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目次

















8.いま教育界には第一級の人物が出ていない


善川  なかなか理想は理想で議論は議論として結構ですが、これを改良、あるいは制度化していくということについては、かなりむつかしい問題がそこにあろうと思いますけれども、この現行制度を改革するのはまず政治家の仕事であり、理想としては大変結構なのですがこれが改革の具現化ということになると、その前提条件としては、やはり政治、経済、教育、社会全般の総合的な新理念確立と申しましょうか、国造りの基本的な゛発想゛が醸し出されて来なければならないのではないでしょうか……。

福沢  と、いうふうな制度的なものに基因する考えもありますが、やはり私が思うに、今の日本の教育家の中に第一級の人物が少ないということが大きいのではないでしょうか。優秀な方々というのは他の方面でほとんど活躍されて居られるのです。残念ながら教育界においては第一級の人物が少ないということなのですね、ですからそういった教育に関してですね、国民的な基盤を揺がすようなそういった影響力を持った教育家というのが今後でて来なければいけないということなのです。

その人の意見ならば、成程と、確かにそうであると、そういった方向に動かねば世の中は間違っていると、こういったことですね。専門家ですからね、教育に関しての専門家なんですから、専門家の意見が国民をして頷かせるようなものでなければいけないのです。そういう意味においては、今ね、たとえば教育学部というのが大学にあるはずです。それは国立の大学にも、私立の大学にも教育学部というのがあります。ではね、今の青年達において教育学部に行っている人達は、一番優秀な人達が行っているでしょうか、果たして行っているでしょうか。私はそうは思いません――。

今の世の中においては、理科の人においては、あるいは医学部に行ったり、あるいは工学関係に進んだりしています。文科の人に関してはほとんど優秀な方は法、経、法学部、経済学部の方向へ行っております。文学部というのはほとんど女性とか、あるいは就職はほとんど考えていない人が行っております。このようなことでは駄目なのです。世の中を変えていこうと考えている人が、教育学の方向へ進んでいってくれる方が望ましいのです。

そういった世に立っても、事業やっても、第一級の人間として活躍できるような人が、教育の現場で頑張ってはじめて世の中が変わってくるのです。要は、そういった人を引きつけるだけの魅力が今の教育者達にないということなのです。それは教育の中で人格教育というのが言われなくなって久しいこととまだ関係するのです。教育者の中で本当に日本人すべてを啓蒙するような、尊敬されるような方が出てくると、後に続く人達も出てくるのです。ですから私が言いたいのは、要は政治とかそういうようなものによる制度ではなくて、人なのです。優れた教育家が出てくること、第一線の教育家が出てくることです。

善川  今日わが国の教育の現場は、左翼の思想集団によって何か教師の基本姿勢が歪められてきているように思いますが。

福沢  それはね、もう一つ今言ったことに私は付加して置きますけれども、教師というものは、人を教える人というものは、真理を獲得していなければいけないのです。真実のものを掴んでいなければいけないのです。いまあなた方が考えて、一部狂信的な左真の方々の思想は果たして真実を掴んでいると思いますか、私にはそうは思えません。一部左翼の人々は社会に対する不平不満のはけ口がないために、共産主義とか、マルクス主義とかいった名前を冠したものに事寄せて不平、不満を吐き出しているということに過ぎないのではないでしょうか。

自分がそうした不平、不満の塊りでありながら純真な子供達を果たしてどのようにして教育することができましょうか、それは非常にむつかしいことであります。教師を単なる労働者までにおとしめたその責任は大きいということです。もしそのような方々が私の言っている言葉を聴いてくださるのであるならば、私はこの場を借りて言って置きます。

教師はやはり聖職であります。聖職という言葉は響きが悪いかも知れませんけれども、やはり人を導くべき人というのはただの人間であってはいけないのです。神を目指す人でなければいけない、神と言ってはいけない、では天と言ってもいい、宇宙といってもいい、そういった宇宙の進化、創造の法則のもとに、自らの使命を果たす人でなければいけない。単なる労働者なんかではない。教師というものは自分の使命を果たしている人である。神より与えられた使命である。教育という大きな使命、人びとを啓蒙教化するというような使命、これは大きな人扶けということです。人作りということです。このような使命は゛聖使命゛であります。聖なる使命であります。聖なる使命を果たさずして賃金上げのストライキばかりやっているようであるならば、あなた方は職を辞しなさい。プライドを捨てる人間であるならば、そのような職は辞しなさい。あなた方は職業選択を間違っているのです。職業を変えなさい。その方が世の中のためになります。よろしいですか。人権というものはそんな薄っぺらなものではないのです。人権という名を借りて自分のエゴを振りかざしているようでは、教師たる資格はないのです。そのような人は直ちに教師を辞めなさい。私はこの場を借りてはっきり言って置きます。

