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目次










(1988年11月29日の霊示)

1.心を変えれば環境が変わる


谷口雅春です。この第2章では「輝ける日々」という題を選んでみましたが、人生を光り輝くものにするために、光り輝く日々とするために、いかなる方法があるのか。どのように生きればよいのか。こうしたことを主として語りたいと思うのである。

さて私は以下の二つの観点から、人生というものは前途洋々となるものであると信ずるのである。

第一の視点は、「人間はその心を変えることによって環境を変えることができる」ということである。そして第二は「思想は一つの大きなエネルギーであり、それ自体が世の中を変える力がある」という観点だ。

第一の観点は自己変革を意味し、第二の観点は世界変革を意味する。もちろん第一第二ともに、連動していることは事実であるけれども、この二つが揃(そろ)えば世界を変えていける。人類全体が変わってゆく。私はそのように思うのである。

さて、まず第一の観点についてさらに話をしていこうと思う。「心を変えれば環境が変わる」という例は、私は生長の家において五十五年間指導してきたが、その間まさしく何百、何千、何万という例を見、これを実証してきた。

不幸な環境に自分が置かれていると嘆いていた人は環境がゆえに不幸なのではなくて、その思いによって不幸を作り出している、ということが真実であることがわかったのだ。それはその人の置かれている環境を主観的に解釈し直すということを意味しているのではない。人間の心が変わった時に環境そのものが善転する、善くなる、ということを意味しているのだ。

たとえば、卑近な例から話をするとしよう。人間は、働けば働くほど疲れるものだ、という思想にとりつかれているように私には思えてならない。働けば、勤勉に働けば疲れが溜まっていく、というふうに思っているように私には思える。この思想はひじょうに蔓延(まんえん)している。医学の発展とともに蔓延しているように思われる。けれども真実はどうであるかと言えば、人は働けば働くほど元気になるのである。健康になるのである。

その証拠に定年退職後の人を見よ。彼らはものの一年もしないうちに身体は萎(な)え、気力も萎えて、役に立たなくなっているではないか。大会社の重役とかいった方が、定年退職を迎えるやたちまち老け込み、何をする気力もなく、そうして衰弱していくのを数多くあなた方も見ているのではないか。

その事実は一体何を意味するかわかるか。人間は休息を欲する動物でもあるが、絶えざる休息は、絶え間ない休憩は、これは人間をダメにするということを意味しているのだ。人間の身体はそのようにはできていない。むしろ、つねにつねに働かすことにより活性化し、燃えかすが体外に出、ますます機能がよくなってゆくのだ。

車と比較してよいかどうかはわからんが、自動車においてもそうであろう。月に一度しか乗らぬ自動車、年に一度しか乗らぬ自動車など信用できる代物(しろもの)ではない。やはり毎日毎日快調に走っていればこそ安心して運転ができるのだ。つねに点検を怠らず、使ってやること。これが機械においても大切なことであると私は思う。

ましてや人間はそうです。人間という、この神の創られた大いなる器は、これは働くためにできているのです。働くと「はたがらくになる」とはよく使い古された言葉であるが、働くことにより、端(はた)の者、まわりの者を楽にしていくことは、それ自体が楽しいからすばらしいのだ。うれしいからすばらしいのだ。自分が一生懸命働くことによって、多くの人びとが喜びに満ちてくるからこそ、日々がうれしいのだ。そうではないだろうか。

私自身、小さな痩(や)せた身体で超人的な事業をこなしてきた。三百数十冊を越える書物、月に六冊の月刊誌の刊行、二千回を越える講演、そして数多くの奇跡を起こした事実。七十代にも八十歳代にも海外巡錫(じゅんしゃく)行をやってきた。今、八十を越えて海外に講演旅行できるような人がいるであろうか。諸君よ、私はやってきたのである。

