Mystery Circle 作品置き場

宇津木

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nightstalker

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Last update 2008年03月16日

猫酒場  著者:宇津木



 胸の芯が繰り返し痛いと悲鳴を上げている。呼吸すらもう満足には出来ない。
 ああ、しくじった!
 などという台詞さえ吐けないほどに、男は疲弊していた。足取りはおぼつかず、地面をするようにしてどうにか一歩、一歩、足を前に運んでいるが、顎は前に出て、口は半開き、舌がその半開きの口からのぞいている。
 ある国ではものすごく疲れたときの形容詞を「犬のように」と表現するようだが、言い得て妙だ。そんなことを、男はつい二時間ほど前に考えて納得したのだが、今となってはその余裕すらない。
 男は、しくじったのだ。
 うまく騙せると思った。空港に入るまでは完璧だった。いつものように整備員に成りすまして自分のセスナに近づいたまでは成功。
 だが、離陸してすぐに追っ手がかかった。インターポールかと思いきや、空軍だったのが男の想定外。
 そして操縦技術で負けたのは想定内。
 だが、不時着が国境を越えていたのが不幸中の幸い。
 でもそこが砂漠だったのはやはり泣きっ面に蜂。
 砂丘が果てしなく続くだけが砂漠じゃない。岩石砂漠や、礫砂漠なんていうのも立派な砂漠で、今男が歩いているのは”枯れている”のか”生えている”のかもよくわからない褪せた色の背の低い植物が散在する礫砂漠だった。砂ほど足はとられないが、水分は容赦なく蒸発していく、やはり砂漠は死の土地なのかもしれない。
 セスナが不時着したのは、中央アジアの小国の国境山脈を越えてすぐのこと。そして眼下に果てしなく広がっていた不毛の土地。
 この土地の先には、確か町があるはずだと歩き始めたのだが、水も食料も持たない自殺のような行軍に未来はない。今日疲れて眠っても死にはしないだろうが、これがあと二日続けば確実に命は危なくなる。何しろ食べ物も飲み物も無いのだ。
 国際的に有名な詐欺師もこうなれば形無しである。
 男は整った顔と、元来の話し上手、小手先の器用さと大胆さ、そして性根の悪さから、選んだ道は詐欺師であった。はじめは結婚詐欺や、葬式詐欺にはじまり、最近は企業間の取引詐欺や銀行の貸付詐欺など、規模も金額も大きくなって国際指名手配は数十件の大物。
 とはいえ、空軍に撃墜されるなんてまさか思ってもいなかった。 備えあれば憂い無し。備えよ常に。だが今、備えは無く、力も無く、気力さえもう尽きかけている。哀れ詐欺師はとぼとぼ歩く。

 へぶしっ!

 ついに男は顔面から倒れこんだ。
 と思ったら、こけただけ。何かに足をとられたようだ。見れば足元には小さな小瓶。
 水!
 と思って開けてみれば残念、それは空の瓶。もし液体が入っていたのなら、それが数日放置されてばい菌の湧いた雨水であろうと、ノニジュースであろうと、青酸カリであろうと飲み干していたこと間違いない。
 男はがっくりと肩を落として、ついにはそこにうつぶせに倒れてしまった。もう太陽に焼かれようが、豹に食われようが、どうでもいい。
 疲れていた。
 持ち前の余裕さえ失った男は人生をついには神に手渡そうとしたそのとき、神の方が天国になんか来て欲しくないと男を拒否をしたのだろうか。突然、うまそうなスープの匂いが辺りに漂った。
 もう駄目だ。飯の妄想が抑えられない。嘘でもいい。そのうまそうな匂いの源は。
 男が顔を上げればそこには一軒の古びた酒場。
 ああ、ついに。哀れ稀代の詐欺師は発狂。かと思いきやこの男、意外とまともであった。少なくとも目の前にあるこの光景を理解しようと努力する程度には。
 つねる頬。鈍い痛みと痙攣する手首。それほどまでに疲労が溜まっていながらも痛さは感じ、目の前の酒場が少なくとも夢幻では無いと実感する。迷っていてもしょうがない。入ればわかる。食えばわかる。男はよろけながらも立ち上がると、その蝶番で留めてあるだけの木の扉を押した。
 カラン、という音。新参の者に振り向く客の目、目、目。
 一瞬の違和感。
 そして、男はようやく渇いた口で呟いた。