善川  お説のとおりであると思いますけれども、私がここに彼らの心情を代弁して申しあげてみますならば、彼らは教師とはいえ、実は教職員であります。現代のように高度に発達した管理社会のもとにあっては、国公立であれば国、県、市、私立であれば経営者たる理事会、こういうそれぞれの機関との雇傭契約を結んでおり、われらは教師たる以前に労働者であるという意識のもとに働いているという感じを持っている者が多いということです。そこで彼らの姿勢を問うという国またはこれに準ずる管理者があるとすれば、彼らはかえってその管理者自身の教育管理方針なり日常の姿勢行動を難詰するという相互の不信感に立っているというのが実情であるように思われるのですが、この両者の間にできた溝を埋める手段(てだて)というものはないものでしょうか。

福沢  そのようなことではなくてね、先程私が申しましたけれども、昔は百年前、二百年前、三百年前、江戸時代でも結構です。教師となるべき人は、今の教師となっている人達よりも遙かに優れた人達であったのです。よろしいですか、昔においてはね、教師になった人というものは、誰もかれもが勉強する時代ではなかったのですよ。そういった時代においてですよ、自ら克苦勉励して学問を積んではじめてその得たものを人びとに分け与えようとした姿が教師であったわけです。そのようなのが元々の教師であった、ところが今は一定の資格試験をとれば後は月給をもらえるという生活です。要するに教師の中において真情が足りないんです。どのようなことが本当の教師であるかということですね。水は高きから低きに流れていくのです。高い所から低所へ流れていくのです。低い所から高い所に流そうとしてもそれは無理です。教師というものは自ら得たものを後に続くものに分け与えていかねばならないのです。そういう意味において優れたる人物でなければいけないのです。

先程、第一級の人々が教師となろうとしていないと私は申しました。正(まさ)しくそこが問題であるのです。教師というのは第一級の人物が教えてはじめて生きてくるのです。ところが今の教育界においては教師というのは一つの何んといいますか専門職なのですね、たかだか英語を知っている。たかだか数学ということを知っている。そういった知識をですね、そうした専門知識を得てそれを受け売り切り売りしているというのが教師の姿ではないでしょうか、そうではなくて本当の意味において学問の魂に推参することができるような人がはじめて人を教導することができるということなのです。

ですから政治家がどうこうとか、いろいろ言われますけれども、また賃金が低いというような意見もあるでしょう。賃金が低いのはあたりまえです。私の言葉はきついかも知れないけれども、あたりまえです。なぜなら教職についている人達が第一級の人達でないからです。彼らは、彼らがもし第一級の人達であるなら、もっと収入のある道を選んでいるのです。現代においては、大会社なり、自由業なり、もっと収入のある道を選んでいるんです。そういった方々は教職についていないのです。教職員になっている人達は、もう他にするべき仕事がなくてやむを得ず教師をやっている人が多いのです。生活の安定だけのために、このようなことであるからこそ安月給で働いているのだと私は申して置きます。よろしいか――。

彼らに言って置きなさい。あなた方が生活環境に不平不満があるのは当然です。なぜならば、あなた方は他の選択肢があるにもかかわらず教師を選んだのでないからです。一流会社で重役になれるかも知れない、大学教授になれるかも知れない、あるいは科学者になれるかも知れない。そのような豊富な能力を持ちながら教師を選んだのではなかったはずです。よく自分の胸に自問自答してみなさい。他に選ぶべき道がなくて仕方がない、教師でもやるか、と言って選んだ方が大半であるはずです。どれだけの使命感に燃えて今の職業を選んだかどうかをよく考えてみなさい。自分らの職業が悪いのであるならばあなた方が第一級の人物でなかったか、あるいは現在の職業を選んで以降、第一級の人物たるべく努力をしなかったということです。

