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目次




















(一九八六年二月九日の霊示)

1.転生輪廻の軌跡


―― 荘子の招雲を行う ――

荘子  ――テイハオウ、ティヤンホウ・アーオイチイ、テンポー・ジーイー、ウウリンテイ、………以下中国語が長々と続く。
――  荘子先生ですか

荘子  ツウヤン。

――  まことに恐れ入りますが、私は現在のところ中国語を解しませんのですが、

荘子  テイヤンポ・パァツウテイ………
(訳)  あなたも中国に生まれたはずですから、私の中国語は本当は判るはずですが――。

――  残念ながら再誕して新たな肉体舟を持つと過去の記憶は一切忘却してしまって今では何んとも解し兼ねることに相成っているのですが。

荘子  ―― 中国語 ――、
(訳)  あなたは肉体持って数十年生きられて私のこと、忘れられているので大変残念に思います。あなたと私は、大変親しい仲であったし、過去何回か生まれて来た中において、共に協力し合ったこともあるのです。そういう密接な関係なのですが、まあ固苦しく思わなくて結構です。あなたが中国に生まれた時は、孔子様のお弟子様の一人、ま、有力なお弟子様の一人の゛子路(しろ)゛といわれたそういった方です。あなたの魂は今から二千四百年近く前、孔子の弟子の子路として生まれ、その後イスラエルでイエスの弟子、マルコとして生まれ、その後また、インドに生まれ、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)として中国に密教を伝え、その後また、日本の鎌倉時代に日蓮の弟子、日朗として生まれて仏法を広めて、そして今また、あなたは善川三朗として生まれておられる。こういうふうな魂の遍歴を通っておられます。そういう意味においてあなたは、儒教も学んで居られるし、キリストの教えも、仏教も学んでおられるし、……、

――  そこでお伺いしたいのですが、これからまああなたのご思想なりについてお伺いするわけでありますが、あなたは、二千数百年もの長きにわたって天上界に居られるわけですが、私においてはこの間何回も現象界に出ているということは、これ、何かの意味があったのでしょうか。

荘子  まあその人の性格にもよります。あなたはそれだけの必要性を感じて生まれて来たということであって、感じない人は生まれて来ない。特にあなたはご自分でもお分かりと思いますが、非常に好奇心が旺盛であり、学ぶということが好きな方です。それと「法」を広めねばいけないというような気持ちが強い方です。ですから偉大な人が生まれる時にはいつも出たがるのです。そしてその回、その度に、新しいことを学んでいこうとする気持ちが強いのです。それとあなたのご性格の中に、やっぱり何んといいますか、人の苦労といいますか、人の重荷も自分が背負おうという魂の傾向があるのです。そういう傾向として、たとえば大きな天上界で計画があって、「法」を説こうとする時には、自分がやはり行かなければいけないと、そういう気持ちになることが非常に強かった方なのです。ですからあなたも昔は孔子様に従いて儒学を学んでおられたのです。「論語」が作られた中にお弟子様で゛子路゛という方が出てくるでしょうが、あの「論語」の中に出てくる゛子路゛という名の方がまさかご自分であったとは思いもよらなかったことでしょう。

――  これら私に関する一連の出来事はまた死後そちらへ還りましたら分かることでしょうか。記憶が甦るわけでしょうか。

荘子  そうです、分かります。ですから私だけでなくて、私以外に前に出た方もあなたに中国語を話しなさいと言ったはずです。それはあなたが中国に生まれられたことがあるからです。同じ時代に居だのに、中国語も知らないということはもってのほかというわけだったのですが、それを言っては失礼かも知れませんが、共に生きていた仲なのに中国語は懐かしい言葉のはずなのです。

――  これはもうどうしようもないことですね。

荘子  まあそれは必要ないと言えば必要ないことですが、まあ過去世の中(うち)には人間はいろんなことを学んでいますが、肉体を持っているとそのうちの一部分しか使っていないということです。ですからあなたの頭の中にはね、あなたは憶えていないけれども、孔子の弟子として学んだことも一杯詰まっているし、密教も、法華経も一杯詰まっているし、キリスト教だってその他いろんなものが一杯詰っているんです。

