど、苦労せずにすんだ。

ミカの弟のケンタは、アキトの一か月後に生まれた。
真樹子とは反対に、ミカには全然苦労しなかった、というママは、
駆け回っては危険なことにばかり手を出し、
昼寝したと思ってもすぐに起きてしまうケンタの激しさに
ほとほと参っているようで、
公園や団地や、ヘタをするとスーパーの中でも、
「ケンタ!!」と大声を張り上げるミカちゃんママの声が聞こえる。

タカトの一番の仲良しのユウの妹、アヤは、
アキトよりも半年遅い早生まれで、学年が違うことになる。
目がぱっちりと大きくまつげの長い、人形のような顔を見るたび
ママ達は口ぐちに「可愛いわねぇ」と眼尻を下げる。
この間は、ユウくんママから、
「最近、パパったらこの子にキスするから嫌われてんのよ。」という
暴露があって、体育会系のユウくんパパを皆一斉に思い浮かべ、
へぇあのパパさんが、という目くばせが飛び交ったものだ。

ナオには、トモという弟がいる。
二人とも男の子にしては静かだと真樹子はいつも感心する。
理知的よね、などと言うたび、ナオくんママは
「親がバカなのに理知的なワケないでしょー」と大きな声で跳ね返し、
ママたちはみな、お茶をこぼしそうになりながら笑う。

そんな時、空気の揺れのせいなのか、のけぞって笑う親の体が触れるのか、
たいてい、子供のうちの誰かが、盛大にジュースをこぼす。
そんな時も親たちは、勝手知ったる他人の家とばかりに
キッチンや洗面所を遠慮なく使って、
わいわいと掃除をし、落とした子供のプラカップをすすいで、
ジュースを注ぎ直す。

そこには、連帯感と信頼があった。
幼い子供を抱えて常に心の奥に抱え込まざるをえない、
親としての責任という漠然とした不安が、
同じ立場の者同士で共有し、おしゃべりし笑い合うことで、
絶ち消えてゆく。

いつまでも、そうであってほしいと真樹子は願う。
特に、実家が遠方にあって親の助けを借りられない真樹子は、
このママ友達だけが頼りだという気がする。

「そろそろみんな来る頃ね。」
寝起きのアキトがタカトと一緒に
ミニカーで遊び始めたのを眺める真樹子から、
ショウタくんママである高峰妙子の存在はもはや、
消え失せていた。

     Count-two 凍りつく顔

公園の中央にそびえ立つ滑り台に向かって
駆けて行くショウタを呼びとめるわけにもいかず、
妙子は小さくため息をついた。
思った通り、数メートル離れた先からショウタを見つけ、
本能的に妙子を探して首を回した倉田真樹子と目が合った。

他の母親たちの輪から動かず会釈をする真樹子の表情には、
本人が意識する前に、妙子に対する困惑がにじみ出てしまっている。
真樹子の気持ちを面白がるように、
最初からその存在を知っていた妙子が
大げさな笑顔で会釈を返すと、それを見届ないうちに、
妙子には見せない顔の真樹子が輪の中へ戻った。

真樹子たちの待つ園バスよりも数分早く、
公園の向こうの大通りに着くショウタが
大好きな滑り台を独占できるのは今のうちだ。
もうすぐ、タカトたちの乗った園バスが着く。

ショウタが、あれほど仲良しだったタカトのことを
口にしないのは、いくら幼稚園が別々とはいえ
不思議な気もするが、ありがたいと妙子は思う。

        ★

「珍しいわね、高峰さんでしょ。」
ユウくんママが、真樹子の後ろを覗き込むようにした。
「そうね、あまり見かけないわよね。」
答えながら、真樹子はニタリと笑う濃いピンク色の
口の形が頭に巣食った気がして、軽い寒気を覚えた。