教師というのは振り当てられた時間割の中で科目を教えているだけでは駄目なのです。それ以外にあなた方に一体何があるかということです。プラスアルファがあるかということです。あなた方が教えている科目をはずして、それ以外に人間的にあなた方が一体どれだけのものを獲得しているかです。授業を離れてあなた方は、一体何をやっておるか、どれだけの人間修行をやっているか、修養をやっているか、どれだけのそれ以外のことは語れるのか、どれだけの人生観、宇宙観があるのか、よくよく自問自答してみなさい。そういった時に如何に自分らが薄っぺらな人間であるかということに気がつくはずです。――要は教育の問題は、第一級の人物が今教師になっていないということであり、教師が職業に不平不満を持ち、また給料や処遇に対して日教組が言うように不平不満を持つのは、彼らが一級の人物でないからです。彼らが優れた人物であるならば、社会の他の方面で活躍している人達が、教職につくような現状であるならば、給与も待遇も良くなるのはあたりまえです。それだけ遇しなければそれだけの人物は集っては来ません。よく自分の脚下を見直しなさい。そう言いなさい。彼らにそう言って置きなさい。


9.特色ある私塾の展開に期待


善川  いま一つお伺いしたいのですが、日本の教育問題につきまして、外国、特にアメリカあたりでは日本のこの私塾という問題、塾の発達というものを大きな関心をもってみているようですけれども、これはどういう現象でしょうか、やはり義務教育なり学校教育というものに対する欠陥を補完する形として自然的な要望として現われたものでしょうか――。

福沢  まあ必ずしもその通りとはいえません。やはり進学競争によってうち勝ったものが優位な地位を築けるというようなことで欲得がからんで発達している面も多いと思います。ただし私はそのいまあなたの言われた私塾の中に一つ可能性を見出すものであります。この中においてまた個性ある人達が様々な新しい教育を、人物教育なり、人格教育なり、あるいは才能教育などをやってくれるような時代になってくるならば、新たな展開が出て来るのではないかと期待しています。

ただそのような時代においては、そういった特色ある私塾において学んだことが何らかの意味において、社会においてその人の肩書というかプラス要因ですね、勲章になるような世の中でなければ意味は少ないと思います。あるところで、例えば人格教育塾をやっているとします。そこに小中高生が通っているとします。そこに居たということがですね、少なくとも世の中から評価されるような、そういったものでなければ意味はありません。またこれもさきほどの教師の例と一緒ですけれども、塾をやる人ですね、塾を経営している人達というのは、どちらかというと、社会から落伍した人達が多いように思います。社会の組織からはみ出してきて、やることがなくて塾をやっている人が多いように思います。これもまた一つの問題があります。ここに第一級の人物が私塾を開いたならば、その声号は非常に高いものとなるでありましょう。

こういったことにおいて古代のギリシャ時代のソクラテス達が開いた私塾のようなもの、あるいは吉田松陰先生が開いたような私塾のようなもの、こういった原点に帰る塾というものが必要かも知れません。それはそこに居た教師が、また超一流であったということです。人が人を求めるのです。人物が人物を呼ぶのです。要は塾という形体自体が優れたかどうかというのではなくて、やはりそこにおいて教鞭をとる者が、如何に優れた人物であるかということです。それならば人々は引き寄せられてくるはずです。

今の学校教育においても問題点の一つはそこだと思うのです。どこの学校にはああいった立派な先生が居るからあの学校に行って勉強しようという声が聴こえないはずです。そうではないでしょうか、高校選びにしてもそうですね、進学率が高いとか、どうとか、そういったことはあるかも知れません。けれどもあの学校だと、ああいった先生が居るからあの学校で学びたい。大学選びもそうです。弟子は師を選ぶのです。弟子は師を選び、師は弟子を選ぶというのが、本来の学問のすがたです。ですから、今ですね、あの先生の下で学びたいからというような先生が果たして居るかどうか、そしてあの先生の下で学びたいというような学生が居るかどうかです。教育の原点を忘れているのです。大量生産ではないのです、教育は。やはり人から人へと伝わっていくのが教育であります。ですから学校においてね、学校教育において今、あの先生の下で勉強したいという人が減っているのであるならば、組織的にそういったことが無埋なのであるならば、私塾なら私塾でもよろしい、あの先生の下で学んでみたいというような、学生を集め得るような私塾を開くということです。そういった先生になるということです――。


