目次
1.正法、神理流布の具体化について
善川 ただいま、日本神道糸の主宰神としてのお立場にある天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめとし、天津神、国津神の御降臨を得て種々幽遠なお話を伺い、また空海大師からは雄大なる神のご経綸(けいりん)なり、新時代における日本を中軸とする世界の新文明諭についてご高説を拝聴したのですが、その感想を卒直に申し上げますなら、空海さんにつきましては、これは大変な方でありまして、われわれの近づき難いようなお方でありました。お聴き及びのとおり、ご法を伺う折の随所で、厳しいご叱声を受けたような次第でありまして、それはまあごもっともと思うのですよ。あの方は、大変なお仕事をお忙しくしておられるようだし、私どもの充分理解の届かないお説まで承った次第ですが、それはそれといたしまして、私たちのこれからの仕事としては、聖観音とか、清少納言とか、紫式部さんなど、こういう女性の方々の日常生活、天国観などのお話も伺い、こういう方々のお立場、ご自身の生活環境の有り様なども参考とさせていただき、広く霊界、天上界のご様子を現象界の方々にお伝えして、新しい時代の精神世界の心の支桂と申しましょうか、よりどころ、或いは希望とか夢というものにつないでいきたいと思うのですが、まずはここらを第一段階として、今までに皆様方からお教え願った、正法、神理の一端を、世の心ある方々に訴えたいと思うのですがいかがなものでしょうか。
日蓮 その考えは間違っておりません。
善川 そこで具体的な方策としては、皆様方のうちで、特に中心的なお立場で、私たちをご指導くださっているあなた様のお訓えを、振り返り、取りまとめ、浄記して書物に著わしたいと思うのですが、これを、この方面の理解があり、また多くのこの種の出版物を取り扱っておられる出版社にお願いしたらと思っておりますが、その考えでよろしいでしょうか。
ただ、その出版社ですが、そちらの方で、ご予定の特定の出版社があればお教え願いたいと思いますが。
日蓮 そこまでは私たちは言えませんが、あなたが欲するところでやってみて、もし駄目であっても、また他の道が開けるであろうし、そのようなことはあまり心配せずに、そのようなものの中味が出来れば、それなりの流布というものは、もう当然計画の中に入っておりますので、誰かの手を通じて必ず、出されるようになるでありましょう。
善川 そこで、いま一つ懸念されることは、これを著わすことになると、どうしても日蓮さんのお言葉なり、親鸞さんなり、或いは空海さんなりのお言葉が出るということになりますが、これはいかがなものでしょうか。
日蓮 名前を出すということですか、それは出さないわけにはいかないでしょう。
善川 でないと、これが一体誰のお教えやら分からないことになりますので、またその聖人方のお言葉なり、お教えによって、私たちが悟り、成長していく過程を訴えねば、一般の方々から理解が得られないと思いますので。
日蓮 いいでしょう、やむを得ないでしょう。このことは以前にも申しましたが、あくまで方便なのです、あなた方にとっては、当座の方便なのです。やがてあなた方は、私たちの言葉を借りずとも、自らの言葉で自らの力で「法」を説いていかねばなりません、これはあくまで当座の方便なのです。
ただ、これも一度きりで種切れするようなことであっては困るので、先のことまで、十分考えてお作りになるということ、更に何冊分か、五冊、十冊と予定しておいた方がよいと思います。
と、いうのはね、そういう本を出すと、やはり反響があるし、いろんな人が寄ってきますので、そういうことに堪え得るだけの環境ができているかということです。
善川 そこで心配されることの一つに、既成宗教というものがありますね。ご承知のように、あなたに関しましては、あなたの過去のお教えを固く守って信じておられる方々がありますね。そしてこういう方々は強大な勢力を持っておられますが、こういう方々からの物すごい反撥とか、攻撃とかいうものが懸念されるのですが……。
日蓮 来るでしょう。迎え受けなければ仕方ありません。必ずそういうものは出てくるのです。仕方ありません。世の人々に判断してもらうよりほか仕方ないではないですか、後世の人に判断してもらうしかないじゃないですか。
