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Last update 2008年04月19日

Utopia  著者:ロマンス渚



 罪はこんなに鈍いものだったのでしょうか。
 罰はこんなに鋭いものだったのでしょうか。


「ララさんは」
 僕は尋ねたことがある。
「いつも何を祈っているんですか」
 大した意味はなく、ただの興味から湧き上がった質問だった。
 彼は黙々と読書をする手を止め、顔を上げてにこやかに微笑んで問い返す。
「そうですねぇ……なんだと思います?」
「! えー、と」
 こう聞き返されることは容易く予想できたはずなのに、何故だか答えが浮かんでこない。
 それでも僕は、彼が穏やかな日の光を浴び祈りを捧げる姿を脳裏に浮かべて答えた。
 舌が縺れてしまいそうだ。
「犠牲への供養ですか? それとも永久の平和、人々への愛……自然への感謝とか。恵み、恩寵、それとも」
「残念ですが……どれもハズレです。チユ君、私は」
 僕の言葉を遮って、ララさんは眠るように目を閉じて言った。否、唱した。
「世界中の人々の幸せを願ったり、敬意したり……平等な祈りを捧げるような」

 彼をこの瞬間、愛した。

「そんなに尊い人間ではないのですよ」

 神父の癖にね、と消え入るように囁き読書に戻った彼を、僕は声を出せずにいつまでも見つめていた。
 彼はそんな僕の態度を、嫌悪したとか軽蔑したとかに捉えたかもしれない。
 僕は彼を、彼を愛した。つもりでいたのだ。
 眩しく降り注ぐ太陽の下の彼を、僕は限りなくいとおしんだ。今すぐ抱きしめてしまいたい衝動に駆られ、それでも僕は寡黙に愛したのだ。






「ララさん、こんにちは」
 古びた教会に花は無かった。埃の匂いにまじって、焦げた蝋の香りが常に漂う。
 完璧に閉ざされてしまう空間には小鳥の声すらも聞こえてこない。ステンドグラスから差し込む光が僅かに音の鳴らないオルガンを照らし、時を進めている。
「最近は随分と勉強熱心ですね。良い事です」
 僕は軋む長椅子に腰を下ろし、聖書を小脇に抱えたララさんが歩み寄るのを待つ。待つ、というこの時間が堪らなく心地良い。
 ララさんはいつもと変わらぬ格好に金色の艶やかな髪をを揺らしている。
 笑うとなくなってしまいそうな優しい瞳が、僕にだけ向けられる。浅ましい優越感があった。
「だって、勉強なんて教えてくれる人がいなかったから」
「私が来る前の牧師様がいらっしゃったでしょう?」
「顔も知らなかったよ。この教会、寂れてて誰も近寄らないし」
「確かに古びていますが……私はこの空気、気に入っていますけどねぇ」
 僕は彼のような人になりたいと思った。
 けして世界を見下さず、それでいて狂想を企てることもない。
 そんな彼の思考ごと全てが、僕のものになれば良いとさえ思った。逆に僕の全てを彼に取り込まれようが、それで良いとも思った。
 それほど僕の中で彼の価値は重く深いものになり、幼い夢を見ていると分かっていても、ララという神父に幻想を当てはめ、僕は彼を愛した。
 愛など、幻想。夕暮れ時に母がポツリと零した一言は、今も僕の中心に根を張っては己を主張し続けている。
 僕を制し、時には縛り付け、いくら刈り取ってもまたいつの間にか芽生える言葉だった。
「じゃあ今日は、何を学びましょうか」
 彼の白い指が丁寧にページをめくっていく。僕はその姿をじっと見ていた。
「ねぇ、チユ君は何が良いですか」
 ふいに一方通行だった視線が交差する。僕は突然に音をたてたそれに驚いて、思わず突拍子もない質問が口をついた。
「ひ、人を愛するってどういうこと」
 我ながら馬鹿なことを聞いたと後悔した。
 向いに腰かけたララさんは一度、驚いたような目で僕を見たが、少しも馬鹿にして笑うことなどなく言葉を紡ぐ。
「それは、人それぞれですよ」
 面食らった。無表情でポンと、ボールを投げられたような。意外にもありきたりな返答を返され、なんとなく僕は食い下がる。
「ララさんの意見でいいんだ。教えて」
 小さくため息のようなものが聞こえ、ララさんは開きかけたページを閉じた。
「多くは欲望だと思っています。自分のものにしたい、自分の支配下におきたい、自分と共有させたい……人を愛す、ということは、言いかえれば人を欲望の傘下に置くことなのです」
 そこまで言うと、茫然とした視線を投げかける僕に気づき、すまなそうに笑う。
「と、私は思っていますが」
 僕は笑い返すことが出来なかった。自分の深い中心に沈んでいる塊を、掘り起こされて外気に晒された気分になったのだ。
 もしくは頭を真っ二つに割られて、脳みそをわしづかみにでもされたようだ。
「……じゃあ、愛って勝手だね?」
 今度は声を上げて笑う。
「そうですねぇ、勝手なのかもしれませんね。ああでも、私はこうも思うのですよ」
 彼の中心に巣を作っているのは何なのか。僕はそれが気になって仕方が無かった。
 僕が幻想を飼っているのと同じくして、彼にも何かが住み着いているのだろうか。 
「押しつける事は簡単だけれど、受け止めることは大変だし疲れるでしょう? ですから、すべてを許して受け止めることも愛だと思うんです」
 僕はぼんやりと霞みかかった瞳でその声を聞いた。
「それが出来るのならば、その人は誰からも愛されるでしょうね」
「ララさんみたいにかな?」
「ふふっ、何故そこで私が出てくるのです? ……チユ君のような子の事ですよ」
「僕……?」
 貴方は本当に、聖なる人なんですね。
 僕なんかには到底手の届かない、星を住まわせる方なんですね。
 その笑顔すら、眩しくて直視することが出来ません。
 だから。