10.「松下政経塾」は本来のすがた


福沢  今、私は聴いております。松下幸之助さんが、一つの塾、学校を造られたと聴いております。「松下政経塾」というのですか、それで政治家とか、将来嘱望される若者達を、資金援助しながら教育をしている。第一線の講師を選び呼んで教育をやっているはずです。ああいうのが本来の塾、本来の学問のすがたなのです。本来こういった人の下で学びたい。こういった趣旨のもとで学びたいという人が集まって学び、またそういうやる気のある学生が集まって、またそういった学生が居るからこそ、よし、俺が行って教えてやろうと、第一線の方々が教えると、これが本来の学問のすがたなのです。こういった形の私塾、あるいは私学というものが今後益々発展してくることを私は祈ってやみません。

善川  まあ教育については先生の専門であったと存じますが、現在日本の社会を見渡したところ、まず第一級の方々が活躍されているというのは経済界であろうと思います。教育界につきましては、先生も仰せられたように未だそういう第一級の人物は現われていないというような現状であろうかと思いますし、一方政界においてもそのような一級の人物は現われていないということを聴く現状でありますが、これはやはり天上界におけるご計画もあろうかと思いますが、やはり次ぎの段階におきましては、一級の人物が現われるというのは、政界でしょうか、それとも教育界でしょうか……。

福沢  両方共、第一級の人物が出て来る必要がありますし、私も出そうと思っています。私の居る世界から第一級の教育者を送り出そうと思っています。

善川  これはしかし、教育者だけではなくてそういったことが理解できる政治家も同時に必要なのではないでしょうか。


11.衆議院議員は「政治家専門学校」卒業者に限る


福沢  政治家も必要かも知れません。――それとね、今さきほどのことに関して追加いたしますと、「松下政経塾」ですか、そういったことに対して私は意見を述べましたけれども大事なことだと思うのです。今の政治家も、経歴みてみなさい。まあ様々な経歴をして居りますけれども、やはりね、思うに政治家となるべき資質を開花するための教育というものはないわけです。そうでしょう。皆勝手勝手に様々なことやってきて、たまたま当選して代議士をやっているというのがほとんどだと思うのですが、そうでないでしょうか、ですからもう少しね、例えば政治家養成のための学校があってもおかしくないのじゃないでしょうか。私はそう思いますよ。それは私塾でもいいし、官学でもよろしいし、政治家養成のための学校があっていいじゃないですか。一般教育を二年か三年やってですね、その後政治の専門家ですね、専門家として養成する必要があると思います。三年か五年、特にやりたい人、国家が選抜して一学年、五十人か百人で結構です。小数でいいと思います。そういった大学を創ればいいのです。そして二年間ぐらいは一般教養なり教育をする。その後ね、世界の政治なり、経済なり、教育なり様々な分野のこと、科学技術のこと、いろんなこと勉強してもらうわけです。そうしてはじめて政治家になるためのたとえば国家資格ですね、政治家になるのに国家資格を設けるというのも面白いと思います。そういった政治家となるべき資質ですね、そういう教育を得てはじめて資格を得るということです。一定の資格をとったものは政治家になれる。そして政治家になる条件は、勿論国民による選挙ということですね。今は誰でも立候補したら通りますが、こういうことを言って名指しになっては失礼になるかもしれませんが、テレビなんかでですね、名前の知られている、顔を知られているというだけで大臣になったとは言いませんがね、少なくともある分野の政治のトップになったりすることはできるわけです。彼らはそれだけの知識なり技能なり能力を持っているかと言うと、私にはそうは思えません。人気投票みたいなところがあるわけです、多分に今の政治には――。

ですから、こういったことに関してね、プロの政治家というのも必要ではないでしょうか。ですから、国家資格みたいなのがあってもいいかも知れません。全員そうであれとは言いません。けれども政治家となるべき基礎知識は今の時代には必要ですよ。これだけ社会が進みですね、全世界を股にかけている世の中においてね、たまたま土地のですね何処かと癒着したり、あるいは大地主であったり、お金持ちであったりするだけで、政治家になれるようでは困るんです。あるいは隠居仕事で政治やられたんじゃあ困るんです。国家資格にすればよろしい。これも、政治家になるための資格ですね、その大学を先程言いましたように、十八歳で入学して二十二で卒業するだけである必要はありません。三十代でも四十代でもいいと思うんです。