――  まあ今回は、その勉強の総仕上げという意味で出て来ているような感じがいたしますが。

荘子  ですから今回あなたの魂の修行としては、何時もはね、指導者になる人が先に生まれて、その後にあなたが生まれてお弟子になってという形であったのですが、今度は、まずあなたが先達として生まれて他の者のための準備をするというような、ちょっと順序を変えて出てきているのです。


2.人生は歩くのが目的でない、一休みし空を眺めよ


――  そういうことで、私としてはいささか残念な時代に生まれて来ているので、さりとて今これ、与えられた任務は時間内に達成しなければならないという気持ちでおりますけれども、さてそこで、荘子先生にお伺いしたいことは、もう既にご存知だろうとは思いますけれども、私どもの現在持って居ります計画といいますか、その事業の上におきまして、すくなくとも万教は一なる神より発せられたものであるというところに一番大きな考えの根源があるわけで、その意味におきまして、過去地球上に顕われたいろんな光の指導霊の方々のお言葉なり、ご思想がばらばらのものではなくて、神から分かれて神のご意志を伝えるために各地に、各時代に応じて現れた啓示であり思想であるということを明らかにせんがためにやっているわけでありますが、そういう意味において荘子先生にも、あなたがご主張になられたことを現代人および後代人にも分かるようお伝えし、また書き記すのがわれらの任務であろうと思いますのでご高察のうえこれからお説を承りたいと存じます。

荘子  いろんな方が出られて、いろんな話をされておられますので、敢て私が申し上げることも少ないかと思いますが、ただ私は、中国に肉体を持って出まして、老子様の弟子筋に当たるわけですが、思想自体は別に中国の思想でもなんでもないわけです。人間の考え方には幾つかあると思うのですが、あなた方の考え方には、他の神々の「発展」或いは「生長」していくという、こういう教えを説いておられる方も居られますけれども、そうとばかりもいえないということですね。この狭い地球ね、この狭い地球で何を発展し、何処へ行くのというような気持ちも一方にはあるわけです。ま、狭い地球であり、狭い宇宙であります。この中で何が゛発展゛であり、何が゛退歩゛であるか、こんなことを考えてみると、特に何かしなければいけないということで、努力努力というのでね、肩を凝らして頑張るというのもいま一つ考えものだということですね。

人間は元々悟った存在でありますし、大らかな存在であります。ですからその中でね、仏教系の方は特に精進ということを言われますけど、努力、努力ということで、まだまだ足りないと、あなた方まだまだ足りないから、もっと頑張りなさいと、ハッパをかけて居られますけど、まあ努力、努力とやっているうちに、その努力が遂にお荷物になることもあるということですね。――ふと、歩くのを止めた時にですね、自分は何のために歩いているのだろうかと、何のために旅行しているのだろうかと、はじめて気がつくこともあるのです。ただ道中を歩かねばならぬ、歩かねばならぬと思っていると、歩くこと自体が目的になってしまって、何のために旅をしているのか分からなくなることがあるのです。

ですからただ歩けばいいのではないのです。時々は立ち止まって考えなさい。私達の゛老荘思想゛というのもそういうことなんです。

人間はとかく歩きたがるのです。旅だということで、目的に向かって歩きたがるのです。歩いているうちに歩くこと自体が目的になってしまってなんのために歩いているのかということがわからなくなってくるのです。ですから私達は言います。――立ち止まりなさい――。昼寝をしても結構です。一休みしなさい。そして翻然として何かを悟りなさい。そういうことを言っているわけです。特に仏教系の方、あなたの過去世におけるお師匠である日蓮さん、この方はまた言われるでしょうけれども、どうしても自力の教えであり、努力の教えであります。これ自体は尊いものでありますけれども、余りこちらの方でいくと人間は、ガリガリ、キリキリと生きていかねばならないわけであって、苦しむことも多いんです。努力精進は大切なものでありますけれども、努力、努力、精進、精進といっていると、いつもせっつかれている自分、いつも焦っている自分、いつも何か足りない自分、というものを考えてしまうのです。ですからね、目的地はあるかも知れません。ただ目的地があるからといって道中を焦って歩くだけではないのです。