それは八十までの生涯に身体を安め、体力を貯えて八十からその力を出したのではない。二十代三十代四十代五十代六十代と、働き盛りの中を働きに働いて駆け抜けてきた私が、八十を過ぎてなお矍鑠(かくしゃく)として、そして海外伝道を行なったのである。そして九十歳を過ぎてもまだ執筆に励んでいたのである。

諸君はこの事実を何と見るか。痩せた、小さな、この老人の身体に、なにゆえにこれだけの力があったか、諸君らは不思議に思わぬか。もちろんこれを信仰の力と称する人もいるであろう。それも事実だ。信仰により人は強くなる。信仰により人はエネルギーを与えられる。またある人は、それは生まれつきによるのだと言うであろう。谷口雅春という魂は、もともとそうした偉大な仕事をなすがために、偉大な器がある、そうした魂であるから、そうしたことができるのだ、と言う人もあるであろう。これも確かに一面の真理を含んではいるか、他面また違った点もあると言えよう。

では真相はどのへんにあるかと言えば、私は倦(う)まず弛(たゆ)まず働き続けてきたこと、そのこと自体の中にあると思われる。七十になり八十になり九十になっても学ぶことをやめず、日々これ精進の私であったからこそ、そのように蚕(かいこ)のように葉を食(は)み続けていた私であったからこそ、また繭(まゆ)を作るための糸を出し続けることができたのではないかと思うのだ。


2.学びにおいて無限界人間たれ


私は諸君にどうしても言っておきたいのだ。諸君らは、力を出せば力は減っていく、減退していくと考えがちであろうが、実際はそうではないのだ。力は使って減るものではない。使って減退するものではないのだ。力は使えば使うほどに出てくるものなのだ。使えば使うほど力というものは出てくるのだ。そうしてますますその光が強くなり、エネルギーが強くなってゆくのだ。私はこれが真実であることを知っている。

それはちょうど井戸の水のようなものなのだ。井戸の水というものは、汲めば汲むほど滾々(こんこん)と湧いてくる。しかし汲まずに置いておけばさまざまなゴミが入ったり、葉っぱが浮かんだり、またぼうふらがわいたりするようになっていくのだ。絶えず使い続けている水であるからこそ清冽(せいれつ)な流れを作り、そして美しいおいしい透明な水をたたえることができるのだ。

これは人生の真実そのものであることを言っておきたい。諸君よ、朝の九時から夕方五時まで働いて肉体が疲れ切ったと思うか。そんなことはない。諸君らの肉体にはまだまだほんとうは無限のエネルギーが含まれているのだ。電車の中で諸君らは疲れ切ったと思うか。そうではない。その中でも次つぎと新たな精神世界を開拓していくことはできる。夜家に帰ってからテレビを見て寝ているだけの人も数多いが、そんなことで人生を終えては、これは誠にもったいないことだ。申し訳のないことだ。そう思って欲しい。

私自身若いころに、人びとを教える材料をみずからの内に貯えるために、倦(う)まず弛(たゆ)まず勉強した。学び続けた。諸君よ、することがないと言うならば、私はあえて言っておこう。この私の本だとて、読み飛ばしてよいと思うか。たんに赤線を引いておくだけでよいと思うか。これこそは真理だと思い、みずからの心の指針となる教えだと思うならば、ノートにとりなさい。力ードにとりなさい。あるいは切りぬいていろいろなところに貼っておきなさい。飾っておきなさい。そして心の指針にしなさい。

教えというものはたんに読み流しているだけでは自分のものとはならないのだ。いつもいつも咀嚼(そしゃく)し、自分自身のものとし、それを実践していく中にこそ、本物の力がついてくるのだ。ほんとうのエネルギーが湧いてくるのだ。それがほんとうのものなのだ。