例えば会社に勤めておりました。貿易をやって居ました。例えば公務員をやっていました。例えばですね、自由業をやっていました。これでいいんです。医者でもいいですよ、例えば医者をやっていました。四十歳まで医者をやっていたけれども自分の適業は、やはり医者ではないみたいだ、国の政治というものに参加してみたいと、例えばこういうことを思ったとします。それで今の世の中であれば、たとえばその知名度が高くて立候補して当選すればそれで政治家になれるんです。そうですね、けどね、これをやはりそれなら「政治家養成学校」に四十なら四十で入れるようにしておくわけです。それで一定のですね、政治家となるべき基礎科目ですね、これを修得してはじめて資格を得られるようにしておくわけです。そうすればですね、日本の政治家のレベルがある程度上がると思います。今、レペル低いでしょう。国会の場というの見れば分るように、本当にレベルが低い発言ばかりが飛んでいます。権力集団であります。ある意味では、猿山の勢力争いのようにみえるはずです。ヤジが飛びます。ああいったもので国民は果たして尊敬の念、信頼の念を持つでしょうか、それは政治家としての基礎学修ができていないのです。それは学問でもそうですし、それ以外に例えばですね、政治家としての基礎とはスピーチの仕方、話し方の教育も必要です。また礼儀作法についても必要です。こういった様々の世の常識というものを身につけておく必要があります。こういった教育やってもいいじゃないですか。どうですか、欠けていると思いませんか。……全員とはいいませんが少くなくとも何割かはそういうプロの、養成された政治家であっていいはずです。

善川  先般お見えになられました、天照大神様なり、聖徳太子様あたりのご意見も既に発表させて戴いておりますように、現在のわが国の政治に対する批判が出されているわけですが、全員とはいわんが少くなくともその半数なりそこらの人は「賢人会議」の推せんによって立候補できるようなそういうようなシステムにすべきであると、こういうご意見でありましたが、このようなことを何とか考えていかねばならぬ時機ではなかろうかと思われます。

福沢  そうです。ですから今あなたは「賢人会議」の推せんを受けるというようなことを言いましたが、私は専門家教育ということを言いましたが、趣旨は一緒だと思うのです。底を上げなければいけないということなのです。政治家のね、政治家たるべき資格要件というのは今何もないでしょう。年齢だけですね、何歳以上になったら衆議院議員になり、参議院議員に出られると、年齢条件だけしかないでしょう。それ以上何んにもないでしょう。日本人である限り、これではおかしいというんです。

やはり世の上に立つべき人であるならば、それなりのものを備えていなければいけないということです。ですからいま言ったようなことでもいいと思うんですね、たとえば五割の人がそういった政治家養成の学問所、大学ですね、これは若い人でなくても勿論途中から入り直した人でも結構です。そういったもので一定年間勉強する。三年なり四年なりですね。政治、経済、世界のこと、教育界のこと、様々なことを勉強して頂く、哲学のことも勉強して頂く三年四年ね、それを出て、で、資格を得て、まあそのうちの何割かは例えばそのまま当選してもいいし、あるいは投票によって当選しても結構です。そういう方式をとる。例えば残りの五割なら五割はそういったものを経なくとも、「賢人会議」なら賢人会議、というものによって推せんされた人が、立候補する。そして一定数の得票を得れば政治家になれる。こういうふうにすれば、それはレペルは物凄く上ります。

特に若い人はね、比較的若い人はそういった政治家養成学校で勉強されたらいいし、一定の社会的な地位を得られている方、もう五十代、六十代になってその道においてひとかどの人物としてね、世に認められている人々をもう一回教育し直すというのもこれも考えものです。これはかなり無駄が多いでしょう。こういった人に対してはいわゆる「賢人会議」の人達が推せんをして、推せん受けたならば立候補できると、こういう形にすれば、非常にレペルは上って来ます。政治家のね、それで政治家達もいわゆる哲人政治家に近づいて行くでありましょう。