時折、草の上に腰を下ろして、白い雲の流れていくような空、その白い雲の流れていくすがたを、悠々と眺めるような、そうした心を持たなければ、人生には何の意味も見出せないのではないでしょうか。ただ歩いて、歩きに歩いて草鞋(わらじ)をすり減らして、疲れて宿屋に辿りつくだけが人生ではないのです。その途中、途次において、腰を下ろして、あのポッカリと空に浮かんだ雲を眺めるような心、これが無ければ人生の本当の美しさも、本当の意義も分からないのではないでしょうか。

ですからあなたも、永い人生の旅路を、苫悩しながら、苦斗しながら歩いているように思っているかも知れないけれども、そうではないのです。藁草履(わらぞうり)をはいて歩いていると思うからそういうことになってしまうのです。日暮れて道遠しと思っているからそうなるんです。必ずしもそうではないのです。腰を下ろして空の雲の流れを見なさい。土手の上から川の流れをみてみなさい。草花を見てみなさい。そうした草花は一生懸命道を急いでいるうちは眼に止まらないのです。タンポポの花もあります。菫(すみれ)の花もあります。道草というものは必ずしも悪いものではないんです。道中最後の旅の最後まで行けば何か素晴しいものがあるというのじゃないのです。その道中そのものの中に素晴しい発見があるのです。そのための旅なのです。そのための人生航路であるのです。人生は、ただ目的に到達するためだけの人生であるならば、人間はこんな永い間、転生輪廻を繰り返していく必要はないのです。


3.幸福は目標だけにあるのではない、悩みの中にこそ本当の幸せの花が咲く


荘子  そうした長い旅路、魂の旅路を辿るというのは、その旅路をも楽しみなさいという神の配慮なのです。ですから努力精進ということは大事だけれども、あなた方のお弟子や、或いはあなた方の説を信ずる方々の中にも、悩んでおられる方は多いと思うのです。悩みの底にあるのは何かというと、今の自分をなんとかして、どうにかしたいという焦りの気持ちがあるんです。改善したいという気持ちがあるのであります。それ自身は悪いものではありません。けれどもすり切れた草鞋(わらじ)を気にしている旅人のようなものです。悩みとか焦りとかいうものは、わらじの傷み方を気にしているようなものです。まだ先が永いのにわらじがこんなに傷んでしまっては、私はどうしたらいいんだろうと、これが悩みであり焦りであるのです。けれどもね、草鞋のことはしばらく忘れて旅の素晴しさを味わうようなあなた方でありなさい。

ですから、あなた方、いろんな教えを説いていかれるでしょうけれど、その中にですよ、決して目的地だけに本来の素晴しいものがあるというのではないということです。その途中においても素晴しいものは用意されているのだということ、ですから、悩んでいる人に対しては、悩みが尽きたら素晴しい世界が来るんじゃない、悩んでいる途中にも、人生の素晴しい煌(きらめ)きはあるのだということを、教えてあげなければいけません。

病気になればすべて不幸でしょうか、そうではないのです。病気になれば健康体だけを希(ねが)っているでしょう。健康にさえなれば、私は幸せになると人は思うでしょう。けれどもそうではないのです。健康になってもまた別の悩みは現れてくるのです。そうではなくて病気なら病気の途中、病気の中において人生の中の花を探すべきなのです。よろしいですか。――経済的な困苦なら経済的困苦の中において、人生の花を咲かせるべきなんです。もちろん経済的困苦は克服されて大金持ちになればいいでしょう。豊かになれば素晴しいです。ただ豊かになるということだけが目標、目的となってはいけないということです。人生の方向としてはそちらを目指されて結構です。ただその途中を楽しむ気持ち、つまり貧困の中にあっても人生の花を咲かせ、それを愛(め)でるような気持ちというものは大切にしなければいけません。それは、人間というものはともすれば欲に振り回されていくということです。目標といえばきこえはいいです。けれども或る意味ではそれは欲望であります。欲であります。こういったものが欲しい、手に入れたいという気持ちであります。