善川 かつて、また現に、あなたのお教えを―、われわれは何々山系だ、いや、われわれは何々山系の正宗だと言って論争を持ちかけてくる方がありましょうか、これもまたやむを得ないことなのでしょうか。
日蓮 イエスにして然り、釈迦にして然りです。それぞれの時に、それぞれの教えを説いた人がたくさんいたのです。釈迦も随分いろんなところから悪口も言われ攻められもしてきたんです。イエスは遂に十字架にかけられて殺されたことはご存知のとおりです。ですから、例えば「日蓮」の言葉として書いた場合に、日蓮宗系の方々から詰め寄ってくることはあるでしょう。―さあ、その日蓮をここに出してみよ、と問い詰めてくる。―さあ、日蓮ならいつ生まれたか、―さあ、その時に生まれてどうしたか、どこそこに行って何を学んだか、―いや何とか経の内容について聴きたい。返事やいかに、という挑戦状が来るかも知れない。ただあなた方が心得ることは、あなた方は、後世に残る事業を興そうとしているのですから、そのような主義、主張や、何といいますか小さな教義の争いに巻き込まれないような、悠然たる自分自身を保つということです。たとえ何をどう言われようと、悠々と生きるということです。批判は絶対に出てきます。ただ、そうであっても、戦う必要はないのです。その是非は後世の人びとが定めるところですので、決して争いの心を起こしてはなりません。
善川 しかし、われわれは皆、それぞれの環境で社会生活を営んでおりますが、われわれがこの仕事に、全力投入しなければならないようになるのではないでしょうか。
日蓮 まあ、はじめのうちは仕方ないけれど、本も五冊、十冊と出すと、人びとの関心も高まってくるでしょう、そして人びとが集まってくるようになれば、それはもう仕方ないことではないですか。そういう時期を充分見計っていなければいけないのです。本を出す以上は、もうそこまで覚悟をしていかねばなりません。
一つのグループが出来て、集団が出来はじめると仕方ないではないですか、集まる時はアッという間です。一年も経たないうちに、相当の人が集まってきます。だから、そこまでの覚悟は、決めていなければいけないということです。
善川 そういうことになると、お互いが社会生活をしているし、あるものは勤務、あるものは業務と、並行的にというわけにはいかないようになりますが。
日蓮 ただ、二十年、三十年間、何も書かず、何も喋らずにいるわけにはいかないでしょう。しかし暫くは過渡的な時期がありましょう。私はあなた方に、直ちにどうせよとは申しません。ただこういう本が数(かず)出て、人びとが話を聴きたい、相談に乗ってくれ、講演会をしてくれ、ということになって忙しくなってくると、現状をとおすということはできなくなってくるでしょう。或いは会社に勤めていながら、休日とか、夜とかにそういう会合に出るということで、活勤していくということもありますが、これについては、私どもには私どもの考えを持っております、が、まあ修正も可能なことですし、過渡的な時代も必要でありましょうし、これについては、いまは明言しません。ただ、あなた方以外からも協力者が出てきて、事は推進されるようになりましょう。
善川 それでは、どうしても最初の歯車は、われわれの手で動かさねばならないということになってきましょうか。
日蓮 動かすのではなくて、もう動かされているのです。動かすのではなく、動かされているんです。現にあなたはこうして大阪まで来ているでしょう。他に来る必要はないのです。にもかかわらず来ているでしょう。なぜ来ているのか、われわれの意見を聴きたいから来ているのでしょう。これはさせられているのです。
善川 私も、今までのお導きで、これからわれわれが進むべき方向というものは、覚悟しているのですが、しかし事を興すまでには、まだまだいろんな勉強もしなければならないことがたくさんあるし、私自身も、もっともっと実生活の中で鍛えていかなければならないと考えております。
日蓮 本を出し、人びとが寄ってくれば、何かを話し、また何かを書かざるを得なくなるでしょう。自然と書かされるようになるのです。
善川 話は別なことになりますが、最近私たちは、ここにもありますこの本『生長の家』というのに、どういう訳か、大きな影響を受け出してきたのでありますが、これは、何かそちらの方にご計画があってのことでしょうか。