また政治家になるということが国民達にとってね、政治家というものは非常に信頼と尊敬の的になってくるでしょう。政治家になるためには、やはり優れた人達の推せんもいるのだな、あるいは特別勉強をちゃんと経てですね、常識を得ていなければならないのだな、となると政治家になっている人達というのは本当に選ばれた人達です。投票の数が多いというのではなくてね。――ですから量でね、投票の票数によって当選するというのではなくてね、ある程度、資質によって資格要件が絞れるという理想的なものに近づけると思うのです。今のように高学歴化、高学歴社会においては一定の教育を課するということも無理辺ではないと思うし、たとえば生活に対してですね、不安があるんであるならば、その政治家養成の学校に入るにはですね、入学試験さえ通れば、費用はすべて国持ちでいいと思います。給料を支給していいと思うのです。今のたとえば司法試験というのがありますが、それを合格して判事、検事になる人、あるいは弁護士になるために、「司法研修所」というところへ入れ給料を払って研修を受けさせるようになっていますね、で、司決の方は研修所があって、なんで政治の方にはないのですか、おかしいと思いませんか。司法研修所があるならば、「政治家研修所」があっていいんです。そうですね。やはり専門ですから、そういったものを今の優れた政治家から教わってもいいし、各界の人に教わってもいいです。「政治家研修所」というものを設けなさい。


12.参議院議員は「賢人会議」の推薦者とする


善川  それから現在のわが国の二院制については、ご意見は如何でしょうか。

福沢  これははっきり言って、現在においては参議院というのが良識の府としての機能を殆ど果たしていないということですね。これも問題ですね。参議院というのは良識の府でありますからこれはおかしいですね、今のままでは。衆議院では解散が多くて収入も不安定だというので参議院に居たりですね、参議院に居るのはどうもやはり知名度が高いだけのような人が多いように思います。ですから先程私が言ったこと、あるいは聖徳太子方が言ったことを組み合すとするならば、こういったものでもいいわけです。衆議院議員は当選するには、いわゆる「政治家研修所」の卒業生である必要がある。ところが、参議院議員に当選するにはいわゆる「賢人会議」で推薦受けた人でなければならない。こういったふうにするならば違った質の人達が集まることになると思います。これでもいいじゃないですか。例えば「賢人会議」なら賢人会議から推せんを受ける。例えば科学者なら優れた科学者が居るとする。あなた方の囲りにも居ますね、あるいは数学者でもいい、そういった人達は政治家になろうと思わないでしょう。世界的な数学者居ますね、「広中平祐」さんとか、こういった人居ますね、こういった人に政治家になろうとはしないはずです。けれども賢人会議ではそういう人を推せんするわけです。政治の中では教育問題も大きいから、こういう人達にも入ってもらおうと推せんするわけですね、そしてたとえば一定数なら一定数とれたら参議院議員になれるようにしておけばね、彼らは苦しい投票ね、票集めのための運動なんかやりたくないですよ。そんなことは、そういったことはしなくとも済むようになりますよ。――こういったことでいいと思いますね、それで、衆議院の府というのは民意を反映しなければいけませんからやはり一定の資格を持った人達が選挙で競って投票される。こういったことでいいと思うんです、私はね、――どうでしょうか。

善川  そうですね、そのような方法が将来もっとも望ましい方決であろうと思います。現在においてもコメディアンほかテレビタレントなどが進出して、もう参議院無用論とか議員定数の半減とかいろんなことが論議されているような状況でありますが、心ある人達は何か新しい方向を模索しかけているようでありますが、ここに福沢先生のご意見を私たちを通じて陳べさせて頂くということは大きな刺激になるのではないかと存じます。

福沢  私達のような時代離れした人間からね、意見を聴くとまた違った角度での考えというものができますから、それは今のあなた方にとっては、意外、予想外の考え方になるわけで参考になることも多いと思うのです。

善川  いま、教育の問題、政治の問題についての本来あるべき゛相(すがた)゛というものについての先生のご高見を拝聴いたしましたのですけれども如何でしょうか、その他に、日本人のこれから進むべき道というものについてのご意見がございましたら――。