人間が欲の動物であるというのは、ともすればそうしたものさえ手に入れば自分は幸せになれるのに、それが無いから幸せになれないという気持ちになるということです。これが愚痴であります。愚痴というのは足ることを知らないところから出てくるのです。人間にはすべてそういった愚痴はあるのです。たとえば子供なら、早く大きくなってこういうことをしてみたい、もうちょっと年輩になれば、ああいった仕事ができると――そして今度はもっと若ければ私はこんなことができたのにと思う。何時の年代をとっても人間は愚痴が出てくるのです。それは現在満たされていないけれどもそれが手に入りさえすれば、自分は幸せになると、そう考えているからです。そうではないのです。どのようなものが欠乏していようともその途中、途中、その時点、時点で人生の花を見出していく工夫、これこそが本当に素晴しいんです。百里の道を歩むとするならば、その一里、一里の中において素晴しい草花を、素晴らしい風の香りを嗅いでいくべきです。そうではないでしょうか、ですから努力精進の、自力の教えの中には余りにも目的に対して、目標に対して焦っている気持ちというものがあるんです。

今この時代において、たとえば仏教を志して出家するという人も居ます。或いは尼僧になったりする人もいます。或いは千日回峯といって、山ん中を潜ったり、或いは滝行といって滝に打たれたりしている人が居ます。これらの方々は皆何らかの目標というものがあって、これに達したいと思って焦っておられるのです。何んとか早くその目標に達したいと思っても現在のままでは行けないと思っています。出家か、在家かということで悩んでおられます。しかし、そうした姿自体は関係がないのです。どのような場面であっても人生の花を咲かせるということなんです。

これが大切なことなんです。ですからあなた方にも、おそらくあなた方の著書を読まれた方から、様々な悩みごとが来ていると思います。そして――「私はこんなことで困っています。先生どうか助けて下さい。」必ず書面にはそう書いてあります。助けて下さいと書いてあります。助けというのは何でしょうか。自分が目的を持つ、目標を持っている。そこに達しない自分がある。これをどうにかして早くそこに着けるようにしたい。こういうことです。わらじはすり切れています。先生どうか新しい草鞋(わらじ)を下さい。こういうふうに言っておられるということです。そうした人に対して、そのものずばり、つまり新しいわらじを与えてあげることも大切です。けれども、しばし草鞋のことは忘れなさいということも大事なんです。宿屋まで着けなくてもいいのです。野宿してもいいではないですか。野宿すればまた夜空に素晴しい星がまたたいています。そうしたことを、そうした余裕も大事だということです。ですから様々の悩みのことを訴えてこられる方がいると思いますけれど、悩みの中にも悟りはあるということを、言ってあげる必要があります。その悩みがなくなったら、あなた方は悟るのではないのです。悩みの中にこそ悟りはあるのです。あるいは身体が不自由な方もいらっしゃるでしょう。あるいは愛情関係で悩んでおられる方もあります。しかしそのような悩みの中にこそ、本当の悟りという一輪の花は咲いていくのです。


4.悩みを抱きしめよ、悪魔は変じて女神となって輝こう


荘子  女性の方からのお便りも多いでしょう。悩みも多いでしょう。そうした中にはたとえば女性でありながら、何とかして、法の手伝いをしたい。あるいは女人成仏はできないのでしょうか。こういった焦りの心はあるはずです。しかし、何かを努力すればそうなるのではないのです。現在ただ今の中に悟りはあるのです。その人が住んでいる生活の中において生活空間において、悟りへの崩芽はあるのです。芽はあるのです。ですから悩んでいる人に、逆にあなた方は一喝(いっかつ)してあげなさい。その悩みを抱きしめなさいと。その悩みを抱きしめたときに、その大いなる悪魔のような悩みが素晴らしい゛女神様゛のようになって輝いてくるでありましょう。病気をしている人には、病気をするだけの何かがあるんです。その病気の中で何らかの人生の糧を得るために、そうした病気というものがあるんです。これはなくなればいいんじゃないんです。寝た切りの方もいるでしょう。これをたとえば、神の光によって、心霊治療とかいって治してしまうことも一つかも知れません。けれども簡単にそうした形で治してしまうということは、それは奇跡ですね、奇跡ということを世に知らしめる。あるいは神の力というものを世に知らせるという意味においては意味があるのですけれど、けれどもその人個人の修行ということにおいてはどうでしょうか。

必ずしも、その人の病気をいっぺんに治してしまうことがその人の魂にとってプラスになるかといえば、そうではないということなんです。病気で悩んでおられるには、それだけの原因があり、それだけの理由があり、その中にその人の悟りがあるのです。ですから、突き放すように聞こえるかもしれないけれど、草鞋がすり切れましたといわれた時に、新しい草鞋を出すだけではなくて、わらじが擦り切れたら旅をやめてもいいですよ。その土地を楽しみなさいというだけの余裕が必要です。おわかりですか。どうか、目的達成だけがあなた方の目的ではないということです。人間もともと仏であります。人間もともと神の子であります。もともと悟った人間なのです。