日蓮 計画通りであります。あなた方は、最初、高橋信次先生の「正法」、これを受け売りといいますか、考えとしてはもうこれを受け入れたはずです。これから抜けなければいけないのですが、どうやって抜けていけばよいか分からないのです。他にもこういう教えがあり、これもこれなりの力を持っている。こういう教え二つ、三つと地盤が出来てくると、新たなものが出てくる。これも計画済みです。
なぜなら、高橋信次先生の方は方で一つの問題を持っております。善、悪の二元で捕らえ、悪を反省し、善に戻そうとする過程において、自ら「悪」の中にもがき苦しんでいる人たちは、その中から脱出できないで困っている。愚痴を言う人は、愚痴を止めなさい、と言っても愚痴を止められないから愚痴を言っている。そうです、人の悪口は止めなさい、分かっております。悪口は止めたいんだけれど、言わざるを得ない気持だから悪口が出る。この心をどうするか、このような問題があります。これには、一つは、日本神道糸教団の教えというものも学ぶ必要があります。今後更に新しい教えもあるでしょう。もっとこういうものも吸収していかなければなりません。
善川 まあ、ひじょうに個性の強い宗団でありますが、神道糸教団は今日大を成しているわけでありますが、内容につきましては、われわれが、もって範とするところが多々あるのですが、軍備を唱えるところあたり、一面においては納得しがたいというところもあります。これらの点については、われわれが独自の方向を見出してやっていけばよいというわけですね。
日蓮 あなたは、かつて聴いたはずです。他人の田があり、自分の田があり、他人の畑があり、自分の畑がある。他人の畑は、他人の畑で敬っておればいいではないか、それに文句をつけることはないのです。自らの田、自らの畑をそれ以上に立派なものにすれば、そうすれば、他のものはみんなそれを見習うはずです。
善川 先程、空海さんからは、ひじょうに含蓄深い、広義なお話を承ったのですが、まだまだ私どもの頭では消化しきれないような内容であったように思いましたが、今後いろいろと、段々と、お教えを賜って自分自身のものにしていきたいと、このように思っております。
日蓮 あなた方の仕事に、山場というのはないのです。発展段階しかないのです。いい方向しかないのです。山場はないのです。あなた方の現状を山場とみるのは、それは時間という概念にとらわれているからです。現在、ただいま、未来に解決することを解決しようとすると、それが山場であり、危機であり、問題であるように思うのです。時間の観念だけであります。ともすれば、霊的な能力を持ち、こういうことができるようになると、未来が知りたい、将来が知りたい、先が知りたいと、そういうことになりますが、それを知ったところで何も解決はできないのです、山場でもなんでもありません。普通の人が順調に、そうなるが如くになろうとしているのです。困難は何もないのです。
善川 私は、とかく自分で判断したことを暫く心に溜めておいてから、熟慮してからやがておもむろに行動に移るという性(たち)ではなく、短兵急といった性格でありますので、自分で行っていることに、不安を抱くことが、しばしばあります。私の進んでいる方向が間違っているようなことはないであろうか、度を外していはしまいかと、絶えず思うのですが。
日蓮 そのような心配は無用です。あなたは、馬ではないのです。御者によって鞭を打たれねば、真っ直ぐに走れない馬ではないのです。踏み外してもまた元へ戻れば、いいではないですか。そのような窮屈な人生として、自分の進む方向を見ないことです。
神ではないのです、あなた方は。神ではないのです。正しい道を一直線に走るわけではないのです。よいではないですか、たまに道を外しても、また元に戻ればいいではないですか。迷い込んでも戻ればいいではないですか。そのための守護指導霊ではないですか。あなた方が迷うことがあるから、道を間違うことがあるからこそ、守護指導するのではないですか。あなた方が真っ直ぐ走れるなら守護指導霊もいらないのです。真っ直ぐに走れないから、神は守護指導霊というものをつけて、人間を指導させているのではないですか。
善川 ありがとうございました。
日蓮 本の出版等についても、時期がくれば、私の方から言います。もう出しなさい―と、私の方から言いますから、これは必ず言いますから、今は準備期間だと思ってください。ここ二、三年は準備期間だと思ってください。あなた方の蓄え、まだ十分蓄えがないのです。「正法」といって独自のものを、十年、二十年、三十年と、説いていくだけの蓄えがないのです。