諸君よ、私はまず言っておく。今の二倍三倍働きなさい。そして勤勉となりなさい。勤勉に働き、よく勉強しなさい。学びなさい。学んで、そして自分が疲れたと思っているかも知れないけれど、そこがあなた方の限界ではない。そこではないのだ。学びにおいて疲れるということは、まだまだ目標が足りない。まだまだ希望が足りないということを意味しているのだ。ほんとうに無限に生長してゆくためには、学びにおいて限界があってよいことではないのです。学びにおいて無限界人間とならねばならんのです。

また会社の時間を決して決して無駄にしてはならないと思います。一日のうち八時間から十時間、十時間から十二時間、その中で過ごしているのが大部分の人たちではないだろうか。この場を無駄な時間とせず、ここから逃避することのみを考えないで、この中に積極的に自己を発揮する場を開拓してゆくことです。これが大事です。できるだけ多くの人に愛され、多くの人を愛し、そしてすばらしい仕事をしてゆくために、みずから全力を投入していくことこそが大事だと私は思うのです。


3.人生の仕事密度を高めよ


「心が変われば環境が変わる」という話をしているわけですが、このように、働けば疲れるという思想を持っている人は、働けば働くほど力が湧いてくるのだという思想に切り換えることによって、さらにすばらしい力が湧いてくるのです。

私のこの霊示を伝えている〇〇〇〇も、一年に三十冊を越える著書を刊行しているではないか。いまだかつてこのように続々と本を世に問うた人がいるであろうか。そしてその一冊一冊が真理の光に輝いている。どれも同じ本はない。まったく違った内容の真理の書を続々、続々と問い続けているではないか。

そうしてその真理を学べた人が、一体どれだけいるであろうか。一人の作家としても、一生で三十冊の書物を残すことはそう簡単なことではないと私は思う。人間の思想はどうしても限定が入り、発展してゆかないからだ。しかし一年に三十冊の書を問い続けるということは、これは人生の効率においてどの程度の人生を生きているか、読者の諸君は考えたことがあるであろうか。おそらくこの方の一年は、他の方の五十年分に匹敵するということが言えるのではないかと私は思うのです。

一年が五十年に匹敵するとするならば、五十年の活動は、では何年に匹敵するか。それは二千五百年に匹敵するということです。すなわち二千五百年に一度ぐらい生まれ変わる魂というものは、一年を五十年分ぐらいの密度で生きているということを、これは意味しているのです。

これは一人の人をとらずとも、他の高級諸霊であってもそうだ。人間の生まれ変わりの期間は、その霊格によって違っている。霊格のそう高くない人は、生まれ変わりの回転率が高いのは自明の理であろう。それだけこの地上での学習が残っているからだ。それだけまた地上に惹(ひ)かれることも多いからだ。しかし菩薩となり如来となるにしたがって、地上での学習量は減っていくために、また天上界で多くの仕事をなさねばならないために、生まれ変わりの周期というものは落ちてくる。

菩薩と言われる魂は平均八百年あるいは千年の周期をもって生まれてくる。如来と言われる魂は千数百年から二、三千年、あるいはもっと偉大な如来になると、場合によっては一万年以上生まれ変わってこない者もいる。文明の変革期にしか生まれ変わってこない者もいる。しかしいずれの場合も、高級霊の真実というものを見た場合に、それだけの霊格のある人は密度の濃い人生を生きている、ということだけはまちがいがないということなのだ。

たとえば私、谷口雅春が次回生まれ変わるとしても、少なくとも千年や千数百年はかかると思うのだ。その程度の期間は地上に生まれ変わることは、おそらくないと思うのだ。それは、それだけの魂修行とそれだけの仕事を今世においてやっているからなのだ。そのように考えてくれてよかろうと思う。

魂の修行とはこうしたものなのだ。一人の人の魂修行は決して時間だけで計れるものではない。時間は同一時間であっても、その質は人それぞれにおいて違っている。さすればまず、高級なる魂となってゆくためには人生の仕事密度を高めてゆくことが大事だと私は思う。