「猫ぉ……」

 客たちは、いや、猫達はその言葉に髭でピクリと反応し、そしてすぐに口を大きくあけて笑った。もはやその笑い声がニャアニャアなのか、ワハハハなのかもわからないほどに、この詐欺師は呆然とする。
 黒に茶トラにブチに三毛。縦長の目に長短様々な尻尾。ああ、これは悪い夢だ。
 猫、ああ、猫。猫、猫、猫!
 全てが猫だ。客も、バーテンも、カウンターでギムレットを飲んでるのも、テーブルで向かい合ってビールを飲んでるカップルも、皆猫だ。二足で立ち、椅子に座り、酒を飲む、160から200センチもある、大きな猫だ。
「こっち来て座りなよ、兄ちゃん。疲れてるみたいじゃないか。道に迷ったか?
 なぁに、取って食ったりしないさ」
 一匹の猫がそう言って、手招きをした。だが男は動けない。猫達の好奇心に満ちた目が、何かを探っているような目が、男を射抜いて離さない。
 だが、この困惑する惨めな男は、もはや喉の渇きにも空腹にも抗えなかった。それら食に対する欲求は、驚くべきことに恐怖や不可思議への違和感さえも超越したのだ。
 きっかけは、カウンターの中にいたバーテンと思わしき猫が大きなグラスになみなみと牛乳を注いだこと。
「お疲れのようだ。まあミルクでも飲んで落ち着かれるとよいでしょう」
 次の瞬間にはもう男はわき目も振らずにカウンターに突進し、そのジョッキを両手で掴むや否や、口に押し当てて喉へと流し込んだ。口の端からこぼれるのなど気にしている余裕は、もはやない。
 いつもは気取った詐欺師だけに、こんな惨めで浅ましい姿など決して見せないはずだったが、命の瀬戸際で男はそんなことさえ考えられずにいた。
 ジョッキをおかわりして二杯の牛乳を飲み干し、男はようやく落ち着いた。
「いい飲みっぷりだな、兄ちゃん」
 落ち着いてはじめて隣の猫をよく見れば、人一倍、いや猫一倍体の大きい茶トラだ。
「迷ったのかい?」
「ええ、まあ」
 今になって戸惑いが戻ってくるが、恐怖はかなり軽減されていた。牛乳で命を救われたのは大きいようだ。
「驚いただろ。俺たちはめったに人間の前に出て行かねぇからな」
「あなた方は猫、ですよね?」
「ああ、猫だ猫! お猫様だよぉ!!」
 どうやらすでに出来上がっているらしい。ご機嫌にそう言いながら、分厚い肉球でばしばしたたいてくる。その猫パンチたるや相当の破壊力で、男は痛みに眉をしかめるが、酔っ払い猫はお構いなし。
「兄ちゃん知らないだろぉ。猫ってのは本当は俺たちみたいにでっかいんだぜ。だけどでっかいと、それだけ生きてくのが難しいんだ。恨む訳じゃねえけど、人間ってのは自分よりでかい生き物が近くにいるのが怖いんだろ。昔は一緒に暮らしてた時期もあったがな、たいてい恐怖が虐殺に発展しちまう。だからこうして人目につかないところでこっそり住んでるってわけ」
 酔っ払い猫の話に、バーテンも加わってくる。
「普段は人間の目に見えないようにしているんですけどね。こうしてたまには私たちを見つける人間もいるんですよ。まあ、人間社会に戻ってそんな話をしたって、信じてもらえるわけじゃありませんから、幸いにも存在を知られることなく過ごしてこれましたけど。……何か作りましょうか。おなか、空いていらっしゃるでしょう?」
 はい、と応えたいところだが、男には残念ながら猫に通用する金など持ち合わせがあろうはずがない。だが猫バーテンはその辺のこともしっかりわかっているようで、首を振った。
「お金なんか要らないですよ。こうして出会えたのは何かの縁ですから。本当に珍しいんですよ、人間と会うのは」
 金が無いのにいかに騙して食事をしようかと考えていた男だが、今回は素直にバーテン猫の好意に甘えることにして、だが猫メニューなどわかろうはずも無く、適当にお願いしますと頭を下げる。
 その出てきた料理の美味しかったこと!
 炊いた米になにやら黄土色の熱いスープをかけ、そこに茶色い木の皮のようなもの ―後で聞いたらそれは鰹だと言われて驚いた― をまぶしただけの簡単な料理。だが、白米にしょっぱいスープが上手く絡み合い、そこにあの乾燥鰹がいい塩味とアクセントを効かせている。この上なく美味しい食事だった。消化にも良いらしく、食べ物を渇望していた胃は瞬く間にこれを吸収し、満足感を男に伝えてくる。
 仕事柄上流階級を気取り、社交界や秘密クラブで高級料理を味わってきた男でも、この料理だけは格別だ。まさにどの五つ星レストランにも負けない、グレイトな料理。
 男はすっかり満足して、バーテンに礼を言った。
 猫達はいつの間にか自分達の話に戻っており、今男を気にしているのは隣の茶トラと、目の前のバーテンだけ。
「それにしても珍しいなぁ、人間に会うなんて。何年ぶりだ?」
「本当に珍しいですねぇ。」
 珍しいということは、ゼロではないということだ。なのに大きい猫が山奥に住んでいるという話は聞いたことがない。誰も信じてくれないからだろうか。
 男が考えていることを察したように、バーテンは苦笑いで頷いた。
「まあ、私達を見る人は稀にいるわけですが、なぜか小説家の方が多いんですよ。ほら、猫を題材として扱った小説、少なく無いでしょう? ただ猫好きが高じて作品を書くだけならそれほど害は無いのですが、稀にね、私達を見てしまって、それを作品にする人がいるんですよ。これが厄介でね。きっと気にすることは無いのですが、それでも敏感になるのです。猫の文学は、なぜか売れますからねぇ」
 男はすっかり和んでしまった。職業柄、人を見る目は鋭いという自負がある。その目で見て、少なくとも人間の感覚で言えば悪い猫達ではないと思ったからだ。
「へぇ、それは知りませんでした。日頃、あまり小説というものは読まないので。猫の出てくる小説といっても、ポーの『黒猫』くらいしか……」
「ああ、『黒猫』。あれは人間心理を描いているいい作品だと思いますよ。ポーも我々の仲間を見たことがあると、そう聞いております。だけど彼はそれを巧妙に作品に織り交ぜるにとどまった。もっと直接的なのは、萩原朔太郎という作家の『猫町』という作品なのですが、ご存知ですか?」
「いや……」
 名前も、作品名も聞いた事のない作家だ。