 僕は今夜、彼に捧げることを決めた。



 僕は寝静まった町を抜け、風と獣の声が渦巻く森の脇を通り、教会へとやって来た。
 不思議と落ち着いている。怖いなどという感情は二の次であって、僕は三日月に背後を守られながら歩いていた。
 開いてはいないだろう、と一応手をかけた扉は勿論少しも揺るがず、外の窓をひとつずつ確かめて回る。
 その丁度裏へと足を運んだ時、その中の小さな窓が揺れた。梃のようにしてそっと抉じ開け、身体をねじ入れる。
 目には見えないが、確かに埃が舞い上がった。口を手で覆いながら、自分の位置を把握する。
 すると、声が飛んだ。
『私を見ていては下さるのですか』
 紛れもない、ララさんの声であった。が、妙な違和感を感じる。
 まるで狐の風にでも当てられたような、奇妙な浮き足を立てたような声色が響いたのだ。
 そして、今自分が居る場所をようやく理解した。
 祭壇の真後であった。そうなると、ララさんは十字架と祭壇を挟んで一直線上に居ることになる。
 ララさんはいったい誰と会話しているのだろうか。僕でないことは間違いなさそうだが、この時間に教会へと訪れる人間はいるのだろうか。
 昼の間でさえ、僕以外の人と会ったことがないというのに。

 しかし次の瞬間、僕の神経は耳へと結束され、他の器官は意味をなさなくなった。  
『他の誰よりも美しいのです、貴方が』
 ララさんが。
 誰かに愛を、胸の奥を打ち明けている。
『貴方は、私以外の誰を考えているのですか』
 呼吸すら忘れた。
 僕は反射的に折りたたまれた身体を回し、僅かな隙間へ頬を密着させて覗き見る。

 彼は、彼は愛していたのだ。


『貴方はなんて美しい』
 月光を浴びて跪き、組んだ両手を握りしめ、うっとりと囁く。
 眼前を見上げてまた悦楽の顔を浮かべ、ララさんは僕以外に愛を囁く。
『美しい……!』
 星空を透かした硝子に大きく、大きく掲げられた鉛の十字架。
 弟子の裏切り、たった三十枚の銀貨の為、あまりにも無慈悲に磔にされた、かの人。

『イエス』

 僕ではない、名前が呼ばれる。
 この場ですら耳に心地よい、甘く尊い響き。

『イエス、貴方を愛しています。私は、私は罪人です!』
 ララさんは誰にも向けたことのない眼をして、目のふちに涙を潤ませては祈る。
 その神聖なる十字架に向かって、彼は狂気のように虚無の言葉を紡ぐのだ。
『貴方を愛する私は! 罪人です!』