4.まず活動時間を一時間増やせ


人生の仕事密度を高めていくためには、ではどうすればよいかということだが、みずからの時間を最大限に使うこと、また最大限の知力を使うこと、こうしたことが前提となるが、その本質はいつも勤勉であるということなのだ。勤勉でない人が偉業を成し遂げたということは、いまだかつて歴史の中にはない。どのような者であっても、つねに勤勉に前向きに道を開いていったはずだ。

世界は勤勉な者によって創られてきた。その歴史は勤勉な者によって創られてきた。そう言ってよい。

この勤勉さとはもちろん、ぜんまい仕掛けのような勤勉さだけを言っているのではない。中には文学者や哲学者、あるいは発明家のような人たちは、この世の人から見ればとうてい信じられないような生活を送っている者もいる。瞑想的生活を送ったり、またまったく雲をつかむような話に没頭している人もいるであろう。彼らは偉大な発明、発見のために自分の全神経を使っているのだ。その意味において世事(せじ)に疎(うと)いという点はあるであろうが、それは決して怠けているということを意味するのではない。勤勉さにもこのようにいろいろと内容の違い、質の違いはあるのだ。

私はこの本書の読者、平均の人たちに言いたいのだが、まず一日の平均活動時間を一時間延ばすことに心を砕(くだ)いて欲しいと思う。平均活動時間をまず一時間延ばすことだ。これはそれほど困難なことではないと思う。今、有意義な仕事をやっているのであれば、もちろんその仕事のための時間を一時間とるもよいであろうし、有意義な研究をやっているのであるならば研究のための時間を一時間延ばすのもよいであろうし、学習をしているならば学習を一時間延ばすのでもよいであろう。

あるいはスポーツをやって身体を鍛えておるならば、その時間をとることでもよいであろう。何らかの生産的な時間を、創造的な時間をとるということ。一日の活動時間を一時間増やすということ。これを考えて欲しいと思う。

世の中には、惰眠(だみん)をむさぼる人というのはいつの時代も絶えないわけで、特に貴族などには多かったわけであるが、一日に十時間も十二時間も寝るような人もいる。こうしたことはまさしく人生の無駄遣いであって、こういう生活を送っておれば、八十年の人生を送ったとしても四十歳まで生きたのとまったく変わらない人生となってしまう。これを人生の無駄遣いと言うのだ。

活動時間を一時間増やすためには、活動の対象を開拓をする必要があると私は思う。活動の対象の開拓、それは有意義なものを発見すること、自分のエネルギーを向けられる対象を発見することだと思う。

単一の仕事をして、それで飽きがきているのならば、まったく新たな仕事を導入してみること。単一の勉強をして、それで飽きがきているのならば、違った勉強を始めてみるということ。いずれにしても、まず一時間の活動時間を増やしてゆくということが、その人自身の魂修行の密度を高めることにもなるし、ひいては霊格そのものをも引き上げることになる。そう考えて無理がないと私は思う。


5.もっと積極的想念を持て


私はまず以上で、いちばん大切な考え方である、働けば働くほど疲れるという考えを切り替えて、働けば働くほど力が出てくる、そしてそれだけ大きな効果があるのだということを話してきた。

次に心の切り換えにおいて大事なこととしてあげておきたいのは、暗い想念感情の処理の問題だ。この暗い想念感情の処理は、教わったことがない方がひじょうに多いと思うし、またそうした人を見つけて慰める人、声をかけてやる人も、その暗き想念感情をどう処理したらいいのか、さっぱりわからないでいるのではないかと思う。

そこで私はアドバイスしておきたいのだが、暗い想念感情に心が支配された時、まずもって思って欲しいことがある。それは、あなたにとっていちばん心を浮き浮きとさせるものが一体何であるか、ということだ。過去ふり返ってみて、みずからの心がいちばん浮き浮きとしたのはどういう時期であったのか、それを考えてみて欲しい。そしてなぜその時に、そのような浮き浮きとした気分を味わうことができたのか、考えて欲しいのだ。