高峰妙子は、真樹子たちの前に姿は見せなくても、
いつもどこかで真樹子たち。・・・いや、真樹子だけを
見ている。そんな気がしてならなかった。

たまにはお茶に誘ってみようかしら。ーーー以前のように。
そう思う時は何度もあったが、いつもどこか人目を避け、
ママ同士のにぎやかなつきあいを避けている様子の妙子には、
つい声をかけそびれてしまう。
きっと妙子の方も、大勢集まるお茶会には
来たがらないだろうと思うと、
誰も集まらない時に声をかける機会もないままに時は過ぎ、
時おりこうして顔を合わせるたび、気まずい空気を感じるように
なってしまった。

以前は親しくしていた妙子とそんな間柄になったことは
残念ではあるけれど、妙子と一緒にいたのでは、
今度は他のママ達との交流がしにくくなってしまう。
今さら無理に拘わろうとしない方が、お互いのためかもしれない。
真樹子はそう考えることにしていた。

 ーーーショウタくんとタカトを遊ばせてやれないのは
かわいそうなんだけど。
まだ乳児の頃のショウタとタカトを並んで寝かせ、
顔を見合わせ笑い合ったはずの妙子の笑顔を、
その時、真樹子はとうとう思い出せなかった。

        ★

タカトたちの園バスが着く前に、妙子の呼びかけに応えて
ショウタは大人しく団地に帰ってきてくれた。
真樹子たちはまたいつものように、公園から戻ってきたあと
さらにしばらく、階段の下で話し込むに違いない。
真樹子が住むのは、妙子と同じ棟の3階だから、
1階の妙子は、真樹子が使う階段の脇を通らなければ帰れない。
にぎやかに話し込む彼女たちの傍を通り抜ける時には、
拷問のような気分を味わう。
その前に、なんとしても、家に戻っていたかった。

ショウタの園服を脱がせ、靴下を脱がせる。
用意したシャツとズボンに着替えるように言いつけて、
テーブルにビスケットとジュースを置き、
ショウタの好きなプラレールをざっと並べておいて、
同じ列車の登場するプラレールのビデオをセットする。
こうしておけば、ショウタは大人しくひとりで過ごしていてくれる。

「おやつを食べる前によく手を洗うのよ。」
返事を待たずに、妙子はショウタが身に着けていたものを
ひとつひとつチェックする。
靴下についた泥汚れは、液体洗剤を擦り込んで、
手でもみ洗いをしてから、洗濯機に入れる。
一見汚れてはみえない園服も、
妙子には、際限のない種類の汚れがついていると思われて、
毎日洗濯しないではいられない。
園でかぶるベレー帽にも、毎日必ず、ブラシをかける。

洗濯ついでに、洗面台と風呂場の掃除もする。
湯垢を見つけ、「またあの人は。」とため息をつきながら、
すぐにスポンジで取り除く。
 ーーー石鹸を使ったらちゃんと泡を流してって言ってるのに。

夫の照直は、酒もタバコも飲まず、毎日、判で押したように
同じ時間に出勤し、同じ時刻に帰ってくる、実直なだけが
取り柄のような男だった。
口を出さない。文句を言わない。
 ・・・そして何も答えない。
それはつまり、家庭にも妻にも関心がないということだ。

商家で育ち、親の干渉が強かったことと、
容姿へのコンプレックスから、恋愛には消極的なまま、
20代のほとんどを終えようとしていた妙子の前に現れた照直を、
自分の親の覚えがいいだろうと踏んで付き合い始め、
20代のうちにと結婚を急いだ。

照直には、最初から何の期待もしていなかったと、
妙子は時々、自分に確認する。
 ーーー私には、ショウタがいる。
夫に似て、鉄道が好きで大人しいショウタは、
ききわけが、とてもいい。

「ママごめんなさい。ビスケットこぼしちゃった。」
テーブルにひとかけらのビスケットが落ちて、
小さな破片が砂のように広がっていた。
「いいわよ。あっちいってなさい。」
妙子は即座に微細なかけらすら残さぬようにテーブルの上を片付け、
午前中に使って片づけた掃除機を再び取り出して、
念のためにと、テーブルの下の掃除を始めた。