 けして受け止められることのない愛を、陶酔しきった眼は語っていた。
 一体いつから毎夜毎夜と繰り返していたのだろうか。僕はララさんが眠っている所を見たことがなかった。
 眠っている所どころか、眠いと言った記憶すらないのだ。
『イエス……今夜こそ、答えて下さい』
 酷くまぶたが締め付けられる。
『今夜こそ、答えて……』
 蠢く衝動が、喉を突き破った。

「答えよう」

 掠れた声が零れおちる。真夜中のララさんの脳には、直接的過ぎるほどの刺激に変わってゆく。
「……イエス? イエスなのですか」
 暫くの沈黙の後、彼はぽつりぽつりと問う。
「そう、だ」
 会話は、単語が繋がれるようにして持続する。僕は彼を騙したかったわけではない。
 ただ、僕を見てほしかっただけ。
 イエス、イエスと煩く繰り返される名前を、これ以上耳に入れたくなかったのだ。
 ガシャンと氷の砕けたような音がして、蝋台が倒れ揺らめいていた小さな火が石床に吸い込まれて消える。
「あ、ああ……あ」
 意味のない吐息に近い言葉を繰り返し、まるで墓場から蘇った死者のように歩みを進めてくる。
「貴方様が……イエスなのですか」
 胸の奥底が、むず痒さに襲われ酷く苛ただしかった。
「そうだよ」
 もはや声、口調や窓際の光で映し出された僕の輪郭は目に入らないようだ。
 おそらく正体は知られたはずなのに、その眼には別の姿が映し出されてでもいるのだろうか。
 見開かれた瞳孔が開ききっている。もはや聖者の顔ではない。 
 気味が悪いとは欠片も思わなかった。美しい、愛おしいとさえ思う。 
 僕は今、どんな表情をしている?
「イエス! 私はこの日を……この日を、どんなに待ち焦がれたことか」
 その自らの叫びで糸が切れたかのように、僕の胸へとなだれかかる。
 体重は支えきれず、窓際へもたれかかるように背中が付き、やがてそのまま床へ崩れ落ちる。
 冷たい床と熱いくらいのお互いの体温の温度差に、気が遠くなりそうだった。
「どうしてっ、もっと、早く、迎えに」 
 悲痛な嘆きとも言える訴えに、僕はその金色の髪をそっと抱えた。ふわりと、嗅ぎ慣れた匂いが漂う。
 他の名前を機械のように繰り返す男を、どうして抱えたのだろう。 
 この謎めいた、意味もないくせに胸を締め付けられるような奇妙な感情に、なぜこんなにも心をかき乱されるのだろう。
 最初からだ。今に始まったことでもない。
「嗚呼でもイエス……私は今、貴方の胸に抱かれているのですね」
 興奮したように小刻みに震える身体は、むしろ歓喜なのかもしれないと気付いた。
【なにか】が。
 僕の内臓から凍りつかせ、脳髄を沸騰させる。
「私の言葉を聞いていて下さったのなら、お願いします」
 僕は重く黙ったまま、彼の次の言葉を待った。
「今夜こそ……ようやく今夜、答えて頂ける」
 僕は、絶望を覚悟した。
 涙も、恐怖も、止まる息も覚悟した。
 彼の、イエスに向けられる愛の言葉を待ったのだ。

「私を……私を罰して」

 ぷつり。と、緊張していた糸が切れる。
「貴方を?」
「そう、そう……早く。罪深き私に、罰を」
 掴まれた肌に爪が食い込んだ。痛みこそ走ったが、顔を歪めることが出来ない。
 僕は今、表情をつくることが、変えることすら出来ないのだ。
 罰する。ララさんを、僕が。聞こえてくるはずの愛は、姿すら現わさなかった。
「裁いて下さい、イエス!」
 その言葉を聞き終えると同時、僕は腕を伸ばし、手を重ねてララさんの細い滑らかな首を掴んだ。
 締める、という言葉がふさわしいのだろうか。
 下品過ぎる。僕は今、裁きを下している。
「あ……っ!」
 潰れたような、掠れたような声が零れる。背筋を仰け反らせ倒れた上に覆いかぶさり、自分の体重をかけた。
 頸動脈を押える親指にきつく力を込め、気道をつぶして空気を立つ。ピクピクと、血管が激しく浮き沈みするのを指先で感じた。
 柔らかな肉の感触。しなる首筋。僕はそれをどこか冷静に、うっとりと眺めていたのだ。
 足を少しばたつかせる程度で大した抵抗をする様子もないララさんは、風が通るような呼吸を繰り返した。
「ひ、く……っ、あ」
 何か言おうとしているのだろうか。ただ口の端から唾液が流れただけで終わる。
 目尻から透明に澄んだ涙の粒が、いくつも頬をなぞっていく。
「あ、ぐっ……」 
 つま先から背筋から、脳天まで這い上がる【なにか】に、僕は身体を震わせた。
 手の平にあずけた力をわずかに緩め、その開ききった艶やかな唇に自分の唇を重ねる。
 無理矢理に舌をひきずりだし絡め捕り、噛んで歯列をなぞると、彼の強張った身体の力が抜けていくのが分かった。
 まるで生気を吸い取る妖怪のように。僕は、彼に口付けていた。
 ララさん。
 好きだ。好きだ。好きだ。
 こんなにも好きなのに、何故伝わらない? 何故貴方は、他の名前を呼ぶ?
 それも、僕が、誰もがけして敵うわけのない、その名を。 
 イエス。
 出来るものなら、僕にその力があるのなら。
 このまま。全部。還して。何もかも。還してしまいたい。