それは自分の目が希望に輝やき、期待に輝やき、すべてが新鮮に見えた時だったからではないだろうか。人生が有意義に見えて、そして前途が開けるという思いがあったからではないだろうか。私はそう思う。

暗い想念感情の中にある人は自己破壊的な思いを持っているだろう。そしてその自己破壊的な思いは、決してその人を幸福にすることにはならないのだ。中には暗き想念感情ゆえに、自殺を図(はか)るような人も出てくる。しかし、そんなことをして一体何になる。多くの人の悲しみを引き起こす。そしてどうする。自分自身が人から同情を受けるということで心を慰めようとしているのだ。こうしたことで自己満足をするということは、ひじょうに悲しいことであると私は思う。

いまだ自殺者で天国にストレートに還れた人はいないということを知りなさい。自殺者は多く、地獄の中で魂の苦しみを味わっているのだ。それは神の心に反しているからなのだ。自殺者の多くは暗い想念の虜(とりこ)となって自己破壊願望にかられ、他人の同情という、その甘い誘惑にかられて、そして自殺への道を選ぶが、死後どういう苦悩が待ち受けているか。それはその人の心相応の世界が展開しているということなのだ。

その人を追い詰めるような環境の中で死んでいった人は、追い詰められるような環境の中で死後も生きている。そして生命の実相にたどり着くことができないままにいるのだ。漂う霊波となって他の人を苦しめたりするような現象が出てきていることがある。

私はこれだけははっきりと言っておきたい。人生の中には暗い想念で心が覆われることもあるであろう。しかしながら、その暗い想念を持ち続けるということ自体が一つの罪であるということなのだ。そうした人がいるということ自体が罪であるのだ。

罪の定義として、掟(おきて)を犯す、戒めを破るということをあげる人は多いであろう。しかし谷口雅春があえて罪というものがあるとするならば、それは暗き想念を持っていることの罪であると思う。本来の人間の神性を害する思いこそ、この暗き想念である。暗き想念は自己を破壊し、他人の幸福をも破壊するものである。そしてこれは本来のものではないのである。迷いの姿であり、本来、実相として、実態として、暗き想念は存在することができないのである。

それは人間が一種の麻疹(はしか)にかかったように、そうした精神的伝染病にかかっているのである。多くのいろいろな、そうした暗い想念を持っている人に接したり、空中にさ迷っている暗き霊波を感受して、そしてそういう気持ちに一時的になっているに過ぎないのである。そうした人は、ひとたびこの希望の思想を入れ、光明に心を輝かした時に、さっきまでそうした暗い顔をし、暗いことを語っていた自分がうそのように変わることを感じるであろう。そうした暗い表情のままに生きていたあなたは、ほんとうのあなたではなかったということが、この事実によって証明されるのだ。

もし心が暗くうち沈み、そして未来が開けないと思うならば、私のこの霊示集をくり返しくり返し読んで欲しい。どの章を開いて読んでもよい。そこには光の言葉が充ち満ちているはずだ。光の言葉があふれているはずだ。

闇を消すには、闇を捕まえて消そうとしても闇は消えない。闇を消す方法は光を取り入れることだ。光を灯すところに闇は消えていくという、その真実をみなさんは知らねばならない。光の言葉を胸に入れていくこと、光明の思想を読んでいくこと、これが人生に希望をもたらす秘訣なのだ。

したがって私は本来人間に罪なし、罪人なしと言い切りたいけれども、あえて谷口雅春的定義による罪があるとすれば、暗き想念感情を持ち続けているということ自体が罪であり、暗き想念感情を持ち続けている人のことを罪人、あるいは悪人と言うのだと言っておきたい。

こうした迷える霧は晴らすに限るのです。晴らしてしまうことです。そうすれば人生は光明に満ちていきます。

みなさんは人間の顔が変わっていくのを見たことはないであろうか。暗くうち沈み、悲観的で、そして自己卑下(ひげ)的な人が、希望に顔を輝かせ、喜びに顔を満たし、そして血の気が上り紅潮している姿を見たことがないだろうか。そしてその両者を比べた時に、どちらが天国的であるか、考えたことがはたしてあるだろうか。