5.深い悩みは幸せの証拠


荘子  ですから悟ることだけが目的ではないのです。もともと悟っているんです。ですから、もともと悟った人間がね、様々な衣を着て分からなくなっているだけでその途中もう一回悟りなおす、途中において新たな経験を積んでいくということなんです。ですから悟りという明鏡止水の澄んだ心を得ること、これを目的にすることは結構です。けれども、なにもしないで何も悩まないでじっと人生を終えて悟ったかといえばそうではないんです。人生の意味は苦しまないことではないのです。人生の意味は単に幸福になることではないのです。人生の意味は豊富な経験を積むということなんです。よろしいですか。この豊富な経験を積むということ自体が人間が転生輪廻をするという意味なんです。ですからいろんな苦しみがあるでしょう、悩みがあるでしょう、それはむしろ有難いことなんです。心の中に富を積むということなんです。別に苦しめと言っているのではないんですよ。ただ苦しみのない人生はありません。

それがとっぱらわれたら幸福になるかと言えばそうではないということです。そういうものがなくなるならば、あなた方の人生は非常に安っぽいものになるということなんです。ですから悩んでいる人にこうしたら悩みがなくなりますよという言い方も一つですが、悩んでいる人に突き放して申しわけないけれども、もっと徹底的に悩みなさいと、もっと徹底的に悩んでみなさいと突き放すことも大切です。こうした度量も必要だということです。もっと悩んでみなさいということです。何故そういう悩みがあるのか。その悩みを抱きしめていったときに新たな経験を人間は積んでいくのです。どうも安易に人間というものは救われたい、悟りたい、幸福になりたい、こう思ってしまいますけれども、幸福になったと思った瞬間その幸福はすり抜けていくのです。ですから苦斗していく中(うち)、不幸と闘っていく中にこそ本当は魂の糧というものが貯えられているのです。ですからそれぞれの人に、その人に応じて、いろんな環境が用意されていますが、それはその人のために用意された環境です。他人の環境をうらやんでも仕方ありません。自分の環境の中で魂の糧を得ていくということです。ですからいろんな経験を積むということはむしろ嬉しいこと、素晴しいことだと思って頂きたいのです。

だから大病する人がいるでしょう、その方には言ってあげなさい、そんな貴重な体験は誰もはできないんですよと、いうことなんです。その人が今世においてそれだけの経験を積むということはそれは貴重な体験なんです。交通事故は不幸かもしれません、けれども交通事故に遭うということはね、長い人生の中においても、転生輪廻の過程においてもまた珍らしいことなんです。文明が発達した現代であるからこそ、またそうした交通事故というものがはやってきています。こうした中で人は苦しむわけですけれども、そうした経験を積むということは、どこかにあなた方の糧が築かれていくということなんです。わかりますか、だから幸せになるというととそれ自体は結構ですけれどもそれだけが目標ではなくて、悩みの中において人生の花を咲かせるということです。足がびっこになったとしたならば、びっこの足を治(なお)すということも大事だけれども、びっこはびっこのままで果たして自分はどのように素晴しくなれるかということに心を使うべきであります。女性の方は、美しくなりたいでしょう。美しくなりたいという気持ち自体は、正しいものであります。努力されるといいと思います。ただ美しくない自分であったとしても何らかの美しい花を咲かせるべきだということであります。それは可能なのです。


6.霊障に悩む人、悪霊を溶解(とか)す術(すべ)