 ーーーそろそろ洗濯が終わるだろう。
あとはアイロンがけをして、
それからショウタのおやつの分の洗い物をして。。。。

お互いの家に呼び合っていた頃の真樹子のことを
時々妙子は思い出す。

ショウタが生まれた年に、タカトを連れて越してきた真樹子とは、
ごく自然に声を掛け合い、付き合いが始まった。
くったくのない笑顔で笑うことができる彼女に、
自分もそうでありたいと思い、そう見えるようにと、
一生懸命、笑顔でこたえたつもりだった。

一歳にならない頃のショウタとタカトを見比べながら、
体重の増え方を報告し合い、離乳食の相談をした。
思い出の中の真樹子の笑顔が、さっき見た困惑顔にすりかわる。

 ーーー真樹子とタカトが帰ったあとの掃除は楽だった。
取り戻せない過去にクサビを打つため、妙子は記憶もすりかえた。

賑やかな声が扉の外から響いてきた。
公園から戻ってきた真樹子たちに違いない。
心のクサビが震える音を、掃除機の音で打ち消した。


     Count-three 汚れた手

「ママ、外で遊んでいい?」
言うが早いか、もう扉を開ける音がする。

小さな弟や妹の世話をしながら、おしゃべりに忙しい母親たちに
幼稚園児はどうせかまってもらえない。
おもちゃで遊ぶのに飽きると、タカトたちは
すぐに外へ出て行ってしまう。
秋の日暮は早く、ついさっきまでの昼の明るさは
すでに夕暮れのそれに気押されたようにみえる。

団地の敷地内には、多少の植え込みと、自転車置き場、
駐車場、倉庫などがあって、タカトたち幼い子供にとっては、
通り一本隔てた公園よりも、よほど刺激的な遊び場に
なっていたけれど、子供だけで遊ばせるには危険だといえたし、
子供のせいで自動車に傷がついたつかないで、
遊ばせるな、というクレームも出たこともあり、
子供が出れば、親もついて出なければならない。

「公園で遊んでくれればいいのにねぇ。」
あっという間に出ていってしまったタカトたちには
気をつけて遊ぶようにと声をかけるヒマもない。
ミカちゃんママとナオくんママが、
それぞれひざに乗せていたケンタとトモ、それに、
真樹子の横で大人しくミニカーで遊んでいたアキトと
奥の部屋でひとりでお絵かきをしていたアヤにも
声をかけ、
「じゃ、子供たち見てくるわね。」と言って、あとを追う。
幼稚園の兄と姉を見張りながら、弟妹軍にも外遊びをさせるのだ。

ママ二人と子供たち全員が出て行ったあと、
さっきまでと同じ空間だとは思えないほど静かになった部屋で、
真樹子は後片付けのために残ってくれたユウくんママと一緒に、
食器を洗い始めた。大家族のような量の洗い物が
シンクにたっぷりと運ばれる。

「ショウタくん、外にいるかしらね。」
ユウくんママに言われて、真樹子はグラスをすすぐ手が
ビクンと跳ね上がるのを感じた。
「……どうかしら。」
「さっき、高峰さん、いたじゃない?
いつもすぐに大森公園まで行ってるんでしょ。」
大森公園は、団地の前の公園よりも200メートルほど先にある
広い公園で、真樹子たちもたまには行くけれど、
園バスの乗降場所にもなっている団地の前の公園で
毎日遊んでいるのに、わざわざ離れた場所まで行く
必要はないと思っている。

高峰妙子は、ショウタをわざわざ
タカトたちとは別の幼稚園へ入園させ、
わざわざ遠くの公園で遊ばせる。

妙子が砂場セットのバケツを持ったショウタの手を引いて
団地から出ていく後ろ姿を、
ユウくんママと一緒に見かけたあの日の不可解な気持ちが
蘇った。
 ーーー誰にも声をかけずにひとりで公園に行くなんて。
うすうす感じていた妙子との距離が
急に離れたのは、あの時ではなかっただろうか。

「ショウタくんって、誰と遊んでいるのかしらね。」
 ーーーわからないわ。と答えるのは薄情な気がする。
ユウくんママは、真樹子と妙子の関係をどう思っているのだろうか。
他のみんなは。。。?

