Mystery Circle 作品置き場

国見弥一

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nightstalker

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Last update 2008年03月16日

夜という海  著者:国見弥一



「また長い夜になる…。」

 彼は誰にともなく呟いた。
 一人きりの部屋なのに、彼は誰彼の顔が思い浮かぶと何か言葉を掛けないと気がすまない。

 返事はない。
 あるはずがない。
 それは彼にもわかっていた。
 語りかけた言葉が薄暗い部屋の中に呑み込まれるようにして消えていく。
 いっそのこと、消えていった言葉を追いかけていこうか、そんな衝動に駆られることさえ彼にはあった。

 彼女が来ない夜には特にそんな衝動が強くなる。
 カーテンの向こうの暗い部分に投げかけた言葉は、窓をすり抜け、闇の海へ飛び立っていく。
 そうして、やがては言葉が女という形を採って現れているに違いない…。彼にはそう思えてならないのだった。

 が、いつもはもう来ていても構わないはずの刻限をとっくに過ぎているのに、彼の発した言葉の結晶は、一向に姿を現さない。

 カーテンを開いて窓の外を眺めて…。
 そんな真似は彼には出来なかった。
 彼女を待ち望んでいるだなんて、自分でも認めたくはなかった。
 まして、女に待ち焦がれる姿を見られてしまうなんて、彼にはあってはならないことなのだった。

 彼女は来ない。
 来ないだなんて、信じたくはない。
 そう、それこそあってはならないはずの現実。

 彼はだから心ならずも、同じ言葉を発してみた。今度は部屋の灯りを消して。
 カーテンを開け、窓の外を眺めながら…。

 月影はない。街灯の明かりも弱々しい。星の数が秋の夜らしく多いように感じられる。

 彼はとうとう我慢がならず、窓を開け、人影のないことを確かめ、秋の夜に向って言葉を投げかけてみた。

「また長い夜になる…。」

 言葉は冬の日の吐息のように白い影となって辺りを彷徨っているようだった。
 彼の気持ちさながら、行方を見出しかねて、夜道をうろつくしかないのかもしれない。

 彼女が現れる夜は短い。あっという間に過ぎていく。呆気ないほどに夜の明けるのが早い。

 それだけに、彼女の来ない夜は、ただただ長くなる。夜の深さを眺めて過ごすしかない。心の空白を、肉の身の性懲りのない疼きを呪うしかない。髪の毛の先が耳たぶの裏側を、首筋を、時に額や頬をさえ擽る。

 髪の毛を一本、一本と数えて過ごしたくなる。大概、百本も行かないうちに、毛をつかみ損ねてしまう。
 そうなると最初から数え直すことになり、頭髪の十分の一も数えないうちに夜が明けてしまうのだ。

 そんな夜になるのだろう。うんざりする…。
「また長い夜になる…。」
 お前なら、この言葉を聴いただけで駆けつけてくるはずじゃないか! 今までだってそうだったろう?!

 お前との夜は短い。でも、長い。赤い闇が二人を包んでいたじゃないか!

 彼は、心からの悲鳴に似た言葉は発しない。
 ただ、見通しの悪くない真っ直ぐな道の先を眺めているだけだった。

 ポツンと取り残されたように立っている電柱が、近くの民家の軒灯に照らされている。あの先辺りから彼女が姿を現すのだ…。

 電柱の小さな広告看板が彼にはやけに真っ白に輝いて見えた。
 その白々しい看板は彼に何かを連想させずにはいなかった。

 あの日、彼女が残していったメモ。

 文面などとっくに忘れている。
 いや、忘れたことにしている。
 その日から彼女が来ないのは、偶然に過ぎないと思いたがっている。

 あんな内容など、彼に認められるはずはない。
 これまで何度も姿を現し、一緒に朝まで過ごしたじゃないか!
 外階段をコンコンと上り、足音が次第に部屋に近付いてくる。
 コツコツという足音がドアの前で止まる。
 ドアを叩く音。

 あれがウソだったというのか。錯覚だったというのか!
 耳の底に靴音が今も響いているぞ!

 オレがお前に何をしたというのだ。あの夜だって、うまく行ってたじゃないか。
 そうだろ?

 お前がこの部屋は殺風景だからと持ってきた白いプランターは今だって確かにここ、窓の手すりにあるじゃないか!
 その時だった。彼は初めてプランターのステノカーパスの葉っぱがすっかり赤茶けていることに気付いた。

 確か、彼女は日当たりのいい、風通しのいい場所でって言っていた…はず…、寒さには強いし、とも。水は土が乾いたら、たっぷりとって…。

 あっ、彼女は、直射日光を避けた、明るい室内でって言っていたのだっけ。

 でも、彼女はここへ来た時だって、一度だって窓の外の手すりに置いてあることに文句は言わなかった。だから、このままでいいんだと思っていたんだ…。
 お前は来るたびにプランターの様子を見ていたじゃないか。

 彼はまるで彼女がそこにいるかのように、懸命になって弁解していた。

 二人の諍(いさか)いは、他愛もないものだった。
 彼にはそう思えていた。喧嘩はしょっちゅうだったけど、仲直りはいつだってすぐにできた。

 それなのに、なぜお前は今日、来ないのだ!

 ああ、お前が来ないのは、この涸らしてしまったステノカーパスのせいだったのか?!
 彼は慌てて水をやった。

 でも、もう水をやろうと元には戻るはずもなかった。

 彼は悄然として机のほうへ向った。
 机の上のメモに目をやった。

 メモには、「わたしはあなたのところに来たことはありません」とあるだけ。彼の手書きで。

 振り向くと、プランターも消えてなくなっていた。
 最初からなかったのだから、当たり前なのだが。

 彼は苦笑した。
 そうだよな。オレの夢と同じだよな。すっかり枯れていて、もう水をやろうと元には戻るはずもないんだからな…。

 気がつくと未明になっていた。

 ……今日の物語は我ながら、なかなか面白かった。
 こうでもしないと夜という海を渡りきれないからな。
 明日はどんな趣向で夜を過ごそうか…。




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