善川 それはそうでありますけれども、この二十年、三十年説くだけのものの貯蓄が出来てから説くというのでは――、
日蓮 出来てからではありませんが、やっと三年、やっと安定してきたところではありませんか。まだあなた方は、この霊的な現象を、自分たちの生活的な悩みとか、小さな悩みを解決するために使おうと思っています。このようなものから脱却しなければいけません。もっと人類のため、他の人びとの悩みを解決するための霊的な現象であり、能力でなくてはなりません。
しかし、そこに至る前には、このような段階があるということであります。
善川 こういうどこにでもある、ありふれた会話や質問の中にも、それはそれなりの意義があるのではないかと思われるのですが、高度な神学や哲学、または宗教諭の中にのみ法があって、生身人間の生活苦や精神的悩み、そうした日常的な話題の中にも、それはそれなりの処生の術と申しますか、法というものがあるのではないか、人ぴとは、そういう段階での凡者に対する覚者の応対指導というものの中に、身近な、それはそれなりの訓えがうかがわれるのでないかと思うのであります。大変次元の低い話になって恐縮ですが、その辺のところもご斟酌(しんしゃく)くださってご指導願いたいと存じます。
日蓮 分かりました。
善川 ときに、かねてよりわたくしどもの行動を看視し、ことある毎に妨害、いやがらせ、惑わし等々を繰り返してきた、かつての根来(ねごろ)の密教僧、xx法師とまで称せられた、xx氏は、ここのところあまり姿を見せませんが、彼は改心でもしたというのでしょうか。
日蓮 彼は、神道糸の神々に、大分手痛い目に逢い撃退されたようです。
善川 ああそうですか、すると神道系の神々は、かなりの力を持っているのですね。
日蓮 そうです。彼、××も、これ以上あなた方に憑(つ)きまとって深入りすると、身が危いと思いはじめております。遠ざかっております。彼は、仏教糸の人間であります。仏教に対しては、ある程度、心の準備ができておりますが、神道糸や、他の神々が出てくると、どうしても弱くなってくるのです。多勢に無勢と考えはじめているはずです。
善川 あなた方は、××など、いわゆるサタンどもを撃退するだけの力はおありでしょうけれども……、
日蓮 そうではなくて、私たちが、あなた方が真実の心の法則に気付くのを待っているのです。心の法則なのです。やはり彼らを呼び寄せるのは、呼び寄せるだけの心があるのです。それは自分の経験を通さずしては、分からないのです。
善川 なお、私たちに対し、他に何かアドバイスがありましたらいただきたいと思いますが……。
日蓮 今後とも、私たちが語った言葉を本にする作業を続けてほしいということと、いま一つは、これを体系化していく作業、一体骨格となるようなものは、何であるかというようなこと、これを体系化していく作業を、段々に考えていかなければならないと思います。でも、もう去年の夏ではなかったですか、私どもが、これを記録し残しておきなさい、原稿に書き起こしなさいと言ったのは、そうでしょう。そうして半年余りの間に、もう既に原稿としてなりつつあり、そうして何年かすると、本になって出てきているのです。そうなるのです。
もうこの世界に入った以上、逃げたくとも逃げられません。私たちはもう逃がしません。私たちが天使であろうが、サタンであろうが、もう連れていかれるだけです。もう本人も腹を決めていただかなければ仕方ありません。もし私たちが、悪魔であるなら一緒に地獄に来ていただかなければ仕方ありません。私どもは、そうではないつもりであります。
善川 昨日、お出ましになられた、天之御中主の神が仰せられた、われわれの「神法」勉学の態度は、二十五点と評されましたが。
日蓮 若干きついと思いますが、私どもでも四十点ぐらいしか差し上げられません。まだまだあなた方は、自己というものにとらわれすぎている。自分というものが捨て切れない。神を、全幅的に信じ切れていないということです。わが身が可愛いという気があります。
