※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

「露天風呂まで用意しちゃって、どういうつもりさ、アスラン?」
 明かりの消えたロビーを後にしようとして民宿の主が振り返る。そこに立っていたのは、シンを見下ろしていた紫の瞳を持つ青年。
「君の役目を忘れてしまったわけじゃないよね」
「分かっているよ。キラ」
 主の碧の瞳が細められて、二人の視線がぶつかり合う。
「分かってない!」
 真っ暗だったロビーは一瞬にして葉が淡いグリーンの光を放つ森に変わる。
「人を排除するのが役目の君が、これは何!?」
「雨が止むまでだ」
 二人の周りにあるのは樹齢何年とも知れない苔むした巨木と複雑に絡み合う蔦。深い森だけれど、淡い明かりがそこかしこに溢れる神秘の空間だった。
「里には僕とラクスの結界が貼ってある。人間が足を踏み入れることは無理な筈だよ・・・誰かが手引きしない限り」
 ざわざわと森の木々が揺れて。風に乗って緑の光が流れる。
「あの小さな子が、現実に戻る勇気を取り戻せるまでだよ」
「小さな子って、彼は十分大人だよ、立派な男のね」
 斜に構えて唇の端を上げて言うのは、何か含みがってのことだろうか。主の青年が顔を顰める。
「キラこそ、自分の役目を果たせよ。今夜は満月だろ?」
 キラと呼ばれた青年が途端に苦虫を噛み締めたような顔をする。
「君がそんなことを言うの?」
「キラは里長だろ? 追放の身の俺に会ってちゃ、示しがつかないだろう。きっと、今頃ラクスが探しているよ」
 森の蔦が一斉に動き出して一つの道を作りだろうとしていた。
 緑の光に混じって、淡い白とも桃ともつかぬ光が奥から溢れてくる。
「花の精と大地の精で種を作って、息吹かせるのがお前の役目なんだから、ちゃんと果たせ」
「でも、僕はっ!」
 逆に森が主の青年を隠そうと二人の間に木々が蠢きだす。蔦が垂れ、緑の光が濃くなって次元をゆがめる。
 完全に二人を分かって、主の後ろから真っ暗なロビーが姿を現す。
 闇が引くように、ロビーに佇む主はその足で二階に上がり、シンの部屋の前で立ち止まる。
「おやすみ、シン」


 翌朝、シンは起きられなかった。
 寒気がして、頭がガンガンして、モーニングコールの電話すら取ることができなかった。
 次に意識が浮上した時、頭には冷たいタオルが乗っていた。
「気分はどうだ? 大丈夫か?」
 声のした方に頭を動かせば、ずずとタオルがずり落ちる。
 ぼやけたシンの目に映ったのは民宿の主の顔。
 枕もとにいて、ずり落ちたタオルを絞っている。その様子をみて、シンは自分の容態を認識した。どうやら、風邪を引いたらしい。
「何か飲みたい? 食べられるか?」
「・・・お茶」
 とにかく喉が渇いて、何か飲みたかった。
 だが、それとて、起きられない今のシンには一苦労。無理して布団の中で暴れる羽目になってしまった。
 くそっ。
 俺はこんなに弱くないのに、なんなんだよ。
 主の青年に抱き起こしてもらってようやく一口、それも咳き込んでとても飲めたものではなかった。
「すみません。俺、迷惑かけて、他にもお客さんいるのに」
「今は君一人だけだから、気にしなくていい」
 嘘だ。昨日いた人は?
「そんなはず・・・だって昨日・・・紫の目の人が」
「!」
 ほら、息を飲んだ。
「だから、俺一人でも・・・」
 青年の手からお茶の入った湯飲みを奪って、口に持っていく。震える手を何とか誤魔化して飲み込んで、息をつく。
「もう、大丈・・・ゲホゲホ」
 シンの作戦は失敗した。
 手にした湯のみが落ちる。
 いつもは何でもない、寝てれば直る風邪でも精神が弱っている時はそうはいかなかった。
 強がりさえ、満足にできない。
「無理するな。病人は黙って甘えていればいいから」
 布団の上に転がった湯飲みを拾って、背中をさすってくれる。
「とにかく汗をかいて、熱を下げることだな。まずは着替えて、ゆっくり寝ること」
 はっ、着替え? そんなものどこから。
 シンの熱に浮かされた頭が主の手にしたものを目ざとく見つけた。
 新しい浴衣。
「ちょっと、ごめんな」


 力の入らない手でじたばたしても、それはたいした抵抗にはならなかったらしい。
 シンは恥ずかしさか、熱かで真っ赤になって、宿の主に着替えさせてもらったのだ。
 その下着はどこから? とは聞くに聞けない。
 風邪引いていても、やっぱり若いって元気だなあ。なんて恥ずかしいこと言わないで下さい。
「ほ、本当にすみません、何から何まで」
「大事なお客様だからね」
 胸が痛む。
 悔しくて、涙目のまま見下ろす彼を睨みつける。
「・・・何?」
「アンタの・・・名前」
 少し微笑んでシンの額に手をやった。ひんやりとして気持ちいい手が、濡れたタオルを置く。
「俺?」
「・・・礼も・・・言えないじゃないか」
 家族にはなれなくても、民宿の主と客でしかなくても、シンはこの青年のことが知りたいと思った。一人の人間として、自分の不注意で風邪を引いた馬鹿野郎の面倒を見る彼の。
「アスランだ」
 シンは一度、舌の上でその名前を転がした。単純な自分の名前とは違う不思議な響きに自然と瞼が閉じる。
「ありがとう・・・ございます。アス・・・」
 眠りに落ちたシンは最後までその名を言えなかった。


ペース配分を間違えて、ちょっとごちゃごちゃしてしまってます。うーん、こんな話の予定ではなかったのだが。