結論は一つです。天国的である顔とはすなわち、赤みが射し希望に輝いている顔なのです。それはまちがいのないことであると私は思います。

ゆえにまず、心の切り換えをして欲しい。そうした希望に満ちた姿をしていると、希望に満ちた人がまわりに集まってくるのです。そしてそうした人たちが協力をすれば会社は繁栄し、商売は繁栄し、また自由業をやっていても、創作をやっていても、どんどんどんどん新しき道が開けてくるのです。

悪いことに心を止めることなく、善いことのみに心を集中していけば、やがて前途は希望に満ちたものとなってくるのです。

私はこの、心を改造することによって環境を変えていくという方法が、どう考えてもどう考えても、人類幸福化のためのいちばんの鍵だと思うのです。このことを説かない宗教家は、宗教家としては失敗である、宗教家としては成功ではない、そう思うのです。

心を変えることによって環境を変えること。環境を良化し、善化し、善転し、そして世界をユートピアにすること。これがまず出発点だと思うのです。心を変えるということを語っておりながら、その変え方を知らない人が多すぎるのではないのか。悪いことのみを心に止めて、そして善転するということを考えていない人が多いのではないか。私はそれをたいへん残念なことだと思うのです。

願わくば多くの人が、もっと積極的想念を持ち、生活を改造していこうという意欲に満ちて欲しいと思います。私がこうした本を次つぎと出している理由もここにあります。人間は一度読んだ本がもうわかったつもりでいる。しかし本当はその実、その真理がわかっていないのです。そのため角度を変え、いろいろな切り口からその真実を話してあげる必要があるのです。そうすれば新たな真理の光が心の中に流れ込んでくるのです。


6.思想はエネルギー体である


さて今日は、もう一つの話をして締め括(くく)っておきたいと思います。

そのもう一つの話とは一体何であるかと言うと、思想はそのものがエネルギー体であるという、その考え方です。みなさんは自分が接する人にのみ影響を与えることができると思っているかも知れませんが、実はそうではないのです。各人の心から出されている思いというものは、これは電波となって全世界を飛び交(か)っているのです。この電波が暗い想念に満ちたものであるならば、世界は暗くなっていくのです。自分がまったく思いもよらぬところで、多くの人びとを禍に追い込んでいることがあるのです。

人間の念というものはそれだけの恐ろしさを持っています。逆につねに善念を把持し、そして善き想念を持っている人、善き思想を持っている人が一人でも増えると、その放送の電波はまた全世界を駆け巡るようになってきます。そして悪しき妨害電波をやがて駆逐(くちく)してゆくようになるのです。

したがって善き思想を持ち続けるということは、これ自体がたいへんな菩薩行であるということを知っていただきたいのです。直接口をもって人を説得することもなく、直接その教えを実践することがなくとも、心の中に思っているということだけで、そういう思想の持ち主だということだけで、それで世界を変えていくことができるのです。そうした人が数多く出ることが地上を浄化するための、いちばんの早道であるのです。

ゆえに、私はみなさんにこう言っておきたいのです。生長の家だとか谷口雅春の教えだとか、こんなものはどうでもよい。要するに大切なことは、明るい思想を持ち続けることこそが世界を変えていくという、この一条、この一筋の考えを守り切ることです。そこにすばらしい道が開けてゆくのです。

私は何も、私の教えを特定の教えとしてみなさんに教えたいのではない。ただ、明るい思想は世界を変えていく力がある。それは抽象論ではない具体論として、エネルギー論としてその通りなのである。そうした波動で世界を満たさねば世界は変わらないのである。そう言っておきたいのです。このことをよくよく学びとり、日々の糧とするように願って本章を終えるとしよう。