善川 これが人間の弱点だといえば、いえるのではないかと思います。この弱さを払拭したのが、イエス・キリストでありましょう。イエス様は、十字架にかけられるに及び「我れ世に勝てり」と申されましたが、まああれ程の気力は持ち合わせがないと思いますが、また、あなたがご在世中に受けられました数々の法難、特に龍のロにおいて刃を向けられた時の不退転の気持、あの神々しいお姿の中に漲(みなぎ)っていた信念というものは、今の私たちには、及びも寄らぬ世界の精神状態であるように思われます。
日蓮 まだそれは、自覚と修行が足りないのです。あなた方が本を出し、それに快く思わない人たちに、詰められようか、どうなろうかと、案じているようなことでは駄目です。私のように斬られ損なったり、島流しに遭うよりは、よほどましです。あなた方の生きている時代は、民主主義の時代で憲法が宗教の自由を認めているような時代です。発言の自由は認められているのです。ただ、人の批判なり陰口なりに、耐えられるかどうかという、自分の内面の心の持ち方だけの問題です。それを発表するからといって、殺されるわけでもなんでもないのです。ただ、人のロ、それが恐いだけではないですか。それはなぜ恐いかというと、まだ自分たちに対する自信がないということです。私たちに対する全幅の信頼がないということです。
私のことを言うなら、日本の歴史の中で、宗教家の中で、私ほど、悪口を言われた人間も居ないのです。大法螺(おおぼら)吹き、大山師、もうありとあらゆる批判、非難が私の頭上に積まれたのです。最後には私も引退しました。私の言った予言、私の言ったことが評価されて、鎌倉幕府から招聘(しょうへい)されても、私はそれを辞退し、最後は淋しく身を退いていったのです。私も傷ついたのです。人生において、ひじょうに傷ついたのです。私は神理を語っていた。しかし世の方々は、私を斬ろうとしたり、襲ったり、島流しに何度もしたり、そのようなことをしてきました。私は相当傷ついたのです。神理の伝道というものは、これだけ苦難なものなのか。しかしながら、考えてみれば、私たちのレベルの魂は、これだけの、これだけの試練を受けないと魂の進化にはならないのかと―これも仕方がないのです。なぜならば、平平凡凡と、凡人としての生涯を生きる生涯ではないからです。恐らくは、あなたの本を読んでも、本当にこれが日蓮か、日蓮なら出してみよ、法論をしたり挑んできたり、法戦を挑んできたりする人が出るでありましょう。それで、いや、そういうことにしたくない、と言えば、「―それ見ろ、やはりインチキではないか、お前が勝手に書いたに違いない―」と、そう彼らは言うのです。しかし、私は、その場に出て彼らの気が済むまで話をする気持は毛頭ないのです。彼らに納得して貰っても、別に何の意味もないからです。私は、私の信ずるところ、私の言いたいことを語るだけです。信ずる人は信じなさい。ついてくる人は、ついてきなさい。あなた方も、その方針でいきなさい。
その本を書いて、これしかないと、これしか信じないとして、他宗を排撃したりすることは止めなさい。
―われ神理を述べる―と、信ずる人は信じてください、ついてくる人は、ついてきてください―と、その方針でいきなさい。
善川 ひじょうに気強い、そして心温まるお言葉、ありがとうございました。今後も折を見て、なにかといろいろな問題に突き当ったり、判断に苦しんだり、迷い込んだりしようかとも思いますが、その場合においては、その都度、その都度のアドバイスをお願いしたいと思います。
日蓮 時機が来れば、私の方からも、言うべきことは言います。例えば、こうした現象を記録に取れといったことや、また本を出すようになった時には、出せと、何か大きな節目節日には、アドバイスをするはずです。
何事も一時には、事は成らないものです。少しずつ、少しずつ積み重ねていくということが肝心です。
善川 私は、「正法」を真実、四六時中実践していくということは大変難しいことだと思います。第一に、何が「正」であり何が「邪」であるか、その正邪が定かであるものと認められるものはよいとして、同じように正と認められても、これを実行するに当っては、経過、時間、タイミングというものがあり、それを外すと、これが結果は邪となって現われるという、その刹那(せつな)の判断のタイミングということに苦慮することがありますが―。
日蓮 自らやろうとしてやる段階のことは大したことではないのです。どうしてもやらねばならないという状況、つまり胸のうちの大きなうずきに追い込まれてやる時に、人間ははじめて大きな勇気が出てくるのです。そのことは、真の「神」の意志でもあるからです。