荘子  それぞれの人間が与えられた環境の中において環境を変えるということも大事だけれど、環境が変わらずとも、その環境の中において、一輪の花を咲かせるという努力が大事だということです。これはあなたにとって、たとえばあなたは今、晩年を迎えております。あなたは言うでしょう、十年前ならあるいは二十年前なら、自分はもっともっと多くのことができたに違いない。人々を救えたに違いない。もっともっと力強く法が説けたに違いない。あるいは体も動けたに違いない。そういった考えはあると思うんです。それはその通りであります。けれどもそれを言ったところではじまらないのであります。現在ただ今の中でいかにして花を咲かせるかということです。こういうことです、ですから、本当の救いは未来にはないということです。人間の本当の救いは目標を達したときにはないということです。人間の本当の救いは現在ただ今の中に、どのような環境におかれようとも、現在ただ今その場において、一輪の花を咲かせるということなんです。ですからあなたが壮年期を過ぎたということは、これはこれで結構であります。この中で花を咲かせるということ、未来にどうなるんじゃないんです。現在ただ今です。あるいは他の方々も一緒です。子供を亡くした方もいるでしょう、夫を亡くされた方もいるでしょう。あるいは病気に悩んだり、あるいは雲障に悩んでいる人もいるでしょう。結構であります。その中にこそ花を咲かせるから素晴しいのではないでしょうか。あるいは悪霊に悩まされている方々もいると思います。結構であります。悪霊に悩まされている中において、どれだけ自分の人格を磨けるかということです。どのように彼らに憑依されようともあなた方が人々から愛されるようになるならば、それは十倍、二十倍の輝きとたってくるでありましょう。苦難があるからこそ、輝きもまた素晴しいのです。苦難を「是(よ)し」としてはいけません。「悪(あ)し」としてもいけないんです。苦難は苦難です。苦難の中において花を咲かせ、輝くということです。この考えを忘れて、ただ努力、精進だけを思っているといけないんです。努力精進を未来に向けての自分の歩みとだけ考えてはいけないんです。歩みを止めた中にも、やるべきことはあるということです。

――  お説ごもっともだと思いますけれど、しかしながら、とかく浅い悟りでそのお説をうけたまわっておるようなことになりますと、あるいは一つの運命論的な考え方に陥ってしまうのではないかという惧(おそ)れも窺(うかが)われるのですが。

荘子  運命論ということを悪いようにとればそうなるかもしれませんが、運命とはそこから、逃がれようとすると、どこまでもついてくるんです。運命はそれを抱きしめようとすると消えてしまうものなのです。変わってしまうものなのです。よいですか、夜道を歩いていると、ヒタヒタと後ろから追ってくるものがあるような気がする。それで逃げようとするとそのヒタヒタ追ってくるものもまた同じ速度でついてくる。そうしたものなんです。そこで立ち止まってふり返ってみたら、ヒタヒタと従いてきたものは何もないんです。それは自分の影であります。そうしたものなんです。ですから徒らに逃げようと思うなということです。別に運命をそのまま愛せよと言っているわけではないんです。その時点、その時点で花を咲かせていったならば、あなた方の人生は素晴しい花の道、花道になっているということなんです。未来に花を咲かせようと思っていると様々な現在の悩みに捉(つかま)ってしまうんです。

――  現代風に言うならば、おかれた運命なり環境というものをこれを価値転化することによって、それが生かされてくるというふうに考えてよいですか。

荘子  そうです。ですからたとえば自分にある運命、ある環境が与えられた場合に、その環境を呪っちゃいけないんで、そういう環境が与えられた意味をよく考えてみるということです。その中で、自分にしかできない経験が、考えが、人生観が、何か出てくるのではないかということをしっかりと見つめて頂きたいということです。


7.運命から逃げるのではなく、運命を抱きしめること


――  そういうご高説を私はつくづくいろんな関係で感ずるのですが、たとえば非常にこの、二重苦、三重苦で苦しんでおられるというような方もおられるし、植物人間になっておられてなお現世に生命を止められているという方の苦しさというもの、こういう人たちはどうして救われるかということについて、ヘレン・ケラーという方がおられますけれども、この方にもお伺い致したいと思いますけれども――その辺のことについて、もっと具体的なお教えをうけたまわれるのではないかと思いますけれども。