真樹子よりもあとから入居してきた3人とは、
子供が同い年ということで、すぐに打ち解けた。
もちろん妙子も交えて付き合えると思っていた。
妙子との年齢差はひとつだけ。真樹子の方が上だった。
あとの3人は、もっとずっと若かったから、
むしろ真樹子は3人との付き合いに関しても、
妙子を頼りにしていたくらいだった。

付き合い始めの頃はよかったと真樹子はため息をつきたくなる。
それぞれの子供ひとりずつを連れた5人の立ち話は
尽きることがなく、団地に笑いがこだました。
その頃から、もっぱら集まるのは真樹子の部屋が多く、
5人のママに子供も5人、お菓子を食べながら
育児情報の交換もしたものだ。

 ーーーだけど。
思い出そうとするだけで、真樹子は暗い気持ちになるのを
止めることができない。
妙子は、当初から、5人が集まるとふいに黙り込むことが多かった。
真樹子と二人だった時にはあれほど笑い合ったのに、
5人になると妙子はいつもどこか上の空で、いつだったか
ナオくんママが、関西の味と関東の味の違いを熱弁して、
笑い声に包まれていた時に、ふいにユウくんママが、
「ショウタくんママはどちら?」と出身地を尋ねた時も、
妙子は何も答えずただ笑っていた。
 ーーーそう。
最初から誰の話も聞いていなかったとでも言うように。

妙子の部屋に集まったこともあった。
その時の妙子の眼つきを真樹子は忘れたことがない。
妙子は、ママたちの一挙手一投足を監視していた。
その眼は、クッキーの食べかすを払うナオくんママの手を追い、
溶けかかった飴のついた子供の手に
ジュースのはいったプラカップを握らせるユウくんママの
手元を凝視していた。
ではそろそろ、という時だった。
片付けのお手伝いをするわ、と申し出たミカちゃんママに、
妙子はきっぱりと言い放った。
「いいから。そのままにしておいてくれる。」
瞬間、空気がこわばるほどの断固とした口調だった。
あの日妙子は、皆が帰ってから、
一心不乱に掃除をしたのに違いない。

「さあ、外、見にいこうか。」
ユウくんママの声で我に返ると、いつの間にか
洗い物はすっかりキレイに、おもちゃもすべて片付いていた。
 ーーー高峰さんには、こういう世界は向かないのね。
けれど真樹子は、妙子の干渉嫌いが、それだけでは済まない
不吉な何かをはらんでいるように思えてならなかった。

妙子の態度は、若いママたちを簡単に失望させた。
会話の場に妙子がいても、彼女に話を向けることもなくなったし、
妙子も相変わらず上の空だった。

決定的だったのはやはり、
ママ友達の誰にも声をかけずにひとりショウタの手を引き
公園に行った妙子の姿を見た、あの日だっただろう。
あの頃、真樹子のお腹には、アキトの命が宿っていた。
そしておそらくそれは、他の3人にも同様に。。。


     Last-count 欺いた仮面

「奇跡」という言葉を意識した自分を
妙子は呪いたい気持ちだった。
いつものように大森公園に行けばよかったのだ。

いつも大勢の子供がたむろしている大森公園の滑り台では、
われ先にと上っていく子供の後ろについてばかりで
ちっとも滑れないでいる引っ込み思案の我が子を
妙子は見続けてきた。
団地の前の公園ならば、タカトたちが来るまでは、
砂場で遊ぶ小さな子供しかいない。
「今日は団地の公園で遊ぼうか。」
園バスから降りてきたショウタに言うと、ぱっと顔色を輝かせ、
早く早くと妙子の手を引いた。

真樹子たちとはなるべく顔を合わせたくなかった。
けれど、ショウタはもっと同じ団地の子供と遊びたいはずだった。
「団地の公園の滑り台」で遊びたいはずだった。
そんなショウタを思えば、真樹子たちと、いや、
真樹子とだけ、以前のように付き合いたかった。
真樹子となら、いつかふいに会話ができるのではないか、
そんな期待を抱かずにはいられなかったのだ。