「これは日本での話なのですがね、山里にあった猫の町が作家に偶然発見されてしまいました。猫も油断してたんですね。いつもなら化けてやり過ごすところですが、正体を見られてしまったのです。困ったことに、その作家はそれを小説に書いてしまいました。見事な描写でね、本当に説得力のある……。人間社会ではよい作品として評価されただけにとどまりましたが、猫の方は念には念を入れて、とその村を廃して移ってしまったのです」
「それは、ずいぶんと用心深いですね。こう言ってはなんだが、猫の小説などたいして気にする人はいないでしょう?」
「それでも、小説の舞台になったと聞けば訪れる人が増えますし、それが猫の小説ならそこにいる猫への視線も集まるというものです。危険なのですよ」
「そうそう、俺たちってば潜み隠れる存在だからよぉ!!」
 茶トラのどことなく寂しい大声のなかで、男はピンと来た。
「その逃げてきた猫というのは、あなた達のことではないですか?」
 バーテンは、だが男の指摘に驚くこともなく、にっこりと頷く。その笑みはまるで過去を思い出すことに麻痺したかのような、見ていたくない笑みだ。男はそんなバーテン猫の表情を見て指摘してしまったことを後悔したが、当の猫はそんな男の気持ちなど知らずに口を開いた。
「ええ、私達です。もう遠い昔ですね、日本を逃れてこの砂漠まで来ました。私たちは二度と故郷を捨てたくなかったのですよ。ここなら、そう簡単に見つからない」
「でも、そうだとしたら何故私を助けたのですか? 私は人間です。その作家のように、あなた達を危険に陥れるかもしれないというのに」
「それでも、死にかけている人間を見捨てられるほど薄情になることは、出来なかったのです。私達はみんな、一度は人間と暮らした事のある猫ですからね」
「ま、祖先は飼い主に懐きすぎて鍋島騒動なんてのも起こしたけどなぁ」
 バーテン猫と酔っ払い猫が語るには、普段人間が見ている猫というのは幼少猫なのだそうだ。その小さい姿のときに人と暮らしたり、人の社会の中で生きる。だが十年を過ぎると、猫には試練の成長期が来る。猫が死期に姿を隠すというのはとんだ間違いで、本当は自身の成長を感じて隠れるのだそうだ。そうして人よりも大きくなった猫は人の世界から隠れて暮らすか、生活のほとんどを人間に化けて人間世界で暮らすのだという。
「私達が人里近くに住んでいたのは、人間のぬくもりが忘れられなかったからです。でも、四六時中人間に化けているだけの力を、持っていなかった。私達は弱い猫なのです。でも、こうして逃げてきた今でさえ、人間を見ると助けずにはいられない」
「でもそんなあなた達の人間好きのおかげで、私は救われました。私は、恥ずかしながら人間でありながら人間社会の中で逃げ隠れしなければならないような者です。でもだからこそ、私を助けたという行為がどれほど危険なことかは知っているつもりです。そんな危険を冒してまで助けてくれたあなた達のご恩は、決して忘れません」
 涙さえ浮かべて男はバーテンの手を握った。大きな肉球をしっかりと握り締める。
 なぜか隣では泣き上戸なのか酔っ払い猫が呑みながら涙を流して感心していた。
「兄ちゃん若そうに見えるのに苦労してるねぇ。通りで所作が洗練されてるんだなぁ。男気もあるし、あんたは悪い人間なんかじゃねぇよぉ」
 バーテンも深く頷く。
「どこか様子が違うと思っていましたが、なるほどそういうわけですか。でしたらお客さん、同じ世間から隠れる者としてお願いがあります。どうか人間の世界に戻っても私達猫のことはお話にならないで頂きたいのです」
 男は真剣なまなざしで二匹の猫を見つめ、そして力強く頷いた。
「もちろんです。私を助けることが、あなた達にとっては自分達の住処を失うリスクを伴うというのに、それでもこんなに良くしてくれた。私は詐欺師ですが、それでも義理と人情は忘れていないつもりです。約束しましょう、決してあなた達の住処を話したりはしないと」
 猫二匹は顔を見合わせて、安堵したように深く息を吐いた。その表情は、穏やかだ。安心したのか髭が下を向く。
 やがてバーテンは棚の奥からきれいな小瓶を取り出した。男がこの酒場の前で拾ったあの空瓶と同じ。だが、中には空色の液体が入っている。
「これは?」
「猫の好きな酒ですよ。どんな猫もこれなら一発で酔って朝まで起きないのです。人間の方の口に合うかどうかわかりませんが、よかったら飲んでください。あなたの人間性を信頼しての、私からのささやかなプレゼントだと思って」
「兄ちゃん飲んでおけよ、こいつは本当に美味い酒なんだ。俺たちは一年に一度くらいしか飲めない高級なものだしな」
 気づけば、酒場中の猫が物欲しそうにこちらを見ている。
「それでは、ご好意に甘えて」
 男は一挙手一投足を周りの猫たちが横目で気にしているのがわかった。
 男は衆猫環視の中、手にすっぽりと入るほどのその小瓶を握り、もう片方の手を腰に当て、仁王立ちしながら一気に飲み干す。
「いい飲みっぷりだねぇ、兄ちゃん!」
 コトリ、と空になった瓶を男はカウンターに置き、自身も椅子に座りなおした。
「美味しいですね。……あれ? 疲れてるからかな。なんだかとても眠くなってきました。もっと皆さんとお話したいのに……」
 彼はそう言うなりそのままカウンターに突っ伏してしまった。
 次の瞬間には、すでに男は砂の感触を頬に感じていた。しばらく目を瞑ったまま様子をうかがうが、何の音も声もしない。それどころか先ほどまで立ち込めていた上手そうなスープの匂いも、喧騒も全くなく、聞こえるのはただ風の音だけ。
 ともすればあの猫酒場は夢だったのではないかと思えるが、それでも男の袖の中には空色の液体が入った小瓶の気配があった。とっさに、最初に拾った小瓶とすり替えて、飲んだように見せかけたあの空色の酒。きっと、記憶を消すような作用のあるものだろうと男は考えていた。ただの勘だが、詐欺師として研ぎ澄まされた勘に男は自信を持っている。だからこそ、一か八かで小瓶の中身を飲まなかったのだ。
 彼は目を瞑ったまま、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。
 男は、生粋の詐欺師であり、そして筋金入りの悪党だった。