荘子  目が見えず、耳が聞こえず、語れないという人は一杯いたんです。ただ彼女らは、ヘレン・ケラーを目指してなかったということですね。結局その中においてね、先程私がいいましたけれども、運命から逃れようとすると、運命はどこまでもついてくるんです。ヘレン・ケラーがその目を治したい。耳が聞こえないのを治癒したり、どうにかなれば自分は幸せになるのにと。その方向に向かって逃げて行ったならば、どこまでも彼女の運命は彼女を追いかけてきたのです。彼女は逃げることをやめたんです。立ち止まって振り返ってその影を抱きしめたんです。そうするとそこに光が出て来たんです。苦難が大きいからこそ、輝き、光が大きかったということです。花が素晴らしかったということです。ですから安易な環境においては素晴しい花は咲かないということです。ですから苦難礼讃受難礼讃はいけませんよ。キリスト教者の中にあるような受難礼讃は間違っています。ただ自分がそうした苦労が多いならば苦労を愚痴(ぐち)るのではなくて、その苦労があるからこそ自分の花はまた素晴しいものになれるんだという気持ち、これを忘れてはいけないということです。これが運命を抱きしめるということです。たとえばいまあなたは人生の殆どを難もなく過ごしてきました。そして今晩年になって宗教的活動を始めようとしています。たとえばですよ、あなたが有名な政治家であって、一国の総理大臣に現在なっているとしましょうか。そうするとそのあなた、このような「神理」の伝道ができるかというとこれは難しいことであります。逆にそのような地位にある方であるならば、かえってできない束縛、制約が多いのです。そういうことです。自分の人生を愛しなさいということです。別な言葉で言うならば自分にしかなかったその個性ある人生を愛しなさいということです。悩んでいる人、苦しんでいる人は自分の人生を愛していないんです、人生を愛するということは大事です。人々には悩みがあります。何で自分はこんなことがあっただろうかと。たとえばあなたではなくて、あなたがたのグループの他の人もそうです。霊位というものがあります、霊能には例えば私のような者の言葉を伝えるというような場合もありますが、悪霊の跳梁、悪霊に妨害されるということ、あるいは憑依されるということもありえるわけです。その時は苦しいんです。ただそればかりを、そこから逃れることばかりを考えていたならば、彼らの人生は不幸なものとなっていくでしょう。しかしそうではないのです。その中において自らの意志を錬え自らをたくましくして行って自らを霊的な巨人としていくならば、それはまた素晴しいものとなるということです。イエスにして然りです。イエス・キリストにして四十日間の悪魔の誘いがありました。荒野に悪魔の呼ばわる声がありました。彼にしてそうです。しかしそうした試練があったからこそ、彼もまた神性が輝いたのではないでしょうか。釈迦にしてもそうです。


8.釈迦の中道の悟りは歩みを止めた時の悟り


荘子  釈迦は六年間の難行苦行をしました。その果てにはじめて中道、中庸の大切さを知りました。悟りは極端な修行の中にはないということ。また栄華に溺れた生活の中にも悟りはない。極端な修行の中にもない。悟りはその日そのままのその生活の中にある。人間として普通の生活をしている中にこそ本当の悟りを見出すことができる。釈迦はそれを考えまた。極端な修行ということは要するに自分の人生から逃れようとしているということです。極端な栄華ということは今度は、自分を甘やかしているということです。どちらも本来の自己というものを失っているんです。そうした両極端を捨てて中道に入った時に、はじめて神の子、仏の子としての自分を悟ることができたはずなんです。ですからその中道ということは、ある意味においては焦って人生行路を歩いている人がその歩みを止めて、はたと、自分自身を振り返ったということなんです。それが中道であります。とにかく前に進まねばならぬと一生懸命歩いているうちには、なかなか悟れないのです。悟りの彼岸に到達しようとして道を急いでおるわけです。そうするとなかなか悟れないんです。ところが、その歩みを止めて、ふと空を見上げて満天の星空を見上げた時に、はじめて自分というものを悟る時があるということなんです。ですから中道という言葉でもいいけれども、本当の悟りの中には静的なるもの、受動的なるもの、受身的なるもの、全ての能動的な歩みを止めて、はたと全てをどめて現在ただ今の自分の心の中を見つめた時に、そこに悟りというものが得られることがあるということです。悩みや苦しみの人は、何とか脱出しよう、脱出しようと焦っておられるのです。その脱出しようという気持ちを止めて、現在ただ今の自分の心を深く見た時に、そこに悟りという名の一輪の花を見出すことができるということなのです。