13.あなた方は新時代への総論創り、各論はこれから生まれてくる


福沢  今一つだけ私は申しときます。この百年間、明治以後の百年間は、どちらかといえば、西洋文明の輸入ということ、輸入してそれを消化して発展させるということに日本および日本国民は努力して来たと思うのです。ですから外国の優れた文化人のことについては非常に日本人はよく知っています。ところが日本の文化人に対しては、例えば、イギリスの人は殆ど知らないというようなのがまだまだ現状であろうと思います。経済力だけが重視されながら、日本の経済が強いということは知りながら、日本にどれだけ優れた人が居るかということは、世界の人びとはまだまだ分っていないと思います。ですから今後私が望むこととして、やはり世界の指導者、世界を啓蒙できるような人、こういった人にどんどん日本から出て来て欲しいと思うのです。「精神修養の書」でもいいです。精神的指導者、日本の精神的指導者がね、アメリカや、イギリスや、フランスや、ドイツにも影響を与えるような人であって欲しいと思います。またそういった書物をどんどん出して行って頂きたいと思います。

恐らくあなた方がやっている活動が、そういった方々を出すための゛肥(こやし)゛になるであろうと思います。日本には日本独自のものが少な過ぎたんです。まあかつてはあったにしても伝統としてしか残っていないのです。日本で独自なものがでてきてそこから、その雰囲気の中から、その醸し出された雰囲気の中からまた日本独自の様々な思想家達が出ていくことを私は望んでいるものであります。

そういう意味において、あなた方がいまやっておられるこのスピリチュアリズムというようなもの、これは一つの宗教ではないはずです。ご存知のように宗教であるならば私が出て来て語る必要などないわけです。私が出て来て教育問題や政治問題を語っているわけです。既にあなた方がいまやっていることは、宗教の枠はもう越えているんです。宗教の枠を越えてね、新たな精神運動、精神波動、新世紀へ向けての精神文明建設へ向けての新たな動きだということです。あなた方の仕事は具体論ではありません。゛各論゛ではありません。あなた方は、この日本という国を中心として、『総論』を創らねばならないのです。これからさまざまな人達が出て来ます。あなた方の教えの裾野からね、いろんな政治家達とか、教育家達とか、科学者とか、また宗教家も出て来るでしょう。いろんな人たち、経済界の人達も出てくるでしょう。あなた方の「総論」を基礎としてね、「各論」はこれから今後何十年にもわたって出ていくのです。今その゛総論創り゛をしているのです。

どうかね、私からもお願いですが、宗教というような一宗一派を起こすような、そういった偏狭な考えではなくてね、日本なり世界の精神を創り変えていくという、塗り変えていくという大きな仕事ということで、大きな「器(いれもの)」を造って下さい。それをお願いしたいと思います。

善川  わかりました。今後、私たちも現在の力だけではどれ程のこともできないと思いますけれども、さらに同志が相集って来ましたならばそのような方向へと進んでいかねばならぬと考えております。特にこれ以上のお教えもなかろうかと思いますが、何か他に私どもへのアドバイスを戴けるものがございましたらお願いいたします。

福沢  あなた自身に関してもね、特にあなたは「霊言集」というものを出しておられますが、この努力は今後共続けられるとよいと思いますのですが、あなた自身もですね、人びとの心の糧となるようなものをご自分でもやがて出して行かれるように、それは長いものである必要はありません。短い文章で、書物であって結構だと思います。私の『学問のすすめ』が、明治という時代を風靡して人びとを教化したように、あんな小冊子なのです。それでも人びとを動かす力はあるんです。当時は゛学問のすすめ゛ということによって、百年のね、日本百年の計を著わしたのであります。それではこれから日本百年の計は一体何であるか、そういったものの簡単なものをね、「導きの書」を出していく必要があると思います。

それにまたこの世の人達は現状に立って物事を考えており、未来のことは分らないのです。あなたおよびあなた方は、私達霊たちのいろんな話を聴いております。私達はある意味において、未来の社会がどうなってくるかということを、予見しているわけです。観ているわけです。それに基づいていろんなことを言っているわけですから、私達の言葉の端々から洩れてくるものを吸収してまとめたならば、今後の社会がどのようなものを要求しており、どのような精神的指導が必要なのかということが、そこはかとなく見えてくるわけであります――。

善川  本日は、われわれに対するご指導のみならず、広く日本国民、特に政治家、教育界の人びとに対しても警醒のお言葉を賜わりまことにありがとうございました。私としては御教訓に基づき誠心誠意努める覚悟でございます。

福沢  よろしいですか、それでは今日はこれで帰らせて頂きます――。

善川  まことにありがとうございました。