「ララさん、好きです、貴方が」 

 小さく小さく、苦しみに喘ぐ彼には聞こえない程に呟いた。
 僕はそのまま、首にかけた手を緩慢な動作で解放する。
「ゴフッゴホ、ゲホッ」
 その途端に咳き込んだ唇をもう一度塞ぎ、荒く乱れた呼吸の綱を更に絶つ。
 彼の声を聞きたくない、それだけで良かった。けれども僕はいつしか唇を離し、彼を真正面からのぞきこんでいた。
 どれくらい時間が経って居たのか。呼吸が整わないまま、ララさんは僕を見上げて囁くように問う。
「…………裁きは……?」
 暫しの沈黙が訪れ、僕自身がそれを断ち切る。
「もう終わりです」
 全て。
 すると、ララさんは薄く微笑んだ。光でそう見えただけかもしれないが、その口角は歪んだのだ。
「私は……私は、貴方様を愛してもいいのでしょうか」

 変わらず、愛しても。 

 僕の中に確かにあった【なにか】が、音を立てて崩れ去ったような気がした。
 天地が引っくり返ろうとも、世界一の塔が真っ二つに倒れても、こんな音は響かないだろう。
 無慈悲な星屑みたいに粉々になった、僕の【なにか】。
「神を、愛しなさい」
 けして、けして報われない。低く渦巻く声が天井に響いた。
 神に罰せられるのは、この僕だ。僕の他に誰が居る。
「イエスは涙を流すのですか」
 そう問われ、初めて自分が泣いていることに気付いた。
 生暖かい雫が次々に頬を伝い輪郭を滴って、ララさんの頬へと落ちる。
「涙を、流すのですか……」
 今度は問いかけではなく、ただ単調にもう一度繰り返される。
 彼の中で、イエスは愛する存在だった。
 けれどこの言葉は、単に発見としての意味を成すものではないと感じる。
 彼の中でのイエスは触れられぬものなのだ。
 自分とは何もかもが違う、架空の、創造の、幻想の、彼に作り上げられたイエス。
 脆い砂壁のイエス。壊れる。
「ああ」



「貴方なのですね」



 僕は答えることが出来なかった。
 彼のいう貴方が誰を指しているのかも分からず、僕はただ静かに静かに、無機質に涙を流し、彼を見つめていた。
 体中の血液が沸騰しそうで怖かった。溶けそうな骨が恐ろしかった。それでも彼を見つめ続けていた。
「ララさん」
 それだけが口を出た。それから先は、渇ききった喉がはり付いて声にならない。
 そのとき、何かが濡れた顔に触れる。
 白く蜉蝣のように儚い、ララさんの腕。その少し湿った、初めての手のひら。眼を閉じる。
「貴方はやはり、美しい……」

 破壊の音は、これほどまでに美しい。

 下から頬を撫で上げる手が、酷く冷たかった。
 僕はその手を外し、脱力した身体を強く抱きしめる。
 強く、強く抱きしめたその腕の中で、ララさんが聞き覚えのある声色に戻って呟く。 

 例えばひとつの祈りだとして。
 僕へ、まやかしの神へ、ただ一言捧げられる。 
 けして、けして償う事もなく許されることもない。

「Amen.」




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