ですから私が言っていることを要約すると、たとえば努力、これは大事です。人生の基調は努力であります。ただ努力、努力に追い廻されていると努力がまた自分を縛ってしまうということです。努力を捨てたところにまた新たな道、悟りがあるということです。釈迦が六年間の難行苦行をやったのは努力でありましょう。彼は努力によっては悟ることはできなかったのです。それは彼にとっては一つの経験でありましょう。ただそういった努力精進の中に、彼は悟れなかったという事実があるのです。それを捨てた時に彼は悟ることができました。人間は人間としての道がある。誰もかれもが山の中に入って、難行苦行しなければ悟れないのであるならば、人間は生まれてきたこと自体が間違いではないかと、彼は思いました。その通りなんです。山の中に入ってですよ、飲むものも飲まず、食うもの食わず、妻帯もせず、人とも話をせず、坐禅を組んで一日坐っていなければ人間が悟れないのであるならば、そうした人間であるならば、この世の中に生まれてきて集団生活をしている人間こそ間違いであります。そうではないでしょうか。ですからそうした極端な努力の世界の中には悟りはなかったということなんです。悟りは案外平易なところにあるんです。それは自分の運命を抱きしめるということです。運命から逃れるんじゃなくて、それを抱きしめた中に光ら迸(ほとばし)ってくるということです。ですからあなたも人生を愛しなさい。自分の人生を愛しなさい。そう人びとに説きなさい。


9.あなただけの人生を愛しなさい


荘子  あなた方に悩みを訴えてくる人々に説きなさい。そのような人生からこういうふうにしたら逃れられますよと。こういうふうに克服したら幸せになりますよと、そう説くのではなくてあなたにはあなたしかない人生があるのです。その人生を愛しなさい。人生を愛するということがどういうことかということを考えてみなさい。あなたはあなたの人生を他人の人生と交換することはできないのです。ですから、あなたにしかない固有の人生なんですから、その人生を愛しなさい。人生は愛しようとした時にはじめて自分の人生がいかに素晴しいものであったかということが分るのです。自分の人生から逃れようとしている時、そこに幸せはないのです。全ての人に言いなさい。あなたはあなたの人生を愛しなさいということです。悩んでいる人に言いなさい。人生を愛しなさい。その時、その人ははじめて立ち止まって考えるでしょう。私はいま逃れよう逃れようとしていたと。逃れようとするんじゃなくてふみとどまって、自分の人生というものをもう一度見つめ直してみよう。この中にも幸せの種はあるのではないか。幸せの種子はあるのではないか。これを考えてみよう。そうしてほしいんです。

人間はともすれば自分の人生を他人の人生とすりかえようとしているんです。それが幸福だと思っているんです。その人の目には幸せに見える他人がたくさんいるんです。お隣は素晴らしい車を購(か)いました。お隣のご主人は非常にいいご主人です。それにひき較べうちの主人はどうでしょうか、酒は飲んで帰る。車は買ってくれない。子供たちには当たる。こんな主人、こんな主人はいやだ。隣の主人のような人と、もし、とり換えることができたら、私はどんなに幸せだろう。こんなことで主婦の方々は悩んでおられるのです。しかし他人の人生とすり換えることはできない。それがあなたに与えられた人生なんです。その人生をいかに愛するかということです。私の人生はこういう人生を与えられたのである。であるならばこの人生の中にいかに素晴しいものを掘り出すか。発掘するかということを考えねばならんということなんです。

だから世の人々に言ってほしいんです。他人の人生とすりかえようとするな。他人の人生をわが人生としようとするな。自分の人生の中に、愛し足りない面があるじゃないかと考えて頂きたいということです。その中にこそ幸せはあるのです。幸せは彼方にあるのではないのです。山のあなたにあるのではないのです、幸せは自分の人生を愛することから始まるんです。不幸な人というのは自分の人生を呪っているんです。人生を呪っていて人生が微笑(ほほえ)みかけることはないのです。人生を愛しなさいという教え、これを説いて頂きたいと思います。他人と同じであることを願ってはいけない、他人と違うことをむしろ喜ぶことが大事なんです。ともすれば人はある人、ある他人を想定してそれと同じでありたいと願うのです。しかし同じであるということを願うよりは違うということを喜ぶことが大切だということです。その個性の煌(きら)めきの違いを喜ぶような余裕が必要だということです。あなたに悩みを訴えてくる人、その人にあなたは言いなさい。自分の人生を愛しなさいと。その時にその人は何かを悟るでありましょう、それは新しい草鞋(わらじ)ばかりを求めてはいけませんよ。ということです。