「もう駄目、お酒くらいでこんなになっちゃうなんて……」
 今にも腰が砕けそうなほど足元のおぼつかない女を、男はどうにかホテルの一室まで連れ込んだ。外は酷い雨で、二人とも足元はびしょぬれだ。男はすぐにでもシャワーを浴びたかったが、泥酔した女を抱えていてはそういうわけにもいかない。
 あの酒の効果は、恐るべきものだった。なんとか無事に帰国して一ヶ月、男は行きずりの女達の酒に一滴ずつあの液体を混ぜて反応をうかがった。そのほとんどは麻薬のような快感を感じて泥酔。稀に、そのまま精神が現実に帰ってこない者もいたほどだ。そして総じて酒を飲んだ前後の記憶をなくしている。
 今目の前で泥酔している彼女は、行きずりではない。ついでに、決して酒に弱い女ではない。それどころか、男が知る限り彼女はざるだった。その彼女がこの有様なら、やはりアレは尋常ではない飲み物だ。
 仕事に誘うために飲ませてみたのだが、あるいは失敗だったかもしれないと若干後悔をしていた。
「このお酒、これが今度の新しい仕事ぉ?」
 彼女は男の仕事上でのパートナーでもある。酒で酔っても仕事のことが彼女の頭からはなれることはなく、男は彼女のそういうところが気に入っていた。性格は気まぐれでわがままだが、仕事ではもう長い付き合いになる有能な詐欺仲間だ。今回のヤマも彼女と組む事にしていた。この猫の酒の影響が酷くなければ……。
「これはお酒じゃないわねぇ。クスリでもなさそうだけどぉ、何これ?」
 その瓶を手にした事情を、彼女には簡単に説明した。詐欺師仲間の共通認識なのか、彼女がこの話を嘘でないと見抜いたからかはしらないが、本来であれば笑い飛ばすような話を彼女は真剣に聞く。
「それで、これはそのときに猫にもらった酒さ。記憶を失う代わりに、今までにないほどの高揚感が得られる。使い道は多いと思うがね。間違いなく売れる」
「でも、作り方はわからなかったんでしょう?」
「だから、奪いに行くんだよ。化け猫の巣を襲って、あいつらに製造方法を聞くんだ」
「ふうん。じゃあ詳しいことは明日あたしがしゃきっとしてるときにもう一度話して。今は駄目。頭がぐるぐる回っちゃってまともな判断なんてできないわぁ」
 やっぱり、酒に溺れても仕事のことは忘れてない。まともな判断は出来ないと言いながらも、いい判断だ。
 女はふと立ち上がった瞬間にバランスを崩して男にしだれかかり、男はそれを抱きとめた。
「でもねぇ、猫は敵に回さない方がいいわよぉ。猫ってあっちこっちで抜け目なく見てるんだからさぁ」
 そういえばこの女は猫好きだったなと思いながら、女の背中に手を回す。
「猫なんか怖がることないさ。ただの臆病な生き物だよ」
「臆病だから、用心深いのよぉ」
 女はとろけるような声でそう呟いて、ふと男の肩の上で顔を上げた。
「きれい、くるくる星のウズができるわ」
 何を言っているのかと女が見ているほうに首を捻れば、確かに男の真後ろにある窓からは無数の星が輝いている。酒に酔った女には、目が回って渦のように見えているのだろう。全く笑わせる。