 ーーー奇跡は起きない。
真樹子の固い顔つきに、しかし妙子は絶望するしかなかった。

真樹子との関係がすべてだった。他の3人では無理だった。
自分の経験したことのないきらめいた独身時代を経て間もない
「若いママたち」のおしゃべりのトーンは、妙子の耳にはなじまなかった。
自分を豊かにしたり、生活を愉しんだりする余裕など、
夫との会話ひとつに苦心する妙子には、到底考えられないことだった。
結婚してすぐに、夫に求めることをやめた妙子は
商家である実家で母親がいつもそうしていたように、
家を片付け清潔にすることだけを生き甲斐にしてきたのだ。

妙子の住む一階の部屋の窓から、ショウタの姿が見える。
今日は大森公園ではなく、団地前の公園で数回滑り台を
しただけだからと、外で遊ぶことを許したのだ。
もしかすると、ショウタになら、
真樹子たちの誰かが声をかけてくれるかもしれない。
奇跡を呪いながら、それでもなお、
「奇跡のような例外」に期待をかけずにはいられない自分を
妙子は認めた。

        ★

「タカトー、アキトー、ユウくんもミカちゃんも、
みんなおいでー。」

ハロウィンのかぼちゃの顔をした、大きな棒付きキャンディを手に
真樹子が呼びかけると、それを見つけた子どもたちが
一斉に駆け寄ってきた。

「さっすが、用意いいわね、タカくんママ。」
誰よりも先に駆け寄ってきたナオくんママに
ざっと半分の数のキャンディを手渡し、
「これでご機嫌とって早めに引き上げなきゃ。日も短くなったしね。」
と、西の空を見あげると、はやすっかり夕暮れに近づいた
ぼんやりとしたあかね色がにじんでいる。

ユウくんと、アヤちゃん。
ミカちゃんと、ケンタくん。
ナオくんと、トモくん。
そして、タカトに、アキト。
ナオくんママと二人で、いつものメンバーの他、
同じ場所で遊んでいた別の学年の子にも配る。
外では誰に出会うかわからない。
多めに用意したキャンディ。
ぬかりはないつもりだった。
「ショウタくんは、いないわね。」
きっと今日もどこかへ行っているんだろう。

        ★

妙子は眼を見張っていた。
真樹子たちが子供に何か配っているようだ。
学年の違う子にも渡している。
ショウタは。。。ショウタには。。。。

手頃な石を見つけたショウタは、その時ちょうど、
地面に絵を書きながら、倉庫の影になって
真樹子からは見えない位置まで移動していた。
騒ぎに気づいても、ショウタはそこから動けない。
自分からは駆け寄れない子供なのだ。

真樹子から何かを受け取った子供がこちらへひとり
やってきた。よく見るとそれはアキトだった。
ショウタの気配に吸い寄せられるように、
突然ふらふらとやってきた小さなアキトの手で
不気味なカボチャが大きな口をあけ、妙子を見て笑った。

        ★

力をこめてペダルをこぐ妙子の背中は汗ばんでいた。
10月も終わりとはいえ、穏やかな陽気に気温は決して低くない。
ましてや妙子がこぐ自転車の荷台では、
ナイロン製の大きな旅行バッグが重い体積を持って、
ハンドルを左右に振らせる。

数年前に妙子がバーゲンで買ったグレーの安物のバッグは、
結局一度も使われたことがない。
 ーーーあの人はきっと、これがなくなっても気づかないわね。。。
頭に浮かぶ照直の顔はいつも斜め下にかしいでいて、
どんな表情をしているのか、想像ですらわからない。
 ーーー今夜の晩ごはんは昨日の肉じゃががあるから
買い物は少しで大丈夫だわ。。。
 ーーーショウタのお迎えには間に合うように
家に戻っていなければ。。。
今日は延長保育だから、いつもよりずっと遅い時間の
お迎えでいい。

実家までは、あと20分ほどかかるだろうか。

        ★

「Trick or treat.」に、「Happy Halloween」
それらしき呪文を、紙皿で作ったカボチャの仮面をつけたタカトたちが
大声でがなっている。子供にとっては、ハロウインも
園でのお楽しみ会のひとついう意味しかないだろうけれど、
それでも仮装のまねごとをしたり、お菓子をももらえたりするのは
この間の音楽発表会よりもずっと楽しいということは
真樹子にもよくわかる。