 だが、ふと男は止まった。

 星が出ているはずなどないのだ。
 何しろ酷い雨だったのだから。
 それに彼女は筋金入りの詐欺師。無意味な発言など、しない。たとえ酒に酔っていたとしても、その言葉には意味があるはずだ。
 女を抱いたまま振り返って、男は膠着した。さっき振り返って見たときに星のように見えたその光が、ゆらゆらと揺れながら近づいてくるのだ。
 ふいに、女が信じられないほどの強さでしがみついてきた。背中に爪が突き刺さる。それは人間の爪ではなく、深く突き刺さる動物の……。
 窓の外の光が、一斉に動いた。二対ずつのそれが、闇夜に光る猫の目であると気づいたときにはもう遅い。
 背中の痛みに耐えながら女を引き離そうと試みるが、彼女は信じられないほどの強さで男の体を締め付けてくる。狂ったような猫の鳴き声が窓の外から聞こえる。
 猫だ。ああ、猫。猫、猫、猫! 
 窓ガラスががたがたと音を立てるのは、風のせいだけではない。何匹もの猫たちが、その窓近くの木から、ベランダの柵から、屋根の上から部屋を覗き込み、近くにいる猫がその窓を叩いているのだ。
 階下から、人の悲鳴と猫の凶暴な鳴き声が聞こえてきた。窓を叩く猫達の力も強くなってくる。
 猫たちが階段を上がってくる気配。でも男は動けない。逃げようにもしがみつく女の力強さに、身動きさえ出来ないのだ。見ればしがみついている女の首筋は、いつもの柔らかい彼女のそれではなく、真っ白く艶やかな毛に覆われている。
 耳元で、彼女、いやその猫は囁いた。
「ねえ、注文の多い料理店って知ってる?」




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