魔法使いのつもりなのだろう、厚紙を丸めて作った
細長い三角帽をかぶってるのはミカだ。
タカトたち男の子は、黒いマントを着けて気取っている。
園での興奮さめやらぬまま、バスを降りてからも、
いつもの遊び仲間だけで再びお祭りを開始するつもりなのか、
あらためて盛大にかけ声をかけはじめた。
「とりっとりりっ」「とりっこわっとっとっ」
「トリックオアトリート」とはとても聞こえないが、
覚えた呪文を叫ぶのに夢中になっているタカトに
真樹子はふと頬を緩ませ、そして思わず・・・眼を伏せた。

「どうかした?」いつものようにまっ先に気がついた
ユウくんママが、真樹子の顔を覗き込む。
「なんでもないの。ごめんね。」
答えながら真樹子は昨日の夕方のことを思い出していた。

 ーーーショウタくんがいたなんて。

キャンディをすべて配り終えた時だった。
ふいに真樹子の視界に妙子がはいった。
妙子はちょうど、自分の部屋から出てきたところだった。
その向かう先には。。。ショウタがいた。

 ーーー見られていた。

真樹子たちが子供にキャンディを配ったところも、
ショウタに気づかず渡さなかったところも。。。
 ・・・・いや、わざとショウタにだけ渡さなかったと
妙子は思ったのではないか。
ショウタを連れて部屋に戻る妙子からは、
真樹子を責める声なき叫びが聞こえた気がした。
まだ心配そうにしているユウくんママに向かって笑顔を作りながら、
真樹子は嫌な予感に吐き気を覚えた。

        ★

妙子が手まねきをすると、アキトはすぐにやってきた。
ハロウインにわき立つタカトたちのせいで、アキトも
興奮しているらしかった。
タカトにねだってもカボチャの仮面は貸してもらえず、
かわりに黒いマントをつけられて、それでもアキトはご機嫌だった。

真樹子に似て細面のタカトとは違い、
アキトの顔は女の子のようにふっくらと丸く色白で、
二重まぶたが黒目がちな瞳をさらに大きく見せていた。
そんなアキトに妙子は何の感情も抱くことができない。

 ーーーこの子さえ産まれなければ、
真樹子と自分はずっと一緒にいられたのに。
アキトを見かけるたび苦々しい思いにかられていた妙子は
いつしかアキトの存在を認められなくなっていた。
この子が消えれば真樹子とあの3人をつなぐ糸はきれるだろう。
また以前のように、二人だけで付き合うことも
できるかもしれない。

あの日、ショウタだけがもらえなかったキャンディは
黄色い悪魔の顔をして、アキトの手から、妙子を嘲り笑っていた。
その瞬間、妙子は奇跡を起こす方法を知ったのだ。
「奇跡のような例外」を。

お菓子がもらえると信じているアキトがさしだした小さな手を
つかむ妙子の耳に、「こっちへおいで」と誘う声がした。
それは自分とはまるで違った、低く凍えるような声だった。

        ★

機械的にペダルをこぎ続けながら、妙子は再び
片頭痛を起こし始めた頭でとりとめもなく考え続けていた。
ぼんやりとした視界で、けれど空が青いことはわかった。
黒いマントに少し力をこめただけで動かなくなったアキトのことを、
妙子は初めて認めていた。「ききわけのいい子」だと。

 ーーー照直は今日もいつもの時間に帰るだろう。
たまには顔を見ておかえりなさいと微笑んでみよう。
 ーーーショウタは今頃園でお菓子を食べているかしら。
ハロウインのキャンディはもらえたかしら。

味わったことのない、不思議に穏やかな気持ちが
妙子を包み込んでいた。
あとは片付ればいいだけだ。実家の敷地は広い。
シャベルは庭の裏手の倉庫の扉にかけてある。

妙子の周囲が懐かしい景色に変わった。
実家まではもうすぐだ。

最後の交差点を曲がる時、荷台のバッグが大きくかしいだ。




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